――ある土曜の朝。

 晶は、昨日の深夜に泊まったまま佐伯のベッドで惰眠を貪っていた。三回ぐらい横に転がってもベッドから落下しない広さなのをいい事に、寝相の悪さをここぞとばかりに発揮する。
 ただ、本来なら隣に佐伯も寝ており、ぶつかると容赦なく押し返されるのだが、今朝はそれがなかった。左から右へ無駄に移動した晶は、寝ぼけた頭の中でフと佐伯がいない事には気付いていたが、佐伯が先に起きている事は多々あるので特に気にする事もない。薄目を開けてベッド脇にある目覚まし時計を手に取ると現在朝の8時。

「……まだ、8時かよ……寝よ……」

再び目を閉じて、すぐ様二度寝に入る。
 最近は予定がないと、だいたい佐伯のマンションに来ているためこの状況は恒例となっていた。


 

―本日も快晴なり―

 




 佐伯が起きてから3時間後。晶は漸く目を覚ました。

 四方に跳ねた髪型を撫でつけながら半身を起こし、大きな欠伸をしたあと、壁に掛かっている時計をぼんやりと見る。時刻は10時を過ぎていた。二度寝してから2時間も経っている。
 空調のせいで暑さは感じないが窓の外は照りつける日差しが強いようで、カーテンの隙間から鋭く光が射し込んでいる。今日も暑い一日になりそうだ。
 晶はカーテンを開けるためにベッドから足を床に降ろし、その途端鈍い痛みに顔を顰めた。

「……っ痛……要のやつ……、めちゃくちゃしやがって……」

 誰もいない部屋で佐伯に文句を言い、庇うようにしてそっと立ち上がる。昨日の晩脱ぎ捨てた上着を手に取り、羽織ってリビングへと向かった。
 朝になればこうして前の晩にした事を後悔するのはわかっているのに……、夜になると、そんな事はどうでもよくなってしまう。

――「……ンッ、……もう一回、……っ……いい、だろ?……」
――「……今夜は随分積極的だな。どうした?発情期か?」

 佐伯がそう言ってからかった後、汗でしっとりと濡れた首筋を撫でる。昨夜はたまたまそういう気分で一度では満たされず、疼く身体の熱を持てあまし、二回目は自分から誘ったのだ。結局最終的に3回やって何度もイかされた気がする。最後の方は出る物もなくなって何だか記憶すら曖昧である。
 完全に自業自得な事に気付いて、晶は溜息をついた。

――……ほんと俺も馬鹿だな。

 そう思えば何だか自分でもおかしくなり、晶は苦笑いしながら何とも言えない痛みをひきずってドアを開けた。

「おはよーっす……って……。あれ?要?」

 てっきりリビングに居ると思っていた佐伯の姿はそこにはなかった。昨日の時点では今日も休みだと言っていたのに患者の容態が急変でもして呼び出しがかかったのだろうか……。
 晶は佐伯がいないだけでやけに広く感じるリビングを見渡して、食卓の上にメモが置かれているのに気付いた。メモを手に取ってみると達筆な文字で一言だけ。

【用事が出来たから外出する。鍵は閉めて帰るように】と書いてあった。
――おいおい、用件だけかよっ……!

 何処へ行ったのか、すぐ帰ってくるのか。その全ての問いに答えは何もない。疲れている様子の晶を起こさずに出て行った事は、良い方に考えれば佐伯の優しさなのかもしれないが、多分そうではないのが悲しい所だ。

 晶は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出すとキャップをねじ切り、ごくごくと喉へ流し込む。腹も減っていたが、まず先に佐伯が何処に行ったのかが気になった。
 佐伯のメモだけでは何もわからないので、携帯を取り出すと、とりあえず佐伯へと連絡を入れた。病院にいるならどうせ電源が入っていないだろうし、そうでなければ繋がるはずだ。なかなか留守電にもならない携帯を晶はまだ若干ぼーっとした思考のまま待ち続ける。
 暫く鳴らしていると、雑音と共に佐伯の声が聞こえてきた。

『……はい』
「あ、要?俺だけど」
『何だ……お前か、今起きたのか?』
「うん、そう。ってか今どこいんの?」
『出先だ』
「や、それはわかってるって。何、病院?」
『いや、違うが。何か用事か?メモはちゃんと置いてきたぞ』
「それは見たけどさ。急にいないから何処いったのかな~って思って。今日は遅くなんの?」
『……そうだな。先が読めん……』

 そう言う佐伯の声には妙に疲労感が滲んでいる。佐伯の後ろはやけに騒がしく、大音量の音楽も聞こえるし、子供の声も聞こえるようだ。いったい何処で何をしているのか、普段なら引き下がるところだが好奇心が沸々と湧いて佐伯への質問を止められなかった。

「で?何してんの?」
『……まぁ、ちょっとな』
「めちゃくちゃ周り騒がしくね?祭りかよ!って」
『……祭り……なのかもしれん』
「はい?」

 こんな昼間から祭りに出かけた佐伯。どう考えてもありえない。いったいどういう場所だというのだろう。晶が質問をする前に聞き覚えのある声が佐伯の背後から聞こえ、佐伯が電話を遠ざけたのかガサガサと音が鳴る。耳を澄ますと誰かと会話をしているようで、ぎこちなく返事を返している佐伯の声がきこえる。

『おじさん、お友達とお電話ですか?』
『……あぁ、晶だ』
『え!お兄ちゃん!!』

 間違いない。佐伯と会話しているのは拓也のようである。

「今、拓也の声しなかった?」

晶がそう問うと、佐伯はまた電話を近づけたのか声が聞き取りやすくなる。

『……あぁ、実は……』

 電話越しにも佐伯が盛大に溜息をついたのがわかった。佐伯が言うには今日は拓也の通う保育園の運動会だそうで、急用でこれない母親に変わって急遽佐伯が行っているという事らしい。
 前に一度拓也を預かって以来、佐伯の元妻が急用が出来ると佐伯が拓也の面倒を見るという事が増えた。晶も何度か拓也と顔を会わせたこともあり、拓也も晶には懐いている。

 だからといって、佐伯の子供嫌いはマシになったわけでもなく、今もきっと不機嫌な顔で運動会に参加しているのだろう。その光景を想像して晶は思わず一人で笑う。

「なーに、要パパしっかりしろよ~。動画とか最前列で撮ってやれよ?ほら、やっぱビデオ撮るのは父親の役目っしょ?」
『馬鹿言え。そんなもの撮るわけないだろう』

 そう話している間にも拓也が近くで『お兄ちゃんに僕もかわりたいです!』と騒ぐのが聞こえ、佐伯がそれに対して『……ちょっと待て、まだ話し中だ。大人しく座っていなさい』と沈んだ声で返している。

「うわぁ……、拓也可哀想に……あ、んじゃさ。俺もそっちいこっかな~。今日どうせ暇だし」
『無理しなくていいぞ。別にこっちはどうにかなる』
「無理じゃないし、俺も拓也に久し振りに会いたいから」
『そうか?……じゃぁ』

 一度は晶に気を遣い断った佐伯だったが、晶が無理していないというが早いかすぐに現地の場所を言って寄越した。一人では余程困っている様子である。晶は電話を切った後、着替えを済ませると佐伯達がいるという緑が丘保育園に向かうべく、佐伯のマンションを出た。





 緑が丘保育園は閑静な住宅街の中にあり、そんなに大きくない規模の保育園である。晶が住所を確認しながら駅から歩いて行くと簡単に見つける事が出来た。
 園内ではちょうどランチタイムなのか競技は行われておらず、色とりどりのレジャーシートを敷いた家族と運動着姿の子供がはしゃいでいる。中には家族総出で応援にきたのか祖父・祖母・父親・母親・兄弟などやたらに人数の多いグループもいた。

 晶は周りをぐるりと見渡し佐伯達を探すが、ざっと見た感じでは見あたらない。さっきから携帯にもかけているのだが、何故か電波が不安定なようなのでこの場で探すしかなかった。
 賑わうシートの合間を縫ってうろうろと晶が探していると、周囲の視線が晶に集中する。今日は佐伯がいつも驚くような派手な格好はしていないが、染めた髪とサングラスのせいで保育園という場所では一際目立ってしまっているのだ。

 「まぁ、何処の子のご家族?モデルさんかしら」と小声で言われているのが耳に入り、晶はこれはまづいと思い、サングラスをすぐに外してポケットへとしまう。それでも、さほど効果はないらしく、園児の母親から熱視線を感じながら佐伯達を探す。

 暫く探していると、校舎脇の日陰に疲れ果てたような佐伯の姿を漸く見つけることが出来た。拓也も隣に座ってはいるが、端からみると佐伯達はとても浮いて見える。
 レジャーシートに胡座をかいて仏頂面で座っている佐伯と、正座をして黙って座り、おにぎりを食べている拓也。はしゃいだ周囲の空気と違い、佐伯の周辺だけ何かの修行中のようである。見ているだけで笑ってしまうような光景に晶は思わず吹き出した。

 しかし、驚く事に佐伯達の目の前には、他の家族達と遜色ないおにぎりやらおかずがシンプルな重箱から顔を覗かせている。多分、拓也の母親が持たせたのだろう。晶は足早に近づいて声をかけた。

「よっ!拓也、ひっさしぶり~」
「あ!お兄ちゃん!!!」

 晶に懐いている拓也は晶の姿を見つけると顔を輝かせ嬉しそうに笑って立ち上がり側へと寄ってくる。その様子はさっきまでの佐伯と二人きりの時とは態度がまるで違う。佐伯が食べかけのおにぎりを持ったまま晶を見上げ、眼鏡を押し上げる。電話の声でも既にわかってはいたが、佐伯は疲れ切っているようでいつもの覇気が無い。

「早かったな」
「そんなに遠くないしね」
「すまんな、こんな所にまで来させて」
「いいっていいって」

 一応佐伯は謝ると脇へとよけ、晶の座る場所をあける。
拓也の隣になった晶は拓也を膝にのせて顔を覗き込む。こうやって会うたびにスキンシップを図っているからなのか拓也はどっからみても佐伯ではなくすっかり晶の子供に見える。頭をくしゃくしゃとなでてやれば少し照れたように拓也がはにかんで顔を上げ、体育着の短パンから出た細い足を伸ばした。

「どうよ?拓也。何か一等賞とった??」
「…………いいえ」
「うん?」
「ぼく、運動苦手なんです。さっきもかけっこに出たんですけど……一番最後でした」
「あちゃー……。そうなんだ。でもさ!いいんだよ、かけっこは最後まで走ればそれでOK!な?」
「はい!運動会は好きです。でも……」

 徒競走で最下位だったという拓也が佐伯の顔をちらちらと見ながら言い辛そうにもじもじしている。顔色を窺っているようなソレに佐伯も気づき拓也に言葉をかけた。

「……何か言いたい事があるなら、言っていいぞ」

 晶はだいたい何があったか予想を付ける。概ね、拓也が最下位だった事について佐伯が何か言ったのだろう。

「んー?おじさんに何か言われたのか?」

 晶が拓也に問いかけると佐伯が横から「別に何も言ったつもりはない」と口を挟んだ。そうすると慌てたように拓也が口を開く。
「違います!別におじさんは何も言ってないです……」
 そして手に持っているおにぎりを静かにおろすと寂しそうに目を伏せた。では一体何があったというのか晶も少し心配になり、元気づけるように話しかけるが、拓也は何もないと言って首を振るばかりで、その事については口を開かなかった。



 暫くして拓也はおにぎりを食べ終え、友達が遊びに来るとまた元気になって近くの場所に遊びに出て行った。拓也が近くにいなくなったのを見届けて、晶は佐伯に何があったのかを尋ねる。

「何かあったの?拓也落ち込んでない?」
「あぁ……。だが何もないはずだ。別に怒ったわけでもないしな。急に拓也が昼飯を食ってる時から元気がなくなっただけだ……さっぱりわからん」

 佐伯が晶に弁当は沢山あるから食べろというので、丁度朝から何も食べていない晶はおにぎりを手にとって口に運んだ。佐伯の元妻が作ったおにぎりを、現在恋人である自分が食べているというのはとても複雑な気もするが、勿論晶がその事を口にする事もない。

 本来ならこの場所には母親である美佐子がいるはずなのだ。出しゃばっているつもりはないが、端から見たら自分達はどう写るのか、そう思うとここに本当に来てしまって良かったのかなと今更ながらに考えてしまう。拓也の事は本当に可愛いと思っている。それでもやはり佐伯とは違い、自分は赤の他人でしかないのだから……。
 こういう時に母親が居たら、拓也の些細な変化もちゃんと理解してやれるんだろうか……。とりとめもなく散らばる思考が脳内を埋めていく。

「……何を考え込んでいる」
「……え?」
「…………まぁ、だいたい察しはつくがな」

 佐伯がそう言って、自らも弁当のおかずに手を伸ばす。

「いや、……別に。たいした事じゃねーよ。あー、腹減ってるしもう一個食うかな!」

 今ここでそんなどうにもならない事を考えていても仕方がない。晶は二個目のおにぎりを手にとって口に運ぶ。次のおにぎりの中身はツナマヨネーズだった。いつもコンビニで買っている晶の一番好きな具であるが、拓也の好物でもある。大口でおにぎりに齧り付く晶を横目で見て、佐伯は満足そうに少し口元を歪めた。

「何を勝手に想像しているか知らんが……一応教えておいてやる。この弁当を作ったのは俺だぞ」
「え!?マジで?」
 てっきり、美佐子が作った物だと思っていたがそれにしては確かに量が多い。
「お前が来るかもしれないから、多めに作ったまでだ。責任を取って残さず食えよ」
「……要」

 かなりの量を食べる晶の分まで計算に入れて作ったという弁当は、よくよく見れば晶が普段好きだと言っている唐揚げやミートボール等が多い。もしかして、ウィンナーがタコ型になっているのではないかと少し期待して覗き込んで見たが、流石にそれはなくウィンナーは棒状のまま入れられていた。

 拓也と晶は好きな物が結構似ているので、予めこうして準備してあったのだろう。――だったら、最初から誘ってくれればいいのに――とフと思うが、きっと佐伯は強制はしたくなかったのだ。
 晶から電話が来なければ、言うつもりもなかったのかもしれない。
 運動会のことも。この弁当の事も……。

 晶は肩の力を抜くと空を見上げる。雲一つ無い快晴の今日は見上げた空に目で追うような物はひとつもない。どこまでも続くような真っ青を見ていると、何だか清々しい気持ちになってくる。佐伯の優しさや気遣いに礼を言う代わりに、残ったおにぎりを再び手に取って佐伯へと振り向いた。

「こういう場所で弁当とか食べると美味しく感じるよな~。ピクニックみたいでさ」

 晶が3つ目のおにぎりを手に取るのを見て、佐伯が小さく笑う。拓也と晶のために作ったというおにぎりやおかずは、いつも食べている店の物よりずっとずっと美味しかった。眩しい陽射しの中で、まるで家族のようにこういう時間を過ごす等、佐伯や拓也と出会わなければ自分には縁のない事だった。周りの目が気にならないと言えば嘘になるが、それでも今はちょっと幸せな気分である。

 水筒からお茶をもらって最後に飲み、「ごちそうさま」と手を合わせる。目の前の弁当はすっかり空になった。拓也が少し遠くで友達とボールで遊んでいるのを振り返って見て、晶が見守るように目を細める。結局、先程何故拓也が気を落としているのかわからないままランチタイムは終了し、後少しで午後の部が始まる時間になる。

 その時だった。

「……お兄ちゃん」

 友達の所から戻ってきた拓也が晶の上着の裾を掴んで引っ張る。
「ん?どした?拓也」
 紅組の帽子をかぶり、顎のゴムの部分をいじりながら拓也が晶の隣にちょこんと座る。

「僕、お腹痛いんです。だから帰りたいです」
「え!?マジで?大丈夫か?おい」

 心配そうな晶の顔を見て、拓也は視線を逸らす。顔色は全然悪いようには見えないし、5分前まで友達とはしゃいでいたのに急にそんな事を言い出した拓也に、晶は慌てて佐伯に声をかけた。

「要、拓也おなか痛いって言ってっけど」
「ん?」

 後かたづけをしていた佐伯が手を止めて拓也の側に腰を下ろした。

「腹が痛いのか?何処だ」
「えっと……ココ……かな」
「どれ、ちょっと見せてみなさい」

 その場で拓也の体育着を捲って佐伯が腹へと手を伸ばす。こういう時に父親が医者というのは便利なのかもしれない。晶は側でその様子を見ていたが少し様子がおかしい。一通り触診してみた佐伯が首を傾げる。

「拓也、本当に痛いのか?いつから痛いんだ?」
「………えっと……ぇっと……さっきから……」
「……」

 佐伯が難しい顔をして、そのまま拓也の体育着を下ろし、立ち上がったまま腕を組む。

「どうなの?大丈夫?」
「……まぁ、聴診器をあてたわけじゃないから絶対とは言えないがな……。所見は何もない。熱もないし、それに食欲もあったしな」
「え?……じゃぁ」
「仮病かもしれん」
「えぇ!?仮病!?」

 断定は出来ないが、佐伯が診た限りでは拓也は何処も悪くないらしい。ということは、仮病を使って帰りたい何かが今からあるのだろうか。晶は横にいる拓也を心配そうに見る。運動が苦手だと言っていたが、しかし運動会は好きだとも言っていたはずだ。困ったように佐伯が溜息をつき、少しして口を開いた。

「拓也、本当に痛いなら、今から病院に行くか?ここでは何もわからないからな」
「え?病院…………行きたくないです」

 拓也は晶の後ろに隠れると、病院には行かないと言い張ってしょんぼりしている。佐伯も困り果てて眉間の皺を一層深くさせている。晶もどうしたらいいかと悩んでいると、先程の拓也と遊んでいた友達が走って近づいてきた。

「拓ちゃん!そろそろ向こうにいかないと先生に怒られちゃうよ。拓ちゃんとこは誰が出るの?」

 拓也は晶の後ろから出てくると「僕の所は……」と小さく呟いたたまま黙り込む。話しを聞いていた佐伯がさっぱり何の事だかわからず問おうとした瞬間、「あっ!」と晶が声を上げた。

「何だ、晶。急に声を出して」
「あのさ、目次あるだろ?運動会の種目の」
「あぁ……、そういえばしおりのような物が鞄の中にあったな」
「それ!」

 晶は何か思いついたのか、鞄の中へあるというそのしおりを探す。「あった!」という晶の声と共に印刷されたそれが取り出される。晶はパラパラとめくって、午後の種目を指で辿り、二つ目の種目を見つけると佐伯へと開いて渡した。

「ぜってぇ、コレとみたね。俺は」
「……どれだ」

 渡されたページを見て、佐伯もなるほどと納得して頷いた。午後の部の二種目目に父兄が参加する徒競走があったのだ。勿論父親でなくてもいいのだが、ほとんどの家庭は父親か母親が出るようで、見渡すと若い父兄が準備体操をしているのが目に入った。

 拓也はこの競技を言い出せなくて仮病まで使って帰ると言い張っているのだろう。ここはやはり、父親である佐伯が出るのが順当である。予想もしていなかった事態に佐伯からはもう溜息しか出ない。体力はあるほうだが、もう何十年も全力で走った事もない。しかし、ここで断るのも他の父兄の手前、拓也が可哀想でもある。やれやれと思いながらも仕方なく覚悟を決めていると、隣で晶がすっと上着を脱いでストレッチをし出した。

「……晶?」
「絶対、一番でゴールしてやるぜ」

 負けず嫌いに火がついたのか、熱くそう気合いを入れると長めの髪を後ろで縛る。晶のほぼ金色の髪が太陽の陽射しでキラキラと光る。佐伯はどうやら自分が出場せずに済みそうだと思い、少しほっとした気分で晶の様子を眺めていた。

「拓也~!ちょっとちょっと」
 晶が大声で呼ぶと、友達と離れて駆け寄ってきた拓也は不思議そうに晶を見上げている。
「友達のとこは誰が出るって?かけっこ」
「え?……えっと……お父さんが、でるって………」

 周りを見渡して出場するらしき父兄を見渡す。中には晶と同年代だと思われる父兄も居るが、ぱっと見た限りそんなに足が速そうな人物はいないようだ。晶はニヤリとすると何度か屈伸をし、心の中で「余裕だな」と確信する。

「拓也、いいか?お兄ちゃんが一等とってやるから。見てろよ」
「え!!お兄ちゃん!!!かけっこに出てくれるんですか?」
「当然!拓也にカッコいいところ見せなきゃな」

 拓也はさっきお腹が痛いとぐずった事をすっかり忘れているのか、はしゃいだようすで晶の足に抱きついた。拓也がこんなに嬉しそうな顔をして笑ったのは今日初めてである。Tシャツ一枚になった晶が、拓也を抱き上げて笑顔を向ける。

 自分も優しくしてはいるつもりだったのだが、やはり晶の方が一枚も二枚も上手のようだと佐伯は思う。自分自身は拓也とどう接して良いかわからないが、やはり拓也の嬉しそうな顔を見るのは悪くない。


 午後の部に参加する人達はゲートに集まるようにとのアナウンスがあり。まずは町内の老人会の踊りが一種目目のようで浴衣を着た女性が数人ゲートへ集まっている。その後ろに、徒競走に出場する父兄達がぞろぞろと集まりかけているのが見えた。

 佐伯は隣にいる晶をちらりと見る。最近の父親が若いとはいえその中でも晶は特に若い方である。だからといって若さと足の速さは別にそう深くも関係しないだろう。一等をとると断言したからには足の速さには自信があるという事なのだろうか、佐伯は晶へと声をかける。

「晶、お前足が速いのか?」
「俺?俺すっげぇ早いよ。高校の時とかいつもリレーアンカーだったし」
「ほう……。それは見物だな」
「任せとけって、とかいって3位とかだったら俺めちゃくちゃかっこわりぃけどな」

 そう言って晶は笑うと、抱いていた拓也をそっと下ろす。拓也が期待を膨らませて晶を見あげると、晶は拓也の小さな赤い帽子をポンポンと軽く叩くと「行ってくるな」と言ってにっこり笑う。
 いつになく真剣な晶がゲートへと向かい、佐伯達は観客席へと移動した。