スライトキス


 

資料室の中は、僕一人。
場違いなほどに明るく照らす蛍光灯が人工的な影を僕の後ろへ長く繋げている。
長い時間睨んでいる手元の資料の文字が時々ぼやけてはピントがずれる。
相当目を酷使している証拠である。

僕はさっきから壁の時計が気になって仕方がない。
遅く感じる秒針にみとれていると、自然に手が止まってしまっていた。

いけない…

そう思って、時計に背を向ける。
体内に孕んだような時計の秒針が1秒ごとに僕を刺激していく。
耳に届く秒針の音は、僕の心臓の音と重なり、時々ずれたりしながら僕を縛っていく。
息苦しいほどの時間。

──22時35分。

でもこのまま窒息するならそれでも構わない気さえした。

僕は、今出来るだけの精一杯の深呼吸をして、作業の手を止めた。

22時45分

指から滑り落ちたコピー用紙が資料室のドア付近へはらりと舞う。
舞った資料は小さな音を立てて床へと落下し、
そして次の瞬間、磨かれた革靴の先に所在なげに落ち着いた。

──22時53分

「ほら」

お前はいつもドジだなぁ。
心の中ではきっとそう思っているような、でもとても優しさの籠もっているような、
そんな声音で資料を拾い上げて近づいてきた彼は僕の現在の片思いの相手であり同僚でもある。

「……サンキュ」

渡された資料を受け取る時に、僅かに指が僕に触れる。
僕の呼吸はきっともう窒息寸前なはずだった。
彼は毎日きまってこの時間に資料室へと顔を出す。
用があるわけでもなく、棚を一周して一人で納得すると帰っていく。
その時間、わずか5分程度。

僕の24時間中、かけがえのない5分間だ。

──23時00分

今日も棚をぐるりと一周した彼が、入ってきたドアへ戻っていく。
しかし、いつもと違い彼はドアノブに手を掛けなかった。

「俺の背中に何かついてるか?」
「……え?」
「お前いつも、俺のこと見てるだろう」

僕は返す言葉もなく、さきほど渡された資料をくしゃりと握りしめた。
男が男に熱い視線を送る。
きっと、気持ち悪いと思われたに違いない。
そこまで不躾な視線を送っていたわけではないはずの僕は、
視線を何処へとむけていいか逡巡し、机の上へと視線を落とした。

「別に……、見てないけど?気のせいじゃないか……」
「……そう?……そっか」

彼は僕の返答を疑うわけでもなく、あっさりと納得したかに見えた。
憧れている広い背中がゆっくりと振り向く。
派手目の色使いを避けた徹底したシックな装いは、実際の年齢以上に彼を落ち着かせて見せている。
かすかに香っている彼の匂いは何処かのブランドの香水なのだろう。

「資料室は……、つまらないな」

彼はそう言って、僕の椅子の隣で足を止めた。

──23時05分

もっと近くで彼の体温を感じたい。
本心とは裏腹に僕が吐き出した台詞は彼のありえない行動で遮断された。

「何か……、用があ、」
え!?

後ろ手で資料室の鍵をかけたまま、彼は僕の俯いた顔に手を添えて屈むように唇を重ねた。
想像していた彼の唇よりずっと生々しい濡れたそれは、
僕の唇にわずかに触れただけで、すっと離れていった。

「資料室に用はない」
「……どういう」

意味で?それを僕に言うのか?

問いかけは宙にぶらさがったまま発せられることはなかった。
僕は破れそうに高鳴る心音を隠すために、ひとつ咳払いをする。
昨日と同じ今日じゃない。
それを自分で証明したかった。

「明日も来る……、よな?」

思い切って言ってみた台詞に彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「資料室は面白いからな」

そう言うと、鍵を開けて廊下へと消えていった。
夢を見ているような気分で、僕は間抜けな顔で時計を見上げた。

──23時12分18秒

彼の口付けた自分の唇に、僕は指を押し当てた。





END