俺の男に手を出すな 3-3


 

  玖珂はすぐには言葉を返さなかった。
 吸っている煙草がジリジリと短くなり、まるでそれが玖珂の心の余裕を削る導火線のように見えて、晶はただ黙ってその様子を見ている事しか出来ないでいた。

 玖珂の家は母子家庭で、その母親も玖珂が大学の時に亡くなっており、それからは、まだ中学生だった弟を養う為に、ホストになったのだと昔聞いた事がある。
 同じ年頃のせいか、晶を見ていると弟のように感じると可愛がってくれている玖珂は、とても弟おもいで、弟の話題を振ればいつも嬉しそうに話してくれる。そんな玖珂を見て、兄弟のいない晶は何度『こんな兄がいたらな……』と羨ましく思ったかわからないほどである。

 しかし、今こうして何があったのか玖珂はひどく辛そうで、晶は次にくる言葉を考えて酷く乾く喉に、唾をごくりと飲み込んだ。
 眉根を僅かに寄せた玖珂が視線を落としたまま静かに呟く。

「もう……長くないんだ……」
「……え、……?」
――……なに……??

 晶はその意味を理解するのに暫く時間を要した。想像していたどんな言葉より残酷な現実が玖珂の口から続けられる。

「弟は先月から入院していてね……。この前、医者から話をされたんだが……手術が難しい状態らしい。……癌なんだ……」
「……そ、んな……。で、でも……、今は抗がん剤とかも色々あって、手術が無理でも、他に治療法があるんじゃないんですか」
「……そうだな、もっと早く気付いていれば選ぶ方法もあったのかもしれない」

 玖珂は悔しそうにそう言うとかいつまんで説明する。何ヶ月か前から体調が悪かったらしいが、不規則な生活と寝不足のせいだと本人が言い張って病院へ行かなかったらしい。そのうち微熱が続くようになってやっと近所の診療所へ行ったら、すぐに大きな病院へ行くように言われ、そこで初めて事の重大さに気付いたと言う事だった。

「一応今から抗がん剤を投与して、手術ができる状態に持っていこうとはしているんだが……残念ながら効果はあまり期待できないそうだ……。このまま手術も出来ないとなると……弟はもう、……」
「…………」

 何と言葉を返せばいいのか、どれも違う気がして晶は言葉を飲みこんだ。晶の一つ下という事はまだ25歳である。人生の幕を閉じていい歳では決してない。
 予想の範囲を超えていた告白に晶は戸惑いを隠せなかった。

 黙り込んだ玖珂が手の平を目元に翳す。大きな手で隠された目元を見なくてもわかる。その指の隙間から一滴の涙が頬を伝うのを見ると、晶も鼻の奥がつんとなった。晶は堪えるように奥歯を噛みしめ、ぎりっと音を立てた。

 先月から入院しているという事は、もうだいぶ前から玖珂はこの事を知っていて色々な辛さを抱えつつ過ごしていたのだろう。しかし、一度足りとそんな素振りを見せる事はなかった。
 玖珂は決して弱音を吐くような人間ではない。いつだって誰よりも頼りがいがあって、どんなトラブルが起きても冷静に対処してくれて、何度救われたか数え切れないほどだ。

 そんな玖珂が、ここまで追い詰められている。その現実が怖かった。一人で背負っているその受け入れがたい事実はどこまで重くのしかかっているのか晶には想像もつかなかった。否、想像したくないと言った方が正しいのかもしれない。
 堪えきれずに溢れたその一筋の涙が玖珂の苦痛を雄弁に語る。

「……っ、……すまない。……みっともない所を見せたな……」

 晶は静かに首を振ると玖珂にハンカチを差しだした。まだ目元が潤んではいたが、玖珂はそれを晶から借りたハンカチで押さえると目を閉じて一度深く息を吸う。気持ちを切り替えるために、玖珂はグラスを手に取り、残った酒を一気に煽った。

 空になったグラスの中で氷がカランと音を立てる。
少し落ち着いた玖珂が仕切り直して言葉を続けた。

「それで……、晶に頼みがあるんだ。弟を一週間でいいから、ホストとして店に入れてやってくれないか……」
「え?それってどういう……」
「弟は、澪と言うんだが。澪は、SILVERGLASSのホストだったんだ……」
「え!?澪って……。あの雑誌とかに載ってるNo1の?」

 玖珂は黙って頷く。

「そうだったんですか……。全然気付かなかった……」
「まぁ、SILVERGLASSはライバル店だからな……。あまり大きな声で言える事じゃないんだが」

 そう言って玖珂は少し苦笑する。
『SILVERGLASS』というのはホストなら誰でも知っている有名な店で店舗は首都圏にいくつもある。本店は歌舞伎町にあり、そして、澪というのはその本店の『SILVERGLASS』のNo1として名が知れているのだ。雑誌等でカリスマホストの紹介なんかがあると、必ず澪の特集が組まれていて晶も何度も読んだ事がある。

 まさかSILVERGLASSの澪が玖珂の弟だったとは、驚きの事実である。
雑誌で顔を見る限り、端正な顔をした美青年という印象だった。言われてみれば目元などは玖珂に似ている気がする。

「澪の病気が発覚してすぐ、店をクビになってね……。No1だからといっても一銭も稼げないホストを雇ったままにしておくわけにいかなかったんだろうが……」
「…………」
「本人は切り捨てられたって落ち込んでいる……。それでもこの世界を澪は未だに忘れられないんだ……。最期にもう一度だけ、戻らせてやりたくてね……」

 玖珂の言う言葉の意味は、晶にはよくわかった。華やかなこの世界に一度でも身を置いた者なら誰もがそうであるように、澪もまた、恋しいのだ。No1ホストとして頂点に立っていたのなら尚更である。志半ばにして突然突き落とされた闇に光を求めてしまう気持ちは、痛いほどわかる。きっと自分が澪の立場になっても同じ事を願ってしまうだろう事も……。

「玖珂先輩。その話し、俺が責任を持って受けます。ただ……、弟さんにはその事は……?」
「いや、まだ話していないんだ。本人には癌である事も言ってなくてね……。退院したらまた別の店を探して復帰するつもりでいる……」
「……そうですか」
「でも、ずっと隠し通せるような事ではないからな……。折を見て、言うつもりだ。晶、こんな個人的な事を頼んで本当にすまないな……」

 そう言って頭を下げる玖珂はホストでもオーナーでもなく、たった一人の弟を想う兄の姿だった。

「玖珂先輩。そんな、顔をあげて下さいよ。俺、寧ろ少しでも役に立てて嬉しいくらいっすよ」
「有難う、晶。その時は弟の事、宜しく頼む……」

 その後飲んだ酒は苦みを伴って晶と玖珂の胸に残り続ける。何度目かの酒をつぎ足しても、決して酔うことが出来なかった。

「今度、例の件の前に一度弟さんの見舞いに行かせてもらおうかな……」
「澪の所に?……そうだな。世話になる前に一度澪からも挨拶をさせておきたいしな……。晶が時間がとれる時で構わないから、一緒に行ってくれるか?」
「はい、勿論。……ところで、何処の病院に入院してるんですか?」
「病院は近い方が俺も顔を出しやすいから、敬愛会総合病院に入院させているんだ」
「え!……敬愛会……ですか?」
「ん?どうかしたか?」
「あぁ……、いや。俺もこの前行ったから偶然だなーって思って」
「そうだったな。あそこは結構いい医者が多いと噂に聞いている。そうだ、晶。もう腕の怪我はすっかりいいのか?」

 心配そうに晶を見る玖珂を安心させるように、晶は袖をまくって力を入れてみせる。

「もうバッチリっすよ。傷ももう目立たないし、前より調子いいぐらいです」
「それは良かった。腕が良い医者が多いというのは、本当なのかもな」
「そうっすね」

 晶も笑い、玖珂も安心したように微笑んで目を細める。

「じゃぁ、見舞いの件は、今度時間が出来たら俺に連絡をくれ」
「はい、了解です。……あの、玖珂先輩」
「うん?」
「俺で良ければ、いつでも話聞くんで……。あまり一人で無理しちゃダメっすよ?」
「俺の心配をしてくれるのか?晶は本当に優しいな。……有難う。頼りにさせてもらうよ」

 晶は敬愛会の名前をきいて内心驚いていた。澪の事を佐伯はもしかしたら知っているかも知れない。近いうちに聞いてみようと思いながら、晶は目の前の酒を継ぎ足すとストレートで一気にあけた。
 
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 
 翌日の朝、院内の回診用カルテを脇に挟んで椎堂は入院棟の廊下を歩いていた。
 三階四階と回って後は五階だけである。小児病棟の前を通りかかった時、病室から走り出てきた子供が足下に勢いよくぶつかってきた。
 びっくりして足下を見ると、小さな女の子が椎堂に隠れるようにしてズボンの裾をぎゅっと掴む。直後に出てきた小児科医はどうやら研修医のようである。

「ほら、ちゃんと飲まないとだめだろ」

 困ったように眉を寄せて病室から追ってきた研修医が椎堂に気付き気まずそうに頭を掻く。

「どうかしたのかな?」
「あ、いえ……すみません。薬飲むの嫌がっちゃってどうしたらいいか。全然言う事聞いてくれないんですよ」
「なるほどね、そういう事か……」

 椎堂は足下に隠れる女の子を抱き上げると、「この子のベッドは?」と尋ねる。「窓際の右です」と聞くとそこまで運んでそっとベッドへと女の子を座らせ、同じ目線になるように腰を落とした。

「お薬飲むの嫌いなのかな?」
「嫌い!だって、苦いもん。のみたくない」
「そうだね。実は先生も苦いのは嫌いなんだ」
「えー?先生はもう大人の人だから苦くてもへーきなんじゃないの??」
「大人だけど、苦いのは平気じゃないよ?でも先生なら頑張って飲むかな」
「……どうして?」
「早く良くなってお友達と遊びたいからね」
「…………」

 椎堂はベッドの頭上に書いてある子供の名前をチラリとみてから言葉を続ける。

「志穂ちゃんがお友達と遊んだり、学校に行ったり早く出来るようにお手伝いするのがさっきの先生のお仕事なんだよ。別に意地悪で言ってるわけじゃないんだ」
「…………うん」
「志穂ちゃんも、早く学校に行きたいよね?」
「うん。早く行きたい……」
「じゃぁ、ちょっとだけ頑張ってお薬飲んでみようか。さっきの先生も志穂ちゃんが頑張ってくれたらすごく喜ぶと思うな~」
「……そうかな」
「勿論、志穂ちゃんみたいな可愛い女の子が頑張ってくれたら、先生だって嬉しいよ」

 いくら小さくてもやはり女の子である。椎堂に『可愛い』と言われて照れたようにパジャマの裾を弄って俯く横顔は少し赤くなっていた。薬を飲むのが苦手な子供はかなり多い。かといって注射で投薬というのもそれはそれで怖がってしまう。無理矢理口に入れて飲ませたとしても、大抵は吐き出してしまうので、自分の意思で飲んで貰うのが一番なのだ。
 椎堂が顔をのぞき込むと、観念したように女の子が小さく呟く。

「……わかった。じゃぁ志穂頑張ってお薬のむ……」
「うんうん、偉いね。先生も頑張って後で苦いお薬ちゃんと飲むよ。嫌だ~って言ってたら志穂ちゃんに笑われちゃうからね」
「そうだよ。先生もちゃんと頑張らないとだめなんだからね」
「わかりました。ちゃんと頑張って飲むって約束するよ」

 椎堂が指切りをするように小指を目の前に差し出すと、女の子も笑って小指を差し出す。

「はい、じゃぁ約束だよ」

 小さな手と指切りをして、椎堂は腰を上げた。最後に何度か優しく頭を撫でてベッドから離れると、病室の真ん中頃で様子を見ていた研修医の前で足を止める。

「あの……有難うございました。助かりました」
「いえいえ、子供は結構デリケートだから大変だろうけど、頑張って……」
「はい」

 椎堂は頭を下げる研修医に微笑みかける。「お薬がちゃんと飲めたら、沢山褒めてあげて下さい」最後にそう言い残して病室を出る。昔研修医時代に自分も小児科にいた事があるので、その大変さはよくわかっていた。  
 
 
 廊下を再びゆっくり歩いていると、ふと佐伯から医局に顔を出すように言われていた事を思い出した。昨日の晩に佐伯からかかってきた電話で、椎堂が医者を辞めたいと言った事に関して、予想通り佐伯は突き放した言葉しか返してこなかった。
 それが冷たいと口では言ったものの佐伯の内心はそうではない事もよくわかっている。付き合っていた時から、あぁいう物言いをしたからと言って心配していないわけではないのだ。しかし、それも恋人同士だった頃の話だから、今は本当に呆れられているのかもしれない……。
 
 
 
 椎堂は途中で薬剤室に寄ると、詰めていた看護師や薬剤師がいないのを見計らって薬の引き出しに手をかけた。自己診療ではなく、ちゃんと親しくしている医師に処方箋を書いて貰っているのでやましい事は何もあるわけではないが、理由を聞かれたりすると面倒だからである。
 ずらりと並ぶ細かな文字の貼ってある引き出しを順に見ていると、椎堂の背後から声がかかった。心の中で見つかった事に落胆する。

「あら?椎堂先生どうかなさいました?」
「あぁ、すまないね。ちょっと薬を貰おうと思って」
「仰って頂ければご用意しておきましたのに」
「いや、いいんだ。丁度こっちに来る用事があったから」
「そうですか」
「じゃぁ、これ貰っていくからね。処方箋はちゃんと処理しておいたから」
「わかりました」

 椎堂は理由を聞かれる前に素早く薬剤室を出て、手にした薬をポケットにいれる。もときた廊下を歩いて自分の医局まで足早に戻った。
 
 
 
 皆巡回でまだ出払っていて医局には誰の姿もない。椎堂は机の上の湯飲みを手にとると、流しで水をくんできて戻り椅子に腰掛ける。まだ一日が始まったばかりだというのに、ほとんど眠れない夜が続いているせいか、すでに身体が疲労を訴えている。
 重い身体は気を抜くと沈んでいくようでもある。
 今しがた貰ってきた薬を一錠取り出し口に含むと、湯飲みの水で一気に流し込み息を吐いた。
 何も入っていない胃が抵抗するように鈍い痛みを伝えてくる。椎堂は宥めるように片手をあてて摩りながら先程の女の子との約束を思い出し、小さく笑った。薬を飲ませるための嘘だと研修医は思っただろうが、実際の所こうして本当に薬を飲んでいるのだから洒落になったものじゃない。

 時計を見るとちょうど10時半を過ぎた所であった。済ませた階のカルテをしまい、代わりに五階の患者のカルテを持つと椎堂は再び腰を上げて医局を後にした。


 階段をあがって五階につくと、面会時間がすでに始まっているせいか廊下には人が結構おり、軽傷の患者が談話室で楽しそうに話しているのが視界に入ってくる。そのままナースステーションを抜けて椎堂は503号室の前で足を止めた。
この部屋で回診は取りあえず終了する。最後に回した503号室の入り口には患者の名前が記されていた。

――玖珂 澪

 その名前をちらりとみると椎堂は開かれている扉から病室に足を踏み入れた。部屋は4人部屋ではあるがベッドにいるのは澪だけで、どうやら他の患者は出ているようである。
 窓の外をつまらなそうに見ている澪の後ろ姿に、椎堂は声をかけるのを一瞬躊躇った。

 薄いグリーンのカーテンの隙間からのぞく澪は、まだ発症して間もないためか顔色は良くないものの病人らしくはない。腕に刺された薬剤の点滴がとても不似合いに見えた。

「玖珂くん、おはよう」

 椎堂が微笑んで声をかけると、不機嫌な表情のままで澪が椎堂の方へ振り向く。入院してきた日に一度だけ私服姿をみたことがある。その時は髪をセットしていたが今は長い前髪を無造作に前に垂らしている。もともとは癖のない髪質のようで、垂らした前髪が窓から差し込む陽に透けてきらきらと輝いている。その奥にある瞳は、冷たく沈んでいた。

「どうだい?具合は」
「別に、変わんないけど」

 もう自分を見てすらいない澪の側により、検温の結果等をチェックする。

「熱も下がったみたいだし、落ち着いているみたいだね」
「っつーか、元気になりようがないでしょ。こんな所に一日中いたらさ」
「……よくなるまでの間だから。……一緒に頑張ろう」

――よくなるまでの間?――それはいつ?……。
 椎堂は自分の言った言葉の問いに答えがないのを知っている。もともと嘘が上手な方ではない椎堂は澪に悟られないようにするためにいつも言葉を選ぶのだが、言った側からその言葉の薄っぺらさに居たたまれない気分になる。それを誤魔化すように、笑顔を作るしかなかった。
 昨日佐伯がやってくれた胃内視鏡の結果を見る限り、澪の病状が日に日に進行している。

「診察をするから、じゃぁ横になってくれるかな」

 仕切のカーテンを閉め、椎堂がベッドの脇に立つと澪は渋々と言った感じでベッドに横になった。
椎堂が首にかけた聴診器を掌であたため、澪の胸へとあてようとした時、澪と一瞬視線が交わる。笑顔を消した澪の瞳が自分を責めているように見えて、椎堂はすぐに視線を逸らした。

「ちょっと冷たいかもしれないけど、我慢してくれな」

 胸に聴診器をあてて耳を澄ますと、体内の様々な音が耳に飛び込んでくる。暫く発熱が続いたので、肺の音も注意して聞き取っていく。気になる目立った雑音はなかったが、やはり胃の蠕動音がかなり低下している。着実に澪の体内では症状が進んでいるのだ。聴診器ではわかりえないその内部を想像し、椎堂はそっと目を閉じた。

 こうして目の前で症状が進んでいくのに何も出来ない自分はいったい何をやっているのだろうという思いに駆られ焦燥が募る。指先で触れている澪の胸は息づかいに微かに上下し温かい。
 この温もりがなくなっていくのを見続ける事が自分の仕事なのだとしたら……、そんなものは今すぐに捨ててしまいたくなった。
聴診器をあてたまま目を閉じている椎堂に澪が訝しげな表情をした。

「ねぇ、何?まだなわけ?寒いんだけど」
「あ、……あぁ。すまない。もうパジャマを着てくれていいよ」

 椎堂は澪の声で我に返った。パジャマのボタンを閉じていく澪を待って仕切のカーテンを開けると一気に眩しい日差しがさし込む。その光はこんな場所でも力強くて、真っ白な病室をより白く染め上げた。
 椎堂は窓の方へ目を向けると、中庭へと視線を動かす。

「今日はいい天気だね……。玖珂くんも少し中庭で散歩でもするといい」
「……しない」
「どうしてだい?散歩なんて年寄りみたいとか?」

 笑って返す椎堂に澪はふっと寂しそうな表情をした。何かいけない事でも言ったのだろうかと椎堂の胸がチクリとする。澪は日差しを一度少し見上げるとすぐに俯き、小さく呟いた。

「昼間は……、慣れてないから。夜の方がいい……」
「……そっか。……そう言えば玖珂くんの職業は夜がメインだからね」

 入院の際の書類に患者の職業を書く場所がある。どういった環境で発症したのか、生活のサイクルなども重要な情報だからである。澪は飲食業と記していたが、後で看護師達に聞くと雑誌等にも載っている有名なホストである事がわかった。先日家族に話をした際にもはっきりと聞く事が出来たので、椎堂もこうして知っているのである。

「なぁ」
「何かな?」
「俺、まだ退院するの先になんの?それとも……、ずっと退院できないとか?」
「……そんな事はないよ。でも……、退院はまだちょっと先になるかな……」
「まぁ……、医者が本当の事言うわけないか……」
「酷いな。嘘は言ってないよ」

 そう言って椎堂はまた曖昧な笑みを浮かべる。
 薄々感じている自分の病状に疑いをもつ患者は決して珍しくはない。今はネットで何でも調べられるので、時には医者顔負けの知識を仕入れて問いただす患者もいるほどだ。椎堂もそういう状況は沢山見てきた。今までならそういう患者にもそれなりに誤魔化してくる事ができたはずなのに、何故か澪にだけは誤魔化しの言葉を言うたびに胸が痛むのだった。

 再び窓の外を眺める澪の横顔に椎堂は無言で謝罪を繰り返す。「ごめんね」と何度も。そしてその謝罪が何ひとつ現実を変える力を持っていないのをその度に思い知る。

「それじゃぁ……、また明日来るからね」
 何も返ってこない背中に声をかけ、澪のベッドを離れようとしたその時。一瞬目前が暗転し、椎堂の視界がぐらりと揺れた。

「……、っ…………」

 咄嗟に隣にあったベッドの縁を掴んで何とか身体は支えたものの、そのまま床に膝を折る形でしゃがみ込む。手にしていたカルテやペンが勢いよく床に落下して辺りに散らばり、騒がしい音を発てた。

 澪が驚いて椎堂を振り返り、焦ったように声をかける。

「ちょっ……おい!大丈夫かよ」

 ベッドから腕を伸ばした澪の手が、縁を掴んだ椎堂の手を支えるように重ねられる。
――……あっ。
 椎堂の胸がドクンと跳ねる。その瞬間、澪は少し優しげな顔を見せた。すぐに治まった目眩を取り繕うようにして椎堂は澪の手から離れ、落ちた物を拾い上げる。

「あ、有難う……。すまない……。もう、平気だから」
「……顔、真っ青だぜ?」
「……ちょっと寝不足なんだ……。うるさくして、ごめんな……」
「別に心配してないけどな……。俺、医者じゃねぇし」
「……そう、だよね」

 椎堂は膝を払って立ち上がるとカルテを整えた。目眩は何とか治まったが、酷く気分が悪い。こうして立っているだけで精一杯である。

「じゃぁ、行くね……」
「…………」

 澪の病室を出て廊下に出ると、椎堂は詰めていた息を吐いて廊下の壁に背を預けた。――本当に情けない――こんなにも体力が落ちている事にさえ気付けないなんて。

 しかし、それより咄嗟に差し出された澪の手の温かさが椎堂を戸惑わせていた。すぐにまたいつものように冷たい態度に戻ったけれど、あの一瞬、確かに澪は優しげな顔を見せた。自分に向けられた澪の初めて見る優しい視線……。今は不安であんな無愛想な物言いをしてしまうのだろう。あの一瞬が澪の本来の素顔なのかもしれない……。その表情は脳裏に焼き付き椎堂の胸を締め付けた。