戀燈籠 第九幕


 それからも御樹と咲坂は會うたびに約束のやうに
別れ際には接吻を交はすやうになつてゐた
次の約束の日までの互いの想ひを
接吻の餘韻に乘せる
それは甘美な誘ひで二人の氣持ちをより強く結びつかせてゐた


しかしそんな甘い時間は長くは續かなかつた
咲坂が御樹と個人的に逢瀬してゐる事を店に知られ
以前のやうには拔け出せなくなつてしまつてゐた
募る想ひは會わない日が續くほどに色を濃くしていつた
 
 
 
 
そして御樹は咲坂への最後の手紙を書くべく筆をとつた
すでに書き損じた便せんが何枚も机の脇に重なつてゐる
どのやうに書けば咲坂に一番傳わるのだらうか
これは一種の賭でもあつた
前から考へてゐた事ではあつたが、今まで云はなかつたのには譯があつた

──咲坂は受け入れてくれるのだらうか……

──もし……斷られたら

これで終はつてしまふかもしれない
さうわかつてゐても筆は想ひを確實に形にしながら進んでいつた
咲坂と離れたくないといふ強い氣持ちは
もう抑へる事が難しいほどに御樹を支配してゐた



漸く書き終へた手紙を三つ折りに折ると封筒に入れる

咲坂 青人樣

いつものやうに書く宛名の文字が、心なしかぶれたやうな氣がした
 
 
 
 
御樹は夕方になるのを待ち、さきほど書いた手紙を持つと外套をはをつた
季節は十二月の終はりにさしかかつてをり
早くも正月の飾り附けをしてゐる商店を横目でちらりと見ながら御樹は歩いた
冷え込む夕方の街が御樹の指を冷たくする
輕く咳をすると外套の襟をかきあはせた

いつもの場所にたどり着くと木の根本に手紙をそつと置いた
變わらない光景が目に映る
人目に觸れないその場所は
御樹と咲坂にとつて何處よりも意味のある場所だつた


目の前の冬枯れで葉をなくした木の幹に手のひらをあてる
ひんやりとした感觸の中
御樹は願ひをかけた

──どうか……私の願ひを叶へて下さい……

目を閉ぢて願ひをかける御樹の姿が
僅かな街燈の光に淡く照らされてゐた
靜かに目をあけた御樹が幹から手を離すと
ふと暖かい空氣が手を包んだやうな氣がした
 
 
 
 
 
    *          *         *
 
 
 
 
 
そして次の日

御樹は朝から手紙の事が氣になつてゐた
夜の間にも咲坂の夢を何度も見ては淺い眠りから目覺めた
店番をしてゐる間も時間が早く過ぎないかと時計を何度も見てはため息を吐いてゐた

長かつた時間がやつと過ぎいつもの時間になると
御樹は少し早くに店を閉めていつもの場所に急いだ
いつもと違ふのは今日は手紙を持つてゐない事
ただ咲坂からの返信を受け取るためだけに今日は通ひ路を歩く

枯れ枝が目に入るくらゐまで近づいて御樹はすつと息を吸ひ込んだ
この先に答へがあるのだと思ふと
あと少しの所で足が止まつてしまひさうだつた
ゆつくりと近づいて廻り込み
そして、木の根元を見る
 
 
 
そこにはいつもあるはずの咲坂からの手紙はなかつた
 
 
 
ただ何もないその空間を見つめて御樹は目を伏せた
心の何處かで期待をしてゐただけに
目の前の事實を受け入れる事はすぐには出來なかつた

もう一度だけしつかりと木の根本に目を向けてみる
しかし、そこにはやはり何もなく


御樹が見てゐる前で
枯れ木に殘つてゐた最後の一葉がはらりと舞ひ落ちただけであつた


御樹は自分のとつた行動を後悔してゐた
やはり急いてゐたのだらうか
咲坂の氣持ちが自分にあるとわかつた事で
何もかもがうまくいく樣な錯覺に陷つてゐた自分の淺はかさに嫌氣がさした

陽はすつかり沈み邊りは闇が忍び寄る
橙の祝福は夢の一幕であつたかのやうに見えた
 
 
 
御樹は肩を落とすと氣持ちの整理のつかないままにその場を離れた
こんなに悲觀的な氣持ちになつた事は今までなく
自分の想ひを消化するために
いつたいこれからどうやつて生きていけばいいのか分からなくなつてゐた

急に空いた胸の穴を何かで埋めたくて
いつもは通らない盛り場へ足を運んだ
御樹はあまり酒には強い方ではなかつたのだが
はじめて浴びるほどの酒を一人で飮んだ

一瞬だけでも現實から遠ざかりたくて飮んだ酒は
ただ想ひを強くしただけで何の效果も御樹に與えてはくれなかつた

店をでて不確かな足取りで歩く道の先には空虚な世界がこちらを招いてゐるようにも見えた


最初に咲坂と出會つた街燈の前にさしかかり
御樹はぼんやりと空を見上げた
冷たい風が御樹の黒髮をなびかせ
その瞬間結んでゐた髮紐が音もなく切れて地面におちた

ほどかれた長い黒髮がさらさらと零れ御樹の頬を撫でる
御樹は屈んで髮紐を拾ひ上げる


──私と青人さんも……君のやうにふつりと切れてしまつた……
──何もなかつた昔に君は戻れますか?
──私は……もう戻れさうにありません……


自分で呟いた言葉が胸に響いて雙眼から雫がこぼれ落ちる
それはまるで眞珠のやうで長い髮をつたつてはぽたりと消えた

御樹は髮を結はく事もせずただそのままに歩いた
足を一歩蹈み出すたびに咲坂の姿が腦裡をよぎる

外套の前がはだけて冷たい風が胸に飛び込んできても
何も感じる事はなかつた
 
 
 
自宅に辿り着いた御樹は玄關の上がり口で部屋を見渡した
いつもこんなに暗かつたのだらうかと思ふほどに部屋の中は眞つ暗で
御樹はまはりの電氣を全て燈し闇を拂つた
部屋の暗さがまるで自分を象徴してゐるやうで怖かつたのである

店の方へ目を向けると
先日向かひの花屋からもらつた大待雪草がひつそりと咲き續けてゐる
御樹は店の中へ足を蹈み入れるとレジスタアの前の椅子に腰を降ろした
晝に眺めてゐた「戀燈籠」の本が机にぽつりと置かれてゐる
つい何時間か前までの氣持ちが嘘のやうであつた

手に取りペイジを遡つてみると咲坂との今までの出來事が全て記されてゐる
ペイジが進むに連れて
先ほど飮んだ酒が今頃になつてまはつてきて御樹は本を閉ぢると
そのまま机に伏した


とにかく今は何も考へたくなかつた
眠つてしまへば……もう……想ふこともなひ
逃れるやうに目を閉ぢた御樹は
そのままうとうとと眠りについた



御樹の周りを大待雪草の香りが柔らかく包んでゐる
眠る御樹の前で大待雪草は一瞬光を放ち、力盡きたやうに頭を垂れてその生命を散らせた
それが現實の出來事なのか御樹がみてゐる夢なのかは誰にもわからなかつたのだが
 
 
 
コツン……コツン……

少しの間眠りに誘はれてゐた御樹の耳に音が聞こえてくる

コツン……コツン……

何度も繰り返し響く音に御樹は重い頭を持ち上げた
どれくらゐ眠つてしまつてゐたのか
身體は冷え切つてをり御樹は腕をさすつた
椅子からゆつくりと立ち上がると手にしたままの本を机に置く

コツン……コツン……

音の鳴つてゐるのは店の外のやうで
御樹は入り口のカーテンを細くあけてみた
眞つ暗な中に立つてゐる人がゐる

その人物の姿に御樹は目を見張つた
自分はまだ夢を見てゐるのだらうか
 
 
「…………青……人さん……」
 
 
入り口の鍵をあけると咲坂が立つてゐる
それは夢でないことは吹き拔けた風の冷たさが物語つてゐた


「鈴音…………すまない 遲くなつてしまつたよ」


さう云つて懷から手紙を取りだした咲坂は御樹に差しだした
御樹は手紙ごと咲坂を引き寄せると確かめるやうに腕を廻した


「……もう、會えないかと…………」


それだけをやつと言葉にした御樹に咲坂は優しく微笑んだ
抱きしめた咲坂の身體も御樹と同じやうに冷え切つてをり御樹は慌てて腕を弛めた


「青人さん いつから外にゐたのですか? こんなに冷たくなつてゐるではないですか……」
「ああ 大丈夫だよ そんなに待つちやあゐないよ それに鈴音?
 君もだいぶ冷えてゐるやうだね 店でうたた寢でもしてゐたのかい?」
「……ええ……少し醉つてゐたものですから…………」


御樹は少し恥づかしさうにさう云ふと
部屋に咲坂を入れて自分もあとに續ゐた

暖を入れた部屋の中は少しづつ暖かくなつていく
御樹はさきほど咲坂が渡した手紙を手に取ると咲坂に訪ねた

「ここで見てもいいですか?」
「ああ 構はないよ」

取りだした便せんは2枚あつた
いつも咲坂が使用してゐるその眞つ白な便せんは綺麗に三つに疊まれてゐる
開いてみて御樹は不思議さうに咲坂を見た


「これは……?」


廣げてみた便せんには文字が書かれてをらず
眞つ白なままだつたのである
咲坂は御樹から便せんを取ると目の前で封筒の中にしまひ込んだ


「どうしても自分で傳えたくてね……こんな時間になつてしまつたんだよ
 鈴音……いいのかい? 本當に……」
「では……」
「さうだね……情けないが
 今の俺にはそれ以外に鈴音と共に過ごす方法が見あたらなくてね……
 俺の氣持ちだけではどうにも出來ないからね……すまないが 宜しく頼むよ……
 それを傳えに來たんだ」
「……青人さん……有り難うございます……」
「禮を云ふのは俺の方ぢやあないのかな 鈴音 感謝するよ」


御樹は今囘の手紙で咲坂と一緒に暮らしたいといふ旨の事をかいたのだつた
今の咲坂には自由は全くない
時間も金も全ては與えられた範圍内でしか融通がきかないのだつた
御樹は今までにも身請けをする事は考へてはゐたものの
咲坂の今までの生き方を否定する事になるのではないか
それと咲坂の自尊心を傷つける事になるのではないか
さう思ふと切り出せずにゐたのだつた
しかし、もうそれ以外に方法は見あたらず
意を決して書き綴つたのであつた
どんな理由があれ共に時間を過ごしていく事で變わる物は多いはずなのだから
御樹は目の前にゐる咲坂を愛しさうに見つめてゐた


「でも鈴音 ひとついいかい?」
「はい 何でせうか?」
「俺も鈴音に世話になりつぱなしといふのは心苦しくてね どうだらう?
 店を手傳わせて貰へないだらうか? 何もわからないが、努力はするから」
「ええ 是非お願ひします 助かります」


それしか方法がないといふのが現實だが咲坂は少し寂しさうであつた
御樹は咲坂のその思ひを無駄にすることのないやうに心に決めた


「いけない……そろそろ今日は歸らないといけないな」
「さうですね でも明日からは時間など氣にせずに過ごせるのですね……
 夢をみてゐるやうです……本當に……」
「さうだね……夢でないことを願ふよ」


穩やかに微笑む咲坂に明日、迎へに行きますと告げ
御樹は少し明るくなりつつある窓の外へ目を向けた
 
 
「朝は必ず訪れる……橙の祝福は嘘ぢやなかつたのですね……」

「ん?なんだい?それは」

「いえ……私の獨り言です」
 
 
御樹はにつこりと微笑むと咲坂を送り出した
夜の帳があがつたのと同じやうに御樹の中にも光が射し込んでいく
それは咲坂の渡した眞つ白な手紙さへをも染めゆくもので
ふんはりと暖かく二人を包んでいつた