俺の男に手を出すな2-1


 

 午前一時より少し前、敬愛会総合病院の第二手術室に長らく点灯していた手術中のランプが漸く消えた。手術室入り口のドアが左右に開き患者を乗せたストレッチャーが廊下へと運ばれていく。
 再び閉じた扉の中では、執刀医である佐伯が丁度手術室から姿を現した所だった。続いて看護師達が忙しなく出入りし、共に手術助手をしていた医師が佐伯の隣へと並ぶ。数ヶ月前から医局に入った、新米の若い医師である。

「佐伯先生、お疲れさまでした」
「あぁ、お疲れ様」
 汚れた手袋を外し、ペダルを踏んでシャワーで念入りに指先を洗う佐伯の横でそのまま会話が続けられる。
「見事な食道亜全摘出でした。勉強になりました!」

 元気が有り余っているのか長時間の手術でハイになっているのか、興奮した様子で挨拶をしてくる医師に、佐伯は心の中で小さく溜息をつく。長時間の手術の後は、出来れば静かに過ごしたいのだが、そうもいかないらしい。

「食道亜全摘出って八時間以上かかると思っていたんですけど、胃管再建術を含めて七時間をきる速さで終われるなんて凄いです」
「……八時間以上かかるって教本にでも書いてあったのか?」
 洗った手を拭きながら、仕方無く少し相手をすることにする。
「あ、はい。授業でそう習ったのと……マニュアル教本に書いてあったんですが、違いましたか?」

――マニュアルか。
 まだ場数を踏んでいない医師が、文面通りの記述を頭に入れておくのは勿論重要な事である。素直そうな後輩のやる気を否定しないようにしつつ、マニュアル通りに全てが運ぶ手術のほうが希である事を一応言っておく為に、佐伯は隣にいる後輩へと身体を向けた。

「目安としては間違ってはいない」
「ですよね!」
「ただ、状況次第では六時間でも可能なこともあるし、十時間かかることもある。中を開いて見ない事には最終的な判断は出来ないからな……。教本通りの時間に全てが当てはまるわけじゃないって事は覚えておけ」
「あ、はい!でもスピードの早い手術って憧れちゃうな。佐伯先生の手術は並の医師では真似出来ないって、同期の間で噂なんですよ」
「くだらん噂だ……経験を積めば誰でも出来る」

 今さっき手術を行った食道癌の患者は、別の疾患も患っており体力的に開胸時間を出来るだけ少なくするのがベストだった。術前検査でもわかっていた通り、 転移は一カ所であったし、その場所もそう困難な場所でもなかったのですぐに処置をする事が出来た。結果当初予定していた時間より早く手術を終える事が出来 ただけなのだ。
 別に医者は、誰かと競技をしているわけではない。手術スピードが早いことを自慢にしている医者も多いが、佐伯はそうではなかった。

「重要なのは時間そのものじゃなく、その患者の体力が一番消耗しない範囲内で終える事だ。スピードばかりに捕らわれて病巣を見逃すような奴は外科医失格だ」

 つい厳しい口調を滲ませてしまい、言い過ぎたかと隣を見れば、しょげる所か目を輝かせて佐伯を見つめる視線とかち合った。

「……はい!覚えておきます。また色々教えて下さい!」
「……あぁ」

 まだ何か言いたそうにしていたが、それは後日にして貰いたかった。佐伯は会話を打ち切るように距離を取ってから、手術衣を脱ぎ、装着していたキャップと共にダストボックスへと放り込む。汗でまとわりつくシャツに軽く空気を入れスリッパを履き替えると廊下へと出る。

 夕方に手術室へ入ったのに、もう今は深夜である。冬の夜は長く、廊下の窓から見える外の景色はひたすら暗い闇がどこまでも続いているようだった。患者が寝静まっている廊下は非常灯の光だけがやけに明るく目に付く。
 ナースステーションの前を通り、夜勤の看護師に変わった事がなかったか聞けば、今日は特に何も起きていないらしい。どうやら静かな夜のようである。何も 起きないのは良いことだ。無性に煙草が吸いたかったが、外の寒さを考えると、喫煙所のある中庭へ足を運ぶのも躊躇われ、結局はそのまま医局へと足を向け た。

 静かに廊下を歩いて医局に戻る途中、さすがに立ちっぱなしで集中していたため足が重い。手術中は気が張っているせいで感じる事の無い疲労が、今になって途端に押し寄せていた。

 佐伯は眼鏡を外し、目頭に指を押し当てると揉みほぐすように動かした。医局へ着き、誰もいない部屋で一息つく。結んでいた髪をほどき、コーヒーメーカーに作り置きしてある煮詰まったコーヒーをカップにいれてソファへと腰を下ろした。
 缶コーヒーより多少マシなレベルの美味しくないそれを飲み、カップをテーブルへと置く。その際震える指先がカタカタとカップを揺らし、中のコーヒーに小 さなさざ波が起きる。手術の後に少しのあいだこうして指先が震えるのはいつものことだった。患者の生死を委ねられている指先が、今日も一人無事に救えた事 に安堵している証拠である。

 前の手術が時間がおしたせいで、今回の手術の開始時間が二時間遅れ、結果夕飯をとる時間もなくなってしまった。腹が減ったのを通り越して今はもう空腹感も感じない。

 飲み終えたカップを流しで洗い、所定の場所に伏せた後、佐伯は時計に目を向ける。今夜はこのまま当直ではあるが、特に今の所出る幕はなさそうである。医 局の隣にある仮眠室へと向かうと、硬いベッドの上に体を横たえた。疲れているからといっても目を閉じてすぐに眠りにつけるわけではない。
佐伯は目を閉じたまま、考えていた。

──白衣に袖を通してからもう何年になるだろうか……。

 今まで、ただ夢中で仕事をこなしてきた。外科医はどれだけ患者をきったかが重要であり、その経験が多ければ多いほどいざという時の予測不能の出来事への 対処もスムーズになる。最初の頃の、虫垂炎のような簡単な物からはじまり、数え切れないほどの患者の体にメスを入れてきた。簡単な手術だと手慣れた医師は 世間話をしながら切る事もあるが、佐伯はそういう事を一切しない。どんな単純な手術でも、命を預かっている以上軽い気持ちでメスを握るのは医療への冒涜だ と思っているし、本当に何があるかあるかわからないからだ。

 まだインターンだった時にベテラン医師の第一助手として、救急で運ばれてきた患者の手術に入った時の事を今でも時々思い出す。患者の年齢は二十代前半で 既往症もなく、そう難しい手術ではないと判断された。しかし、慌ただしく手術の準備が始まり開腹してみると予想していた箇所だけではなく全く別の場所から も大量出血していたのだ。

 術前の検査も十分ではなかったせいで執刀医も慌てており、吹き出す血液の中、見づらい術野のどこからの出血かを探り当てるのに相当な時間がかかってしまい、やっと見つけた頃にはその患者はもう出血性ショックで心肺停止の状態だった。
 あの時、もっと最初から気付いて適切な処置が出来ていればあの患者は助かった可能性はあった。そういう事は、その後も何度も経験している。だから佐伯はどんな手術であったとしても最悪の事態に備えて手は抜かない。

 その結果なのか、元々手先が器用だったというのもあって外科の中で実績を積み上げ今ではそれなりに名誉も築いてきた。
しかし、自分にはそれしかなかった。

 最近、晶と付き合うようになってから佐伯は考えるようになっていた。ホストという職業に誇りをもって前向きに生きている晶と一緒にいると、何処か今の自 分が現状で満足して向上心を捨てているように思えてくる。患者を救うのが医師のすべき事だが、それは当然の事をしているだけに過ぎない。

 医者になりたての頃に持っていた、熱い情熱も今は感じる事もない。ミスのないように目の前の患者の身体を完璧に切っていく、ただそれだけだった。もっと 他にやれる事はないのだろうか。そう思っては見る物の、忙しさに追われてそんな事を考える余裕もない。こうやって時間はどんどん過ぎるばかりで結局変わら ない毎日が続くだけだ。そんな日常に、佐伯は少し疲れていた。
 佐伯は目を開け、さっきまでメスを握っていた指先を薄暗い蛍光灯に翳してみる。

――この手で何人もの人間の命を救ってきた。
――じゃぁ……俺を救うのは誰なんだ。

 答えの返ってこない部屋で一人そう思って苦笑した。何を今夜は感傷的になっているのかと我ながら思う。救うも何も別に窮地においやられているわけでもな い。佐伯は端からみたら順調だったし自分でもそう思っている。今の生き方に不満はなかった。ただ、晶と出会ってから少しずつ自分の中で何かが変わってきて いるのは、認めざるを得ない。
 泥のように疲れた身体は漸く眠気をいざなってきて、とりとめもなく巡る自問自答を静かに停止させていく。佐伯はまとまらない思考の中、仮眠をとるべく浅い眠りについた。
 
 
 
 
       *    *     *
 
 
 
 
 結局2時間にも満たない睡眠で目が覚め、交代の時間までカルテの整理をしていると朝方になって一人急患が入り、診察へと向かった。幸い軽い胃腸炎の急患 だったので制吐剤と痛み止めの点滴の指示を出し、薬を出して再び医局へ戻る。外が明るくなり、やっと勤務の交代時間が訪れた。通常の勤務形態は夜勤がある からといって変わることはないのだが、今日は外来担当の日でもないし手術の予定も入っていない。明日の休みまでいれると久々にゆっくりと出来る予定であっ た。

 佐伯は白衣を脱いでロッカーにかけ、ネクタイを締め直し着衣を整える。ふとロッカーの扉の内側にある鏡に映る自分の姿に目をやると、疲れを滲ませた自分 の顔と対面した。うっすらと目の下に隈ができている。完全に寝不足の顔である。佐伯は溜息をつくとロッカーをしめ、医局を後にした。

 廊下ですれ違う看護師に挨拶をされ、それに返しながら階段を降りていく。病院のロビーを横切ると明るい外の景色が覗いていた。澄み切った外の冷たい空気は容赦なく吹き付けてくるし、ほぼ徹夜明けの目には朝の日差しは少々眩しすぎる。
長いマフラーをコートに入れ込むようにして佐伯は歩き出した。
 
 
 
 
 駅に向かうまでの道をゆっくり歩きながら、佐伯はスーツのポケットから携帯を取り出した。病院内で落としていた電源を入れる。一度振動したあと、起動画 面になり、その後初期設定のままの画面であるパステルカラーのハート模様が表示された。その画面を見て、先日した晶との会話を思い出す。

「何これ、要って案外少女趣味だったりする?」
「少女趣味?何の事だ」
「待ち受け画面の事だって、ピンクのハート柄とか、似合わなすぎっしょ」
「あぁ、画面の事か。買った時からいじってないからな。別に好んでこれにしているわけじゃない」
「……マジで?毎日見るんだからさー好きなのに変えりゃいいじゃん。写真にするとかさ、どっかで撮ったのとかねーの?」
「この機種に変更してから写真は一枚も撮っていない。そういうお前は何にしてるんだ?見せて見ろ」
「いいけど、俺はコレな。可愛いだろ」
 
 そう言って晶が自分の私用電話の待ち受けを見せてきた。小さな子犬がボールと遊んでいる写真。実家で飼っているラッキーという名前の犬で、写真では子犬 だが今は相当大きいらしい。動物は飼い主に似ると言うが、悪戯好きそうなやんちゃな子犬は確かに晶に少し似ている気がした。好きな物や大切な物を待ち受け に表示させると、見る度に癒されるのだそうだ。晶の言う事も理解できない事もないが、佐伯には特にその画面に表示させたい物が咄嗟には思いつかなかった。 なので、結局そのままになっているのだ。

 それまでは、どんな模様でも機能を使うのに全く支障が無いので気にも止めなかった。必要な物以外には執着しないし、どうでもいい事には気付く事すら無い。

──画面を変えてみるか……。

 そう思い設定ボタンを押した所でセンターに貯まっていたメールが何通か一気に届いた。メール画面を開き、確認するとその中の一通は晶からのメールだっ た。タイトルだけですぐにわかる。事務的なタイトルの中で一際異彩を放っている。タイトルの語尾には、わざとらしくハートマークが打ってあった。

差出人:三上 晶 >
宛先:佐伯 要 >
件名 俺の予定
『要何してんの?今日って夜勤明けだったりする?俺シフト調整で明日と明後日が休みなんだけど、要の予定なかったら今夜店終わってからそっちに会いにいってもいいぜ』

 晶からのメールはこうして時々佐伯の携帯に届いた。佐伯は病院内では電源を落としているし、晶は店では私用電話をロッカーへと置きっぱなし、なので電話をするよりメールで連絡をとるほうが確実なのだ。
佐伯は返信のボタンを押してメール画面を出すと指を滑らせる

差出人:佐伯 要 >
宛先:三上 晶 >
件名 Re:俺の予定
『一度家に着いたら連絡を入れる』

 そう一言打って送信しようとしたが、思い立って『俺も明日は休みだ』と付け加えた。送信ボタンを押すとすぐにメールが送信されましたと画面に浮かび上がる。佐伯も明後日の学会までは予定がない。
佐伯は携帯をしまうと改札を抜け、電車へと乗り込んだ。