戀燈籠 第二幕


 

 朝五時を囘つた頃に咲坂は目を覺ました
こんなにゆつくりと眠つたのはいつぶりなのだらうか、などと考へてゐた
御樹といふ男はもう目を覺ましてゐるだらうか
咲坂は靜かに蒲團を疊んで整へると着物の上着を羽織つた
ゆつくり眠つたからなのか
まだ少し頭痛がするものの昨日と比べたらだいぶ氣分は良くなつてゐた

「早く戻らないと、またやくかいな事になつてしまふ 退散させてもらふとするか」

禮を云ふのが筋といふ事はわかつてゐたが、起こすのも惡い氣がして
咲坂は持つてゐたハンケチに一筆禮をしたためた
と、思ひ立つて昨日一枚拾つた紅い紅葉の葉を一緒に添へると
蒲團の上に置いて置いた

足音を忍ばせて、來たときに入つてきた裏手から御樹の家をあとにする
日も深いこの季節は5時はまだ夜かと見間違ふ程に暗くて寒い
咲坂は着物の襟をかき合はせて街の方へと歩いていつた
もう多分會う事はないと思つてゐた


御樹は、咲坂が家を出ていつて一時間ほどして眠りから覺めた
遲くまで昨日購入した本を讀みあさつてゐたので
朝はすつかり遲くなつてしまつたのだつた
それでも御樹にしては早くに目が覺めた方で
いつもなら店を開ける9時近くになつて起き出すのだが
今日は咲坂の事が氣になつてかうして少し早くに起き出したといふ譯だつた
御樹は靜かに咲坂のゐる部屋へと向かひ襖に手をかけた所で
何となく咲坂はもうゐないのではないかといふ豫感がしてゐた
部屋の中からは人の氣配がしなかつた
一應聲をかけてから襖に手をかけ細くあけた隙間から覗いてみれば
思つてゐた通り部屋の中に彼の姿はなかつた


綺麗に疊まれた蒲團の上にハンケチが置いてある
御樹は、その白いハンケチを手にとつて包んである中を開いてみた
中には咲坂がしたためたのであらう
お禮と何故か紅葉の葉が包まれてゐた
御樹は紅葉の葉をしばらく眺めてゐた



─咲坂は何處にいつたのだらうか

─家にでも歸つたものだらうか・・・・・



御樹はふと思ひ立つて部屋に戻り
昨日の晩に讀んでゐた本に紅葉の葉を挾み込んだ

古書店で貰つてきた「戀燈籠」といふこの本を御樹は明け方まで讀んでゐたのである
讀み進めてゐて氣が附ゐたのだが
どうやらこの本は途中のペイジから後はなくなつてしまつてゐるらしい
破れてゐるなどといふ感じはしなかつた
むしろ最初からなかつたかのやうに綺麗に先がなくなつてゐたのである
御樹は今日また古書店にいつて
何處かに落ちてゐないかどうか訪ねてみようと思つてゐた


店をあけてぼんやりと通りを通る人を眺めてゐた御樹は
氣が附くと咲坂の事を考へてゐる事に氣づいた
ほとんど話しらしい話はしなかつたが名前が咲坂 青人だといふ事だけはわかつた

──青人・・・・

御樹は咲坂の深い緑色の瞳を思ひ浮かべて名前を呼んでみる
咲坂は多分、異國の血がまじつてゐるのかもしれないなと思つてゐた

──年の頃は同じくらゐだらうか・・・

考へ出すと聞いてみたい事が湯水のやうにわき出た
御樹はあまり人に感心をもつ事もいままではなかつた
これほどまでに咲坂の事が氣になるのは何故だらうか

彼ともう一度話がしてみたい
御樹は心の中で強くそれを願つた
それでも、この氣持ちは戀慕の情とは違ふのだと思つてゐた

物思ひに耽つてゐた御樹の目を覺ますやうに晝近くになつて
店の入り口のドアがチャリンと音を立てた

「いらつしやゐませ」

入つてきた客は珍しく初めての客で、こちらの言葉にも何もかへさず
まつすぐに御樹のゐるレジスタアの前までやつてきた
何か搜し物でもしてゐるのだらうか・・・

「ちよつと聞きたいんだが
 田邊さんの本屋で昨日、古い本を讓つて貰つたといふのはお前さんかい?」

古い本?
あの「戀燈籠」といふ本の事だらうか
御樹は男に目線を投げて商賣笑顏を作つて言葉を續けた

「はい さうですけど それが何か?」
「やはり さうか いやなに、
 田邊さんが2番地の骨董品屋の若旦那に讓つたつていふもんだからね
 骨董品屋は2番地にはお宅しかないだらう?」
「ええ さうですね」
「惡いがその本を、ちよつとみせてもらふわけにはいかないかい?」
「構ひませんよ 今お持ちいたしましよう」
「ああ すまんね」

讓つて慾しいといふのかと思つて御樹は一瞬、困つたが 
見せるだけならどうつて事もない 
それにこの男はあの本について何か知つてゐるのかも知れないなと思つてゐた
御樹は男を待たせて、自室に本を取りに戻つた

──……さういへば本に紅葉の葉を挾んでゐたのだつた

御樹は紅葉の葉を机の上にはらりと置き、本だけを持つて店に戻つた
男は周りにある骨董品を、さして興味もなささうに眺めてゐた

「お待たせ致しました これがその本ですが」
「ああ 失敬 ちよつとお借りするよ」

男は本を手にとつて一番最後のペイジを開いてゐる
「やつぱりさうだ」
小さな聲でさう呟いたのを御樹は聞き逃さなかつた

「その本について何かご存じなのでせうか?」

男はその問ひには答へなかつたが
代はりに、手にしてゐた鞄から紙のやうな物を差し出した

「この本 途中までで終はつてゐるだらう これがその續きなんだよ
   まあ これでも最後までつてわけではないんだがね
 ワシが持つてゐてもしやうがないから、貰つてはくれないかい?」

どうやら男が手にしてゐるのは「戀燈籠」の續きらしかつた
なるほど、最後までではないにしろ切れてゐる話と繋がつてゐるやうだつた
御樹は男からそれを受け取ると禮をいつた

「わざわざ 持つてきて頂いて有り難うございます 有り難く頂きます 
 しかし、この續きは何處へいつたのでせうね?」
「さあ それは知らんのだよ 
 何せこの紙切れがその本の續きだといふ事もワシは知らなかつたのだからね 
 田邊さんに見せて親父さんが氣づいたからかうして渡しにこれたんだよ」
「さうなんですか 本當に有り難うございます」

男はそれぢやあ と云つて店を出ていつた
御樹は受け取つた本の續きを元の本に挾んで部屋へしまひにいつた
どこからか隙間風が入つてきたのか
先ほど机の上に置いて置いた紅葉の葉が床に落ちてゐた

御樹はなくさないやうにと今度は引き出しへ葉つぱを仕舞ふとまた店番に戻つた
それにしても、あの紙切れが昨日の本の續きだと
田邊さんもよくわかつたものだなと、御樹は思つた
夕方にいつてみた時に詳しくきいてみやう

何となく昨日、この本を手に入れてから御樹は落ち着かない氣分になつてゐた
靜かな日々の繰り返しが少しづつずれてきてゐるやうな
そんな感じ
不協和音のやうにかみ合はないそれは
不思議と嫌な氣分はしなかつたのだけれど
また靜かになつた店で御樹は再び咲坂の事を考へてゐた