俺の言い訳彼の理由9


 

 終電が去った後の駅というのは一気に寂しい景色へと変貌をとげる。絶え間なく行き交う人々の代わりにできた空間が闇を飲み込むように広がっており、先程までの喧噪が嘘のように静まりかえっていた。
 渋谷が改札まで戻ると業務終了の片付けをしている駅員に同情の目線を向けられる。概ね、終電に乗り遅れて可哀想だとでも思われているのだろう。渋谷の他 にも数人乗り遅れた会社員が同じように改札を逆戻りしていく。さすがにこの時間になると酒に酔っている様の人間もいたが、残業だったのか疲れ切っているよ うに見える人間もいる。

 しかし、渋谷と違うのは彼らは改札をでた後、すぐにTAXI乗り場へと消えていった事だ。
いくら体が疲労していても帰って迎えてくれる人が居れば、また明日仕事に精を出すことが出来るだろう。家に帰ったとしても誰も居ない自分が酷く惨めに思えて、渋谷は溜息をついた。
 いつから自分はこんなにぎりぎりの生活しか出来なくなったのだろうと考えてしまう。学生時代の友人とも、今では誰とも連絡をとっていない。仕事を理由に 誘いを何度も断ってきたせいで、そのうち声もかからなくなった。それが寂しいとは今まで思った事はない。仕事に没頭していればあっという間に時が過ぎたか ら。
 しかし、今になって気付いてしまった…。流れてきた時間が戻ってこない事に……。もう取り返しの付かない年数が経っている事に後悔しか浮かばない。
こんな自分でも昔はこういう考え方をする人間では無かったはずだ。

 実家が学習塾を経営していたせいもあり、夏期講習や冬期講習等が休みの日もあった。父親は仕事一筋だったので家族で休みに遠出をすることも滅多に無かっ たのだ。そんな仕事第一の父親に、「たまには子供達と一緒に旅行へも行きたいのに、お父さんは仕事仕事なんだから」と、母親が冗談で軽く文句を言っていた 時など、渋谷も本当にそんなのは馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたのだ。仕事しかない人生なんてまっぴらだと子供ながらに思っていた。
 今の自分は、そんな昔の自分が嫌っていた仕事人間そのものだ。当時の父親以上に仕事だけに依存してしまっている。
こうする事でしか、あの日の事を忘れられる方法を知らなかったからだ。

── 会社を辞めて、どうしたら……。

 そんな事を考えながら改札をでて通りまで歩く。そして立ち止まると腕時計に視線を落とした。玖珂は、そう遠くはないと言っていたが、今いる詳しい場所を告げなかったのでどれくらいでここまでこれるのかはわからない。
(……あれ?)
 見慣れた改札を振り返り、渋谷はまずい事に気づいた。いつも自分は同じ口を使っているから気にも止めなかったが、品川駅は改札が一つという訳ではない。 自分がいつも使う東口の他にも改札はあるのだ。改札で待ち合わせをしたはいいが、これでは玖珂と会えるかわからない。もう一度玖珂に連絡をいれて、詳しい 場所の説明をしたほうがいいだろうか。
そう考えて携帯を取り出した後、渋谷はロックを解除する画面のまま指を止めた。

── 待ち合わせ……か。

 どんな顔をして玖珂に会えばいいのだろう。会って、その後は……?渋谷は自分の中で様々な問いかけを繰り返す。
考えれば考えるほどこうして玖珂を待っている自分の行動が身勝手に思えてしまう。周りの人間に裏切られたからといって玖珂の優しさに頼り切っていいものなのだろうか。彼の優しさに縋ろうとしている反面、玖珂にこんな自分を曝ける事への不安もある。
呆れられるのではないか?
これで愛想を尽かされたら?
考えられるだけの悪い結末を思い浮かべ、渋谷は一つの結論に辿り着いた。

── やはり………彼にはこんな状態では会わない方がいいのかもしれない……。

 渋谷はもう一度携帯を取り出し、断りの連絡を入れようと発信履歴の画面を開き、急いで通話を押す。まだこちらに向かって15分程しか経過していないはずだから、今なら彼の時間を無駄にしないで済むだろうと考える。

 しかし、自分がかけた電話の音と重なるようにして聞き慣れない電子音が耳に届く。音のする方を振り向いて渋谷は耳に当てていた携帯を静かにおろした。自 分の呼び出し音が遠く聞こえる代わりにもっと大きな音で玖珂の着信音が鳴り響いていた。渋谷の方へと玖珂がゆっくりと歩いてくるのが見える。玖珂が渋谷に 気付き、携帯の通話を切ると音は鳴り止んだ。

「よかった。高輪口もあるから、どっちに渋谷君がいるのかと思ってね。ちゃんと聞いておかなかった俺が悪いんだが」
「玖珂……さん」

 玖珂は細いストライプの入った濃いグレーのスーツを纏っている。肩幅も広く腰の位置が高い玖珂の体型にはスーツが実によく似合っていた。こんな時間であるにも関わらず疲れなどいっさい見せない出で立ちで歩み寄ってくる姿は他の会社員とは違っていて一線を画していた。

「すみません。お疲れの所こんな時間に……改札の件は俺のせいです。うっかりしてて」
「いや、別に構わない。夜には強い方だからね。場所は、こうして無事会えたのだからよしとしようか」

 玖珂はそう言って微笑んだ。渋谷は通話ボタンを押したまま握っていた携帯の電源を落とすと、ポケットへとそれをしまい込んだ。玖珂の話し方はいつもとて も落ち着いており渋谷を急かすような雰囲気は微塵も見せない。次の言葉を急く会話は人を疲れさせる事があるが、そういう所がないので渋谷も落ち着いて話を する事ができるのだ。
かなり低めのトーンを放つ声色は玖珂のその話し方に実によくあっていた。渋谷は断りの連絡をいれようとしていた事を誤魔化すように言葉を続けた。

「あ……車は?パーキングかなにかに停めたんですか?」
「いや、すぐそこに取りあえず駐車してあるんだ。ここで立ち話もなんだから、場所をかえないか?」
「……はい」

 思ったより早い玖珂の到着に気持ちの整理がまだついていなかったけれど……。車が停めてあるという場所に向かう玖珂の後に数歩遅れて着いていきながら、 渋谷は向かい風に乗ってくる玖珂の匂いに安堵のような感覚を覚えていた。東谷の近くにいた時の不安な気持ちと対照的なそれは失くした何かを思い出させる。
 先程まで会わない方が良いのでは等と思っていた事すら忘れてしまいそうになってしまう。

 少し駅から離れると車が通路に寄せて一台停車している場所へ到着した。車の車種には全く詳しくない渋谷だったが一目で外車だとわかる。側まできてロックを外すと助手席側をさっとあけ玖珂は中へ入るように促した。
普通の人間はこういうスマートなエスコートはなかなか出来ないものである。
 渋谷が乗り込んだ後、ドアを静かに閉めると運転席へと戻り、玖珂も乗り込んだ。車内は先程まで玖珂が運転していただけあって未だに冷気が籠もっており、 シートに座った渋谷にもひんやりとした感触が心地よく伝わってきた。汗ばんだ肌が一気に乾き、外の蒸し暑さを忘れさせる。見た目よりも車内は広く、寛げる 空間であった。

「じゃぁ、どうしようか?渋谷君はお腹がすいてる?」
「いえ、そんなには。玖珂さんは?」
「俺はどっちでもいいんだが、……渋谷君が話しやすい場所がいいだろうと思ってね」

気を遣ってそう告げる玖珂に渋谷は笑みを作った。

「……特に」
「 うん?」
「本当は話なんてないんです……俺」

 何から話せばいいのかわからなかったのもある。それに、玖珂と会っている時間をただ愚痴を聞かせるだけに使いたくないというのもあった。渋谷は俯いたまま何もない体裁を装う。

「……本当かい?」

 玖珂が静かに問いかける。心配そうに出されたその言葉に渋谷はわざと続きをあっさりと口にした。

「ええ、本当です」

 玖珂はそれ以上は聞いてこなかった。黙ったまま車のエンジンキーを差し込むとアクセルを踏み込む。マニュアル車のそれはギアを変えながらスムーズに発車 しだす。人気のない通りに目線を投げて渋谷は何をしたいのか自分でもわからなくなった。ただこうして玖珂と一緒にいるだけで、さきほどまでの孤独感は癒さ れる。何も話さなくてももう十分だった。自分は玖珂を利用しているのだろうか。孤独を紛らわす為に。

 気づくと少しずつ下がっていってしまう視線が足下まで落ちた時、渋谷は靴の先に光る何かを見つけた。少し屈んで拾い上げたそれはピアスだった。玖珂がピアスをしている事は以前にも気付いていたが、今拾った物は明らかに女性の物だろう。
金色の細い針の先に真っ赤なティアドロップ型の大きなルビーが光っている。今自分が座っている席に恋人を乗せた時のものなのだろうと思うと、何故か胸がチクリと痛むのを感じた。
 玖珂のような男に彼女がいないほうが不自然なのだから、それは当然の事なのだと渋谷は言い聞かせる。拾い上げたそれを掴んで玖珂へ話しかけた。

「これ……彼女のですよね?ここに落ちてましたよ」
「ん?……あぁ、すまない。そこに置いておいてくれ」

 ハンドルから手を離し玖珂がゆび指した小物入れへと拾ったピアスをおく。赤い光がフロントガラスに映って細い光を反射している。こんな綺麗な宝石を身に 纏うような女性が、玖珂の恋人なのだ。幸せそうに玖珂と並んで歩く光景を思い浮かべ、渋谷は思う。やはり自分とは住む世界が違うのだと。
 手をハンドルへと戻すついでに玖珂がラジオのスイッチを入れる。ここへ来る前に聞いていたのだろうか。あらかじめチューニングされてあったチャンネルから、DJの静かなナレーションと共に夜に似つかわしいスローバラードが流れ出した。
 明らかに恋人同士のBGMを意識しているようなそれに渋谷は少し気恥ずかしい気持ちになる。曲が始まって少しした所で、玖珂が渋谷へ視線を送る。

「そういえば……俺の仕事の事は話した事がなかったかな?」

 てっきり彼女という渋谷の言葉について否定か肯定かの返事がくると思われたが、玖珂は突然 仕事の話しを口にした。

「ええ、聞いても?」
「あぁ、別に隠しているわけではないから。俺は、ホストクラブの経営に携わっていてね。オーナーって言った方がわかりやすいかな?昔ホストをやっていたから、そのままの流れで、ね」

 ホストクラブと聞いて渋谷は自分が感じていた何処か会社員とは違った華やかさを持った玖珂の謎が解けた気がした。今まで全く関わってきたことのない世界ではあったが、テレビ等で何度か見ていたので、少しはわかる。

「そうだったんですか。でも、何となくわかります。普通の会社員ではないんだろうなとは思っていたので」
「そうかい?あぁ、やっぱり水商売が長いと染まってしまうのかもしれないな」

そう言って玖珂が苦笑する。

「あ……いえ、そういうわけじゃないんです」
「違うの?」
「はい……その、玖珂さんはいつもお洒落だし……うちの会社にはいないタイプだから。もっと華のあるモデル業か何かかなと思ったりしていました」
「まさか」

 玖珂が少しだけ照れたように笑った。思っていた事をそのまま告げたはいいが、よく考えると男相手にこんな事を言うなんておかしいと思われるかもしれないと思い、渋谷は少し慌てる。

「……男に褒められても気持ち悪いだけですよね……すみません」
「いや、そんな事はないよ。男でも女でも褒められれば嬉しいもんだからね。ありがとう」
「いえ……そんな」

 車は何処へ向かっているのか街灯で照らされたアスファルトを迷いもなく進んでいく。暫く会話もなくラジオだけが相変わらず流れ続けていたが、その沈黙も息の詰まる物ではなかった。
かかる曲を耳に流しながら渋谷はずっと張りつめていた気持ちを緩めて息を吐いた。換気のため細く開けられた窓から風が入り込み頬をなでていく。数時間前の出来事がまるで悪夢だったかのように今は落ち着いていられた。

「渋谷くんは煙草は吸うのかな?」
「たまにですね、普段は滅多に吸いませんけど時々吸いたくなって吸う時はあります」
「じゃぁ、今吸っても平気?」
「ええ、勿論。俺は全然平気なので気にせずどうぞ」
「メンソールだけど良かったら」

 口に咥えた煙草をそのままに玖珂が煙草の箱を渋谷に向けた。たまに仕事に煮詰まっている時に吸ったりはするが、会社も禁煙なので中々吸う機会がなく今ではもう煙草の味も忘れてきつつあった。
 玖珂の吸っているのはKOOLでかなりきつめの種類である。ひさしぶりに吸うのがそんなきついもので大丈夫かとも思ったが、渋谷は玖珂の差し出した煙草を受け取った。
 ちょうど信号が赤になり停車したのを見計らって玖珂が火を点けてくれる。

「あ……すみません」

 煙草を吸うときに人に火を点けてもらったのは、新入社員の時上司に連れて行かれたクラブでホステスにしてもらって以来だ。久しぶりに吸い込んだ煙は確か に渋谷にはきついとも感じられたが、それ以上にメンソールだったせいか肺に吸い込んだ後の爽快感は純粋に心地よい。窓を大きくあけ吸い込んだ紫煙をゆっく りと吐き出した。
 ハンドルに添えた手で挟んでいる玖珂の煙草の持ち方は少し癖があって、人差し指と中指の間ではなく薬指と中指の間に挟んでいる。そんな玖珂の癖のある持ち方をちらりと見た後、渋谷は自分の指に挟んだ煙草が短くなっていくのをただ見ていた。
 
 
 
 
 どれくらい走ったのだろうか。時間にすると20分ほどだったが、時間帯のせいで道はとても空いており随分遠い所まで来た気がする。窓から望む景色は東京湾が間近に迫っている。それから少しして玖珂は車を脇に寄せてエンジンを切った。

「あの……ここは?」
「何もない所だが、ここから見る夜景が好きでね。たまに一人で来ては息抜きをしてるんだ」

 そう言って玖珂は車から降りた。渋谷も後に続いて助手席を出る。水辺だからなのか結構涼しい風が吹いており、その風に乗って、少し潮の匂いがした。
 降りたばかりの車に背を預けると玖珂はずっと遠くを見ていた。セットしてある髪から少し乱れた前髪が風に靡いて玖珂の切れ長の眦に影を落としている。渋谷も玖珂の隣へ同じように立つと玖珂の視線が臨む方を一緒に見る。
東京の夜景が間近で見る時よりも纏まって見え、光の帯のように広がっていた。

「いい景色だろう?静かだしね」
「えぇ、いい場所ですね……落ち着きます」

 長年都内に住んでいる物の、こうしてゆっくりと夜景を見ることは渋谷にはない事であった。自分のいる今の場所が暗いせいか遠くの夜景の光は足下までは届く事はない。海に溶けて途中で消えていく光が少し寂しげに写っている。
 玖珂がたまにここにきて息抜きをするのだと言った理由が渋谷にもわかるようなきがした。

 波が堤防にあたって砕ける音さえ心地よいBGMになる。いつのまにか仕事のことなどとても小さい事のように思えてくる。
玖珂が聞いてこないのなら、あえて今夜の話はしないでおこう。そう思って渋谷は顔をあげた。

 こうして二人で夜景を眺めていると、玖珂と出会ったのがついこの前だという事実を忘れそうになる。本当の自分をもっと知って欲しい。そんな気持ちまで湧 いてきてしまう。玖珂に素のままの自分を見て欲しいと思うのは、自分の我が儘なのかもしれないが、今日までずっと誰にも話してこなかった話しを玖珂になら 話せる気がしていた。
 全て失ってしまった今、すぐには変わる事等出来ないのかも知れないが、前へ進むための一歩を見守って欲しかったのだ。過去の自分と決別し、明日からまた一人で生きていけるように……。眩しい夜景を瞳に移したまま、渋谷は口を開く。

「……玖珂さんの彼女はどんな女性なんですか?」
「うん?彼女?」
「さっきのピアス……玖珂さんの恋人のですよね?」
「そうだ……って言いたい所なんだが、残念ながら今は彼女はいなくてね」
「え?」

渋谷は隣にいる玖珂の横顔を少し驚いて見た。玖珂に彼女がいないとは、思っていなかった。自分の予想は外れたという事だ

「そうなんですか……。俺はてっきり」
「さっきのピアスは、客を乗せた時の物かもしれないな。仕事柄、女性を助手席に乗せることは少なくないからね。じゃぁ、俺も聞いてもいいかな?渋谷君は、恋人はいるのかな?」
「俺も……いませんよ。今まで仕事が恋人だったので……」
「うまい事言うね……俺もそういう風に言えば良かったかな?その方が少しは格好がついたか」

 玖珂はそう言って笑ったあと煙草に火を点けた。火が風で消えないように片手で囲いを作っているその姿を見ながら、渋谷はずっと向こうの夜景を横目に息を呑んだ。僅かに緊張を感じ、覚悟を決めるように指を組み直す。

「でも……俺、ずっと好きな人はいるんです」

そう呟いた渋谷に玖珂は煙を吐き出しながら優しく微笑んだのがわかった。

「そうか。恋をするのは凄くいい事だと思うよ。俺も……、気になる人ならいるかな……」
「玖珂さんなら、告白すればお付き合い出来るんじゃないですか?」
「さぁ、どうだろうな。ちょっと難しいかもしれない」

 玖珂が思いを告げても受け入れない女性もいる等、渋谷は想像もつかなかった。それと同時に玖珂のような人間に好意を寄せられる人物がどんな人なのか、興味が湧くと共に羨ましい気持ちになる。

「もったいない……ですね」
「……そんな事はないよ。俺も普通の人間だからね、格好悪い部分も沢山あるし、結構自分勝手な所だってあるからな」
「そうですか?俺にはそうは見えませんけど……」
「渋谷君は、随分俺を高く評価してくれるんだな。これは評価を落とさないように頑張らないといけないね」

 苦笑して玖珂がそういうのに釣られて渋谷も微笑む。

「でも、皆、完璧ではないから……我が儘だったり格好悪かったりする部分があるのは仕方ないんじゃないですか?」
「うーん。確かに、完璧な人間はいないのかもしれないな……好きな人の前では、そうあろうと気を付けてはいるが、中々難しいね……。それより、渋谷君の好きな相手というのはどんな人なの?良かったら聞かせてくれないか」
「俺ですか?……俺が好きな人は……」

 初めて口にする自分の気持ち。恋などと綺麗な感情だけでは到底表せない自分のそれは、あの日から今までずっと胸にしまい込んでいたものだ。今からする話しで、玖珂が自分から離れていく可能性がある事は覚悟している。
それでも渋谷は言葉を続ける事にした。
 波の音にまじって吐き出された行き場のない感情が、今なら少しだけ居場所を見つけられる気がして……。
しばらくの沈黙の後、渋谷は呟くように言葉を続けた。

「俺の好きな人は、今25歳です……」
「そうなのか、少し歳が離れているんだな」

 玖珂がうんうんと頷いて渋谷を見る。渋谷は少し自嘲気味に笑うと長い前髪を掻き上げた。

「一本……煙草、もらってもいいですか?」
「あぁ、どうぞ」

 差し出された煙草を受け取り、火を借りる。そして肺の奥深くまで煙を吸い込んだ後、煙と一緒に言葉を吐き出した。

「俺の……妹なんです……」

 玖珂はすぐには言葉を返してこなかった。驚いているのか、呆れているのか、玖珂の表情を窺いたいが、見てしまうのが怖くて渋谷は彷徨う視線を強引に遠く へ固定する。もう一度煙草を吸い込むとメントールが強く肺に入ってきて胸が少し痛んだ。渋谷は自分の気持ちを吐き出すように、いつもより饒舌に言葉を続け る。

「おかしい、ですよね……というか……気持ち悪いって言う方がいいのかな。わかっているんです。本当に血も繋がっているし、常識的に考えてあってはいけない事で……親にも顔向け出来ないような話です……自分が変だって事は理解しているんですが」

 玖珂は自分も一本煙草を抜き取ると静かに口に咥えた。そして徐に口を開く。

「渋谷君は、後悔してるのかい?」
「……え?」

 玖珂の問いかけに渋谷は言葉を詰まらせた。決して責めているわけでもなく今までの会話と同じ温度でだされたその質問は
どういう意味を含んでいるのか渋谷には計りかねた。ただ、これだけは言える。妹を好きになった事を後悔はしていなかった。例え、もう一度時間を戻せて別の道を選ぶとしても。

「いえ……好きになった事は、後悔は……してないです」
「そうか。だったらそんなに自分を責めない方がいい」

 そう言って振り向いた玖珂はいつもの穏やかな表情で渋谷を見ていた。その視線には、蔑みや嫌悪を滲ませて等いなかった。
話しをする前から、覚悟はしていたはずだった。こんな話しを玖珂に聞かせて、彼が自分に嫌気がさすのではないかと。
 なのに、玖珂がいつもと変わらぬ態度で自分を視界に入れているのを見た途端、心の底から安堵している自分が居る。
玖珂はそんな渋谷の気持ちを知ってか汲み取るように話しを続ける。

「俺は、そういう事で渋谷君を見る目は変わらないよ。君がもし、妹さんを好きになって、後悔しているなら話しは別だけどね」
「それは……どういう……」
「そうだな……。好きになるのは止めようと思って止められる物じゃないだろう?だとしたらだ。好きになった以上は相手がどんな境遇でも自分の好きになった気持ちを大切にした方がいい。そうは思わないか?」
「…………」
「結果的に……その恋が成就するかしないかは別としてね。……後悔していると言うことは、好きだという自分自身の気持ちを裏切っている事になる。俺はそういうのは悲しい事だと思うんだが」
「……玖珂さん。……俺は」

 続ける言葉を詰まらせて睫を伏せる渋谷に、玖珂は小さく「無理しなくていい」そう言って渋谷の俯いた髪をそっとなでた。触れるか触れないかというくらい の軽い仕草だったのが、その指先があまりに優しくて、渋谷は我慢してきた何かが自分の中で音を立てて崩れていくのを聞いた。
 
 
 
 
 渋谷が妹を愛していると気付いたのは大学4年の時だった。16になった妹は一気に大人っぽくなり女子から女性へと変貌を遂げた。それでも兄弟仲が昔から よかった渋谷は勉強をみてやったり、相談にのったりと面倒をよくみていた。妹もとても渋谷へ懐いており、幼少の頃は「お兄ちゃんのお嫁さんになる」と近所 にいいふらす程で、それは成長した後も変わることが無かった。しかし、その頃から渋谷には別の感情が芽生えていた。妹が自分に向ける『好き』と自分が妹へ 向ける『好き』が違っている。それに自分で気付いてから何度も諦めようとしてきた。

 懐いてくる妹をわざと邪険に扱い、なるべく顔を合わせないようにバイトを増やして家に居る時間を極力減らしたりと努力もした。一時の思春期の勘違いなの だと思いたかった。しかし、妹を避ければ避けるほど久しぶりに顔を合わせれば余計に愛しく感じ、隣の部屋で眠る妹に気持ちは募っていくばかりだった。その 気持ちはどんなに忘れようとしてもいつまでも渋谷の中へ残っていた。
 大学を出て社会人になり、接待などでよく酒を飲むようになったある日。渋谷は、泥酔に近い状態まで上司に飲まされ、深夜近くに自宅へと帰った。すでに家 族は全員眠っているはずの時間。風呂場へとシャワーを浴びにいった時、渋谷の予想を裏切り妹が風呂場にいたのだ。磨りガラス越しに覗く妹の姿を目にし、渋 谷は抑えが効かなくなった。

「お兄ちゃんだよね?そこにいるの」
「あぁ……」

 いつもの妹の声、警戒など全くしていない無防備なその声に返事を返しながら、渋谷は風呂場のドアをあけた。妹は驚いたような表情でタオルで咄嗟に体を隠 した。何かに操られてでも居るようにぎこちなく風呂場へと入った渋谷は妹からタオルを取り上げると、そのままずっと焦がれていた妹の唇を強引に奪った。
 それは一瞬魔が差したというくらいの短い時間。突然の事で抵抗もしなかった妹が力なく崩れ落ち、腕で支えた渋谷はその重みで我に返った。
 大声をあげたり泣き叫んだりはしなかったが妹はゆっくりと顔を上げた。その瞳はいつもの慕ってくるそれではなく、恐怖に怯えたような拒絶を色濃く映した物だった。
今自分は何をした?
妹の泣きそうな瞳に映り込む自分の姿。

「……ご…ごめんな……」

 謝った所で取り返しのつかない事くらいはわかっていたが、渋谷は何度も妹に頭を下げた。震えて立ち上がることの出来ない妹がその後勢いよく風呂場のドアを閉めた。呆然としてドアの前で立ち竦んでいる渋谷に、妹の押し殺したような泣き声が届く。
 渋谷は何も考えられないまま自室へと戻り、酒のせいもあって割れそうに痛む頭を枕におしつけ自分を責め続けた。妹はその事を両親には話していないらしく、次の日になっても家族はいつもと変わらなく朝の食卓を囲んでいた。
ただ、妹はその日から一切口も聞かず目も合わせなくなった。それから一週間して渋谷は家を出て一人暮らしをすることに決めたのだ。
 突然一人暮らしをすると言った渋谷に父親はしつこく理由をきいてきたが、会社の都合で時間が不規則になるからと言い張り妹から逃げるようにして家を出 た。そのままもう何年も妹とは話しをしていない。実家にも仕事が忙しいのを理由に、正月に何時間か顔をみせるだけになっていた。

 渋谷は妹を好きになった事を後悔はしていない。しかし、結果的に行動を起こし妹を傷つけた事実は後悔してもしきれなかった。慕ってくれていた妹を裏切ったのだから。たった一瞬の過ちはあの日から一時も離れず重くのしかかり今でも渋谷を責め続けている。
 
 
 
 
 玖珂の前で抑えきれない感情が溢れて、渋谷は初めて人前で涙を零した。一度溢れた涙は我慢しようとすればするほどこみ上げてきて、ポケットから出したハンカチで隠しても、それをすぐに濡らしていった。

「……すみません……泣いたりして……今まで何ともなかったのに……本当にどうしたんだろう……おかしいな」

 恥ずかしさと惨めさから、顔を玖珂に背ける渋谷の背中から玖珂の腕がゆっくりと回された。強引に抱き寄せるような力強いものではなく包むようにそっと抱 くように回された腕は渋谷の目の前で緩く組み合わされた。「辛かったな……話してくれて有難う」一言玖珂が呟く。背中に伝わる玖珂からの暖かな温もり。回 された腕が渋谷の涙で濡れた手を宥めるようにさする。

「……玖珂…さん…」
「大丈夫だ。こうしてれば渋谷君の顔は俺からは見えないよ。気が済むまで泣いたらいい……誰も見てないから」

 背の高い玖珂の声が、近づいた事で渋谷の耳元へとはっきりと届く。漸く落ち着いて涙が止まった渋谷はハンカチをしまうとまだ濡れている双眼を袖で拭う。玖珂の腕をそっと離れ向かい合った。さすがに顔をあげるには照れがあり俯いたままで玖珂へと謝る。

「すみません……。何だか玖珂さんには、みっともない所ばかりお見せして……」
「そう?」
「呆れられていないか心配です……」
「呆れていたら、こうして君を抱きしめたりしないと思うけど?」

 玖珂は冗談っぽくそう言って微笑んだ。渋谷は改めて今、玖珂に抱きしめられていた事に気づきますます下を向いた。男同士で、いくら感情が高ぶっていたとはいえ抱き合うなんておかしいのではないか。
そう頭ではわかっていたけれど、玖珂の体温を感じた時に気持ちが落ち着いていき穏やかになっていった事は事実だった。男に触れられる事に恐怖を覚えていた はずだったのに……。渋谷はこの気持ちが友情とも信頼とも少し別の場所にあり、そしてそれは自分にとって一番安らげる位置にある事に気付いていた。腕の中 にいる渋谷に「もう落ち着いたかな?」そう囁き、玖珂はまた渋谷の頭を撫でる。

「そろそろ帰ろうか。明日も仕事だろう?」
「……ええ、そうですね」

渋谷が腕時計を見ると夜中の2時を回った所であった。

「玖珂さんも明日、仕事ですか?」
「あぁ、そうだよ」
「すみません。俺こんな時間まで……付き合わせちゃって」
「渋谷君は今日は謝ってばかりだな。なに、いつもはもっと遅い時間になることもざらだからね。時間は気にしなくていい」
「……すみません」
「ほーら、また謝る」

 再び謝ったあと渋谷もそれに気づき少し笑った。
玖珂が運転席に乗り込み渋谷も助手席へと乗り込む。家まで送っていくという玖珂の言葉に甘え渋谷は自宅までを共にした。
渋谷のマンションまではあっという間につき、マンション脇へと車を停車させると玖珂がロックを外す。

「玖珂さん。今日は……本当に有り難うございました」
「少しでも渋谷君が元気になれたなら、俺も嬉しいよ」
「あの……今度もし時間があったら夕飯でも奢らせて下さい。今までのお礼も兼ねて」
「気を遣わなくていいのに。でも、そうだな……じゃぁ今度は夕飯でも食べに行くか」
「ええ、是非。また連絡します」
「あぁ、わかった」
「じゃぁ、帰り、お気を付けて」
「有り難う。おやすみ」
「おやすみなさい」

 車のドアを閉めて玖珂が角をまがるまで渋谷はその姿をずっと見ていた。会社を出た時の悲観的な気分は、今の渋谷にはなかった。会社を辞めることになっても、明日のプレゼンを完璧にしあげそして先のことを考えよう。
前向きな思考は状況をいい方向へと変える力がある。渋谷はそう心に決めて一歩を踏み出した。
 
 
 
 
*             *                *
 
 
 
 
 玖珂は渋谷を送ったあと、自宅へと戻る道を運転しながら先程渋谷が話した言葉を思い出していた。普通の男よりは、職業柄様々な形の恋愛を耳にして来たとはいえ、実の妹が好きなのだと言った渋谷の予想もしなかったその告白に驚かなかったというのは嘘になる。
 しかし、それ以上にその思い詰めたような渋谷の告白は玖珂のその驚きを一蹴した。俯き気味に首を下げた渋谷は、言った後すぐに誤魔化すように自分を蔑むような言葉を続けていた。それはまるで過去を思い出して、自分を責めているようでもあった。
 渋谷が自分の事を人に話すタイプかどうかはハッキリとはわからない。それでも皆に話して聞かせるような話ではないことは確かだ。それを自分に話してくれたという事は少しでも心を許してくれたと自惚れてもよいと言うことなのだろうかと玖珂は考えていた。
 渋谷から電話をもらい会った時には随分と疲れたような印象があったが、帰る頃には幾分それは和らぎ、渋谷の本来持つ優しさなのだろう、柔らかな笑顔まで見せてくれるようになった。
玖珂は思う。やはり笑顔は思っていたとおり魅き込まれる物がある。
 その笑顔を曇らせる要因が何であれ、自分は彼のその笑顔を曇らせる物から守ってやりたいのだと。それと同時に顔には出さないようにはしているが玖珂は朝 子との事を渋谷に話していない事もずっと気になっていた。自分が朝子と体の関係まで持っていたという事実は遠い過去の話でもあるが、知らなかった事とはい え朝子は渋谷の母親なのだ。いつまでも隠しているわけにもいかないだろう。いつかは渋谷に打ち明けなければいけない。
 しかし、自分の母親が、父親以外の男とそういう関係を一度でも結んでいたという事実は結果的に渋谷を傷つけることになるのではないか。そう思うと、その事を渋谷に話すのが躊躇われた。


 後ろから軽くクラクションが鳴らされ、フと我に返ると目の前の信号がいつのまにか青になっている。
玖珂はゆっくりと発進し周りの車があまりいない真っ直ぐな道を加速していく。山手通りを飛ばしながら渋谷の顔を思い浮かべた。