俺の男に手を出すな 3-9


 

 膝に乗せていた書類がバサリと音を立てて床に落ちた音で、椎堂は自分が眠っていた事に気付いて薄く目を開いた。昨夜、澪と別れてからは特に急を要する患者はおらず、待機をしている机の前でいつしか眠っていたようである。
 外して置いていた眼鏡をかけて時計を見ると6時を少し過ぎた所であった。
 椎堂は落ちた書類を拾って机に戻すと昨日の事を思い返していた。

――あの後、玖珂くんは眠れただろうか……。

 誘っても断わられるかと思っていたが澪は椎堂の誘いを断らなかった。二人で見た夜の景色を前に、ほんのわずかだが澪が心を開いてくれた気がする。口数の少ない澪が自分に向けて話してくれた幾つかの言葉、それを忘れないように一つずつ思い出して椎堂は心に刻んでいく。僅かな時間だった。だけど澪と同じ時間を共有できた事が嬉しかった。

 澪の目に映っているのは、医者である自分、それだけなのもわかっている。だけど、差し出した手に縋ってきた澪を抱きしめた瞬間、心から愛しいと思った。澪から伝わる心臓の音も、腕に伝わる体温も、彼の吐く息でさえ、かけがえのない物に思えた。澪に出会ってから、自分がまだこんなに誰かを愛せるという事に驚くばかりだ。たとえ気持ちを告げる事が許されないとしても……。
 
 
 
 
 椎堂の横顔を朝日が照らし、窓の方に目を向ければ徐々に明るみ始めた空の境界線がぼんやり見える。少し肌寒く感じ、椅子にかけてある白衣に手を伸ばして羽織る。臆病でズルい自分の灰色に染まる部分、それを浄化してくれるたったひとつの方法、それは目の前の真っ白な白衣を羽織る事だった。
 主治医でいる間だけは側に居るのが許される、そんな気がするのだ。

 久しぶりに眠れたせいか今日はいくらか体調が良い。寝床が変わっただけで眠れない自分が、ここ最近で一番ぐっすり眠れたのが机の上だったというのが皮肉な物である。椎堂は肩を落として俯くとそっと息を吐いた。どんなに体調が回復しても、胸の奥のつかえが取れる事は決してない。

 いつだってそれを飲み込んで、吐き出す場所は何処にもないのだ。澱のように溜まっていくだけのそれは、もう椎堂の心の容量をとうに超えて溢れだしている。

 窓際に寄って鍵を開け、外の空気を入れるために窓ガラスを開ける。ひんやりとした風が吹き抜け、椎堂の髪を梳いていく。太陽が昇れば、この冷たい空気も少しは温むのだろう。
 こうして朝が来て、また夜になって……そして……、時間はどんどん過ぎて行ってしまう。

 眠っている間だけは、全ての現実から解き放たれる。考えなければいけない事も、逃げてはいけない事柄からも……。だけど、目が覚めるとやはり現実は何も変わっていなくて、逃げた分だけ重くなってのしかかってくるのだ。

 椎堂は何も変わらない窓の外を眺めて、このまま時間が止まればいいのにと思っていた。
 昨夜澪に会ってから何度も脳裏に浮かぶ『手術』という選択肢。そして、佐伯の言葉を思い出す。

――これが、別の患者でも、お前は同じ選択をするのか?

「……玖珂くん……。僕は……」

 誰も居ない部屋で彼の名を口にし、答えの返ってこない空間に必死で何かをみつけようと探し続ける。部屋の中も、窓から見える外の景色も、静かだった。自分の呼吸音だけが微かに聞こえ、時間が止まらないことを思い知らされる。


 椎堂は窓を閉め、顔を洗うために洗面所へ向かった。小さな洗面台の前の鏡に自分の顔が写る。真実を誤魔化すために無理に作る笑顔にももう慣れてしまった。こんな事をいつまで続ければいいのだろう。
 顔を洗い、ポケットからハンカチを取り出した所で椎堂は逆のポケットにいつもいれてある物がなくなっているのに気付いた。

 昔からずっとお守り代わりに持っている物である。医者になって初めて主治医をした患者。患者は小学生の女児だった。今の澪と同じく、手術が難しい状態だったのを思い出す。成功率の低い手術……、だけど椎堂は完治の可能性がある手術を選択したのだ。執刀医は佐伯で、結果手術は成功した。術後の経過も良く、退院日が決まった頃、その女の子からお礼にと貰ったチューリップのマスコット。

「しどう先生ありがとう。わたし、また学校に行けるね!」

 嬉しそうにそう言った彼女の笑顔を見た時、本当に嬉しかった。そんな彼女が手作りで作ってくれたそれを今でも持ち歩いていたのだ。この先、迷う事があっても、それをみる度に彼女の笑顔を思い出せるように……。

――何処かで落とした?

 いつからないのかも覚えていない。昨日からずっと院内にいるので、後で落とし物として出てくるかもしれない。そして、椎堂はその意味に気付くと一人力なく笑った。

 朝の身支度を整え、自分で入れてきた熱いコーヒーを飲みながら再び机へ向かう。今日のスケジュールを確認する為にPCの電源を入れた。古い型のPCがノロノロと起動し、何度か画面が点滅した後デスクトップが表示される。椎堂はフォルダを開いてファイルを呼び出し、マウスをスクロールさせた。

 朝の回診から始まり、午前中の外来。それが終わって夕方までは時間があるが、それも何もなかったらの話しである。そして、夕方……。椎堂はスクロールしていたマウスをカチッとクリックした。
 夕方に一件予定が入っている。澪の家族との面談だった。

 今後の治療で使う予定の新薬の抗がん剤はまだ症例が多くない。今までで一番強いそれを使うに辺り、本人に告知をせずに使うのはもう不可能だと考えていた。副作用も今までの物とは比べものにならないのは目に見えている。告知をして、本人の意思でそれを納得して治療を受けて貰わない限り難しいだろう。

 効果があれば澪の癌はかなり進行が抑えられ、残された時間も比例して増える。
そう……時間が増える、それだけだった。改めて確認した現実に椎堂は深い溜息をつき目を閉じる。


 そっと目を開けると、先程まで真っ白に見えた白衣が袖口からどんどん灰色に染まってくる。浸食してくる濁った灰色は指先へ移り、腕を染め椎堂の着ているYシャツを染め、首元まで辿り着く。喉が締まり、椎堂は思わず息を細く吸い込んだ。

 椎堂の中に、澪へと自分が言った言葉が繰り返し浮かぶ。――君の笑顔を見せて欲しい――澪はその増えた時間で笑ってくれるのだろうか……。伸びていった線路が到着するのは、結局同じ終着駅なのではないか。
 椎堂は進んできた道を振り返る。後ろも前も、その先も、何も見えなかった。昨夜、思わず抱きしめた澪の身体の感触が今も腕に残っている。何も知らないまま、澪はただ終着駅へと向かうだけ……。

「…………」

 澪は、こんな自分に『何故優しくするのか』と聞いてきた。真逆の自分に自嘲的な笑みが浮かぶ。
 澪の未来を消そうとしているのは椎堂だと知っても尚、澪は同じ言葉を言ってくれただろうか。

 椎堂は灰色に染まった指を開き、佐伯が言っていた『その先にある物』を探るように目の前へと差し出した。指先に触れる僅かな光、ずっとそこにあった光は椎堂が触れるまで、ただ黙ってそこに存在していた。
 その光は頼りなげに見えたが、椎堂が触れるとまっすぐに道を照らし出す。

自分の立つ場所、足下にはしっかりとした道がある。そしてもっと遠くへと視線を移すとその先には……出会った日のままの澪の姿があった。今のままではどんなに腕を伸ばしても届かない場所に……。
 
 
 
 
 椎堂は、ゆっくり息を吐くとPCの画面を真っ直ぐ見る。並んでいるいくつものフォルダーの中には椎堂が今まで出会ってきた患者の数だけカルテが入っている。重なっていくファイル、その一番上には澪の名前があった。

――玖珂くん……僕はやっぱり……まだ医者を辞められそうもない……。

 面談前に話す内容を纏めたテキストを開く。癌の深達度と病巣の範囲の説明、進行具合。今後の治療方針と本人への告知。新薬の抗がん剤の副作用と使用確認。

 カーソルをひとつずらし、次の欄へと移行する。
 震える指先をキーボードの上へと乗せる。視界が滲み、キーボードの文字が揺れる。手の甲へ滴が落下して肌をつーっと伝って机にポタリと落ちた。

――選ぶのは……僕じゃない……。

 椎堂は白衣の袖で涙を拭うと指を滑らせる。テキストの最後の行に迷うことなく文字が打ち込まれていく。
『手術の提案と術式の説明』保存ボタンを最後にクリックしてマウスから静かに手を離す。椎堂は嗚咽を漏らして泣いた。
 
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 
 朝になって目が覚めた澪は、少しずつ覚醒する中日の光が隙間から射し込んでくるのに眩しそうに目を細めた。昨日あれからすぐに眠ってしまったらしい自分は、今まで一度も目を覚ますことなく深い眠りについていたらしい。夢をみた記憶さえもなかった。どうやら部屋の中で一番遅くに目を覚ましたようで時計をみるともう7時近かった。

 いつもならとっくに検温をしに看護師が来ているはずだが来た様子もない。
 澪は身体を起こすとカーテンに手をかけて開く。部屋を見渡すと、隣は昨夜運ばれていったまま戻ってきておらず、入り口の側の一人は廊下にいるのが見えた。澪は一度のびをして肩を回し、ベッドから降りる。部屋についている洗面台に向かおうとした所で、丁度廊下を通った看護師に声をかけられた。

「あら、おはようございます。ゆっくりお休みになられました?」
「……はい」
「椎堂先生から目が覚めるまで起こさないであげて欲しいと伝言があったんですよ。検温と問診、今やっちゃいましょうか」

 話しながら病室へやってきた看護師は一通りの事を済ませると、忙しそうに病室を出て行った。朝起こされなかったのは椎堂が言ってくれたおかげらしい。

 検温の結果、熱は平熱で今の所吐き気もなかった。今の点滴は確か3日間で終わると聞いていたので、今夜あたり終わるのだろう。やっと解放されることに安堵しつつ、澪は歯ブラシを持つと部屋にある洗面台へ再び向かった。

 窓際の中頃に設置されている洗面台で歯ブラシを咥えながら窓の外を眺める。昨日雨が降ったせいなのか、何本か見える中庭の木々の緑が葉を洗われて陽の光を受け、とても鮮やかに見える。夜の幻想的な景色と対照的な『生』を感じる外の風景は自分には無関係にも思えたが、何となく椎堂を思い出させるような気がした。

 顔を洗い、タオルを持ってくるのを忘れたのでベッドへ戻って取り出そうと屈んだ所で、足下に見慣れない物が落ちているのに気付いた。何だろうと思って拾い上げてみると、それは何かのボタンのようだった。
 しかし澪の着ているパジャマから落ちたわけではない。そのボタンには一本の組紐が繋がっており、その先にはフエルトで作ったようなチューリップのマスコットがついていたのだ。

――誰かの落とし物?

 小児病棟でもないここに落ちているにはひどく場違いな気がする。澪が裏を返すと何か文字が書いてある。滲んでいて読みづらいが、文字は『しどうせんせいへ』と書いてあるようだ。
 昨夜椎堂が来た際に落としていったのだろう。回診の時にでも本人に渡そうと思い、取りあえず澪は財布などを入れてある引き出しにそれを入れておいた。

 気分はさほど悪いわけでもなかったが、かといって相変わらず食欲はわかず朝食の時間が近づくと澪はまた部屋を抜け出そうとしていた。30分も何処かで時間を潰せばどうにか避けることが出来る。談話室がどこかで雑誌でも読んでいようとまだ手を付けていない雑誌を一冊手に取り病室の入り口へと向かう。

 病室を出ようとした所に、ちょうど回診にきた椎堂とばったり鉢合わせた。昨夜のこともあり、少し会わせずらい顔を隠すように澪は俯く。長くなった前髪が顔を隠し、澪は自分の前髪が長めである事をほんの少し良かったと思った。

 しかし、おかしい。いつもはもっと遅い時間に回診に来るはずなのに、椎堂はどういうわけか今日はとても早い時間だった。俯いたまま通り抜けようとすると椎堂はその進行方向を遮るようにして立ち、澪を見上げた。

「玖珂くん、おはよう。昨日はあれからちゃんと眠れたかな?」
「……一応」

 仕方なく足を止めて返事を返す。目の前の椎堂を見ると、何故か泣いた後のように目元が少し赤くなっている。椎堂は澪の視線に気付くと目を隠すように眼鏡を押し上げ、慌てたように下を向いた。何かあったのか聞こうかと一瞬思ったが、その前に椎堂が病室を覗き込み話を切り出したので尋ねるタイミングを失う。

「あれ?朝ご飯はもう済んだのかな?」
「…………まだだけど」
「ちゃんと食べないと、ね?」
 出ていこうとしていた澪の背中をやや強引に部屋に押し込むと、椎堂は少し意地悪な笑みを浮かべた。
「逃げるのは禁止だよ?」

 澪は溜息をつき、仕方なくベッドに逆戻りする。椎堂に促されてパジャマの前を開く。毎日繰り返される椎堂の診察にはもう慣れているはずだった。

 しかし、いつものようにパジャマの上を開いて椎堂の指が肌に触れる瞬間、指先から伝わる熱。その椎堂の熱が触れた部分にいつまでも残るような気がした。澪の胸の音を聞く間、椎堂は癖なのかいつも目を閉じる。まるで音楽か何かを聴いているような優しげなその表情に、澪は視線を向ける。

 伏せた長い睫、色の白い肌に僅かに色づく薄い唇。改めて観察するとかなり整った顔立ちなのがわかる。椎堂が聴診を終え、目を開ける前に澪は視線を逸らした。

 続けて触診をする椎堂の指先をみてフと気付く。そう……椎堂の触診は愛撫を連想させるのだ。事務的な動きとは別の何か……。こんな時に自分はいったい何を馬鹿な事を想像しているのかと澪は自分で呆れかえった。きっと昨夜椎堂に急に抱きしめられたりしたからに違いない。

 診察を終えた後、椎堂は「大丈夫だね」と言っていつもの笑顔を向けた。そしてその後、病室を出てご丁寧にも朝食のトレイを勝手に持ってくるとベッドにセットしたテーブルへそれを置いた。
さぁ、どうぞと言わんばかりに椎堂が見ているのに観念して、澪は渋々箸を手に取る。

「……何でいつまでも見てんだよ」
「ちゃんと食べるかどうかの確認をしておかないとね。無理はしなくて良いけど、何か口に出来そうなら頑張ってみよう」
「…………」

 今朝はご飯でなくパンが出されていた。吐き気が酷かった時は流動食に近い物が強制的に出されたが、昨日からは普通の食事とどちらがいいか選択できたのだ。どっちも食べたくはないが、普通の食事の方がまだマシだったのでそちらを選んだ。

 今日のメニューは耳を切り落としたパンが二枚に無糖のヨーグルト、鶏のささみの洋風あえ物に細かく刻んだ野菜のサラダ。サラダにはオレンジ色のドレッシングが少しかかっている。そして子供向けのようなプリンが一個ついていた。どれもいまいちだが、米よりパンの方が好きなので、そこだけはまぁ悪くなかった。
 澪は箸であえ物を少しつまんで椎堂の見ている前で口に運ぶ。まずくもなかったが、美味しいわけでもない。

「ちゃんと食ってるだろ……いいからあっち行けよ」

 椎堂はそんな澪を見て満足そうに微笑んだ。澪は相変わらずの態度だったが、心なしか言葉に刺がなくなったような気がしたのだ。「じゃぁ、僕は行くから」そう言って椎堂が病室をでようとした時、澪が椎堂の背中に声をかける。

「あ……ちょっと」
「……何かな?」
「…………」
「……?」
「……やっぱ、いい……」
「気になっちゃうだろう?何かな?聞かせて欲しいな」
「……昨日」
「うん?」
「……昨日は……ありがとな」

 それだけ言うと澪は椎堂から目を少し逸らした。澪の視界の隅に椎堂が嬉しそうに微笑むのがうつる。澪はそれ以外は何も言わなかったが、たった一言のその言葉は椎堂にとってなにより嬉しい言葉だったのだ。

「……また、今度一緒に見よう……玖珂くんさえ良ければ」
「…………気が向いたら」

 お大事に、と言葉を残して椎堂は澪の病室を出て行った。澪が礼を言っただけで椎堂は今までにないほどに嬉しそうな顔をした。その顔を思い出して澪は今までの態度を少し反省していた。
 そしてフと気付く。渡そうと思っていたマスコットの存在をすっかり忘れていた事を。追いかけて渡そうかとも思い引き出しに手をかけたが、椎堂はもう病室を出て行ってしまっていた。澪は箸を置き、マスコットを引き出しから取り出してもう一度眺める。

――次に会った時に……渡そう。

 そう考えて自分が椎堂とまた会えるのを何処かで期待している事に気付いていた。