俺の男に手を出すな 3-11


 

 廊下で何かを言いたそうに澪をみつめる椎堂の視線。その視線を背中に感じながら、振り切るように背を向け、澪は玖珂と一緒に病室へと戻る。今は何の言葉も、聞きたくなかった。
 5階にある病室へと戻ると、入り口側のベッドは綺麗に整頓されていて、夕方から外泊に出たのがわかる。週末でもある今夜は部屋に澪しか残っていないようだった。

 玖珂は結局先程の話しは一切口にせず、ひとつふたつ関係のない話題を振る澪に相づちを打ちつつも時々目を伏せていた。――何も気にしていない――、澪は昨日までと全く同じように振る舞い続ける。
 多分互いにわかっているのだ。だけど今、それを言葉にしたら何かが変わってしまうのが怖かったのかもしれない。玖珂は面会時間を過ぎても隣から動こうとせず、ただ悲痛な面持ちを浮かべて肩を落としていた。

「澪、今日は部屋に一人なのか?」
「そうみたい。外泊にでも行ったんじゃないかな」
「……そうか。大丈夫か?もしあれだったら今夜だけでも他の部屋へ移れるように言ってきてやろうか?」
「何言ってんだよ。平気だって。……一人の方がいいくらいだから、俺」
「そう、か……。もし夜に眠れなかったら、何時でも構わず電話してこいよ。すぐ気付くように気にしておくから」
「俺の事心配するより、今から仕事だろ?そんな顔で店行ったらまずいんじゃないの。ちゃんとプライベートと割り切れよな。……いつもそう言ってるの、兄貴じゃん……」
「…………そうだったな……」

 話していると、看護師から『面会時間が過ぎているので』と注意され、玖珂は看護師へ謝ると渋々腰を上げてコートを手に取った。何度も振り返り、その度に心配そうにしながら玖珂が病室を出て行く。玖珂の足音が少しずつ小さくなって、暫くして聞こえなくなった。

 そして、澪は病室に一人になった。
 
 
 
 
 玖珂が椎堂と話しがあると出て行った少し後、暇だったのもあり、3階にあるカウンセリングルームの場所を見てみようと思い立って、足を向けてみた。最初から話しを盗み聞きしようと思っていたわけではなかった。
 だけど、カウンセリングルームに着くとドアが何故か少し開いていたのだ。廊下には澪しかおらず、静まりかえっていたため話し声が微かに聞こえてきた。それはまるで澪を誘っているかのように聞こえ、澪はドアの方へと一歩ずつ静かに吸い寄せられていった。

 一緒に夜景を見た晩に一度聞いた事のある椎堂の医者然とした声と、玖珂の、澪の前では決して出さない落ち込んだ声。話の内容が進むに連れ、澪の中に『これ以上聞かない方がいいのではないか』という気持ちが湧いてきた。だけど、澪はその場から去る事が出来ずにいた。聞いている会話が何故か他人事のようにも思えてくる。

 自分の命のやりとりを椎堂と玖珂が話しているその光景はあまりに現実感がない気がしたのだ。

――誰か……死ぬのか……?

 ぼんやりそう考えては、それが澪の事なのだとわかっているのに受け入れられない自分がいる。椎堂が途中で言っていた『余命』という言葉を聞いても動揺する事がなかったのは、何処か遠くの出来事に思えていたからだ。

 ずっと立っているからなのか少し気分が悪くなりドアの側の壁に寄りかかる。『早く病室に戻ろう』そう思って歩き出そうとしても体が動かなかった。何も羽織らず立ち尽くしていた澪の体はすっかり冷え切っており、点滴スタンドを持つ指の感覚がなくなっていく。その間もずっと椎堂と玖珂の会話は澪の耳に入っていた。

 何度か気持ちを落ち着かせるために深呼吸をし、何とか動けるようになった時、目の前のドアが開いて玖珂が出てきたのだ。掠れた声で自分の名を一度呼び、玖珂のスーツのジャケットが廊下へと落ちる。澪は落ちていくジャケットが音もなく舞うのをみて、その時やっと自分の現実を理解した。
 崩れ落ちそうな玖珂の様子をみて咄嗟に少し笑って見せたのは、少しでも元気だという事を見せたかったからだ。
 その後、顔を出した椎堂は澪を見て驚いたような様子を一瞬見せ、すぐに目を伏せた。余命を聞いてしまった自分より青ざめた顔になって、そのまま倒れるのではないかと思ったぐらいだった。

 椎堂は主治医なのだから当然全て知っていたのだ。入院したあの日から、玖珂も……。何も知らずにいたのは自分だけだった。そう思うとあまりに滑稽で笑いが込み上げてきそうになる。

 自分が癌なのではないかと疑っていたのは事実だ。どの医者に聞いても答えてくれない。そのうち、もし癌であっても仕方がないと思うようになった。今まで聞いてきた話しで、知っているだけでも癌から生還し今は普通に暮らしている人を何人も知っている。癌で死ぬという事も勿論知っていたが自分がそちら側に存在しているとまでは思わなかったのだ。

 失敗前提のような手術か、生きている意味さえわからなくなりそうな抗がん剤での治療。それしか選択肢がないという話しだった。そしてどちらも拒否した場合は。

――後……、一年もない……。

 来年の今頃にはもう、自分は何処にも存在しないのだ。日頃から強運だと思った事もないが、それでも……――運、悪すぎるだろ……俺――思わず感心にも似た気持ちになる。

 澪はすっかり夜になった部屋で、窓の外の景色をまた見続けていた。椎堂が連れて行ってくれたあの部屋じゃない限り夜景が見えることはない。窓から見える狭い空間はとてもとても息苦しくて、見ているだけで息が詰まる。澪は何度も咳き込み、体を折った。

 椎堂が自分に優しくしてくれていたのは、もうすぐ死ぬとわかっていたからだったのだ。あの優しく見つめる眼差しも、ただの哀れみだったのだと今になって気付く。
 そう思っても、不思議と腹がたつ事はなかった。寧ろ、それが普通なのだから。医者と患者の関係以外、それ以下でもそれ以上でもない。椎堂は主治医として立派に仕事をしているのだから、何も責められる事はない。勝手に勘違いをして信頼と、それ以上の別の感情を寄せ始めていたのは自分の方なのだ。

――もう、期待するのはやめよう……。

 消灯時間になるまで澪はベッドへ潜り込んだ。体中が痛いような気がして、自分を守るように体を丸める。ちゃんと温まる布団に自分の体温を感じることが出来る。脈打つ心音が耳元で煩いぐらいに響き、生きている証拠を必死で伝えてこようとする。澪はじっとしたままその音を聞いていた。まだ力強く聞こえるその音、だけどこうしていても一秒一秒自分は死に向かっていくだけなのだ。


 暫くそうしていると、廊下に看護師の足音が聞こえ「消灯の時間です」という声が響き病室の照明が落とされる。足音が遠ざかったのを確認すると、澪はベッドから体を起こした。暗い部屋で電気を付けず、自分の腕をまじまじと見る。もうずっと刺している点滴の針から逆流した自分の血が薄い赤色となってチューブに淡く滲んでいる。テープできつく固定されたその場所はもう痛みも感じなかった。

 チューブの先を目で辿りつつ、どこで運命の道を踏み外してしまったのかフと考える。そして答えのでないその問題に自分で強引に答えを付けた。踏み外したのではなく、自分には最初から道なんてなかったのだと。

 ズキリと胃が痛み、思わず息を詰める。治まるように掌をあてて撫でながら椎堂があの日、今みたいに掌を当てて撫でてくれたのを思い出す。自分の手では痛みは引かなかった。何度摩ってもさし込む痛みは増すばかりだ。

――……くそっ……。治まれよ……。

 言う事を聞かない自分の身体に苛立ちを覚え、握った拳を胃に当てて目をぎゅっと閉じる。
 椎堂にとって自分は意味のない存在どころか、手を煩わす患者だと思われているのかもしれない。大人しく言うことを聞くわけでもないし愛想もなくて、しかも具合が悪くなった時だけ頼ってきたりする。そんな勝手な患者で……しかも治療の甲斐もないなんて実験体以下もいい所である。

 玖珂にとっても迷惑をかけ通しである。やっと自分一人で生きていける歳になったのにこれでは昔と何も変わらない。自分さえいなければ玖珂もこんな事で苦悩する必要さえなかったはずだ。きっとこの事を知って毎日悩んでいたであろう事は容易に想像できた。優しい兄の胸を痛ませていたのは全て自分なのだ。

――……最低だな……俺。

 そう思って自嘲的な笑みをこぼすと澪の目の前がぐらりと歪んだ。目眩は頭の中の色々な考えまでもを乱暴にかき混ぜてくる。

「…………うッ……ぐッ……」

 急にこみ上げた吐き気が胸をつきあげ、慌てて口元を押さえる。ベッドから降り、そのまま足早にトイレに向かったが個室に入るまでに耐えきれずに洗面所で嘔吐を繰り返した。荒い息を繰り返しながら、縁を掴んで何度も嘔吐く。

「――ッぅ……っ…う゛ぇ……」

 ほとんど水気しかない吐瀉物がビシャリと洗面台に叩き付けられ、澪は震える手で水道の蛇口をひねる。咳き込む度に治まらない吐き気が触発されるが、すぐに吐き出す物がなくなって苦い胃液がでるだけになった。何処からか出血しているのか胃液とは違った真っ赤な液体も混ざっている。

 苦しさに涙が滲んだが、痛いのも苦しいのも今だけ何も考えないようにさせてくれるならその方がずっと良かった。このまま死んでしまっても……それさえも悪くない気がした。

 胃の中の物を全て吐き出すと漸く吐き気が治まってくる。何度か口をゆすぎ顔を洗う。冷たい水が滴るのを拭いもせず、顔を上げて鏡を見る。鏡に映っている自分の背後に死を知らせる砂時計が見えてくる。その砂はもう僅かしか残っておらず、今も尚下へと落ち続けていた。澪は鏡に濡れた手をつき、爪を立てる。青ざめたその顔はもうすでに死んでいるかのように見えた。

 澪は揺れる視界の中、何とか体勢を立て直すとふらつく足で洗面所を出た。病室に一度戻るとベッドへ腰掛け、呼吸が落ち着くのを待つ。その後、点滴の針を一気に毟り取った。さすがに痛みが走ったがそんな事は気にならなかった。つたってくる血をハンカチで拭いそのまま腕にきつく巻き付ける。そして入院する際に着てきた服に着替えると、引き出しから財布だけを掴み病室を出た。

 痛む胃を庇うようにしながらも足早に非常階段へと向かう。ナースステーションとは逆の、椎堂が以前連れて行った方の廊下を進むと、病棟から抜けられる。そのまま非常階段で一階までおり、ドアをそっと開いて様子を窺った。
 見回りの警備員らしき人物が通り過ぎるのを息を殺して待ち、その後素早く救急面会用の玄関を抜ける。

 運良く誰にもみつからずにここまでこれた事にほっと胸をなで下ろし、駐車場へと出ることが出来た。私服なので、遠くからもし見られても入院患者だとは思われないだろう。病院の門を出て一度も後ろを振り向かず、そのままゆっくりと歩き出した。


 久々に吸った外の空気はかなり冷たい。

 そして澪は……病院から姿を消した。
 
 
 
 
*     *      *
 
 
 
 
――何故あそこに玖珂くんがいたのだろう……。

 先程から繰り返しその事ばかりが頭をよぎる。
 夕方の玖珂との面談を終えれば今日の業務は終了で、後は帰宅する予定だった。椎堂は医局のソファで電気も付けないまま座り込んでいた。澪の事が気になって、とてもじゃないが帰れる状態ではなかった。

 病棟の看護師に訳を話し、澪に何かあったら連絡をくれるように頼んであるが、看護師からの連絡は今の所なかった。

 あの後すぐに澪を追おうと思ったが踏み止まったのは、何と声をかければいいかわからなかったからだ。「大丈夫だよ」とでも励ませばいいのか、それとも、今まで嘘を付いていた事を謝ればいいのか。
 結局それはどれも自分が楽になりたいだけの言い訳に過ぎない気がしていた。

 それでもどうしても様子が気になり、何度か病室の前まで足を運んでみたが中には入らなかった。面会時間を過ぎても玖珂がいたようなので、廊下から少しだけ様子を窺って結局戻ってきてしまったのだ。
 もし、玖珂がいなかったとしても、部屋へ入れたかどうかわからない。

 自分は卑怯なのだと椎堂は思う。本当にいてあげなければいけない時にはこうして何もしてやれない。
 カウンセリングルームを出て澪を見つけた時、澪は椎堂に視線を一度向けた。その視線に拒絶の感情はなかった。しかし、次に会った時澪はどんな顔をするのだろう……。全てを閉ざした澪の顔が見たくなくて自分は逃げているのだ。自分が傷つかないようにそればかりを気にしている。本当は優しさなんてひとつも持ち合わせていない自分。

 椎堂は医局にある時計を見上げる。秒針の音が小さく響きどんどん時間が過ぎていく。もう消灯の時間をとっくに過ぎていた。

――せめて、ちゃんと眠れているかどうかだけ……、様子を見に行こう……。

 廊下から確認するだけでもいい。そう思いソファから立ち上がると、立ち眩みがして椎堂は暫く目を閉じる。連続で夜勤だった上に、食事もまともに取っていない。こうなるのは当たり前とも言えた。
 椎堂がゆっくり目を開けて、目眩が治まったのを自分で確認し部屋の入り口へと向かおうとした時、内線電話が鳴り響き、緑のランプが真っ暗な部屋に点滅した。

――まさか……。

 慌てて電話機に寄り、受話器を急いで取り上げる。

「はい、椎堂です」
「先生!玖珂さんが!」
「玖珂くんが!?どうしたんだっ」
「病室にいらっしゃらないんです!点滴も全部外してあって、トイレ等他も探してみたんですが、何処にも姿が見あたらなくて」
「…………そんな……」
 一瞬にして頭が真っ白になる。
「……先生、先生!」
 看護師の声で現実へと一気に引き戻され、椎堂は静かに息を吐くと閉じていた目を開けた。
「引き続き君達も院内を探して!僕は外へ探しに行くから。それと自宅に戻ってる可能性もあるから、ご家族に至急連絡をいれるんだ」
「はい!」

 受話器を乱暴に置くと、椎堂は着ていた白衣を机へと脱ぎ捨てた。ロッカーをあけコートを羽織ると袖を通す間も惜しむように医局を飛び出し廊下を駆けだす。こうなる事を全く予想していなかったわけではないのに……。

――どうしてもっと早くに気づけなかった。

 後悔ばかりが押し寄せる自分の気持ちを切り捨てながら階段を降りる。噛みしめた唇から鉄錆の味が滲む。
 走りながら、一度、前に看護師に澪がいた店の名前を聞いた事があるのを思い出す。もしかしたら以前の慣れ親しんだ街へ行ったのではないか、闇雲に探すより可能性は高そうである。椎堂は携帯を取り出すと店の名前を検索欄に入れる。『silverglass』で検索をかけるとすぐに澪がいたというホストクラブが出てきた。

 その画面のまま携帯を握りしめ病院から走り出ると、通りに出てタクシーを止めて乗り込んだ。息を切らして急いでいる様子の椎堂に運転手が驚いたように振り返る。

「お客さん、大丈夫ですか?顔真っ青ですよ??」
「平気です。……歌舞伎町へ行って下さい。一番近い道で……出来るだけ早くお願いします」

 それだけ言うと、椎堂は祈るように目を閉じて俯いた。
 
 
 
 
*        *        *
 
 
 
 
「オーナーの様子、今日おかしくないか?」
「そっかぁ?俺はいつも通りだと思うけど?さっきも卓についてたじゃん」
「その後だよ。こっち戻ってくる時俺達には「お疲れさん」って笑ってくれてたけど、その後すげぇ疲れた感じになってた気がするんだよ」
「へー……。じゃあ、何かあったんじゃね?」
「初めて見たわ、俺、あんなオーナー」

 二号店の店内では週末の今夜も途切れない客が足を運び、盛況していた。指名待ちのホスト達がロッカーの前で自分の順番を待つ間携帯を弄って話している。その奥の部屋で、玖珂は椅子に深く腰掛けたまま何度か携帯を取りだしては着信を確認していた。眠れなかったら電話するようにと澪へ言ってきたが、かけてこないだろう事は予想がついていた。
 それでももし、かけてきた場合、その着信を逃すわけにはいかない。しかし、今こうしていても携帯が鳴る事はやはりなかった。

 何も届かない携帯画面に、それを見つめる自分の顔が写っている。無理を言って泊まらせて貰う事は可能だったのだろうか。それか、今夜だけでも澪を連れて帰る許可を得ることは出来なかったのか。後から思うと全部試しに言ってみるくらいは出来たのではないかと思わずにはいられない。

 澪が話しを聞いていたとわかった後病室へと戻ってからも、澪は取り乱したり落ち込んだ様子を自分に見せることはなかった。澪は決して強いわけではない。ただ、昔から玖珂には弱い姿を見せるのを極端に嫌っていた。

 そんなによく喋る方ではない澪が、病室で自分から関係のない話題を振り、会話が途切れそうになると必死で次の話題を探していた様子が思い出される。

 それが辛くて、仕方がなかった。いっそ大泣きして縋るか、八つ当たりでもいいから罵られた方が楽だったと思う。面会時間が過ぎ、注意をされたので仕方なく立ち上がった時、フと澪の横顔をみると、澪は酷く思い詰めた表情を浮かべていた。声をかけるとすぐにその表情は消え、いつも通りに振る舞おうとしているのがわかった。

――…………澪、お前は今どうしてる?……。

 先程まで、昔の客がたまたま来ており、いつもなら表には出ることがない玖珂は店へと出て接客をしていた。馴染みの客を相手にいつものように笑顔で接客をする。
『どんな事があっても仕事とプライベートは割り切って、店に出たら私情を顔には出すな』
 日頃からホスト達にそう教えて来た自分が店で澪の事を引きずるわけにも行かず、いつもより気を張って接客した。こんなに笑顔でいるのが苦痛だったのは、ホストをしていた時を含めても初めてだった。

――「ちゃんとプライベートと割り切れよな。……いつもそう言ってるの、兄貴じゃん……」

 澪から指摘された言葉を思い出す。

――ごめんな……澪……、こんな情けない兄貴じゃ、お前に怒られるな……。

 玖珂は机に両肘をついて、頭を抱える。
 鳴らない携帯を胸ポケットへと仕舞おうとしたその時、携帯が玖珂の掌で振動した。澪かと思い画面を見るが見慣れない番号である。玖珂は嫌な予感を感じ、すぐに画面に触れ耳に押し当てた。

「もしもし、夜分遅く申し訳ありません。敬愛会総合病院の原田と申します。玖珂澪さんのご家族の方ですか?」
「は、い……。澪は弟ですが、弟が何か?」
「弟さんが病院を抜け出したようで、いらっしゃらないんです」
「……え……」
「今、主治医の先生と私達で探しているのですが、まだ見つからなくて、ご自宅へ戻られていないかお電話したのですが」

――澪が……いなくなった?

 玖珂は携帯を耳に押し当てたまま立ち上がる。
「すみません。一緒に住んでいるわけではないのですぐ確認出来なくて。弟がいなくなったのは何時頃ですか?」
「消灯時間の時は病室にいらっしゃったので、その後だと思うんですけど……」
「わかりました。弟の自宅と、思い当たる場所を此方でも今から探してみます」
「お願いします。弟さんをみつけたらご連絡下さい」
「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ない……。失礼します」

 通話を終えて切った後、すぐに澪の携帯へとかけてみたが電源を切っているようで何度かけても繋がる事がなかった。玖珂が急いで部屋を出ると、待ち部屋にいたホストが何かあったのかと目を丸くしている。

「ちょっと急用で今から出るが、何か今の所で問題はないか?」
「……あ、はい。特には何も……」
「すまないな。店がクローズする前には一度戻るようにするから、後は任せてもいいか」
「大丈夫です。何か……あったんですか?」

 心配気に玖珂を見るホスト達に、玖珂は動揺を隠し少し微笑んで見せる。

「大丈夫だ。お前達が心配するような事ではないから、気にしなくていいよ。じゃぁ、頼んだぞ」
「……はい、いってらっしゃい。あの……気をつけて」
「あぁ、有難う」

 裏口から表に出て、まだ賑わう通りを人を避けるように走る。コートを着てきていない事に気付いたが、戻る時間が惜しいのでそのまま向かうことにする。
 大通りに出て向かってくるタクシーを見つけると、玖珂は手を挙げた。