戀燈籠 第十二幕


 

 その晩、二人は初めての交はりの餘韻に名殘を殘して寢所をともにした
咲坂は情交で疲れたのかしばらくすると靜かに寢息をたてはじめた
御樹は自分も眠らうかと目を閉ぢてはみたが
何となく昂奮が冷めきつてないやうな感じがしてどうにも寢附く事が出來なかつた

安心したやうに眠る咲坂の寢顏を見てゐるだけですぐに時間は過ぎていく
咲坂は男娼をしてゐたとは思へないほどに純粹で纖細だつた
どうやつて今まで生きてきたのだらうかと御樹はその寢顏を見ながら考へた
蒲團から出てゐる肩に御樹は靜かに上掛けを引き上げる
ひんやりとした空氣が部屋に滿ちてをり外氣の寒さを物語つてゐた



外は風が強く吹いてゐるのか硝子を叩く音がしきりになつてゐる
その音を聞きながら御樹も目を閉ぢた
しばらくそのまま目を閉ぢてゐると咲坂のさきほどの泪が思ひ出された
御樹はこれからもあんな思ひを咲坂が感じることのないやうに側にずつとゐたいと心から願ふ
 
 
 
 
横になつて身體が暖まつてくると、またいつもの輕い咳が出始めた
すぐに治まるだらうと手をあてて堪へてみたが
酷くはならないもののなかなか止まりさうもない
最近は夜中を過ぎるとどうも熱つぽいやうな感じになる
醫者にもらつた煎じ藥を飮んでゐるのにあまり體調は變わらない氣がした
そのうち隣に寢てゐる咲坂が僅かに身體を動かし目を覺ましさうな氣配を見せた
せつかく眠つてゐる咲坂を起こしてはまづいので
御樹は音を立てないやうに半身を起こし蒲團を出ると上着を羽織つて廊下に出た
 
 
 
 
廊下にでてみるとさつき聞こえた風の音がより一層激しく聞こえる
かたかた と音を立てる引き戸の向かうを望めば庭の樹が枝をしならせてゐるのが見えた
まるで夏の颱風のやうな風に御樹は明日の天氣を少し心配した

──ヶホッ……‥

輕い咳を繰り返すやうにしながら寢てゐた部屋を離れて自分の部屋へと向かふ
少し離れた部屋へ入つて襖を閉ぢると途端に我慢してゐた咳がきりなく出始めた
何とか治まらせようと息を吸ふたびに餘計に酷くなり
息もつく間もないほどに咳が續き胸が痛くなつた

そして急に喉の奧が熱くなり押さへるやうに口元に手を當てると
咳と一緒に少量の血が吐き出された

指の間から疊へと眞つ赤な血がこぼれ落ちる



咳はしだいに治まつたが掌にくつきりと血の後が殘つてゐる
御樹は震へる手を呆然と見てゐた

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──まさか……………勞咳



詳しくはないが勞咳にかかると咳が出て喀血したりするやうになると知つてゐた
御樹が二十三の時に死んだ祖母も勞咳だつた
痩せ細つた祖母が背中を丸めて血を吐いてゐるのを見たことがある
その姿を思ひ出して御樹は背筋が寒くなつた
咲坂が部屋の前まできてゐる足音にも氣附かず御樹は手を握りしめた
廊下の足音が御樹の部屋の前でぴたりとやみ伺ふやうな咲坂の小さな聲が屆く


「……………鈴音?そこにゐるのかい?」


我に返つた御樹は慌てて隱すやうに疊を拭く
幸ひ少量だつたので綺麗にふき取れ、跡も殘らないで濟んだ
そして咲坂から見えないやうに自分の手を着物の中へと咄嗟に差し入れた


「開けても構はないか?」
「──コホッ……あ…………ええ 少し待つて下さい」


御樹は手近に置いてあつた手拭ひで掌の血の跡を拭ふと
手拭ひを引き出しの中に押し込んだ
そして自分の着物が汚れてゐないのを確認すると
咲坂に氣附かれる事のないやうに穩やかな笑みを浮かべてから襖をひいた


「どうしましたか?」
「いや 鈴音がゐなかつたものだから 何處へいつたのかと思つて」


咲坂はさう云つて御樹が坐つてゐる部屋を覗き込むやうに見る
特に何もない部屋に不思議さうな顏をした


「何か……………部屋で調べ物でもあつたのかい?」
「いえ 今日買つた本を少し讀もうかと思つただけですよ」
「さう ならいいのだけど」
「すみません 起こしてしまひましたか?」
「いや さういふわけぢやないんだが」


部屋に入つてきた咲坂は部屋の寒さに少し身を竦ませ自分の腕をさすつた
そして御樹の身體に手を伸ばしてはつとしたやうに顏を見上げる
觸れた身體は氷のやうに冷え切つてをり
それは着物越しにも感じ取る事が出來たのだ


「暖も入れずにこんな寒いところにゐたら風邪を引くよ」
「…………さうですよね 今日は私も、もう寢る事にします」

──ヶホッ……‥ヶホッ…‥‥

「ほら 咳も出てゐるぢやないか 氣を附けないといけない」
「青人さんは ほんと、心配性ですね」


混ぜ返すやうに冗談交じりで云つた御樹に咲坂は苦笑した
また咳き込むことのないやうに部屋へ戻る前に御樹は水を飮んだ
冷たい水が口の中に殘つた血を一緒に流して胃の府へと落ちていく

薄暗いせいで咲坂からは御樹の顏がみえてゐないことは救ひになつた
何故なら、燈りの下ではその蒼白な顏色が顯著にわかつてしまふからだ
今日は特別に體調が惡いだけで養生すれば治るだらう
御樹は自分に云ひ聞かせるやうに考へを巡らせた
それに惡い血が出てしまつたのか前より氣分がいいような氣もしてゐた

その夜はもう咳も出ることがなかつたが
御樹は自らの血の赤さが忘れられないでゐた
いつか今日よりもつと澤山の血を吐いて死んでしまふのだらうか
病み衰へていく自分の姿はあまりに現實感が無く何處か人ごとのやうな氣さへしてしまふ
御樹は自らの死より咲坂をまた一人にしてしまふ方が怖かつたのである
寢返りを打つては考へをおいやるやうにて御樹は無理矢理眠りについた
 
 
 
 
      *        *         *
 
 
 
 
朝になると昨日の風が嘘のやうに止んでゐて
青空が廣がつてゐた
あまり眠れなかつた御樹だつたが
不思議と昨日の喀血が夢なのかと思ふほどにすつかり元氣になつてゐた
咲坂と一緒に朝餉を濟ませ御樹は庭にでた

店を開けるにはまだ早い時間だといふのもあつたし御樹には毎朝する事があつたのだ
草木に水をやつてから縁側に腰掛けると用意してゐた餌を庭に少しだけ蒔く
待つてゐたかのやうに鳥たちが何羽かやつてきては御樹の目の前で餌をついばみ始めた


中の一羽が小さな小鳥から餌を奪つて獨り占めしてゐる

「ほらほら 仲良く食べなさい 君も小さな子にもわけてあげないといけませんよ」


まるで人間の子供に云ふやうに鳥たちに話しかけて
御樹は殘りの餌を小さな小鳥の目の前までもつていつてやつた
そんな御樹の毎朝の姿を咲坂はみつけて同じやうに縁側へと腰掛ける
日差しがあたる所は暖かかつたがまだ一月の空氣は冷え込んでおり
息を吐くと白くなつて目の前に廣がつた


「鈴音は、いつから鳥たちに餌をやつてるんだい?」


咲坂の聲で御樹は屈んでゐた裾をはらつて自分も咲坂への隣へと腰掛けた


「さうですね………もう一年以上は經つてゐると思ひますけど?」
「鳥たちもすつかり懷ゐてゐるみたいだね」
「ええ 可愛らしいですよね」


さう云つて御樹はにつこり微笑んだ


「前に一度、足を怪我した雀が庭に落ちてたんです
 それで、足を絲で縛つてなほしてあげたんですよ
 それからですかね かうして餌をやつたりしてゐるんです
 前はもつと少なかつたんですけど、いつのまにかこんなになつてしまつて」
「きつと仲間内で噂になつてしまつてゐるのかも知れない 餌がもらへるつてね」
「さうかもしれませんね」


全部の餌を蒔き終へると二人は立ち上がり店へと向かつた


「ああ さうさう 青人さん 今日、店を閉めた後街へでませんか?」
「街へ?構はないよ」
「別に何をしに行く譯ぢやないんですけど 散歩です 附き合つて下さい」
「ああ いいよ ただし 鈴音?」
「はい?」
「古書店には寄つてもいいけど あまり澤山買ふのは勘辨してくれよ?
 持つてくるのが大變になるからね」
「あ!青人さん ひどいですよ それぢやまるで
 今日も荷物持ちが目的で誘つてゐるみたいではないですか」
「あれ?違ふのかい?」
「違ひますつて」
「なら いいけどね」
「…でも…………氣を附けます」


御樹は微笑んで肩を竦める
咲坂はわざと御樹の頭に手を乘せて髮をくしやつと撫でた
隣にゐる御樹はかうして時々無邪氣な一面を見せる事があり
そんな御樹に咲坂は目を細めた


行く宛が別になくても御樹とでかければそれは樂しい時間になる
店の中に入つた咲坂は店のカーテンを開き
さし込む日差しの中 向かひの店先の花々に視線を投げると深呼吸をした