俺の言い訳彼の理由5


 

 渋谷が自宅に着いたのは深夜一時近くだった。ここまで戻ればやっと安息が出来る。いつもより遙に長かった一日が終わり、渋谷は泥のように疲れ切った身体を引きずるようにしてエントランスのロックにマンションのキーを差し込んだ。
 何もない手応えの変わりに自動ドアがいつもと変わらなくエレベーターまでの道を開く。さすがにこの時間では通りかかる人間もおらず、自分の足音しか物音は聞こえない。
 3階のボタンを押し、エレベーターから降りると自分の玄関の前に誰かが立っているのが目に飛び込み足が竦む。こんな夜中に訪ねてくる人間は本当はいないはずだった。

──合い鍵を持っている人間以外は……。

「……っ…」

 思わず小さく舌打ちをする程の展開にうんざりする。だいたい想像の付く相手を思い浮かべながら、見えない視力に目を細め、渋谷は玄関へと向かう。そして 待っている人間の正体が的中すると浅くため息を吐いた。その正体は絹川だった。合い鍵を持っていても部屋の中までは入らないという約束を守ってくれている ことだけが救いではあるものの、流されて合鍵を渡してしまう関係にまでなってしまった事を今更後悔する。

 しかし、寄りによって何故、今日はこんなに嫌な事ばかり起こるのかと感心すら覚えてしまう。玄関ドアの向かいの壁に寄りかかりながら、絹川は腕時計を見ている。その後、少し離れた場所へと立っている渋谷に気付くと僅かに微笑み、長い髪を掻き上げた

「祐一朗、遅かったじゃないの。お仕事かしら?」

 そう言いながらヒールを鳴らして近寄ると、渋谷の腕に甘えたようにすり寄ってくる。厚塗りした化粧のせいなのか、それとも香水?生ぬるい風に乗ってくるその匂いに渋谷は軽い頭痛を覚えた。

「どうしたんですか…?こんな時間に…」
「あら?用がなくては来たらいけない?」

上目づかいで見上げる絹川を、渋谷は疲れ切った顔で見返した。その表情までは気付かれないだろうが、声で気付くかも知れない。それでも、愛想を身に纏えるほどの状態では無かった。

「申し訳ないですが……今日は……ちょっと……」
「折角待ってたのに、つれないのね。このまま帰れって事なの?」
「すみません、体調が悪くて、今日はもう休みたいので……」

 甘えてきた態度を一変させて絹川はすっと渋谷から離れると意地悪な笑みを浮かべる。絹川の整った顔に冷たい笑みが浮かぶ。「こんな事くらいでは気分を害さない大人なのよ」そう言いたげな態度だ。

──頼むから今日は帰ってくれ……。

 渋谷は自宅の鍵をポケットの中で握りしめながら心の中で悪態をついた。
こうして立って会話をしているだけで微かに目眩がする。勿論彼女は何も悪くない。いつもと同じように行動し、その結果こうして自宅へと訪ねてきているの だ。普段の渋谷なら、嫌々でも顔には出さず、黙って自宅へと上げ、絹川を抱いているだろう。ビジネスの括りの中にそれは含まれるのだから…。

「いいの?私にそんな事言って…」

 絹川が黙り込んでいる渋谷を嘲るように言い放つ。軽い脅迫めいたその台詞に、不安が湧かないわけではなかったが、それでも今夜これから絹川を抱くなど、到底出来るはずも無かった。

「…………すみません、本当に……今日は……」
「……そう」

 どういっても今夜は無理なのだろうと悟った絹川が残念そうな声でそう言うと、渋谷の顔をまじまじとみつめる。そのあと渋谷の頬を爪の伸びた指でなぞっ た。ネイルケアで磨かれた鋭い爪が頬にうすく跡を残す。絹川の方が一方的に渋谷に惚れ込んでいる。その事実は揺るがず、絹川は仕事では見せない素の女の顔 を覗かせた。

「眼鏡、してないのね…今日は」
「えぇ…なくしたんです……」
「何かあったの?……何だか本当に具合が悪そうね。今日は帰るわ…」
「今夜は送れないですけど、もう遅いですから……お気を付けて」
「一応は心配してくれるのね?……貴方のそういう所嫌いじゃない…嘘でも嬉しいわ、有難う。じゃぁね」

 あっさりと引き下がってくれた事に心から安堵する。それと共に今まで感じたことの無い感情が渋谷の中に残った。こんな事を続けていていいのかという疑問 と、絹川を裏切り続けている事への罪悪感のようなもの…。遠ざかる絹川の背中をチラリとみて、彼女も普通の女性なのだと改めて思う。
 絹川がエレベーターに乗り込むまで確認したあと、握っていた鍵を出してカチャリと玄関をあけて渋谷は再びため息をついた。

──やっと一人になれた……。

 暗い中では気付かれていないようだったが、血で汚れたスーツは明るい中では目立ってしまう。絹川に見られずにすんで本当に良かった。
 靴を脱ぎ、着替えもしないまま渋谷はリビングのソファに倒れ込むように横になった。さきほど具合が悪いと言ったのは絹川を帰す為だけの嘘とも言いきれなかった。身体の節々が軋みをあげるように痛み熱っぽい。本当に発熱しているのかも知れなかった。

──疲れた……。

 その時、鞄に入れてある携帯が振動しているのが静かな部屋でわかった。時計の秒針と冷蔵庫のモーター音に混じって響くそれを取り上げる気力もなく、渋谷は静かになるまでひたすら耳を塞ぐ。

 帰宅途中に一度藍子に電話を入れてみたがいっこうに繋がらず、結局の所何もわからずじまいなのが気にならないと言えば嘘になる。しかし、今の電話は藍子からだったのかもしれないが今追求をして話しあう気にもなれなかった。

 先程かけた時。繋がらない電話のコール音を聞きながら、自分は藍子に嵌められたのではないか。漠然とそんな事を考えていた。今夜あの場所を渋谷が通る事を知っている人物は藍子しかいないからだ。
もしそれが事実だとしても……藍子からの裏切りを悲しんでいるわけでは無い。

 渋谷は、藍子に裏切りを感じるほど愛情を注いできたわけではなかったのだから。わずらわしい事の方が多かったし、会いたいと心から思った事もない。
ただ……藍子の顔だけを愛していた。
 初めて会った時の衝撃のまま吸い寄せられるようにいつのまにか付き合っていた。自分の全てをかけてもいいほど愛している人がいる。その人物に藍子はよく面差しが似ていたのだ。笑った顔や泣いている顔。その全てが…実際にはなかなか会えない分まるで本人かと思うほどに…。

 そのそっくりな顔を快楽に歪ませて組み敷く事で満たされる感情は、危ういところで均整を保っていたといっても過言ではない。

──こんなのは偽物だ……。

 自分でも心の中ではわかっていた。藍子を抱けば抱くほど渋谷自身は追いつめられていた。腕の中にいるのはそっくりな顔の別人。今はその顔さえうまく思い出せなかった。否、思い出したくないという方があてはまっているかもしれない。
 ただ藍子を抱いた時の一瞬よぎる罪悪感にも似た充実感。夢が叶ったような錯覚。
それを手放したくなかったのだ。

 空虚な渋谷のその感情に気付いた藍子が傷つき、そして次第に自身を全く愛していない渋谷を憎むようになったとしても不思議では無い。しかし、渋谷は今までそんな事にさえ気付かずにいた。

 渋谷はため息と共に吐き出してしまいたい行き場のない想いを募らせてぐったりと脱力した。絹川との関係も藍子との関係も、渋谷自身の歪みから生じた結果である事を思い知る。自業自得、まさにその言葉があてはまる現状から目を背けたくて渋谷は目を閉じた。
 
 
 
 
*              *                *
 
 
 
 
 明け方になって玖珂は店を出ると自宅へ足を向けていた。時刻は5時を回った所だ。だいぶ長い事飲み続けていたせいでさすがに歩きで帰るのが億劫になり、ワンメーターにも満たない距離だがTAXIを拾う。少しずつ明けていく空をTAXIの車窓から眺める。
 まだ出勤には少し早い時間だからなのか、閑散とした町並みだけが今日も気怠気に一日を始めているのを感じる事が出来る。すでに外気は熱を帯びている。

「煙草、吸っても構わないかな?」
「ええ、どうぞ」

 運転手に確認をしてから窓を開け煙草をくわえる。
昼間は暑くなりそうなすでに蒸し暑いような空気が窓から入ってきて煙をさらっていった。景色を見ながら玖珂は男の事を考えていた。無事に家まで帰れたのだろうか。途中で具合が悪くなっていなければいいのだが…。
 そこまで考えて、つくづく自分の心配性に呆れてしまう。幼い頃から長男として育ってきたからだろうか。結構世話焼きな体質である事は自分でもわかっているが、こればっかりは直せない。

 さっきから会った時のあの男の顔を何度も思い出していた。真っ直ぐな瞳は綺麗なだけでなく、どこか寂しそうな色を湛えていた。人を拒絶しているようでも あり、逆に誰かに救って欲しそうにも見えた。そして不思議と玖珂の中には、初めて会った男だというのに懐かしさも感じていた。

──彼はいったいどんな顔で笑うのだろう。

 想像できるのは涙で潤んだ孤独の眼差しだけであり、いくら思い浮かべようとしても笑った顔は想像できず…。その事が玖珂の胸の奥を微かに揺らしていた。
 
 
 
 暫くして自宅マンションへと着いた玖珂は、ポストの中に鍵が入っているのを確認すると番号を合わせそれを取りだした。そのまま玄関まで行き鍵を差し込む。
 ドアを開いた途端につけっぱなしになっていたクーラーの冷気が溢れて足下を流れていく。部屋を出た時と何も変わらない空間が広がっている。ただ、当然、男の姿はそこにはなかった。

――当然…か。

 着ていた上着を脱ぎ、リビングのソファへとかけ、フと電話機を見ると、留守電が入っている時に点灯するランプが付いていた。プライベートでは仕事用の携 帯を持ち歩かないため、こうしてたまに自宅へとメッセージが届くことがある。再生ボタンを押すと、案の定店からで、仕入れについての件で何点か確認が入っ ていた。

――ん?これは?

 伝言メッセージを聞きながら電話機の傍を見ると何か見慣れない物が置かれている。ネクタイを指で弛めながら玖珂はゆっくりと置いてあるメモと名刺に手を伸ばした。


【色々とご迷惑をおかけして申し訳ない。ここまでのTAXI代を置いていきます。上着は後日クリーニングしてお返しします。有難うございました。  渋谷】


 几帳面そうな整った字でそう書かれたメモの上に多いくらいのTAXI代が置かれており、男の物であろう名刺が添えられていた。昨夜別れたまま、もう二度 と会う事もないまま終わる可能性も十分にあった。そう考えていた玖珂は、完全に切れていない関係に安堵する自分に少し戸惑う。彼の事を何も知らないのに、 こんなにも気にしているのが自分でも不思議だった。

「MARKS Trading Co. Ltd……」

 職業柄、様々な企業の名前はを記憶している。有名企業なら尚更だ。MARKS Trading Co. Ltdは、そんな玖珂以外でも知るような大手企業だ。名刺には役職も書かれており、係長と記されている。
 思っているより自分と歳が近いのかも知れない。玖珂はそう考えたあと名前を小さく声に出してみる。

渋谷 祐一朗

呟いた途端に玖珂の中で何かがひっかかった。胸の奥がざわざわと騒ぎ出す感覚が襲ってくる。

──渋谷……?

 渋谷の顔と記憶が交差する。コマ送りのように途切れて思い出される過去の記憶が溢れる手前でぴたりと止まった。

──まさか………。

 当時の自分の気持ちが鮮明に蘇る。その想い出の中には渋谷に似た笑顔が確かに存在していた。