戀燈籠 第八幕


 

 それから日の曜日になるまで御樹は咲坂との約束を指折り待ち望んでゐた
いつもより早くに店を開け珍しく窓ガラスを磨く御樹に聲がかかる


「何だかいい事でもあつたのかい?隨分樂しさうだね」
「ええ とても……嬉しいことがあつたのですよ」


御樹はにつこり微笑むと會釋をする
花屋の主人は そりや良いことだ と云つて笑ひながら花の水を換へてゐた
御樹は花屋の店先に竝べてある一輪の白い花を見つけ
何となく咲坂を思ひ出してゐた
その花は鈴蘭のやうな形をしてゐた
窓を拭く手を一旦とめると御樹は店先に足を向ける


「この花は何といふのですか?」
「これかい?珍しいだらう?この花は大待雪草と云つてね
 見た目は鈴蘭のやうだが ほら ここをみてごらん」


さう云つて花の下の方の指さした部分を御樹は近づいてみてみると
なるほど 眞つ白ではなく花びら一枚一枚に緑色の帶が入つてゐた


「初めて見ました 綺麗な花ですね」
「めつたに入つてこない舶來品種なんだよ 
 氣に入つたなら一本持つていつても構はないよ」
「いいのですか?」
「ああ 可愛がつてやつておくれ」


大待雪草を一輪拔き取ると店主は御樹に差しだした
嬉しさうに御樹は受け取ると花を見る
大待雪草からは異國の香りがした
舶來品種…………咲坂も父親が英國人なのである
どこか通じる物があるのだらうかと思ひ
御樹はしばらくその花を眺めてゐた


花屋の店主にもう一度禮を云ふと
御樹は一度部屋に戻つた
日の下でみた時とはまた少し違つた色を映すその花を
一輪插しに差すと店のレヂスタアの横に飾つた
ゆらゆらと搖れる花が小さく風を起こした


その晩、御樹は咲坂の元へ手紙を屆けた後
最近では代はりに受け取る返事を胸に忍ばせて戻つてきた
何度經驗しても手紙の封を切るときは胸が高鳴る
部屋で讀もうかとも思つたのだが
ふと晝間の花を思ひ出し
店の中へと進むと手元の燈りだけを燈した
足りないほどのうつすらとした燈りが手紙を照らす

鋏で綺麗にあけた中から一枚の便せんを拔き出すと
一瞬眩しいほどに大待雪草が輝いた
御樹は目をこすつてもう一度花をみると
それはさつきまでと變わらない樣子になつてゐた

──今のは錯覺だつただのだらうか…………

邊りを見廻しても何も變わつた所はないやうで
御樹は不思議な思ひを抱いた
咲坂の手紙と惹かれ合ふやうに一瞬輝いた一輪の華
──大待雪草…………
御樹は指で花瓣を搖らし目を細めた
 
 
 
 
今日の咲坂の返事には昨日見つけた霜柱の事が書かれてゐた
12月に入つた最近では朝になると
うつすらとたまつた水が氷を作つてゐる事もある
その下に眠る草の芽を守るやうに柔らかく土が被さり
靜かに春を待つ樣子が窺へたらしい
そんな何氣ない日常の景色であつたが
咲坂が見たといふその景色を御樹もともに見たい物だと思つてゐた

──どんな景色もきつと青人さんと見れば素敵なんでせうね……

心の中でさう呟くと手紙をしまつた
店の電氣を消すと大待雪草に
おやすみなさい
と言葉をかけ御樹は部屋に戻つた



今の自分は怖いくらゐに幸せである
共にゐたいといふ戀心は成就され
觸れることも叶つた
ふと 御樹は部屋を見渡す
ずつと一人で過ごしてきたこの部屋を
寂しいなどと感じた事は今まで一度もなかつたはずだ
しかし、今の御樹は感じてゐた

──一人は何て寂しいのでせうか

と……
目を閉ぢて咲坂を思ひ浮かべ 今隣に貴方がゐたら……
そんなとりとめのない事を想像しては氣持ちを紛らわせた
以前に何かの本で讀んだ一説を思ひ出した
人は本當の戀をしると逆に寂しくなるのだと
隨分昔に讀んだのでうろ覺えではあつたが今かうして自分が
抱く寂しいといふ感情は 戀をしてゐる故なのだらうか
いつかさういふ日がくるかもしれない
御樹はまだ見ぬ明日の未來に願ひをかけずにはゐられなかつた
 
 
 
 
          *     *      *
 
 
 
 
日の曜日の朝
空は冬獨特の澄み切つた青空で
澄んだ空氣がより空を高く感じさせてゐた
待ち合はせの場所に早くついた御樹は外套に手をいれると懷中時計を取りだした
時間までにはまだ少しある
人と待ち合はせをしてかうして待つてゐるといふのは何と心彈む事なのだらう
御樹はこの時間すら愛しく思へて一人空を見上げた
しばらくして後ろから聲がかかり御樹が振り向くと走つてきたのか
息を切らした咲坂が立つてゐた


「すまない 遲れてしまつただらうか」

御樹は首をふつた

「いえ 全然 走らなくても大丈夫ですよ」

少しをかしくなつて二人は笑ひあつた
咲坂はこの歳になつてひさしぶりに走つたと云つて
息を整へると着物の前を整へた

「青人さん 大丈夫ですか?」

伺ふやうな御樹に咲坂は苦笑する

「心配されるほど 年寄りではないはずだよ」
「さうですね」


二人は繪畫展の會場へと向かつた
たどり着いた會場の前にはかなりの人がゐて二人とも驚いてゐた

「結構人氣のある個展なのだね」
「そのやうですね 私も少し驚きました……」

あらかじめ用意してきた劵を咲坂に手渡すと
人を掻き分けて入り口にむかつた
人混みに慣れてゐない咲坂は御樹を見失はないやうについていつた
その時すつと延ばされた御樹の腕が咲坂を掴んだ

「誰も見咎めないでせう 澤山人がゐますから」

その手を咲坂は少し躊躇ひがちに掴んだ
入り口までの短い距離であつたが
息苦しいやうな感じは決して人混みのせゐではなかつた




繪畫展の中はさきほどの人混みとは違ひ靜かであつた
一つ一つの繪畫は獨自の世界觀を強く映し出してをり
繪心のない咲坂にもそれはよく傳わつてきた
しばらく色々な繪畫を二人で見てゐたが
御樹が一枚の繪の前で立ち止まつた
眞つ赤に一面を彩られた中に 眞つ白な鳥が一羽飛んでゐる樣をかいた繪だつた
背景が赤いせいかその白い鳥はより眞つ白に見えた


「鈴音はこの繪が好きなのかい?」
「ええ さうなんです 青人さんも不思議だと思ひませんか?」


御樹に不思議かどうかをきかれて咲坂はもう一度繪を見上げた
そんなに變わつた所は見あたらない
御樹は咲坂の肩をとんとんと叩くと題名を指さした
“赤い鳥”
さう書かれてゐるのを見て咲坂はなるほどと納得した


「鳥はこんなに眞つ白なのに……何故赤い鳥なのでせう」


御樹はとても不思議さうに繪を見てゐた


「さうだね でももしかしたらこの繪を描いた人には赤く見えてゐたのかもしれないね」
「…………え?」
「だつて さうだらう?俺逹には赤く見えてゐるからと云つて
 皆もさうだとは限らないんぢやないかな」


御樹は少し驚いたやうに咲坂をみたあと肩をすくめた


「さうですね……今までさういふ考へをした事はありませんでしたが
 青人さんのおつしやる通りだと私も思ひます」
「ああ……いや ちよつとさう思つただけなんだ」
「青人さんのはうがずつと描き手の心を讀んでゐるのかもしれませんね」


さう云つた御樹がとても嬉しさうで咲坂は少し照れたやうに下を向ゐた
 
 
 
 
一通り繪畫展を鑑賞した後
御樹が連れて行きたい所があるといふので
咲坂はそのまま御樹に連れられて街を歩いた
ついた場所は少し奧まつた場所にある喫茶店であつた
洋風の作りで靜かな店内に御樹は入つていく

「茶を飮む所かい?隨分と洒落た店だね」

女給も洋裝をしてをり咲坂は店内を少し見渡した

「ここの珈琲がとても有名なんですよ」

腰を降ろした二人に女給が註文をききにきた
同じ物を註文した咲坂は實は珈琲を飮むのは初めてであつた
世間の流行にはまつたく疎い咲坂は
御樹とかうして色々な所へ出向くのにとても新鮮な氣持ちを抱いてゐた
しばらくして運ばれてきた珈琲が竝べられると
香ばしい香りが漂つた
咲坂は初めて飮む珈琲を恐る恐る口に運んだ

珈琲は確かに美味しかつたがそれより驚いた事に
咲坂はこの味を知つてゐるやうな氣がしてゐた


「口にあひますか?」
「ああ とても美味しいよ」
「それは 良かつたです」
「ただ……」
「どうかしましたか?」
「初めて飮んだはずなんだが 
 何故か前にも飮んだ事があるやうな氣がするんだよ」
「さうですか ああ もしかして」
「何だい?」
「お父樣がお飮みになられてゐたんではないでせうか?」

咲坂の父親は英國人なのでもしかしたら本當にさうなのかもしれない

「なるほど さうかもしれないね 
 …………本當にいい香りがするね」


カップをもちもう一口口に運ぶと咲坂は納得したやうに頷いた
珈琲の香りと御樹の幸せさうな顏を見てゐると
咲坂は自分が何處か別の世界に迷ひ込んだやうな錯覺に陷つた
この後、夜にもどる華宵の事は夢なんぢやないかとも思つてゐた
 
 
 
 
時間はあつといふ間に過ぎ咲坂は店にでる時間になりつつあつた


「もう戻らないと いけない時間になつてしまつたよ」
「さうですね……」


御樹はとても寂しさうな表情を一瞬浮かべたがすぐにそれは消えた


「仕方がないですね……また……會ゐませう」
「さうだね 今日はおかげでとても樂しく過ごせたよ
 有り難う」
「私もです 本當に樂しかつたです
 青人さん……送つていきませうか?」
「いや……大丈夫だよ さう遠くはないし」
「さうですか」


御樹が送るといふのを斷つたのには譯があつた
餘計に離れがたくなる
それが分かつてゐただけに
咲坂はあへてこの人が多い場所で別れようとしたのであつた


「ぢやあ また」
「ええ」


御樹は微笑んだのを見て咲坂は後ろ髮をひかれる思ひで背中を向けた
通りの人に隱れるやうに足早にすすむ
ふと、御樹がまだ自分を見てゐるのではないか
さう思ひ 振り返つた先には
遠くに見える御樹がやはりまだこちらを見てゐた


咲坂は足を止めた

このまま行かなくてはいけないのだといふ事はよくわかつてはゐた

それでも……


足は元來た道を戻つてゐた

──何をしてゐるのだ……俺は……

歩きながら自嘲した
御樹もまた咲坂がこちらへ歩いてくるのを認め
咲坂に向かつて歩き出してゐた
二人は同じ想ひを一歩に懸けた
しだいに足は早足になり最後には走り出してゐた


「青人さん……」
「鈴音……」


咲坂は御樹の手をひつぱると店の裏に廻り込んだ
夕方の沈みかけた太陽が橙色に二人を染め上げる
人も通らない裏の路地で咲坂は御樹に接吻をした

「青人……さん」

二度目の接吻は御樹から差し出された
黒髮が咲坂の耳を掠める



接吻は甘く そして悲しいほどに切なかつた



「このまま……何處にもいかないでください……」




御樹が咲坂の背中に手を廻しきつく抱き寄せる
咲坂も同じ氣持ちであつた
このまま御樹とゐたい
太陽の沈む間の束の間の間
二人は何度も接吻をした
橙の光が祝福するのは少しの時間




すつかり沈んだ太陽とともに咲坂は靜かに御樹から離れた


「これ以上ゐたら……本當に離れられなくなつてしまひさうだよ……」
「…………青人さん……」
「大丈夫……またすぐに會える……」


御樹は咲坂より3つも歳が下なのだ
自分がしつかりしなくては……
咲坂は寂しさうな表情をもう隱さうともしない御樹をなだめるやうに笑ひかけた


「それぢやあ 本當にもう行くよ」


だまつてゐる御樹を置き去りにする形で咲坂は足を速めた
そして一度も振り向かずに店に戻つた
今はさうする他に方法はなかつた




咲坂が去つた後 御樹はしばらくその後ろ姿を見てゐたが
すつかり姿が見えなくなると俯いたまま歩き出した
指を脣にあててみる
まだ温もりが殘つてゐるやうな氣がして
御樹はいつまでも指を離せないでゐた