008

絵・金色マグロ様
著・聖樹 紫音



もう何年も前に感じる。
馬鹿みたいに、何処へ行くにもカメラを手放さず、「何が起きても、俺はカメラだけは必ず持って逃げる」そう言って笑いあったのはこの前だったはずなのに……。
須賀は、伸びきった前髪をベッドに寝転がりながら手前に引っ張った。
写真を捨てたのは一年前。
健介が出て行ったのが半年前。
それ以来、髪を切っていない。
 
 
 
 
Sexual photography
 
 
 
 
 須賀は、カーテンから差し込む日差しに目を細め、夕べ飲み過ぎたために痛む頭に眉を顰めた。時計の針はもう、朝とは呼べないほど昼に近づき、差し込む陽光は昼の強さを物語っている。
一度カーテンに手を掛けたあと、須賀は乱暴にもう一度カーテンを閉め直した。
今日の予定も、明日の予定も何もない。急いで起きる必要はなかったからだ。

 散らかり放題散らかったワンルームのマンション。空になった酒の缶からアルコールが滲み出て絨毯に零れ、ベッド脇に置かれた巨大な灰皿は吸い殻で溢れて いる。半年以上めくっていないカレンダーの横には、その当時毎日必ず撮るようにしていた写真が、日付を記した付箋の下に数え切れないほど貼られていた。

 何気ない街の風景、通りすがりに見つけた廃工場の錆びた扉。むせ返るように白く蒸したライブハウスの楽屋裏など…。
そして、そんな景色の合間には何枚もの健介の写真が貼ってある。
 よく喋り、よく笑う、健介のクルクル変わる表情は一枚とて同じものはなく、恥ずかしがる健介を相手に須賀はよくカメラを向けていた。御津健介(みつけんすけ)当時恋人だった。そして今でも想っている男だった。


 須賀 勇人(すがはやと)、新進気鋭のカメラマンとして写真業界ではそこそこ名が知れていたが、それも今は覚えている人の方が少ないかも知れない。
三年前に受賞した「菊池光太郎賞」は須賀の初めて獲った賞であり、その経歴に大きな花を添えた。受賞作は、追い続けていたブルースバンド【ZACKS】のロードムービーを思わせる写真である。
 まるで、一緒にツアーにでも出かけたような臨場感。そして、映画を見ているようなストーリー性も話題になり、見事「菊池光太郎賞」を受賞できたのである。
賞を獲った日、誰よりも一番に伝えたかったのはずっと一緒にいた恋人の健介であり、誰よりも受賞を喜んでくれた。


将来は映画監督になるのが夢である健介と出会ったのは大学のサークルにいた頃だった。

「この写真、君が撮影したの?」

サークルに展示してある須賀の写真を見て目を輝かせ振り返った健介は、人懐こそうな笑みを向けていた。背丈は須賀と変わらなかったが、体格のいい須賀に比べ身体は細身で、明るく染めた髪が柔らかそうな印象を与えている。
黙っていると怖そうだと言われる事の多い須賀は、出来るだけ愛想よく「あぁ、そうだけど」と返事を返した。

「写真ってさ、撮影した人の魂の形が写るんだって」

おかしな事を言う奴だと思い、返事に困る須賀に構わず健介は続けた。

「この写真かっこいいよね。俺こういう写真大好きなんだ。真っ直ぐで揺らぎがない。きっと君がそういう魂の持主なんじゃないかな。……なんてね」

初対面でそんな事を言われ照れる須賀に「あれ??もしかして照れてる?」そう言って顔を覗き込んできた健介の悪戯っぽい笑顔に、思わず苦笑いが浮かぶと同時にドキリとした。
目の前の健介の笑顔を思わずじっとみつめていた須賀は、差し出された手を見て我に返って慌てて自分も手を差し出した。

「俺は御津健介。宜しく!」
「あぁ……俺は須賀勇人。宜しく」

やけに早鐘を打つ鼓動を知られたくなくて、須賀は握られた手をすぐに離した。この時すでに恋に落ちていたのだと今になって思う。
それからは健介とよく話すようになった。サークル外でも一緒に写真展を見に行ったり、互いの家を行き来するようになり、二人で過ごす時間が日に日に増えていった。二人の距離はすぐに近くなり、恋人同士になるのに時間はかからなかった。
互いに大きすぎる夢を持ちながらも、それが叶うのだと信じて疑わなかったあの頃。

撮る事に夢中でそれだけで満足していた須賀に、コンクールに提出してみる事を勧めてくれたのも健介だった。
 須賀が受賞した日は、二人でささやかな祝杯をあげた。酒に弱い健介もこの日ばかりは祝いだからといつになく何杯も飲み、「本当に良かったな!勇人」と言いながら酔って泣き出した健介を見て、酔うと泣き上戸になる事に二人で笑いあった。
一晩中語っていたあの日の夜を昨日の事のように思い出すことが出来る。しかし、それももう想い出の一つになってしまっていた。


 須賀はベッドサイドに転がっている埃をかぶった一眼レフを掴むと、ベッドに仰向けになったまま天上にレンズを向けた。ファインダー越しに覗いてみても、薄汚い天上がぼやけて広がっているだけである。
とても狭いファインダー越しの世界。
それでも、昔はその狭い世界に無限の夢を見ていたのだ。自分の腕で何でも写せる、そう思っていた。
シャッターを押さなくなってからも、フィルムはいつでも撮影出来るように入れてある。デジタルではなくあえてフィルムに拘ったそのカメラの絞りを調整し、ピントを合わせたまま須賀は忌々しそうに溜息を吐いた。
震える人差し指はシャッターを押さず、そのままそっとカメラを降ろす。

――こんなに重かったのだろうか……。

 そう思えるほどにカメラはズッシリ重く、それはまるで自分の気持ちのようで。須賀は床へカメラをごろりと転がすと、再びベッドに突っ伏した。
何処に行くにも必ず持って行くのを忘れることはなく、常に隣にあったカメラ。身体の一部と言ってもいいほどに馴染んだ存在。シャッターを押す瞬間の指の感覚さえ、日々に無くてはならない物であった。
 そして、須賀にとって健介も、そのカメラと同じ、否、それ以上にずっと隣にいた存在であった。
大学を卒業と同時に一緒に暮らすようになり、健介は小さな映画制作会社へ就職し、須賀もまた、バイトをしながら写真を撮り続けていた。
健介は、今頃何処にいて……。そして自分の事はもうすっかり忘れてしまっただろうか。この半年間、思い出すのは健介の事ばかりだ。

 目を閉じれば、最後に出て行った日の健介の背中が思い浮かぶ。
引き止める言葉も、縋る勇気もなく、追いかける事も出来ず…ただ、だまって寝たふりをしていた。

「俺、もう行くわ」

 そう最後に呟いて、出て行った健介を、何故引き止めなかったのだろう。今更考えても仕方がない事に思いを巡らせ、須賀はますます痛む頭をかかえた。
悪酔いした後の酒は否応なしに悪夢を引き下げて須賀を飲み込もうとする。まどろんでいく瞬間。やけに鮮明に映し出される一年前の自分。
 
 
 
 
 ちょうど一年前の今頃は、新しいカメラが欲しくて、とにかく金が必要だった。
賞を一回獲ったからといって暮らしていけるわけでは決してなく、その後も、生活は変わらなかった。
バイトだって続けていたし、金のために撮りたくもないグラビアアイドルの写真も撮った。広告のための食品の撮影も、探偵会社からの依頼で芸能人の浮気現場に張り込んだこともある。自分が我慢して作った金でも、須賀にとっては大切な金だった。
生活のリズムが変則的な須賀と、帰宅は遅いが週末が休みの健介とはすれ違う生活が続いていた。徹夜の撮影を終え、数時間仮眠を取りシャワーを浴びてまた出て行く。そんな須賀の体を心配し、言葉をかける事は何度もあったが、その事で健介が不満を漏らした事は一度もなかった。

 そうしてやっと貯まった金で買ったのが今のカメラである。
買ったばかりのカメラを手にし、一番最初に撮ったのが健介の寝顔だった。いつものように明け方近くになって帰宅した須賀は、無防備に静かな寝息を立てる健介をファインダー越しに眺め、起こさないように最初のシャッターをきった。
幸せだと心から思っていた。しかし、須賀はカメラを買ったその翌日に左目の光を失う事になった。あまりに皮肉な結末に、思い出すと自嘲的な笑みが零れそうになるくらいだ。


 いつものように、撮影が終わり片づけをしていた時の事、スタッフが脚にひっかけたコードにバランスを崩したライトスタンドが倒れてきた。

「危ない!」

誰かが叫ぶ声を耳にし「え?」と顔を上げた瞬間ライトスタンドは容赦なく須賀の左目に直撃し、目の前を赤く染めあげた。
 一瞬の出来事に須賀はただ生暖かく流れ出る真っ赤な液体が、自分の目から零れていることさえ理解できずにいた。恐る恐る当てた掌が血に濡れる。痛みは不思議と感じず、ただ熱かったのを憶えている。

 それは怪我のせいなのか、その時同時に流した涙のせいなのか、それは未だにわからない。運ばれた病院で次に目を覚ました時には、須賀の左目は包帯できつく巻かれており、闇しか映すことはなかったのだ。知らせを受けて駆けつけた健介は、傷ついた自分より大泣きしていた。
001


目を赤く腫らした健介が、滲んで見えて…。事態を軽く見ていた須賀は「そんなに泣くなよ」そう言って腕を伸ばす。
 伸ばした指先が健介に届かず、宙を掠めたとき須賀は理解した。
健介は自分より先に、もう須賀の視力が戻らない事を聞いていたのだ。その後、医師の話で須賀自身にも同じ事が伝えられた。
自分はもう、終わったのかも知れない。漠然とそう考えて言葉を失ったのを覚えている。写真家として命の目を失ってしまったのだから……。

 それからというもの須賀はファインダー越しに覗く世界が怖くなった。
無限の可能性を秘めていると思っていた世界は、あまりにちっぽけで意味のない物へ変化していた。
そんな須賀を健介は毎日励まし、もう一度写真を撮るようにと何度も繰り返し説得した。行き場のなくなった思いが募り、自分でもどうしたいのかがわからず自 棄になり、気遣う健介に声を荒げた事もある。「お前には俺の気持ちはわからない」そう吐き捨てた須賀を見て俯いた健介は「……そうだね、ごめん」と小さく 呟き悲しげな顔を見せた。

そして半年経ったあの日、健介は突然須賀を置いて出て行ったのである。
 愛想を尽かされて当たり前だったのだ。生活費のためのバイトは続けていたが、それ以外で一度もカメラに触ることはなく、ただただ時間が過ぎていくのを何 もせずに待っていたのだから。自分の写真が好きだと言ってくれた健介がどんな思いで気力を失った自分を見ていたのか、あの時は理解しようともしていなかっ た。
 
 
 
 
 須賀は、枕元に置いてある携帯が鳴り響く音で、思い出しかかっていた悪夢から醒めた。無意識に相手を確認せず画面をスライドする。

「……もしもし」

酒で焼けた喉から、驚くほど掠れた声が出る。携帯越しに相手が言葉を飲み込む音が聞こえた。

「…誰だよ?悪戯なら切るぞ」

そう言って、携帯を遠ざけたとき確かに聞こえたのだ。

「……勇人?」

携帯を握る掌が汗で濡れて滑り落ちそうになる。
 耳鳴りがして、周りの音が一気に遮断されたように感じた。忘れられるはずもない、自分の事を「はやと」と呼び捨てるのは憶えている限り健介だけなのだ。
しかし、そんなわけは……。もう一度携帯を耳に近づけ、相手の声を鼓膜に刻む。

「勇人だよな?」

須賀はベッドから起きあがると、これが夢でないことを確かめるように周りに視線を泳がせた。

「健介……なのか?」

恐る恐る出した声に、健介はすぐに言葉を返した。

「そう、俺……。勇人、酷い声だな。酒でも飲んでる?まぁ、いいや……生きてたんだから」

 半年間連絡を一度もとらなかったというのに、健介はまるで何事もなかったかのように冗談を言い、当たり前だろと言う須賀の言葉に、クスリと笑った。

「……今までお前」

――何処に行ってたんだよ。