戀燈籠 第五幕


 

 昨日、咲坂の元から歸つた御樹は眠れない夜を過ごした
どちらへ寢返りを打つても考へてゐるのは咲坂の事でいつぱいだつた
青華といふ咲坂の源氏名
「宵夢」といふ店であつた全ての出來事が
夢だつたのではないかと思つてゐた
しかしそれが夢ではないことは御樹自身が一番よくわかつてゐた

──重ねた手

──廻した腕

そのどれもが未だに温もりを忘れさせないでゐた


御樹は書棚に手をのばし 「戀燈籠」 を取りだしてみる
昨日、咲坂と別れるときに決めた事がある
先のない終はつたペイジを開き机に向かつた
手元に淡く差すラムプが本のペイジを明るく照らした
御樹は戀燈籠の最後のペイジに紙を挾んで筆を走らせた


「戀燈籠」
この話が御樹にとつて忘れられなくなつていつた理由は二つあつた
まづ一つは、出てくる二人の主人公が自分と咲坂に似通つてゐる事
もう一つは、御樹が咲坂と出會つてから今日までの出來事が一つも違はず起こつてゐる事
御樹も最初はただの偶然であらうと思つてゐたが
どうやらさうではないらしかつた

──これは、何かの掲示なのかもしれない……

さう思ひ出してゐた
しかし、この話は今日までで終はつてをり先がない
主人公である二人の行く先を知る事は出來ないのであつた
だつたら、自分が續きを綴つていけばいいのではないか
御樹は、さう思つて
日記のやうに自分の心情を最後のペイジから書きつづつていく事に決めたのである

御樹は筆を走らせながら咲坂の姿を思ひ出してゐた
人を心から信じる事に臆病になつてゐる咲坂
戀をした事もないのかもしれない……
自分が何もしてあげれないただの一人の男だといふ事はわかつてはゐる
しかし、この戀が本物だといふ自信はあつた
そして咲坂にも、この戀をわかつて慾しいとも
 
 
 
 
 
夜になるのを待つて御樹は今日も宵夢にむかつてゐた
咲坂にもう來るなと云はれた事を忘れたわけでは決してない
たださうするのが自然なやうに宵夢に足をむけて歩いた
夜になるときらめく電飾の光のげひた明かりの下を通り拔けても
お洒落な店の前を通り過ぎても御樹の目には何も映り込みはしなかつた
宵夢に近づくに連れて少しづつ街の賑はひは薄れ時間が遲く流れていく
漸くついた宵夢の扉に御樹は手をかけた
すぐさま、前にもゐた店員が笑顏で近寄つてきた

「いらつしやゐませ 毎度有り難うございます 今日も青華をご指名で?」
「いいえ」

御樹は用意してきた手紙を男に差しだした

「この手紙を青華さんに お渡し願へますか?」
「へえ 渡せばいいのですね?お預かりしますよ」

男は手紙を受け取つて、その後今日はどうするのか?ときいてきた

「私は、手紙を渡しにこさせて頂いただけですので ですが指名分の料金はお支拂いさせて頂きます」

御樹は前にきた時と同じ額の紙幣を渡して宵夢を後にした
指名料を拂わないで手紙を渡すだけなどといふ事をしたら
咲坂が何か云はれてしまふかもしれないと思つた
咲坂の顏を一目でも見たいといふ氣持ちはあつた
しかし、くるなと云はれた以上
咲坂に迷惑をかけるわけにはいかなかつた
これでいいのだと自分に云ひ聞かせ御樹は家路についた
 
 
 
       *   *   *
 
 
 
その頃、宵夢では客を送りに出てゐた咲坂にさきほどの男が話しかけてゐた

「おい 青華 この手紙お前につて ほらよ」
「手紙?・・・誰から?」
「昨日きた髮の長い兄さんがゐただらう?
 その人がさつき屆けにきたんだよ ちやんと指名料まで拂つて歸つたよ
 まさか、客と戀仲なんて事になつちまつてるんぢやあ ないだらうね?」
「違ひます 俺もよく知らない人ですから」
「さうかい?だつたらいいけどね 厄介事はごめんだからね」


咲坂は手紙を受け取つて部屋に戻つた
今日はこれで店じまひの時間だつた
氣持ちばかりのついたてのある自分の部屋の机で咲坂は手紙を開いてみた
手紙と一緒に落ちてきたのはニシキギの葉だつた
秋になつて綺麗に色づくニシキギの葉は
眞つ白な便せんにはつとするほど紅く見えた

整つた字面といい御樹らしいその手紙には
これから毎日手紙を店の路地の入り口にある木の根本に置いておくと云ふ事
そして……いつかまう一度會つて慾しいといふ事
咲坂自身が會つてもいいと思ふまで自分は會わないと決めた事が書いてあつた

咲坂は手紙を引き出しにそつとしまつて目を閉ぢて机に伏した
目を閉ぢれば御樹の姿がまるでそこにゐるかのやうに身近に感じられた
強引な行動で自分を困らせる事もなく
あくまで咲坂自身の立場を考へた、その行動は
斷る理由もみつけられないほどに咲坂の心を支配していつた

──こんな……こんな俺でなければ……

咲坂ははじめて自分の置かれたこの境遇を恨めしく思つた
 
 
 
 
 
 
それから10日が過ぎた
毎日、こつそり木の根本に置かれた手紙を探しに行くのが今の咲坂の日課になつてゐた
根本に手紙をみつけた時の安心にも似た甘い感情は日に日に増していつた

そんなある日の事
咲坂が手紙を部屋で廣げてゐると同室の高倉が控へめに襖越しに聲をかけた
高倉はもう何年か前だが咲坂と同じく身賣りにだされて宵夢にやつてきた
歳は18歳になつたばかりであつた
話し好きな氣のいいやつでた咲坂にとてもなついてゐた

「青華さん ちよつと今平氣?」
「ああ 構はないよ」

咲坂は手紙をしまふと襖をあけて高倉を迎へ入れた

「青華さん………俺、今日ここからでていくんだよ」

突然何を云ふのかと思へば、咲坂は驚いて問ふた

「どういふ事なんだい?」
「誰にも云はないで慾しいんだ 
 ただ青華さんにはお世話になつたから挨拶しておきたくて……」
「まさか………話してゐた彼と一緒に?」
「ああ さうなんだ もう少ししたら裏口から逃げるつもり……」

高倉はだいぶ前から客の一人と戀仲になつてゐた
どうやらその男と驅け落ちする氣らしい

「……さうか おめでたう 良かつたぢやないか」

咲坂は心から祝ふ氣持ちで高倉に言葉をかけた

「會えなくなるのは寂しいけど またいつか會えるさ」

嬉しいはずの高倉は何故かうかない顏をしてゐるやうに見えた

「何か 氣がかりな事でもあるのかい?」
「ううん………幸せだよ」
「さうか……元氣に暮らせよ」

高倉がふと机の下に落ちてゐるニシキギの葉をみつけて手を伸ばした

「これ、ニシキギの葉ぢやないか いい人にでももらつたの?」
「あ………いや さういふわけぢやないよ」

高倉は葉をラムプに翳した

「青華さんは知つてる?」
「何をだい?」
「ニシキギの葉の意味する言葉だよ」
「さあ 知らないなあ お前は知つてるの?」
「うん たまたまなんだけどね ニシキギの葉の意味は
 あなたの魅力を心に刻んでゐます
 つて意味だつたと思ふよ」
「知らなかつたよ そんな意味があるとはね」
「だから いい人にもらつたのかなあつてね」

御樹が毎日一枚づつ封にいれてくる葉はそんな意味があつたのか
高倉は葉を机の上にそつと乘せると、
もうそろそろ行くね と云つて立ち上がつた

「幸せになるんだよ」
「うん 青華さんも……ぢやあ……さよなら」

高倉の背中がふと消え入りさうに小さくなつたやうに見えた
その時は、今から愛する人と二人でゐられるのに何故だらうと思つてゐたが
その答へはすぐにわかつた
 
 
高倉の姿をみたのはそれが最後だつた
 
 
次の日の朝、町はづれの川で、高倉は冷たくなつてゐたさうだ
後からきいて知つたのだが
あの日高倉は待ち合はせ場所にいつまでもこない相手ををかしく思ひ
一度行つた事のある男の家の近くまで行つてみたらしい
そこで高倉を待つてゐたのは男の優しい眼差しではなかつたのだらう事が想像出來た

高倉は最初からわかつてゐたのかも知れなかつた
ただ、約束が本當だつたらどんなにいいだらうと
僅かな望みを胸にここをでていつたのだらう
それとも、最初から約束などしてゐなかつたのだらうか

たつた18年しか生きてゐないと云ふのに…………
高倉がいつたいなにをしたといふんだらうか……

咲坂は高倉の氣持ちを考へて、やりきれない氣持ちになつてゐた

──御樹は…………御樹なら約束を守るのだらうか……

さう考へては、馬鹿な事を考へてゐる自分に氣附き
咲坂は自嘲氣味に笑つた
 
 
──約束など………しなければ

──裏切られることもない……か
 
 
さう思ふ一方でニシキギの葉のもつ言葉を思ひ出しては
咲坂の氣持ちはぐらりと搖れた