俺の男に手を出すな 4-2


 

 その頃、敬愛会総合病院の緊急処置室では最後の縫合を終えて、佐伯が一息ついていた。沈黙していた空気が一瞬にして緩み、処置室にいる医師達から他愛もない世間話が始まる。 
 佐伯にとっては特筆すべき事もない、いつもの日常である。 
 
 夜勤の当直時間になる前、佐伯は病院から近い晶の店へと忘れ物を届けに足を運んだ。 
 ベッドサイドに置き忘れてあった腕時計を見つけたのは、午前中の用事を済ませて一度マンションへ戻った時である。 
 またすぐに会うのなら、別に届ける必要はなかったかもしれないが、明日からは予定が詰まっており今度会えるのはいつになるかわからない。装飾類の類いなら、他にもあるだろうから急ぐ必要はないと思ったが、普段身につけている物となるとそうもいかないだろう。 
 そうなるとやはり渡しておいた方がいいかと思ったのだ。 
 
 晶は佐伯のマンションへ泊まると必ずと言っていいほど何かを忘れていく。それは時計であったり、アクセサリーであったり色々だ。 
 最初のうちは「忘れ物はないだろうな」等、いちいち確認を取っていたのだが、最近は言わないことにしている。 
 要するに、晶はわざと忘れ物をしていっているのだ。勿論本人に確かめたわけではないから確信があるわけではないが……、その理由もだいたいの予想がつく。 
 
 晶の店までは、病院からそう遠くもない。煙草を買い足すついでに足を伸ばせば丁度いい息抜きにもなる。今までにも何度か店の前へ足を運んだことはあったが、顔を出すのは初めてであった。 
 
 店内へ入り、手近にいた従業員――多分ホストなのだろう若者が来るまでに、店の入り口にあるホスト達の顔写真を横目で見る。一番上には見慣れた晶の顔があり、その下にもずらっと二番手からのホストが並んでいる。すぐに従業員が来たのでまじまじと見ることは出来なかったが、ぱっと見た中には自分の好みのタイプはいないようだった。というよりは、晶と付き合うようになってからは、そういう目で人を見る事がなくなった気さえする。それだけ満足しているという事なのかも知れない。従業員へ腕時計を渡し、晶に渡すように伝言を頼む。 
 
 その際、ちらりと奥の方を見ると佐伯に背中をむける形で晶の姿が見えた。落とした照明の中、女性客の笑い声やグラスが交わる音、アルコールの匂いと、入り口に飾られている豪奢な生け花から漂う甘い香り。 
 
 自分の先程までいた病院とはまるで別の空間に、晶の生きている場所との違いを感じる。同じ夜でも院内はどちらかというと静に近いが、晶の居る夜はどこまでも動であり、華やかだ。――例えそれが晶の言う偽物の煌びやかさだとしても……。 
 
 どんな顔をして仕事をしているのか僅かに気になりはしたが、佐伯は晶には声をかけずにそのまま店を後にした。 
 帰りに近場で夕飯を済ませ、すぐに病院へ戻る。ゆっくり出来たのはここまでであった。 
 
 
 
 早めに夕飯を摂っておいたのは正解だったようで、それからは仮眠をとる余裕等全くない程に急患が多かったのだ。 
 引き継ぎの際に昨日の当直だった医師が言うには、昨夜はとても暇で一晩中テレビを観ていたらしい。今夜とのその落差に――怪我や病気というのは本当に予期せぬ物だ、とつくづく思う。 
 
 次々に処置を済ませ、最後の患者を処置し終えた頃には早朝と言っても過言ではない、5時を回っていた。 
 今処置し終えた最後の患者は若干時間のかかる処置が必要であったが、それまでの急患はちょっとした交通事故の怪我や裂傷、急を要さない内臓疾患の患者や喘息発作の患者など、細々とした処置と投薬で事が済んだ。そもそも、例外を除いては、当直の日に大きな手術をする事はないからだ。 
 
 何故ならば、時間外である場合はERがある病院を除き、人員も確保出来ず万全の準備が叶わないからだ。なので、余程急をようする容態でなければ、手術をしない決まりになっている。 
 
 今さっき診察し終えた患者の頭部X線写真を見ながら、佐伯は晶が初めて病院へ来た時の夜を思い出していた。 
 あの日はビルの火災があったせいで、今夜よりもっと忙しかったのを覚えている。 
 しかし、今となっては記念すべき日だということになるのかもしれない。 
 
 自分の言う言葉にいちいち反抗してくる晶が面白くて、いつになくしつこくからかうと晶は半ば喧嘩腰に返してきた。その気の強さは今でもあまり変わらない。ただ、見てくれは軽薄だが、中身はというと佐伯が思っていたよりはずっと芯のある男だった。 
 
 患者の捌けた診察室。そんな事を考えている佐伯の背後で、共に当直をしている新人医師が盛大にため息をつくのが聞こえ、佐伯を現実へ一気に引き戻した。 
 
 ついこの間臨床研修期間を終え配属されてきた新人の医師なのだが、使い物にならない事この上ない。 
 軽い火傷や挫傷で運ばれてきた数人を手こずりながらやっと処置し、それだけで疲れ切っているようである。そんなに体力が無いなら外科以外を選べば良かったのではないかと思わざるを得ない状況である。 
 
 しかも今日は運が悪く、内科担当の当直医も佐伯とどうにも馬が合わない人間の一人だった。 
 院長の孫でもあるその内科医は、歳は佐伯より若干下だが、いかにも苦労知らずといった感じの性格である。その上、医療に関してもあまり熱心ではない。今まで何回か当直の日が重なった事があるが、尻ぬぐいをさせられた事は数えきれないほどである。 
 だからといって険悪なムードというわけでは決してなく、佐伯も普通に接するようにはしているので相手は気軽に話しかけてくる。それがまた佐伯にとっては煩わしい事の一つであった……。 
 
 その内科医が佐伯の背後で新人の医師にご機嫌をとっているのが先程から聞こえている。 
 以前と比べて医者不足なのは、ここ敬愛会も例外ではなく、新人の医師に辞められては非常に困るからなのだろう。 
 
 徹夜をしているせいだけとも言えない妙にテンションが高いその話し声は、聞きたいわけではなくとも耳に障る。使えない医師ほど口だけ達者なのは何か法則でもあるのかと勘ぐりたくなってしまうくらいだ。背後で交わされる会話を聞きながら疲れが増すのを感じつつも、佐伯は黙々とカルテをPCへと入力していた。 
 
「大変だったろ?新人にはちょっと今日はきつかったよな。患者も今日に限って多いし。運が悪い日に当直になっちゃったよな」 
「本当に疲れました……もう患者が来ないことを願いますよ。僕もう眠くて……こんな日が続いたら体力的に厳しいかもしれないです」 
「うんうん、そうだよな。でも、嫌になってやめるなんて言わないでくれよ?もしどうしても無理だったら、僕から夜勤の日程調整するようにかけあってあげるからさ。頼むよ」 
 
──随分とお優しいことだ。 
 
 佐伯はその会話を耳にしながら、くだらないと心の中で吐き捨てた。苛立ってついキーボードのエンターキーを押す指に力が入ってしまい、会話以外に音のない部屋にキーボードの音が大きく響く。内科医がビクリとして佐伯に視線を向けたようだが、佐伯は素知らぬ顔で入力を続けていた。内科医も内科医だが、新人も新人である。 
 
 佐伯は、勤務している病院という場所は戦場であるとも思っていた。兵士が戦うのは当然の事で、それと同じように医師が患者を治療するのは当然の事なのだ。いちいち労いの言葉を掛け合う必要はないし、まして患者は来たくて来ているわけではないのだ。 
 眠い等、生死をわかつこの場所で呑気な事を言っている新人医師の心構えには呆れを通り越して注意をする気さえわかない。敬愛会総合病院は腕が立つ医者が多いと噂されているらしいが、こういう裏側を知っているとその噂の真意が甚だ疑問である。医師の質の低下はこういう些細な所からウィルスのように広まって、医局を腐らせる。完全にそうなったらもう立て直す薬は存在しない。 
 
 カルテを一通り打ち込み終えてミスがないか確認した後、佐伯は無言のまま立ち上がった。自分の考えを押しつけようとは思っているわけではない。ただ、黙って普通に仕事をこなしてくれれば別に問題はないのだ。 
 
 はめ殺しになっている硝子窓から病院前の駐車場が見渡せる。救急搬入の入り口に灯った赤色灯がせわしなく回転をし周囲を赤く染め上げている。窓の外が少しずつ明るくなってきており夜がそろそろ明けそうだった。 
 佐伯がいつまでも話している二人の横を通り過ぎ医局へ戻ろうとした時、話しの矛先がいきなり佐伯にも降りかかってきた。 
 
「佐伯先生、今日は急患が多くて参りましたね。だいぶお疲れになったんじゃないですか?でも、さすが外科で名を馳せてるだけはありますよね。処置も的確で、いやぁ。僕も佐伯先生と当直が重なると心強いですよ!本当に」 
 
 内科医はベラベラと佐伯を褒め称える言葉を並べて一人頷いて近づいてくる。 
 佐伯は聞こえないほどに小さくため息をつき、仕方なく振り向いた。くだらないとはわかっていても院長の孫でもある彼に突っかかる等、自分で自分の首を絞める事は勿論するつもりはない。思ったより側に来ていた内科医を、レンズ越しに見下ろすと佐伯は冷たい笑みを浮かべて口を開いた。 
 
「ご心配なく。この程度で根を上げるほど新人じゃありませんので」 
「………、あ、いや……そういう意味では……」 
「勿論。私のも、ただの冗談ですよ。では、やることがあるのでお先に失礼」 
 
 愛想の欠片もなく返された佐伯の低い声音に、話しかけた内科医は驚いたように言葉を飲み込んだ。同調して「本当に疲れましたね」等と世間話で馴れ合いたいのなら、佐伯を選んだのは完全に間違いである。佐伯は黙っている内科医に構わずそのまま診察室を後にした。 
 
 こういう言い方をするせいで、佐伯の事を扱いづらい医師だと思っている人間が多いのは理解している。しかし、佐伯とて愛想の良い会話をするほど元気が有り余っているわけではないのだ。それに、一部の人間に理解されづらい性格は佐伯本来の性格で今更なおしようがない。 
 
 先程までの慌ただしさが嘘のように薄暗い廊下は静まりかえっていた。サンダルが廊下を擦る音が響き、佐伯の白衣をまとった影が長く後ろへ伸びてついてくる。シャッターの下ろされた売店の前を通り過ぎる瞬間、何時間も喫煙をしていないのを急に思い出し、佐伯は足早に廊下を歩いた。 
 
 院内はほとんどの場所が禁煙になっており、煙草を吸うには一度中庭の奥に足を運ばなければいけない。職員用の通用口を抜けやっと裏から中庭へと到着する。最近の指定席にもなっているベンチに腰掛けると佐伯はふぅと一つ息を吐いた。 
 早朝の空気は世間が動いてないせいか透明で若干澄んでいるように感じる。少し肌寒いが、それも疲れた体には丁度心地よかった。ポケットからGITANES BLONDESを取り出しゆっくりと吸い込みながら火を点ける。暫く味を確かめるように肺の奥で煙草の煙をとどめ、その後空へ向かって吐き出した。 
 
 明けてきた空の向こう、ビル群の隙間から見える地平線を太陽の光が赤く照らし出している。さっきまでずっと見ていた人間の血液の赤さとは対極にあるような力強いその赤を視界へ焼き付け、佐伯は二本目の煙草に徐に火を点けた。 
 日頃つけているせいで体に染みこんでいるJAZZの香りが吹く風に乗って微かに香り、煙草の煙と混ざり合う。静かに流れる空気にのって一筋の灰色の煙がたなびいては消えていった。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 医局へ戻り、次回の学会用の書きかけの研究論文を推敲などして勤務の交代時間になるまで時間を使う。今日は早朝に行われる事もあるカンファレンスも特にない。8時を過ぎた頃に医局の医師達も出揃い始め、漸く申し送りや引き継ぎを始める。9時前には外来担当の医師が医局から姿を消して、また静かになった。 
 
 そして10時になったのを見計らうと佐伯は立ち上がった。夜勤明けは続けて通常勤務な事がほとんどだが、今日は珍しく休日なのだ。といっても、帰宅するわけではなく、昼過ぎからは知人の開業している医院で行う手術に講師として招かれているのでそちらに直行する予定なのだ。 
 
 帰り支度を整えていると、首から提げている医療用携帯が小さく鳴った。音量を最小限に絞ってあるのでくぐもって聞こえるその電子音に、佐伯は脱ぎかけていた白衣をそのままにして携帯を手に取った。 
 
「――はい。外科医局ですが」 
『佐伯君か?』 
「ええ、そうですが……」 
 
 咄嗟に声で誰だかは判断がつかず、訝しげに出された佐伯のその言葉に相手が携帯越しに苦笑するのが聞こえる。どうやら電話の相手は院長だったらしく、佐伯は久しく顔を合わせていないなとフと思った。 
 一瞬、当直の際の院長の孫との会話が頭をよぎったが別にその事ではないのだろう。何故だか受話器の向こうで院長はひどく機嫌が良さそうな声色である。 
 
「私に何か?」 
『今、ちょっと時間が取れるかね?』 
「ええ。今から帰宅する予定だったので、お話があるならそちらへ伺いますが」 
『悪いね。じゃぁ、待っているから』 
「わかりました。用意が出来たらお伺いします」 
 
 電話を切った後、佐伯は再びロッカーへ向かい白衣を脱いでかける。ネクタイを締め直すと、そのまま医局を出て院長室へと向かった。 
 エレベーターで最上階までいけば下りてすぐの所に院長室がある。病院内とは思えないほど豪華に作られた最上階は会社で言うところの役員室のようなものである。歩きづらい毛並みの長い絨毯を進み院長室の前で佐伯はドアを軽くノックした。 
 重いオーク調のドアの中からは、先客がいるようで話し声が聞こえており、ノックの後「入ってきなさい」と声がかかる。 
 
「失礼致します」 
 
 ドアを閉めて向き直り部屋へ入ると、院長の向かい側に先日学会で同席した大阪茗渓大の助教授である鈴川が腰掛けていた。予想もしていなかった鈴川との再会に驚きはしたが、それ以上に、目の前の二人から揃って呼び出された理由を考えていた。入ってきた佐伯に軽く会釈をするように鈴川が立ち上がり「先日の学会ぶりですかな?」と笑みを浮かべている。佐伯も「そうですね」と相づちを打ち、応接ソファへと歩み寄った。 
 
「忙しいところすまないね。まぁ、佐伯君もそこに掛けなさい」 
「――はい」 
 
 佐伯が腰を下ろしたのを見て、院長は言葉を続けた。 
 
「佐伯君は先日鈴川君に会ったそうだね。じゃぁ、改めて紹介は必要ないかな」 
「はい、よく存じ上げております」 
 
 茗渓大学病院消化器外科と言えば一二位を争うほどの有名大学病院だ。先日学会で会った際には、肝葉切除術の新しい術式についての意見を交わし、その後に行った懇親会では茗渓大の現教授を紹介されたのだ。一度会って話がしたかったと言われ、幾つかの症例や研究について二三会話をしたが、時間もそんなになかったのでさほど重要な会話をした記憶も無い。 
 院長が「さてと……」と一息つき、徐に話しを切り出した。 
 
「早速なんだがいいかね?」 
「ええ、何でしょうか?」 
「いやね、鈴川君が今度、茗渓大の教授になるんだよ。ねぇ?鈴川君」 
「お恥ずかしながら……」 
 
 佐伯は「それは、おめでとうございます」と言葉を返しながら、鈴川の方をちらりとみる。鈴川が教授になると言う事は、あの日紹介されて話した教授は主任教授にでもなったのだろう。あの日話した限りでは、そんな兆しは一切感じ取れなかった。随分早い出世だなとは思う物の、学会の時にも感じた鈴川の野心的な目を見れば、そんなに不思議な事でもない気がする。 
 
「それでだ……。鈴川君が教授になる際にね。助教授も新しく任命されるんだが。それを佐伯先生に受けて貰えないだろうかという話しなんだよ」 
「――私が……ですか?」 
「ええ。茗渓大へ新しい風を入れたいと思ってましてね。是非佐伯先生のお力をかして欲しいんですよ」 
 
 考えてもいなかった打診にさすがの佐伯も言葉を詰まらせる。 
 
「佐伯君の腕は私が保証済みだからね。勉強になると思うんだが、どうかね?」 
 
 院長の言葉を受け継ぐようにして、鈴川は佐伯の今までに発表した過去の論文に全て目を通したといい、「実に素晴らしかった」と付け加えた。確かに、茗渓大にいけば今よりもっとやり甲斐はあるのだろう。 
 仕事の欲がないわけではない。こんなチャンスを前に迷う要素は、以前の佐伯にはなかったはずだ。――しかし……、佐伯は逡巡していた。 
 佐伯の脳裏に一瞬晶の顔が浮かぶ。 
 
──俺さ、ぜってぇ遠距離恋愛とか無理!今でもあんま会えないのにさ。すぐに会えないのって寂しいよな。 
 
 以前酔ってそんな事を言っていた晶の台詞が勝手に脳内へと再生される。恋愛など仕事と比べれば取るに足りず、迷わず切り捨てる事が出来ると今までは思っていた……。いつからその比重はこんなに重くなっていたのだろうと自分でも愕然とする。それと同時に、僅かに感じる違和感……。その正体までは今はまだわからなかったが、佐伯の中に一つ気にかかる事があった。 
 
「お話しは大変嬉しいですが……、少し考えるお時間を頂けますか?」 
「あぁ、勿論構わない。佐伯君が納得するまで待っていてくれるよね?鈴川君」 
「ええ。当然です。急な事で驚かれたでしょうし。佐伯先生が茗渓大にきてくだされば我々も大変心強いです。お待ちしておりますよ」 
「有難うございます」 
 
 佐伯は陰りの滲む笑みを浮かべて頭を下げた。こうしている今だって、心の中で、迷う必要はないのだと訴えかける自分も存在する。外科医にとって様々な場所で経験を積むことは何物にも代え難い事なのだ。 
 
「お話は以上ですか?」 
 時計を見ると、この後の予定である手術の時間に間に合う為には、そろそろ向かわなければいけない時間だった。 
「あぁ、すまんね。忙しい所。話しはそれだけだよ」 
「わかりました。後日、お返事をさせて頂きます」 
 立ち上がった佐伯に、鈴川がもう一度「良い返事を待っていますよ」とにっこり微笑む。 
「それでは、失礼します」 
 
 お辞儀をして院長室を後にし、エレベーターへと乗り込む。佐伯は階数ボタンを押すと、エレベーターの壁により掛かって深く息を吐いた。 
 
──大阪……か。 
 
 心の中で呟いたはずが声になっていることに気付き、思わず一人で苦笑する。そのまま一階まで降り、病院を出る。駅から向かってくる人並みに逆らって足早に歩いていると、途中で胸ポケットの携帯が佐伯に振動を伝えた。先程、院長室に居た際にも一度着信があったのには気付いていた。取り出して開いてみると晶からの電話であることが解る。 
 
 日中のこの時間だと寝る前といった所か……。佐伯は通話ボタンを押し携帯を耳へと押し当てた。 
 
「晶か、何だ?」 
『何だ?って、相変わらず冷てーなー、もう~!まぁ、いいけど。あのさ、時計、昨日店に届けにきてくれたっしょ?』 
「あぁ……その事か」 
『サンキューな。何か、悪かったな。わざわざ店まで届けさせちゃって』 
「別に近場だから構わん。だけど今度は届けてやらんぞ。忘れるなら、必要ない物にしておけ」 
『何だよそれ~。俺がわざと忘れてるみたいじゃん』 
「わざとなんだろう?」 
『ち、……違う!んなわけねーだろ』 
「ほう?……じゃぁ、病気だな。今度、脳の検査を受けた方が良いぞ」 
『結構ですっ!』 
 
 文句を言っている晶の声を耳にしながら、佐伯は先程の話しを思い出す。歩く速度が落ちていき、雑踏の中で佐伯の足はゆっくりと足を止めた。大阪へ行くと言ったら晶は何と言うのだろうか……。 
 
『要?』 
「……………」 
『おーい?もしもーし、聞こえてる?』 
「…………、ん?……あぁ、すまん。聞こえている」 
『何だよ急に、電波切れたのかと思ったぜ』 
「……晶」 
『――ん?なに?』 
「いや……何でも無い」 
 
 その時、佐伯が何かを言おうとした事を晶は敏感に察知していた。しかし、佐伯が話すまでは何も気付かない振りをする事にする。恋人だからといって、何でも土足で入り込んでいいわけじゃない。まして、佐伯も自分も大人の男なのだ。 
 仕事の事も色々あるし、言えない事の一つや二つあって当然なのだから……そう自分に言い聞かせ、晶はいつも通りふざけた会話を佐伯が駅につくまで続けた。 
 
『じゃぁ また電話すっから』 
「あぁ」 
『――要』 
「ん?」 
『もう歳なんだから、あまり無理すんなよな』 
「勝手に言ってろ」 
 佐伯が少し笑ってそう返したのが耳に届いて、晶は少しだけ安心する。何かあったら言ってくれるはずだ、そう信じていたかった。 
 
 
 晶との電話を終えた佐伯は定期券を翳し改札を抜ける。電車へと乗り込み空いている席へと腰掛け目を閉じる。 
目的の駅へ着くまでの間、夜勤明けで疲れていた佐伯はしばし浅い眠りに落ちていった。