俺の男に手を出すな 3-12


 

 
「そこの信号で停めて下さい」

 左に寄せて停車したタクシーの運転手から料金を告げられ、澪は財布を取り出し、中をのぞいた。
 病室へは貴重品を持ち込まないように言われていた為、財布の中にはそんなに金が入っていない。クレジットカード等は持ち合わせていなかったので仕方なく何枚か入っていた一万円札を運転手へと渡す。

「はい、じゃぁこれお釣りね。有難うございました」

 釣りを受け取りタクシーから降りると、途端に夜の街の喧噪が耳に届く。
 客の呼び込みに、仕事帰りらしき会社員、手を繋ぐ恋人達、そして大学のサークルのような学生の団体。すでにだいぶ酔ってる人間もちらほら見える。誰もが週末の開放感に浮き足立っているように見えた。

 澪は、以前勤めていた店のある方向へとゆっくりと歩き出す。雑踏の中に紛れていると気分が落ち着いてくる。
 街は澪がいた頃と何も変わっておらず、少し脇に入れば偽物の愛情で噎せかえるような世界が繰り広げられている。

――よくここで、女の子に声かけてたな……。

 途中にあるひとつの信号、ここの信号は青になるまでに相当時間がかかるのだ。なので足を止めている女性に声をかけるのに都合がよく、ホストがこぞってたむろしている。澪が視線を向けると、案の定2、3人のホストが街ゆく女性に声をかけていた。見た事のない顔だったので、澪がいた店とは別のホストクラブなのだろう。

 やっと青になった信号を渡った所で一度足を止めて澪は通りを眺めた。ここにいる誰もが、自分達しか見えていない。立ち止まっている澪の横を何人もの人間が素通りする。誰も澪がもうすぐ死ぬという事を知らないのだ。それは思っていたよりずっと心地よくて安心出来る物だった。

 澪は顔を前髪で隠すように俯き、通りの中ほどにある『silverglass』の前まで行くとゆっくり足を止めた。何度もくぐった店の扉は今夜も綺麗に磨かれていて、スモークになっているガラス越しにうっすらと店内が見渡せる。店の名前を象った電飾の看板が眩しいほどの光で通りを照らしている。この光景がついこの前まで澪の日常の風景だった物だ。
 懐かしい気持ちになったが、知った顔に会うのもまずいので、澪はそのまま店の前を通り過ぎた。再び歩きながら、虚栄でしかないネオンを久し振りに目に焼きこむ。

 こうしていると病院にさっきまでいた自分がまるで嘘のように感じた。
 殺風景な病室で、来る日も来る日もパジャマ姿で過ごし、雨が降っても風が強くても、それすらただ窓から見るだけで感じることは出来なかった。適温に管理された病室内、病人しかいない中庭、何処に行っても微かに消毒の匂いが漂う空間。今日の夜までそんな場所にいたのに、もうそれすら忘れてしまいそうになる。

 しかし、それが現実だったという事を身体は忘れさせてはくれなかった。久々に距離を歩いているせいか、既に息が上がっている。点滴に入っていたらしい痛み止めが切れてきたのかキリキリと痛む胃は次第に痛みの感覚が狭くなってきていた。外の寒さは澪の身体にはあまりにも冷たい。  
 
 息苦しさを耐えるように澪は深呼吸をし、それを誤魔化すと通りの突き当たりにある一件の店の扉を開いた。馴染みのある店内が視界に飛び込むと同時に聞き慣れた声の持ち主が驚いて澪に駆け寄ってくる。

「いらっしゃいませ。……、え……?うそ!澪……なの!?」
「久しぶり」
「久しぶりじゃないわよ!!店辞めちゃってから凄い心配してたのよ?……ねぇ、本物の澪、なんだよね?」
「当たり前だろ。それとも、俺の顔、もう忘れちゃった?」
「バカ、そんなわけないでしょ……。とにかく、どうぞ」

 涙ぐんで再会を喜んでくれているこの店のホステスの栞は、澪がホストをしていた時の客でもあり、澪もまたこの店にはよく飲みに来ていたのだ。澪より五歳年上の栞とは当時からだいぶ親しくしていた事もあり、店を辞めてからずっとどうしているのかと気になっていた。いつもこの店に来ると座る席まで歩きながら、店内にいる顔ぶれにほっとする。この店のホステスはほぼ全員名前を覚えている。何人か知った顔を見ながら澪は席へ着くと腰を下ろした。

「急に来るからビックリしちゃった……。でもホント嬉しいよ。もう会えないって思ってたから」
 そう言って嬉しそうに微笑む栞に澪も少し頬を緩める。
「急に栞の顔が見たくなってさ。たまたまこの辺に来る用事があったから顔出したんだ」
「そうなんだ。私の顔が見たいとか、澪からそんな事言って貰えるなんて何か怖いんだけど」
「何でだよ」
「だって、多分初めてだよ?」
「そう?……じゃぁ、今から本気で栞を口説いてもっと怖がらせてみようか?」
「もうっ、からかってばっかり」
 栞は笑った後に、少し心配そうに表情を変える。
「ねぇ……澪、何か元気なくない?……何かあったの?」

 水商売の職業に就いていると人を観察する目が自然に養われる。顔には出していないつもりでも、何処かいつもと違う様子を感じたのだろう。澪は誤魔化すように微笑むと白を切り通す。

「別に、何もないよ。栞の気のせいだろ?それより、栞は元気にしてたか?」
「私は元気だよ。澪がいなくなっちゃってからさ、何回か澪を指名してた子達と話す事があったんだけど……みんな澪の事心配してた……」
「…………そっか」
「ほら、最後にみんなに電話してくれたじゃない?理由……、あの時教えてくれなかったから……まだ、辞めた理由聞いちゃダメなんだよね……?」
「ごめん……。今はまだ言えないんだ」
「……わかった。……じゃぁ、聞かないでいてあげる。でも言えるようになったら、絶対教えてね?」
「あぁ……約束する。言える時が来たら、だけどな」

 澪は栞に笑いかける。理由を言える日は多分この先ないのがわかっていても……昔のままの自分でいたかったのだ。少し照れたように栞も笑い返すと澪にグラスを差しだした。それは澪が以前好んでいた銘柄で、ずっと覚えていてくれた事が嬉しかった。琥珀色の輝きの中で氷がカランと音を鳴らして沈んでいく。

 それから暫く栞の話を色々と聞き、特別な意味のない世間話等をして少しずつ時間が過ぎていった。徐に栞が煙草を咥えたのを見て、澪はライターを取り出そうと思い、すぐに持っていないことに気付く。
 卓上に置いてあった店のマッチをすって火を点けてやると、栞は驚いた様子で目を丸くした。

「澪、今日は煙草吸わないんだ?あんなにヘビースモーカーだったじゃない」
「あぁ……煙草はやめたんだ」
「うそ!!えら~い。凄いねー」
「別に偉くはないだろ?」
「ううん、偉いよ。尊敬しちゃう。あ、ごめん、じゃぁ澪の前では吸わない方がいい?」
「いや、気にしなくていいよ。別に吸ってる奴に止めろって言う気はないから」
「私も本数減らさないとだよね……吸い過ぎってママにもしょっちゅう言われてるんだけど、つい癖で吸っちゃうの。肺癌にでもならない限り止められないかも……」
「……まぁ、栞の気持ちはわかるけどな」
「でしょ?」

 澪も入院する前は同じような事を思っていたので、栞の気持ちはよくわかる。その癌になってしまったなど、まるでたちの悪い笑い話でしかないのだから言えるわけはなかったが。澪はそう考え苦笑する。

「なぁ、栞。例の店持つって話しどうなったんだ?進んでんの?」
「その話覚えててくれたんだ!順調だよ~。今ねママに色々相談して、場所探ししてるとこなの」
「そうか、良かったな。やっと夢が叶うじゃん」
「うん、私も今から楽しみなの。開店は多分来年くらいになっちゃうけど絶対遊びに来てね」
「来年か……ちょっと先だな。わかった。予定しておくよ」

 そう言った澪の言葉に栞は嬉しそうに顔をほころばせた。そして澪の隣に甘えるように寄りかかり顔を急に覗き込んでくる。栞のつけている甘い香水の香りが鼻腔をくすぐり、澪は栞の腰にそっと手を回した。「どうした?凄い顔近いけど」笑いながらそう言う澪の目を栞はじっと見つめて口を開く。

「澪の顔見てるの。今度いつ会えるかわからないから、それまでの目の保養」
「相変わらず栞は持ち上げるの上手だよな」
「だって、本当の事だもん。そういう澪は相変わらずホストっぽくないよね」
「それって俺どう反応したらいいの?ホストとして致命的な事言われてる気がするけど?」
 澪はわざと困ったような表情を浮かべて横を向き、甘えてくる栞の髪に指を絡ませる。
「ううん。悪い意味じゃないよ。何て言うのかな……澪ってそんなにお喋りじゃないし、女の子を過剰に褒めたりしないじゃない?」
「そうか?可愛いと思ったらちゃんと言うけどな」
「そういうとこ!最初会った時はクールなホストだな~って思ってたけど、今は何で澪がNo1張ってたかわかるの。こうして一緒にいるとね……。凄く安心する。澪が本当にそう思って言ってくれてるんだなって思えるから……。それと……、澪って黙っててもいい男だしね!」
「久しぶりだからって、そんなに褒めても何もでないけどいいの?」
「酷い!そういう意味で言ったんじゃないもん」
「わかってるって、冗談だよ。……有難う、栞」

 さっきから舐めるようにしか飲んでいない酒に栞が訝しむといけないので澪はグラスを手に取る。一口飲んだだけでさし込むように胃に響いて思わず眉を顰めそうになったが、何とか誤魔化しながら少しずつ飲み込んでいく。あまり長くいては異変に気付かれるかもしれない。そう思った澪はゆっくりとグラスをテーブルに戻すと栞の細い腰から手を離した。

「栞……今日はこの後行く所があるから、そろそろ俺行かないと」
「え……もう帰っちゃうの?」
「そんな顔するなって、また今度、ゆっくりくるから」
「……そっか……。用事あるなら仕方ないね……」
 がっかりとする栞に優しく微笑むと澪は席を立った。

――…………っ、……。

 立ち上がった途端に激しい痛みが身体を襲い思わず前屈みになってテーブルへと手をつく。栞に気付かれたかと思い、後ろを振り返るとちょうど見ていなかったのか何とか気付かれずにすんだようである。ほっと胸をなで下ろし、澪は痛みを我慢し財布を取り出す。今日はお金は要らないと言う栞を宥めて酒代を渡し、平静を装って歩きながら店の入り口まで辿り着いた。

「じゃぁな、栞。今日は会えて良かったよ」
「うん、私も。会いに来てくれてありがと……。ねぇ?」
「……ん?」
「また、……会えるんだよね?」

 真剣な眼差しで聞いてくる栞に、澪は言葉を返すのを躊躇った。綺麗に化粧をした華やかな栞の顔が寂しそうに歪み、その瞳に涙が溜まる。澪は手を伸ばして落ちる前の涙を指で拭ってやり、栞の額に軽く口付けて囁く。

「泣くような事、何もないだろ……。そんな顔してたら、美人が台無しだ」
「…………澪」
「……元気でな……栞」

 それだけ最後に言って背を向ける。澪は店先まで見送りに来た栞の視界から自分の姿が完全に見えなくなるまで足早に街を歩いた。曲がり角にさしかかり、路地を曲がった瞬間あまりの苦痛に隣にあった電柱に身体をあずけて目を閉じた。
 
 
 
 硬いコンクリートの電柱が背中に冷たさを容赦なく叩き込む。空の胃に酒を飲むなど無謀な事をしたせいもあるのか、そんな澪を責めるように痛みは絶え間なく襲ってきた。通り過ぎる人が時々、澪を怪訝な顔でじろじろと見ては行き過ぎる。だけど、足を止めて声をかけてくる人間はいないのが幸いだった。ただの酔っ払いだと思われていた方がずっといい。

 痛みが瞬間的に引いた身体を何とか支えて澪は壁に手をついてゆっくり歩き出す。自分はいったい何をやっているのかと思うと小さな笑いが漏れた。

 ここから少し先に寂れた公園があったのを思い出して足を向ける。確かそんなに遠くないと記憶していたはずだったが、時々また吐き気が澪を苛み途中で何度も立ち止まっているため、辿り着くのにかなりの時間を要した。
 道端で嘔吐する事は取り敢えずなかったが、その分次第に浸み渡るアルコールの酔いが身体に回ってきているようだった。

 ふらつく足を引きずって、何とか公園に辿り着く。公園とは名ばかりで、遊具と言っても砂場と、動物を摸した乗り物がぽつんと置いてあるだけで、子供はおろか、誰一人もいなかった。灯りはというと消えかかって点滅している自販機と、その側にある小さな街灯しかない。薄暗い公園内へ入り、座る場所を探すと奥の方に一つだけベンチがおかれているのが見えた。

 澪はベンチまで行くと蹲るように座り込んだ。ハァハァと忙しなく乱れる呼吸を整えようと刺激をしないように肩でゆっくり呼吸をする。そうすると、ほんの少しだけ落ち着いてくるようだった。アルコールで火照った顔に冷たい風が吹き付ける。
 澪はかじかむ指をポケットに入れて暖めようと思い、中にいれた所で指にあたる感覚を疑った。何かが奥に入っている。ポケットから引っ張り出してみると、それは椎堂に渡そうと思っていたチューリップのマスコットだった。引き出しへしまっていたので、財布を掴んだ際に挟まって来たのだろう。

 こんな所にまで持ってきてしまったマスコットは、まるで澪の想いを忘れさせないようにする為のように感じ、澪はそれをぎゅっと握りつぶす。

――こんな物……捨ててしまえばいい。

 掴んだマスコットを遠くへ投げようと腕を持ち上げたが、その腕を振ることがどうしても出来なかった。――……何で……捨てられないんだよ――結局また元のポケットにしまいこみながら、未練がましい自分に腹が立ってくる。

 ついさっきまで火照っていると感じた顔もすっかり熱が冷め、逆に体全体に悪寒が走る。澪は一度体を震わせると着ているジャケットの襟をかき合わせる。
 今頃病院では騒ぎになっているのかもしれない……。また玖珂に迷惑をかけている自分に呆れるが、今更もう病院に戻ろうという気はなかった。

 椎堂は、少しだけなら自分の事を心配しているだろうか、そう考えて夜空を見上げる。あの夜にみた光の中に今自分はこうして居る。遠くから見た時はあんなに眩しかったのに、光の中へ入ってみれば何も見えなかった。
 高いビルに囲まれたこんなちっぽけな公園じゃ、精々月が見えるくらいだ。――これじゃ……あの病室と何も変わらない――だけど、見上げる月はとても綺麗で、静かに見下ろすその様子に澪は椎堂を重ねてゆっくり息を吐いた。

『君の笑顔も……いつか、僕に見せてくれないかな……』

 椎堂の言った台詞を思いだしては考える。あの言葉だけは本気だったのだろうか……。

 まとまらない考えを繰り返していると、次第に眠気が訪れた。酷く身体が重くなってきて意識が遠のいていくのがわかる。澪はベンチにもたれ掛かって瞼を閉じた。
 遠くで街の喧噪が聞こえ続け、それが子守歌のようだ。意識の狭間を彷徨う澪は喧噪の中で椎堂の声を聞いた気がして、重い瞼をうっすらとあける。

――…………まさかな……。

 酒も入っているし、幻聴に違いない。そう思った澪の耳に今度はハッキリと椎堂の声が届いた。

「玖珂くん!!!」

 澪が目をこらして公園の入り口を見ると紛れもない椎堂が走ってくる様子が見えた。息をのみ、その様子を目で追う。

――俺……夢でもみてるのか……。

 椎堂以外にも通りには数人の人が歩いている。奥まったベンチからはハッキリとは見えない。それでも、向かってくる椎堂だけはその表情まで見えるようだった。走って公園に入ってきた椎堂は澪の姿を見つけると一度足を止め、泣きそうな笑みを見せた。

 喋る事がままならないほど切れた息はぜぇぜぇと音を立てている。やっとの思いで澪の隣に近づくと倒れ込むように横に腰掛けた。

「良かった……見つけ、……られて……ずっと、……探し、てたんだ」

途切れ途切れにそういう椎堂の額には、こんな寒い季節だというのに汗が流れていた。目の前に椎堂がいる事が信じられなくて澪は呆然と椎堂を見る。椎堂は呼吸を整えるように何度か息を深く吸うと、澪に手をさしのべてくる。

「玖珂くん、一緒に……病院に戻ろう、な?」

 そうやってまた俺に哀れみをかけるのか……。澪は我に返り椎堂の手を退けると無視して立ち上がり、背を向けた。
 
 
 
 何者をも拒絶するような澪の背中に、椎堂はまた一歩を踏み出せないでいた。ほんの少し近づいたように感じていた澪との距離が今はもうとても遠い。これが、自分が見たくなくて逃げていた現実。だけど、椎堂はその現実から目をそらせなかった。

 ──……失いたくない――その気持ちだけが椎堂を突き動かす。今ここで踏み出さなければ永遠に澪を見失う気がして、椎堂は思い切って後ろを向く澪の肩に手を伸ばした。その手は医者としてではなく白衣を脱ぎ捨てた椎堂自身の全てであった。
 振り払う事もしない澪は後ろを向いたまま冷たく言い放つ。

「あんた、何しにきたわけ……?」

 全ての感情を押し殺したような低いその声は怒気を含んでいるようでもあり、そしてあまりに切ない声色だった。椎堂の手が力無く澪の肩からずれ落ちる。

 かけなければいけない言葉があまりに多すぎて、何を言葉にして良いかわからない。落ちた椎堂の手を静かに退けると、澪は椎堂の方へゆっくりと振り向いた。
 口の片方だけ歪めて笑うような馬鹿にしたような目で椎堂を見つめる。

「…………玖珂くん……お願いだから……」
「何のお願い?どうせ死ぬ患者に、医者が何の用があるんだよ」

 そう言いながら、椎堂との距離を詰める。

「なぁ、……先生。俺との同情ごっこはさ、気分良かったか?」
「…………そんなっ……そんな事一度も……思った事ないよ……」

 初めて椎堂の事を先生と呼んだ澪は、もう心を完全に閉ざしているように見えた。椎堂に視線を向ける澪の瞳には何も映っていない。どこまでも深くて、そして冷え切っていた。澪の視線が鋭利なナイフのように椎堂の胸に突き刺さったが、それでも椎堂は懇願し続けた。

 どんなに情けない姿を晒すことになっても良いから、澪が戻って来てくれるなら何でもしようと思った。
椎堂はゆっくりと膝を折ると澪の前に頭を下げた。人はそれを土下座と呼ぶのかもしれなかったが、そんな事さえ気にならなかった。

 澪は嘲るようにただ黙って椎堂を見下ろす。いつまでも頭を上げず、何度も繰り返し、ただ「戻ってきてくれ」と言う椎堂の言葉に性懲りもなくまた椎堂を信じたくなる。澪は、そんな自分が怖くなった。
 また椎堂を信じてしまう前に、この場を去らなければダメだ。そう強く思った。

「……あんた、プライドないの?みっともない格好晒してんじゃねぇよ……」

 一言そう言うと澪は静かに公園をでるために歩き出そうとした。本当は走ってこの場を去りたかったが、それにはどうやらもう身体が付いてきそうになかった。今も実際立っているのがやっとな状態なのだ。
 痛みがまた身体を支配して動けなくなる前に……何としても椎堂を振り切らなければならない。
 椎堂は立ち上がるともう一度澪の腕をつかんだ。その手には痛いほどに力が込められていて澪の動きが止まる。

「君のためなら……」

 澪の心臓がドクンと鳴る。

「君のためなら……、僕はプライドなんかいらない……」

――……くそっ……何でだよ……。


 澪は椎堂の優しさの意味に気付かなかったわけではない。だからこそ椎堂の差し伸べた腕に一度は縋ったのだ。椎堂の優しい眼差しに、特別な感情まで抱くようになった自分は今も確かに存在し、こうして目の前の椎堂が自分に必死なのを喜んでさえいる。それなのに……。

「じゃぁ……先生、俺の代わりに死んでくれよ」

 澪は自分で言ったその言葉に背筋が寒くなるのを感じて震えた。自分の腕を掴む椎堂の手の力がだんだん失われていくのがわかった。

――そう……これでいいんだ。何もかも……無くなればいい。

 二人の間に冷たい風が吹き込み、そこだけ闇にのまれたような静けさが包む。静かな空間で、椎堂が息をのむのが聞こえる。確かな口調で椎堂は静かに口を開いた。

「君がそれで楽になるなら……僕は、今すぐ死んでも構わない。……でも、その前にひとつだけ話しを聞いてくれないか……」

 椎堂は何処までも真っ直ぐな瞳で澪を見返してくる。その言葉は澪の胸に響き、自分の中で何かが音をたてて壊れていくのがわかった。椎堂は今にも泣きそうな表情で澪の腕をもう一度掴んだ。
 
 
「玖珂くんが……好きなんだ。…………失いたくない……」
 
 
 椎堂は今まで散々悩んでいたはずのその言葉を自分でも驚くほど自然に口にしていた。踏み出した一歩が奇跡をおこす事に願いを賭ける。澪の表情から何かを読みとる事は出来なかったが、その瞳は静かに棘をなくしているのに椎堂は気付いた。二人は言葉にしない思いを互いに孕んだ視線で見つめ合う。

 澪がふっと今までに見せた事のない穏やかな表情で微笑み、そしてその場に崩れ落ちた。立っているのもやっとだった澪の身体はもう完全に感覚がなくなっている。目を開けているはずの視界はもうはっきりとは見えず、自然に瞼が降りてくる。
 慌てて駆け寄った椎堂が澪の身体を抱き起こして澪を揺さぶる。

「玖珂くん!しっかりするんだ、今救急車を呼ぶから!」

 意識がもうはっきりしないのか澪は力無く椎堂の腕を掴む。その指は氷のように冷え切っていた。椎堂の双眼から涙が零れる。椎堂は澪を抱きかかえながら、ポケットから携帯を取り出す。震える手から滑り落ちそうになる携帯を持ち直すと、澪の手がそれを制止した。

「…………先……せ」
「……どう、した」

 身体はこんなに冷え切っているのに澪の吐く息は熱っぽい。うっすらと目を開き、視線の定まらない瞳で見上げる澪の目が椎堂を探すように微かに動く。椎堂は側に居ることを伝えるために「ここにいるよ」と囁いて澪の手を握る。澪が吐息と共に言葉を紡ぐ。
 
 
「俺……、まだ……死にたく、ない……。死にたく、ないんだ…………」
「…………うん……うん」
 
 
 椎堂の涙はもう止まることを知らず次々に澪に降りかかり濡らしていく。
 澪は一瞬身体を強張らせた後、急に激しく咳き込んだ。喉がごぽっという音を立て、直後、澪の口から真っ赤な鮮血がどっと溢れ出した。椎堂の腕を濡らす澪の吐いた血はあまりに赤くて、そして温かかった。

 苦しそうに顔を歪め、その度に何度も吐血する。真っ白な顔に滴る赤い血が、澪の「死」を連想させ、椎堂は震える手で背中を摩ったあと、涙と血で濡れた携帯で必死に119番を押す。たった3つのボタンを押すのに何度も間違えそうになりながら電話をかけ、場所と状態、最後に自分が医師である事を告げて、敬愛会まで運んでくれるようにお願いした。

「今救急車を呼んだから……、すぐに来るからもう少し、我慢してくれ……」

 吐いた血が喉に詰まらないように一度横向きに抱き、澪の口へと指をさし込んで残りの血を吐き出させ、気道を確保する。椎堂が澪の頭を胸に抱き込むと、澪の腕が僅かに動いて何もない宙を掴み、力を失って地面に落ちた。
 眠るように澪の瞳は閉じていて、椎堂の声にももう反応することはなかった。どんどん冷たくなっていく澪の体温を感じて、椎堂はその温もりが消えないように自身のコートを脱いで澪を包み、強く抱きしめる。

「目を、……目を開けてくれ……お願いだ……」

 椎堂の悲痛な声が夜の公園に響き、風にかき消される。遠くでサイレンが鳴っているのを耳にしながら、椎堂は合わさらない歯を止めるように噛みしめた。