scene4


 

 
「ねぇ、要、ちょっと聞いてるの?」 
「え?何か言ったか?」 
「もうっ」 
 
腕にもたれ掛かった女が佐伯をむっとした顔で睨み、口を尖らせる。しかし、佐伯はそんな事はおかまいなしという風で前方にいる人影に目を向けていた。 
――やっぱりホストか……。 
街角で女性に声をかけていたのは、ついさっき当直をしていた際に病院に訪れた男だった。確か名前は三上晶といったか……。 
 
派手なスーツ姿と雰囲気で、その手の職業なのだろうと察しはついていたが、佐伯は自分の考えがはずれていなかった事に満足する。視線を感じ顔を向けた佐 伯に気付いた瞬間、一瞬視線が交わり、周りの行き交う人混みの中で晶のいる場所だけが明るく浮かび上がったような錯覚に陥った。すぐに視線を外して連れと 一緒に逆方向に歩き出す背中を、佐伯の目は追ってしまっていた。 
 
痛み止めは処方してあるのでそれを服用したのかもしれないが、まだ傷は痛むはずである。だというのに、もう仕事をしている事に驚いていた。 
――たいした根性だな……。憎まれ口を叩くだけの事はある……か。 
心の中で益々晶への興味が募る。佐伯は晶とは逆方向に歩き出した。また近いうちに会う事になるのを待ちつつ、久々に愉快な気持ちになっている自分に気付く。 
 
「ちょっと、どこへ行くの」 
「急用を思い出した。俺は帰るけど、お前は好きにしろよ」 
「何それ、最低。自分勝手な男ね!」 
 
連れ立っていた女は黄色い声で佐伯を罵倒した後視界から消えていった。――怒らせたか?――一瞬だけそう思い、すぐにまぁいいかと思い直す。そろそろ相 手をするのも面倒になってきていた所だ。特定の相手が欲しかったわけではない佐伯にとって、恋人面をされるというのは一番嫌う所である。そういう関係の煩 わしさが嫌なので、遊び慣れた風の相手を選ぶようにしているはずなのに、時々数回会っただけで恋人気取りをされたり、酷い時には結婚をせがんでこられる事 もある。第一印象はあまりあてにならないとしみじみ思ってしまう。佐伯は溜息をつき、夜勤明けで疲れた身体を引きずって駅へと足をむけた。 
急用等本当はなかったし、ただ一人になりたかっただけである。 
 
佐伯は職業が医者だと言う事と、持ち前の容姿で女にも男にも不自由したことはない。そういう盛り場に足を運び飲んでいれば何もしなくても相手が寄ってき たし、好みのタイプがいれば自分から誘う事もある。少し優しくすればたいていの相手は自分に夢中になった。相手が男の場合は、互いに一晩だけの遊びと最初 から割り切っているのはお互い様な事も多く、快楽の相手としては二、三会話を交えれば上等なくらいである。 
気が向いた時だけ手軽に遊べる相手がいれば、事が足りるのでここ数年特定の相手と付き合ったことはない。付き合ってみたいと思わせる相手との出会いもなかった。 
 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 
  一度帰宅してシャワーを浴び、少しだけ寝るつもりが思っていたより疲れていた身体は数時間で目を覚ます事が出来ず、日が暮れて辺りがすっかり夕方になった頃、晶は漸く目を覚ました。 
腕を怪我している事をすっかり失念し、時計に腕を伸ばそうとして、その痛みではっとなる。ぼんやりした頭で、怒濤の如く起こった様々な出来事を思い出 す。あれからまだ24時間も経っていないのだ。暗くなってきている窓の外をちらりと眺め、そろそろ出掛ける準備をしなくてはいけないと思いベッドからのろ のろと起き上がる。二号店が店を開ける前に、一度玖珂へ挨拶をしに行く約束をしているのだ。 
 
何人かは六本木店に行った事があるホストもいるが、今日が初めてというホストもいる。明日以降働く場所を少しは知っておいた方がいいだろうと思い、仲間にも声をかけて駅で待ち合わせをしたのだ。 
ボタンの少ない普段着に着替え、顔を洗い髪を適当に整えると晶はポケットに鍵と財布と携帯だけを突っ込んで自宅を出た。時間が迫っているので通りでタク シーを拾って駅へと向かって貰う。電車だと乗り換えの都合上少し遠回りになってしまうが、車だと首都高がすいていればそう時間もかからない。 
 
六本木にある二号店は、晶達のいる一号店最寄りの駅からは歩いて二十五分といった所だ。そう離れていないが、それでも互いの店を行き来する事は滅多にな い。二号店は一階がワインバーになっていて二階が喫茶店、三階が『LISK DRUG』四階以降は様々な事務所や会社が入っているという雑居ビルである。 
 
駅に着くと晶が一番最後で、もうすでに仲間が集まっていた。 
「わりぃ、ちょっと遅くなった」 
軽く謝ってから集まっている仲間達を見ると、それぞれがやけに気合いの入った格好をしている。一人でも目立ちそうなのに、そんな奴らが10人近く集まっているとなると、その光景は異様としか言いようがない。夕方に集合しているホスト軍団に晶は苦笑しながら声をかける。 
 
「お前らさー、何でそんなキメキメなの?めちゃくちゃ目立っちゃってるじゃん」 
「え?だって、二号店のオーナーに会うって言ってたのでちゃんとしないと、と思って。っつーか晶先輩こそ何すかその爽やかスタイル、大学生みたいですよ?」 
 
――うんうん。とでも言うように回りも頷く。 
今日は挨拶だけだし、と晶の格好はかなりカジュアルである。髪もセットしていないので長いまま無造作に手櫛で整えただけだし、靴は履き潰し掛かっているブーツといった出で立ちだ。 
 
「今日はいーの、これで。玖珂さんそんなおっかない人じゃないぞ?」 
 
晶はそう言って笑う。どんな想像をしているのか知らないが、今いる一号店のオーナー兼代表が多少凄みのある人物なので、それと同様に思っているのかもしれない。初めて会うのに緊張する気持ちもわからなくもない。 
 
「まぁいいや。んじゃ行くぞ」 
 
晶を先頭にそのままゾロゾロと玖珂の店へと歩いて行く。夕暮れから夜へ向かう束の間の時間がビルの隙間をグラデーションで彩っている。この時間帯の曖昧 な空色が晶は気に入っていた。少しでも目をそらせば一気に暗くなるその早さもあり、たまたまこのタイミングで外にいて空を見れるとラッキーな気がするの だ。何かいい事がありそうなそんな気持ち。晶は目の前でどんどん暮れていく空を見上げながら夕日の眩しさに目を眇める。 
 
暫く歩くと店へと到着し、晶は久しぶりに会う玖珂に懐かしさを感じながら店のドアを開けた。 
「おはようございまーっす」 
二号店は晶のいる一号店より少し華やかな色使いで、店内は黒・赤・灰色の三色で統一されている。店の中は開店前で静かだったがすでに来ていた玖珂が晶の声を聞いて奥から姿を現した。 
 
「いらっしゃい。良く来てくれたな、久しぶり。元気にやってるか?」 
「おかげさまで元気っすよ。怪我はしてるけど」 
晶の腕を見て、玖珂が眉を顰める。 
「今回は災難だったな……。坂下さんからさっき電話で聞いたが、腕、縫うほどの怪我なんだって?出歩いて大丈夫なのか?」 
「あぁ、全然平気っす。坂下さん大袈裟だからな~」 
晶が苦笑する。玖珂が心配そうに「無理はダメだぞ」と念押しし、その後やっと笑みを浮かべる。 
「まぁ……二号店としては有難いけどな。なんと言ったってNO1が来てくれるんだから」 
「またまたー、俺を誉めても何もでないっすよ?」 
「じゃぁ、損したかな?」 
 
玖珂と冗談を交わし、笑いあう。滅多に会わなくてもこうして話せばすぐに前の感覚に戻る。晶が後ろにいる後輩達を紹介すると、それぞれが玖珂へ挨拶をす る。若手のホスト達の中で玖珂は憧れのホストであり、その大先輩が目の前にいるのである。緊張している様子が明らかで、それに気付いた玖珂が優しい笑みを 浮かべる。 
 
「あぁ、そんなにかしこまらなくていいよ。勝手が違って多少やりづらい事もあるかもしれないが、出来るだけサポートさせてもらうから、何でも言ってくれ。短い間だけどどうぞ宜しく」 
「はい!宜しくお願いします!」 
 
玖珂の方は傲った所もなく若手のホストにも気を遣わなくていいと告げ、ざっと店内を説明したあと、もう一度宜しくと頭を下げた。 
玖珂はホスト時代からそのソフトな性格のせいもあって仲間内で揉め事を起こしたというのを聞いた事が無い。勿論それは客に対してもで、結局辞めて二号店を任されるまでNO1をはりつづけていた。 
 
少し時間がまだあったので、それぞれが店内を確認している中。店の奥にある柱の傷の前で、晶は足を止めてその傷にそっと指をのばしなぞっていた。談笑する後輩達の輪から抜けて玖珂が晶に近づき声をかける。 
 
「……どうした?」 
「あー、いや……これ……まだ残ってたんだなぁって思って……」 
 
よくみないとわからないほどのその傷は柱に食い込んだナイフ跡のような傷だった。玖珂がフと小さく息を吐き、思い出すように呟く。 
 
「戒めにな、わざと直してないんだ」 
「……そう、なんっすか」 
晶は傷をなぞった手をとめて昔を思い出す。 
 
それは5年くらい前の出来事。先輩達のヘルプにも漸く慣れ、晶が新米ホストから少し抜け出した頃の話しである。 
その夜、晶は普段通りに玖珂のヘルプについていた。その日何組目かの卓であり、常連の客だったので何も問題も無く玖珂のフォローをそつなくこなし、後数時間で店はラストになるはずだった。 
そんな時、店のドアが激しく音を立てて開き血相を変えた女性客が一人のホストに向かっていった。「お客様!困ります!」という切羽詰まった声、慌てた様子で女性客を追うボーイの姿。店内が一瞬にしてざわつき出す。 
 
その様子を横目で確認し、何かあったのかと振り向いた晶は、女性客のただならぬ様子に驚いていた。 
向かってこられた当のホストも驚いて席を立ち上がり、裏口の方へと逃げる様子が見える。――え?揉め事?――晶が玖珂へと声をかけようとした瞬間、玖珂 が何かに気付いた様でいきなり立ち上がった。その際テーブルにあったグラスが倒され、残っていた酒がテーブルへと派手に散ったがそれすら構わない玖珂に、 ただ事ではない空気を察知する。と同時に店内に悲鳴が響き渡った。女性客の手には小さなナイフが握られていたのだ。 
――え!? 
咄嗟に晶は店内の客全員に聞こえる大声で、店からすぐ出るように告げて誘導をすると、女性客へ近づく玖珂の元へと駆け寄った。腰が抜けて途中でへたりこ んでいるホストに向かって女性客のナイフが振り下ろされる。間に合わない、そう思った瞬間晶は目の前で起こるだろう出来事が怖くてぎゅっと目を閉じた。 
 
「離してよっ!!」女性客の苛立った叫び。 
「それは出来ない。そんな真似をしたら、君は一生後悔する事になるよ?……ナイフを俺に渡して」 
 
静かにそう言う玖珂の声が耳に届き、恐る恐る目を開けると、寸での所で玖珂が女性客のナイフを持つ手を掴んでいた。激昂しているとはいえ所詮は女性の力 だ。がっちりと玖珂に掴まれた腕はもう数センチも動けなくなっていた。大きく振りかぶったせいでナイフの切っ先が側にある柱のクロスを切りつけていたが、 誰にも怪我はなかった。 
 
騒然となった店内の中、泣き崩れる女性客の声が響き渡る。漸く立ち上がれるようになったホストは裏口へと消えていた。 
 
後から話を聞いた所によると、ホストとの色恋沙汰で裏切られた女性客が逆上して店に来たという事だった。この業界にいればこんな話は頻繁に耳にすることが出来るが、目の前でこんな事が起きた事もなかったのでどこか他人事だと思っていた晶はただただ驚いていた。 
 
客を全員帰した後、まだざわざわとする店内の中、玖珂のとった行動は晶にこの先ホストはどうあるべきかを刻みつけるのには充分な物だった。 
玖珂は女性をそっと抱き起こすと皆の見てる前で女性客へと頭を下げた。呆気にとられるその他のホスト達の前で玖珂は顔をあげると一言こういった。 
「大事なお客様だ。お席に案内して差し上げて」 
怒りが静まった彼女から理由を聞き、宥め落ち着くまで玖珂が付き添い、結局その後女性客は大人しく帰り騒ぎは収まったわけだが……。 
 
晶はその時、頭を下げる玖珂の背中をただ見ている事しか出来なかった。今は玖珂の気持ちが少し分かる気がする。客を大事にする精神は勿論だが、それと同時に責任を感じていたのだろう。 
逃げ出したホストは、晶と同じく、玖珂が育てたホストだったのだ。その後連絡がつかなくなって彼が二度と店に戻る事は無かった。玖珂は悔しかったのだとも思う。 
 
晶は傷から手を離すと玖珂に振り向いた。 
「この傷……俺も残しておいた方がいいと思う」 
「……あぁ」 
客の女心を傷つけるのは一番最低な事なのだと玖珂に何度も教え込まれた。つくなら絶対にばれない優しい嘘をつけ……と。自分の育てたホストがした裏切りを、今でも玖珂はこの傷を見る度に思い出しているのだろう。 
 
二号店の開店時間が近づき、挨拶を済ませた晶達は二号店を後にし、解散した。  
 
 
 
 
*     *     *  
 
 
 
 
二号店で働くのは明日の夜からである。仲間達と別れてから暇になった晶はあてもなく街をブラブラしていた。すっかり真っ暗になった街並みに所々ネオンサインが点灯し始める。 
晶は一人街を歩きながら、急に『一人だな』と改めて感じていた。行き交う人々の中で何故か取り残されたような寂寥感に苛まれる。雑踏の中に身をおくと余 計にそれは増長した。誰かを誘って飲みにでも行こうかなと思い携帯を取り出すが、結局誰にも連絡をせず、元あったポケットへと携帯をしまう。 
 
六本木ヒルズ前のブランド通りで時間を潰し、暫くぶらぶらしていると、先程しまった携帯が着信を知らせるべく震えているのに気付いた。晶は相手を確認せずに携帯を耳に押し当てる。声ですぐわかる、電話の相手は七海だった。 
 
「あれ、七海さん?どうしたの?」 
何となく声がおかしい気がして晶は人混みから離れた所に移動した。 
「ごめん、今外でさ。声がよく聞こえないんだけど……ちょっと待ってて、俺からかけ直すから」 
 
ざわめきは七海の声を掻き消してしまう。何か嫌な予感がして、晶は携帯をもったまま走って通りの裏路地へと向かった。暫く走って脇の路地に入り込んだ所でやっと静かになり、晶は七海にもう一度電話をかけなおす。 
 
「もしもし?さっきはごめんね。今はちょっと静かな所にきたからさ、それで……どした?」 
 
すぐに電話に出たが七海は泣いているようで要領を得ない。晶は七海が話し出すまでじっくり待った。漸く落ち着いたのか七海が小声で話し出す。どうやら付 き合っていた男に振られたらしい。七海は、最近彼が出来たのだと楽しそうに話していたのを晶は思いだす。確かまだ一ヶ月くらいしか経っていないはずだ。 
何があったのかはわからないが、こうして突然泣きながら電話をしてくるのは相当落ち込んでいるのだろう。 
 
「七海さん、平気?元気出してよ。俺、今からそっちに行こうか?話しするだけでも気が楽になるんじゃない?」 
『……うん』 
「あ……でも、俺七海さんの住んでる所知らないや……」 
『……住所、メールするから』 
「そう?わかった。じゃ今から行くよ。そんなにかからないと思うけど待っていられる?」 
『……うん』 
 
七海は小さく返事を返し電話を切った。直後に晶の携帯へと住所が送られてくる。七海とは長い付き合いとは言え、外で会ったことしかないので、こうして自宅へ行くのは初めてである。そう遠くはない七海の家に向かうために晶は駅に向かい電車に乗り込んだ。 
 
ホストをやっていると、突然客から呼び出されることも少なくない。買い物に付き合わされたり、引っ越しの手伝いをした事もある。所謂便利屋扱いなのだ。 用事があれば断る事もあるが、時間が許せば駆け付けるのが普通で、今後も店へ通って貰う事へのサービスの一環だと思っている。だから、こんな事も珍しくな いのだが……。七海のいつもと違う様子に晶の内心に焦りが募り始める。 
 
*     *     * 
 
最寄り駅から七海のマンションはすぐで、携帯の地図を確認しながら歩けば簡単に辿り着くことが出来た。マンションは三階建てでそんなに大きくなく、女性の一人暮らしには丁度良さそうな物件だった。駅からほど近いので夜道の危険もなさそうである。 
――302号室 
メール画面で確認した部屋番号からして三階の真ん中なのだろうか。晶は一度足を止めて上を見上げる。閉められたカーテンの隙間から光が細く漏れている。 エレベーターはないようで、マンションの入口から続く階段を昇って部屋の前に到着すると晶はインターフォンを一度押した。 
すぐにドアのチェーンがあけられて中から七海が顔を出す。外で会う時と違ってあまり飾っていない服装のせいか、いつもより少し幼い印象を受ける。 
 
「こんばんは」 
 
晶はいつものようににっこり笑うと七海も少し気まずそうに微笑み返した。泣いていたのがわかる赤くなった目を恥ずかしそうに擦り、背を向けて「狭いけど、入って」と促される。「お邪魔します」と呟き七海の部屋へと足を踏み入れる。 
部屋は広めのワンルームで、入ってすぐの脇にシステムキッチンがある。玄関脇の閉まっていたドアが風呂やトイレなのだろう。中に入って座った晶はちょっ とだけ部屋を見渡した。淡いグリーンの花柄のカーテンとお揃いのベッドカバー、小物も緑の物が多い。好きな色なのかな……晶がフとそんな事を考えている と、七海が向かいに腰を下ろした。 
 
「お茶しかないけど……いい?」 
「あ、気にしなくていいよ。俺話し聞きにきただけだし」 
二つ持ったマグカップの片方を目の前に差し出される。 
「ありがとう。じゃぁ、折角いれてもらったから貰うね」 
「……うん」 
 
マグカップに口を付けながら、七海が話し出すのを待つ。しばらく黙っていたが、七海はそのうちぽつりぽつりと話し出した。晶は相槌をうちながら七海の話 に耳を傾ける。先程電話で聞いたとおり、付き合っていた彼にふられたらしい。今聞くまで知らなかったが、彼は大学生で七海より随分年下だったようだ。別れ る原因となった事に関しては、七海は話してくれなかった。 
 
全部話し終えた七海はいくらか気が晴れたのか落ち着いたようで、少し笑みを交えるようになり、晶もほっと胸をなで下ろす。 
 
「すぐ忘れるとか出来ないだろうけどさ、もっと七海さんに合う人がまた現れるよ。それまでは少し休憩って事で」 
言いながら、ありふれた慰め言葉だなと感じる物の、恋人ではないのだからこれ以上の言葉をかけるわけにもいかない。期待をさせてしまうわけにはいかないのだ。晶は喉元まで出かかる慰めの台詞をぐっと飲み込んで、七海の頭をなでた。 
 
「大丈夫だって。寂しい時は俺に頼ってくれてもいいし。七海さんが悲しいと俺も悲しいよ」 
「うん。そうだよね……。ねぇ、晶」 
「ん?」 
「私って、魅力ないかな……?」 
「なぁ~に言ってんだよ。そんな事ないよ、七海さんは魅力的だって」 
「ほんとにそう思う?」 
「勿論!」 
 
七海は少し俯いて、一度マグカップを手に取った。それをコトリと置くと共に小声で呟く。 
 
「じゃぁ……抱いて。……晶」 
「…………え、……」 
 
晶は咄嗟に返答を躊躇った。俯いている七海の表情を見る事は出来ないが、冗談で言っているわけではない事はわかる。 
 
「……急にどうしたの?やけになってるなら後悔する事になるからやめといたほうがいいって」 
 
宥めるようにそう言う晶に七海は首を振る。長年七海と付き合ってきたが、身体の関係を持ちたがる事は今まで一度も無かった。枕営業を全否定しているわけではない。今まで客と身体の関係を持った事も数回ある。 
しかし、七海の決心は揺らぐことはなかった。 
 
「ううん、いいの。今抱いて欲しい……やけになってるわけじゃないよ」 
「……七海さん」 
 
七海の決意が固い事を確認し、晶は暫くどうするべきか考えていた。七海がここまで思い詰めているのは何かきっと理由があっての事なのだろう。遊びでこう いう事を言う女性ではないのはわかっている。晶はゆっくり立ち上がると七海の隣へと腰を下ろした。そっと肩を抱き耳元に口づける。 
 
「…………じゃぁ、いいの?本当に俺が抱いちゃって後悔しない?」 
 
こくりとうなづいた七海を見届けて晶は自分のジャケットから腕をぬいた。 
 
「俺さ、怪我してっから。ちょっとテクがなくても許してよ……」 
 
囁くようにそういえば七海はそっと目を閉じた。晶が七海のボタンに手をかけると、手伝うようにして七海が自分の指を動かす。一つづつ外していくと露わに なった胸が下着越に覗く。白い肌に付けられたレースのブラジャーのホックを片手で外し……晶はその手をふいにとめた。七海が晶の顔を覗くように視線をあげ る。 
 
「…………驚いた……よね……」 
 
七海の胸はざっくりと手術の跡があって左の乳房がなかった。白い肌についた無惨な傷跡は初めてみる者の手をとめるだけのショックを与える。七海の事は色々知っているつもりになっていた。彼女の何を知っていたつもりになっていたのだろう……。 
晶は目の前の七海に微笑むと、再び黙って手を動かす。 
七海は晶の愛撫を受け、くすぐったそうに身体を動かすと独り言のように呟く。 
 
「……前にね、乳癌の手術でなくなっちゃったの……。女として……終わってるよね、こんな、から」 
晶は七海の口を人差し指で塞いで先の言葉を止める。 
「んなの関係ないって……綺麗だよ、七海さん。俺すっげぇそそられるよ……」 
手術の跡にも唇をはわせ傷を舌先でなぞる。 
 
「俺、何も知らなかったけど、この傷のおかげで今七海さんが生きてるんでしょ?だったらもう感謝しかないっしょ。七海さんを助けてくれて有難うってさ……」 
晶がそういって優しい眼差しを向けると、七海は一度小さく晶の名前を呼んで口を噤んだ。 
「……晶」 
 
七海の眦に涙がたまり、こぼれ落ちる。晶はその涙へ指先を這わすとそっとぬぐい取る。 
彼と別れた理由も、この事が原因なのだろうと晶は察していた。まだ学生だったという彼には飲み下せない事実だったのかもしれない。晶は七海を愛しむように言葉をかけながら愛撫を続けた。この先こんなくだらない事で、彼女が引け目を感じる事がないように願いをこめて……。 
晶と七海はそのまま情欲に溶け込んでいった。 
 
 
「んじゃ、俺、そろそろ帰るね」 
晶は七海を抱いた後暫くしてからそういって立ち上がった。来た時は落ち込んでいた七海も、今は完全にとはいかないもののいつもの彼女へ戻っている。彼女 の表情を見てわかるのは、七海を抱くのはこれが最初で最後なのだろうという事。七海は少し恥ずかしそうに玄関まで見送りにきて、怪我をしている晶の代わり に玄関のドアを片手であけて微笑んだ。 
 
「また店に行くね。今度は六本木のほうなんだよね」 
「うん、待ってるよ。あのさ、七海さん」 
「なに?」 
「元気だせよな。俺で良かったらいつでも話し聞くしさ」 
「うん……もう平気……。有難う」 
晶が靴を履いてドアから出た後ろ姿に七海が声をかける。 
「晶」 
「どした?」 
「ううん、今日は有難う……嬉しかったし……いっぱい元気貰っちゃった」 
「どういたしまして。俺も七海さんには笑顔でいてほしいからさっ。当然の事でしょ」 
晶が悪戯っぽく笑ったのをみて七海も笑う。 
「風邪引くから、もう部屋入んな」 
「うん……じゃ、またね」 
晶は最後に手を振って、七海のマンションを後にする。 
 
自分がホストとして出来るのはこれで精一杯……。駅へと向かいながら晶は七海の笑顔を思い出して安堵の息を漏らした。時刻はもう10時を過ぎている。店の状況が気になるので帰宅する前に寄っていくかと思い、最寄り駅までの切符を買う。 
ホームで電車を待ちながら、晶はふと包帯がめくれているのに気付いてその先に指を絡めた。  
 
 
 
 
*     *     *  
 
 
 
 
暫く電車に揺られ、駅に着いた晶は改札を出た脇にある喫煙コーナーで煙草を取り出した。首都圏のほぼ全ての駅から喫煙所が撤去されてからというもの、外で煙草を吸える場所は極端に限られてしまっている。 
こうして喫煙所が側に設置されているのはまだいい方で、何もない所ではひたすら我慢するしかない。2人程晶の前に人がいたが、入れ替わるようにして駅へ入っていったので、今は喫煙所には晶しかいなかった。 
奥深くまで吸い込んだ煙を吐き出すと、空へと吸い込まれるように消える。蛍光灯が消えかかっていて他より明らかに暗い中で吸っている煙草の先が赤くちらりと揺れているのをぼーっと見つめていた。 
 
少しして次の電車が到着したのか改札からどっと人が降りてきて、喫煙所の前を通り過ぎる。それぞれが目的の場所へと散ってまた静かになった頃、晶の背中に聞き覚えのある声が聞こえてきた。 
 
「怪我の具合はどうだ?」 
 
振り返るとそこには今の所苦手な奴トップ3に入る佐伯が立っていた。驚いて思わず吸いかけの煙草を落としそうになる。 
 
「な、何であんたがここにいんだよ」 
「いちゃ悪いのか?生憎、俺もこの駅を使っているんでな」 
 
佐伯はうちポケットから煙草を取り出すと火を点け隣で吸いはじめた。長い焦げ茶色のつややかな髪がゆるく風になびいて毛先を揺らす。確かに病院もここか ら近いので、佐伯がこの駅を使っているのは当然なのかもしれない。そして喫煙者なら電車から降りた後一服するにはこの場所しかないわけで……。 
勝手に隣の腰掛けに寄りかかり煙草を吸う佐伯の横顔をちらりと見る。どんな煙草を吸っているのかと手元へ視線を移すと、あまりお目にかかれないGITANES BLONDESだった。 
 
別にこのまま会話がなくてもいいのかもしれないが、晶は軽い口調で口を開く。何か言われる前に先手を打ちたいような、そんなささやかな抵抗であり、防御反応ってやつに違いない。そう自分の中で理由を付ける。 
 
「医者なのに、喫煙者かよ。普通、患者に喫煙をやめるようにいう方側なんじゃねぇの?」 
そういう晶の言葉を聞いて佐伯はクスリと笑い晶の方を向く。 
「俺は誰にも喫煙をやめろと言った事はないが?」 
意味が解っているのをあえてはぐらかして晶の返事を待っている。佐伯は言葉遊びをする様にそう返すと長く煙を吐き出した。 
「あぁ、そうですか。まっ、俺には関係ねぇけど」 
「煙草は百害あって一利なしだ。お前、禁煙したらどうだ?」 
「はぁ?その台詞そのまんまあんたに返すよ。禁煙したら如何ですか?佐・伯・先・生」 
「ほう……俺の名前を覚えていたのか。感心だな」 
 
――しまった……。ついうっかり余計な事を言ってしまった。 
 
佐伯の名前を覚えていたのは、職業柄出会った人の名前をすぐ覚えてしまうから、癖のような物で……。別にそれ以外の意味なんてない。幾つかの言い訳を持ち出して気付く。自分は誰に弁解をしているのか。 
佐伯と話すのは二度目だが、どうにも調子が狂う。誰とでも話しを合わせられるはずの自分がこう思うのは、佐伯が掴み所のないひねくれた性格だからだ。そう、全部佐伯の性格のせいなのだ。 
 
晶がもう一本だけ吸ってから行くかと掴んだパッケージにはもう煙草が一本も残っていなかった。今日は予備も持っていない。空になったパッケージをネジって近くのゴミ箱に投げ捨てると、その様子を見ていた佐伯が目の前に煙草を差しだした。 
 
「一本やるよ。ほら」 
「…………いらねぇよ」 
 
それを断った晶の口に強引に煙草が挟み込まれる。その際に佐伯の指先が晶の唇に触れた。佐伯の指先は驚くほど冷たくて、晶は無意識に佐伯の指が触れた場所を舐める。 
 
「……んだよっ。勝手な事すんなよ」 
 
晶を無視して、挟み込まれた煙草に佐伯が火を点ける。渋々1回吸い込むと案外美味しい煙草だった事に驚いた。煙草を吸い始めた頃からずっと同じ煙草を吸っている晶には、その新しい煙草の味は新鮮に感じたのだ。 
晶は煙草を掴むと口元から離し、目の前の灰皿で灰を軽く落とす。 
 
「あんた、マジ変なやつだよな……。俺あんたに何かした?」 
 
むっとしてそう返せば佐伯は前みたいに薄い笑みを作り、その後、途端に真面目な顔をして晶をじっとみつめた。眼鏡越しの鋭い視線に射貫かれて何故かドキ リとする。佐伯の視線から目をそらしたいのに、馬鹿みたいにその視線から目を離せない。呼吸が止まりそうになる。晶は唾をゴクリと飲み込んだ。 
佐伯は、もう一本煙草を箱から抜き出すと、晶の手にその一本を握らせた。 
 
「それが俺の味だ、覚えておけよ」 
 
一言だけそう言うと自分は吸い終わった煙草を灰皿に落として病院がある方向へと去って行った。 
――あいつ……もしかして頭いかれてんの?? 
晶は手に握らされた一本の煙草を見て、佐伯の読めない行動にざわつく胸の内を宥める。意味の解らない行動で、会う度に晶の中を乱暴にかき乱していく佐伯がやはり苦手だ。だけど……。 
 
晶は佐伯から貰った一本の煙草を口に咥える。自分で火を点け肺の奥深くにその味を浸透させる。慣れない味。慣れない煙の匂い。佐伯が触れた唇に指を当てさっきの台詞を思い出す。 
――それが俺の味だ。覚えておけよ。 
 
「なーにが、俺の味だよ……。かっこつけやがって…………」 
 
晶は小声で悪態をつくと、貰った一本が消えるまでGITANES BLONDESを吸った。 
佐伯が去った後も少しだけ残っているJAZZの香りが晶の鼻孔を擽っていた。喫煙所を後にして晶も店へと向かう。夜はまだ始まったばかりだった。