戀燈籠 第一幕


 

時は大正十三年
西洋文化も入り交じる文明に人々は我さきにと舶來品を身につけ
街は活氣づいてゐた

一人の男が古びた店から出てきて錆び附ゐた鍵を取りだして店を施錠した
人目で仕立てがよいとわかるツイードの背廣をきたその男の名前は「御樹 鈴音」
緑かかつた漆黒の長い髮を無造作に束ねてゐる
透き通るやうな肌はまるで雪華石膏のやうでもあり
彼のすつきりとした目元をより一層引き立ててゐた

「御樹さん 今日はもう店終ひかい?」
「ええ どうせ誰もきませんから いいのですよ」
「ははは 隨分悠長だねえ 
 もうちよいと商賣氣ださないとこの先大變になるんぢやないのかい?」
「さうですね では、明日から」

隣の花屋の店主に微笑むと御樹は夕暮れの街をゆつくりと歩いていつた
道に落ちた影が長く伸びて追ひかけてくる
向かふ先は、週に二度ほど足を運んでゐる古書店
いつも目當てもなく出向くのだが歸りには持ちきれないほどの本を買つて歸る事になる
特に買ふ本の種類は決まつてをらず、
春畫から推理小説から學術書まで何でも買つて歸つた
自分の知らない世界を知るのが御樹の密やかな樂しみであつた
今日も御樹は本棚の前でさまざまな本を手にとつては眺めてゐた
古書店の店主ともすつかり顏なじみになつてゐる

「今日も何かお探しで?」
「いえ 特に決めてはゐないんですが、どれも興味がありますね」

レジスタアの前で6册もの本を積んで御樹は財布を懷からとり出した
フと奧の棚に目をやると一册とても裝幀の古い本が目に入つた
御樹はその本がどうしても見てみたいと思つた

「すみませんが、そちらの本を見せて頂けますか?」
「ええと、どれですか?これ?」
「いえ その隣の」
「ああ これね でもこの本賣り物ぢやあないんですよ 
 あんまりにボロボロでしてね處分しようかと思つてたんですは」
「さうなんですか……あの……もし宜しければ
 その本、私に讓つてくださいませんか?」
「え?このボロボロを? そりやあ構ひませんよ 
 どうせうちで處分しちまはうとしてたわけですし」
「有り難うございます ではお言葉に甘えて頂きます」

御樹は他の本の代金を支拂つて古書店を後にした
店を出ると邊りはすでに暗くなつてゐた
さきほどまで附ゐてきた影もすつかり闇に紛れてしまつてゐた
急いで歸る用事もないのでいつものやうにゆつくりと歩を進めた







御樹には家族がゐない
母親は小さい頃に病で死んでしまつたし
父親が誰かといふ事でさへ教へてもらつた事もなかつた
否、御樹自身そんな事は別段知りたいとも思つた事もなかつたのだが
祖母に引き取られて二十三を數えるまで共に暮らしてゐたが
祖母が亡くなつてからはずつと一人で生活をしてゐる
祖母がやつてゐた骨董品屋を受け繼いだせいで少しだが金も手に入つた
そもそも、元が裕福な家柄だつたせいもあり
祖母も骨董品屋は趣味でやつてゐたやうな物だつたから
暮らしに不自由はしてゐない
店には常連の客が新物を探しに來たり
珍しい骨董を賣りに來たりするくらゐで
目新しい客がくる事もほとんどなかつた
店番を終へたら、かうして街を歩いてみたり
讀書をしたりして時間も好きに使へた

御樹は一度も寂しいなどと思つた事はない

靜かな毎日を樂しんでゐた
冬になれば厚手のコートを羽織つて賑はふ街に足を運んだし
春になれば染井吉野の植わつてゐる廣場へ花見にも出かけた
夏には朝顏の種などを買つて育ててみたりもするし
秋の夜長には朝まで讀み物に耽つて過ごす事もあつた
さうして毎日が過ぎていつた



書店からしばらく當てもなく歩いてゐたが御樹はそろそろ歸らうかと自宅へ足を向けた
賑はふ通りを一人歩いてゐると、街角にたつ、からゆきさんが聲をかけてくる

「お兄さん 妾と遊んでいかない?」

粉おしろいの匂ひを振りまきながらやけに艷めかしく紅を引いた女性逹
誰もが自分が一番綺麗でせう?といふやうに腰をひねつて媚びを賣つてくる

「申し譯ないですが 私は急いでゐますので」

御樹は女が苦手などといふ事もなかつたが
今まで戀といふものをした事もなかつた
夜伽を交はした女性は何人かいたが
別に愛してゐるとか好いてゐるなどの感情があつての色戀物語を演じたわけではない
少しはかういふのも惡くないと、ただそれだけだつた
御樹は今年で二十八を數える
見合ひ話しもちらほらあり
御樹自身もそろそろその中の誰かと世帶をもつてもいいかとも考へてゐた
好いていなくとも、伴侶を持つといふものがどういふものなのか體驗してもいいか、さう思つてゐた
しばらく歩いてすつかり賑はひから遠ざかつた所で
御樹は手にしてゐる袋の中から先ほど古書店でもらつた本を取りだしてみた
さして厚みのある本といふわけでもないが 
濕氣を吸つてゐるのかずつしりと重いその本を手にとり表紙を眺めてみた




──…戀 燈 籠…こいとうらう…




作者の名前も何も書いてをらず
ただ表題だけがかすかに色を變えて印刷してあつた
御樹は骨董品屋を營むだけはあつて古い物にはたいがい目が利く
ざつと中身と裝幀をみただけで
この本が見た目ほど古いものではないと氣附ゐてゐた
五十も昔に上ればいいはうではないだらうか
見てくれは古書のやうに古びてゐたが中身に使用してゐる紙は意外に新しい物だつた
薄紅の表紙の誇りをさつと手ではらつて、しばし歩きながら話を讀み出した
街燈だけを頼りに薄暗い道を歩く
途中で一本の街燈が切れかかつて儚くもちかちかとしてゐる場所を通りかかつた
足下に何かがあたつて御樹は讀んでゐた本から視線を足下に向けた

──…人?

切れかかつた街燈の下で一人の男が蹲つてゐた
まだ時間も早いが醉つぱらつてでもゐるのだらうか?
いつもなら放つておくところだが
何となく氣まぐれで聲をかけてみようと御樹は思つた

それといふのも蹲つてゐる男はあまりみかけない芝翫茶の淡い髮の色をしてをり
柔らかさうなそれは切れかかつた街燈のわづかな明かりの下でもとても綺麗に見えた

──御樹はこの男の瞳の色を見てみたいと思つたのだ

手にしてゐた本を仕舞ふと男の隣に腰をかがめた

「どうかなさいましたか?御氣分でも惡いのですか?」

少し顏を上げた男は異國の人間のやうに深い緑色の瞳をしてゐた
御樹はドキリとしてその瞳に吸ひ込まれた

「誰だ?…………あんた 金ならもつてないけど……」

男からは酒の匂ひは特にしなかつた

「私はただの通りすがりですよ 貴方が蹲つてゐたので聲をかけただけです
 醫者を呼んできてあげませうか? とても苦しさうですが………」

男は額に冷や汗を浮かべて眉根を寄せてゐる
御樹は男の背中に手を當てると靜かに擦つてやつた

「惡いけど……放つておいて…くれ」

激しくせき込みながら男は御樹の手を拂うやうに立ち上がつた

──どうしたものか………

御樹は腰をあげて男が去つていくのをただ見てゐるしかなかつた
少しだけ先に行つてはまた男は壁際に手をついて倒れ込んでゐる
仕方なく御樹は男の元まで行つてもう一度聲をかけた

「あまり無理をなさらない方がいいですよ 
 私の家で少し休んで行かれては如何ですか?すぐ そこですから」

男はそれ以外に方法がないと思つたのか
しぶしぶと御樹の差し出した手を掴んで立ち上がつた
竝んでみるとかなり上背のある御樹とほぼ同じくらゐの背丈だつた
着物の襟首から覗く肌は
瞳と同じく日本人とはやや違つてゐて淡い櫻色のやうな色をしてゐる
二人は何度か途中で休憩をいれてやつと家へついた



店の裏手から中に入つて御樹は男を座敷に通した
さきほど觸つた手でわかつたのだがどうやら熱があるらしい
流行風邪でも患つてゐるのかもしれない
御樹は男に横になるやうに勸めた


「熱があるやうですね 明日にでも醫者にいかれたはうがいいですよ
 とりあへず今日はここで休んでいつてくださつて構ひませんから……」

男は御樹の敷いた蒲團に腰を下ろして顏をあげた

「聞いてもいいか? 君は見ず知らずの俺に何で親切にしてくれる?」

確かに御樹自身こんな出會つたばかりの見知らぬ男を家にあげた事もなかつたが
どうして?と聞かれると自分でも答へが見つからなかつた

「さあ 何故でせう?私にもわかりません」

御樹がさう答へると男は呆れたやうな顏で御樹を見ると
「變わつたやつだな」と苦笑した

「少し着物を弛めさせてもらつても構はないか?」
「ええ 構ひませんよ 男同士ですから氣にしません」

壁にもたれ掛かつてゐた男は上着を脱いで
着てゐる着物の襟首をぐいと掴んで弛めため息をついた
御樹はみるともなしに男のはだけた胸元をちらりと見た
男の鎖骨のあたりにうつすらと情交の後があつた
戀仲の女性でもゐるのだらう
御樹はそんな事を考へた


「さういや 名を乘つてなかつたか…… 名乘る必要なんざないかも知れないけど…
 俺は咲坂 青人 君は?」
「私は御樹 鈴音 といひます」


咲坂と名乘つた男は御樹の名前をきいて女みたいな名前だと笑つた後
綺麗な名前だと附け加へた

「咲坂さんの お名前も綺麗な名前ですね とてもお似合ひです」
「そんないいもんぢやあない…」

御樹の鈴音といふ名前もあまり男では耳にしないが青人といふ名前もきいた事はなかつた
ただ御樹は咲坂にとても似合ふ名前だと思つてゐた

「ご家族の方にご聯絡などしなくても宜しいのですか?」
「家族? そんなもんは當の昔に忘れたよ………」
御樹はその言葉に少し驚いたがさきほどの情交の跡を思ひ出して思ひ切つて訪ねてみた
「でも、愛しいお方はいらつしやるやうですからね」
咲坂はふと困惑したやうな表情を浮かべた後

「………愛しい人………ねェ」

と自嘲氣味に笑つた


御樹もそれ以上はきかなかつたので話はそこで途切れた

「では私は別の部屋にゐますので用があつたら呼んで下さい ごゆつくり」
「ああ 恩に着る」

咲坂のゐる部屋の襖をしめて御樹は自分の部屋へと戻つた
廊下にでるとまだ、秋の半ばだといふのに足下から冷たい空氣が身體を昇つた



─今夜は特に冷えますね

一人さう呟いては、御樹はポケットに手を差し入れた