戀燈籠 第十七幕


 

 次の日の朝は、昨夜月に傘が被つてゐた事もあり
曇り空の少し肌寒い天候となつた
旅館で朝餉を濟ませた御樹逹は旅館の接客婦に近場の櫻の名所を訪ね
そこへと足を運んでみることに決めてゐた
少し寒いとは思ふものの、その分周りの空氣は澄んでゐるやうに感じる
旅館で教へてもらつた場所は歩いてしばらくすると道なりに沿つた場所にあり
立て看板もあつたので迷はずに辿り着くことが出來た
「櫻戀神社」といふ神社がそこにはあり
神社にいくまでの坂が櫻の名所にもなつてゐるといふ
零れんばかりに咲き亂れた櫻が四方に枝を伸ばし
その下には散つた櫻が薄紅の敷物のやうに敷き詰められてゐる
それは現實と夢との境界線を曖昧にさせるほどに綺麗で
御樹逹はその景色を前にただ見とれてゐた


「こんなに豪奢な櫻の景色は初めて見ました」
「ああ 本當に 俺もここまで凄いとは思はなかつたよ」


景色は永遠に天まで續くかといふやうに續ゐてをり
咲坂は一歩その中へと足を蹈み入れた
土の上につもつた櫻の花びらが柔らかな感觸を足裏へと傳へる
音もなく降ろした足で土を蹈み、ふと御樹が隣にゐない事に氣附いた
振り返つた咲坂の少しむかふに御樹が立つたままこちらを見上げてゐた


「鈴音?どうかしたのかい?」
「いえ」


御樹が咲坂の元へと歩いてくる
そして隣へと進むとにつこりと笑顏を零した


「青人さんと櫻が一枚の繪畫みたいで、少し見とれてゐたのですよ」
「……さういふ事は恥づかしいから面と向かつて云はないでおくれ」


照れたやうな咲坂が一つ咳拂ひをし、亂れてもゐない襟元にそつと手をやる
それでも御樹は 本當にさう思つたのだ と附け加へると
嬉しさうにそんな咲坂へと目を向けてゐた
二人で歩く櫻のゆるやかな坂には途中、泉が沸ゐてをり
細く流れ出た水流がたまつたその水面には
沈まずに浮かんでゐる花びらがゆらゆらとその身を委ねてゐる
御樹が惡戲にその泉の縁に屈んで水面を指ではじくと
均齊を保つてゐた花びらが靜かに水底へと沈んでいつた


「水は冷たいかい?」
「ええ とても、もしかしたら山の雪が溶けて流れてきてゐるのかもしれませんね」
「ああ さうかもしれないねえ  どれ」


咲坂も同じやうに御樹の隣へと腰を下ろすと水面へと指を少し沈めてみた
水は本當にとても冷たく浸かつた指先がかじかむやうだ
屈んでみてわかつたのだが泉はかなり奧行きがあるらしく底の方は薄暗くてよくみえない
吸ひ込まれさうなその透明な奧は何處まで續ゐてゐるのだらうかと咲坂はふと考へた


「何處まで…奧があるのでせうか?」

自分と同じ事を考へてゐたのか御樹が代返するやうに口を開く

「さうだね 俺もさう思つてゐた所だよ」


二人でしばらく泉に目を向けてゐる所へ 突然淡い光が差し込んできた
今日の天候は薄曇りで陽がさすことはないと思つてゐただけに
その背後から照らされる細い一筋の光に御樹逹は少し驚いて空を仰ぐ
ちやうど雲の隙間から泉の底を照らすやうに光が降つてゐた


「鈴音 ほら 見てご覽」


今まで薄暗く奧が見えなかつた泉の底までを太陽の光が明るく照らし出す
薄い緑をとかしたやうな底には沈んだ櫻の花びらが
地上にある時と寸分變はらない美しさでその身を靜かに眠らせてゐた
水面が搖れると同じく搖れる花びらは櫻色を溶かしたやうにも見える
また雲が太陽にかかりすつと奧が暗くなると
目の前のその光景も少しづつ消えていつて元に戻つた
一瞬の出來事だつたが、それはちやんと二人の心の中へと燒き附いた
まるで、自分たちを祝福するかのやうに照らされた光に咲坂も嬉しさうに御樹を見る


「一瞬でも別の景色を見られて良かつたね 鈴音」
「本當に、運がいいですね」


二人はまた立ち上がると先へと足を運んだ
枝が音を吸收してゐるのか、はたまた周りに音を出す物が建つてゐないのか
互いの息づかひまでが聞こえるやうにあたりは靜寂であつた
しばらくそのまま歩き、開けた場所につくと二人は足を止めた
小さな神社が建つてゐるその場所で、人の通れる道は終はりになつてゐる

「櫻戀神社」と呼ばれる目の前の神社は
ひつそりと二人を迎へ入れるように佇んでいる
少しづつ坂になつてゐたので、いつのまにか登つてきてゐた場所からは
今來た景色を斜めに見下ろすことが出來た
御樹が神社の前へとむかふと手を合はせる
普段あまり人の來ない神社なのか朽ちさうな賽錢箱の前で咲坂も同じやうに手を合はせた
そつと目を閉ぢると願ひを心の中で呟いた



──鈴音が少しでも長い間元氣で共に過ごせますやうに



本當に願ひはこれだけしかない
いつのまにか目を開けてゐた御樹が咲坂の顏を覗き込む

「青人さんは 何をお願ひしたのですか?」
「さあ なんだらうね 祕密だよ 鈴音は何をお願ひしたんだい?」
「私は……」
「うん?」
「私も、祕密です」



──青人さんが自分がいなくなつた後も幸せを澤山感じることが出來ますやうに



御樹の願ひは口にされることはなかつた
自分が元氣になれますやうに それは到底無理だといふ事がわかるため
せめて、叶ひさうな、そして一番大切な事を願つたのだ
互いの願ひは結局は一つだけである


「ぢやあ そろそろ宿に戻らうか」
「ええ」


神社をあとにして坂を下る
二人は來た道をもう一度ゆつくりと歩き櫻を樂しむと旅館へと歸路を辿つた