食事が終わって暫くすると、機内では電気が消され強制的に就寝の準備がされる。最終便のこの便は時差を越えるとしても着くのは朝になるので機内で寝る事になるらしい。
普段でさえ寝付きの悪い椎堂は、こんな慣れない機内で眠れるとは到底思えなかったが、配られたブランケットと枕を一応セットし、仕方がないので目を閉じる事にした。隣の少年も微かに寝息を立てて眠っているようである。――澪はどこでも眠れる性質なのだろうか……――たまに、何処でどんな体制でも眠ることが出来る人間がいるのは知っているので澪はどうだろうかとふと考える。
目を強引に閉じて暫くそのままでいたが、やはりどうしても眠れそうにない。早くも諦めた椎堂は目を開けると溜息交じりに息を吐き、枕を膝に置いて隣にいる澪を覗き込んで見てみた。
窓際の肘掛けに腕を乗せ頬杖をついたまま澪は眠っていた。
長い前髪が俯いた横顔に薄くかかっており、その奥にある瞳は閉じられている。澪が眠っているのをいい事に、椎堂は澪の横顔をじっと見ていた。こんな時でもないと間近でずっと見ている事など恥ずかしくて出来ないからだ。
何度見ても澪は本当に格好良かった。高めの鼻梁はすっとしており、「誠二」と自分の名前を呼んでくれる少し厚めの唇はとても肉感的で色っぽい。澪の唇を見ているだけで、落とされる口付けの感触が蘇ってきそうで、椎堂はそんな事を思い出している自分が恥ずかしくて一度目を逸らした。勝手に寝顔を見て勝手にドキドキしている椎堂の心音が、次の瞬間跳ね上がった。
「そんなに俺の事じっとみて……似顔絵でも描いてくれるわけ?」
目を閉じたままで澪が小声で呟く。
――気付かれてた!?
澪は眠っているわけではなかったのだ。椎堂は慌てて澪へと言葉を返す。
「あ、あの……ごめん。眠ってるのかなって思って……」
丁度いい言い訳が咄嗟に思い浮かばない。不躾だと思えるほどにじっと見ていた椎堂は急に頬が熱くなるのを感じた。澪がそっと目を開き、前に落ちていた自分の前髪を指でかき上げる。
周りの人々は皆夢の中なのか機内は静まりかえっている。自分が唾を飲み込む音が聞こえてきそうで、椎堂は息を止めて俯いた。
澪は黙ったまま椎堂の前髪に指を絡ませ、俯いた椎堂の横顔が見えるように後ろへと梳いていく。そして椎堂の耳元に近づくと囁きながら指で椎堂の唇の輪郭をゆっくりとたどった。
「こんな所じゃ、キスできないだろ……。ちょっとお預け……な?……」
「…………澪」
囁くように耳にかけられた言葉はどこまでも甘い。指で唇を辿られただけなのに、それは口付けのようでもあり、自然に椎堂は自分の指を今触れられたばかりの唇にあてていた。なぞられた輪郭が熱を帯びて溶けていきそうな気がしてしまう。
「……眠れないの?」
「う、うん……。僕、寝付きが悪いから……。気にしないで澪は寝てていいよ」
澪は椎堂との間に下ろされている肘掛けを後ろへと押し込み、椎堂の腰を自分の方へ引き寄せた。ブランケットを引き上げてあるので外から澪の手は見えないが椎堂の腰へ回されたままである。
「……澪?」
「眠れないからって、ずっと起きてたら疲れんだろ……」
腰に回された手があやすように椎堂をゆっくりさする。少しくすぐったいような優しい指先は幾度か動いて最後にツと止まった。
「目、閉じて……俺に寄りかかって休んでろよ」
「……うん……」
抱き寄せられたまま、椎堂は澪に寄りかかってもう一度目を閉じる。澪の体温や心臓の音が伝わってきて、こんな状態じゃ余計に眠れないと思ったが、微かに上下する澪の胸に手を当てていると不思議と安心できて気持ちが落ち着いていく。愛しい人の温もりの中で与えられるそれは穏やかに浸透し、椎堂をいつのまにか浅い眠りにいざなっていった。
後五時間で現地の空港へ到着する。
上空の天候は今の所ずっと穏やかで、機内はほとんど揺れる事もなく順調に運航していた。
眠りから覚めかかった椎堂は、微かに耳に届くモーター音とは違う聞き慣れた音を感じ、細く目を開けた。眠っている澪を起こさないようにそっと身体を起こす。時計を見てみるとかなり時間が経過しており、すっかり眠ってしまっていた自分に驚いていた。
気圧のせいで耳に違和感があり、くぐもった音が遠くで聞こえる気がする。一度耳抜きをして、外していた眼鏡を掛けると気になる音がする方へ目を向ける。
院内で耳にすることが多い浅くて早い子供の呼吸音。椎堂はハッとして、隣の少年の様子を窺い眉根を寄せた。
椎堂が眠る前から座席を後ろへと倒して横になっている少年の様子が、先程と大分違うようだった。椎堂は側によって少年の額に手をあてる。さっき感じた体温よりも少し熱くなっていて発汗しているようである。
横になっている体勢は、腹を庇うように丸められ吐く息も浅い。椎堂は最初に考えた自分の診察が間違っていなかった事を確信すると共に悪い予感があたってしまった事に肩を落とす。
客室乗務員を呼ぶコールボタンを押して、今出来る事を頭の中で考えていた。乗り物酔いではない事はもう明らかである。徐々に起き出している乗客もいるが、周りはまだ暗くて静かだった。機内でドクターコール等があれば一斉に周囲もざわつくだろうが、今回は近くの乗客以外には知られていないのが幸いだった。椎堂は一度周りを見渡すと騒ぎが広まらぬように少年に小さく声を掛けながら手を触れた。
「ボク、ちょっといいかな……。何処か痛い所があるなら教えてくれる?」
そう言いながらそっとブランケットをめくり、少年の上着をまくしあげる。直接肌に触れて触診をしながらそう訪ねると少年はお腹が痛いといって涙ぐんだ瞳を椎堂に向けてきた。
「そうか、我慢して偉かったね。早く気付かなくてごめんな……。ちょっと痛いかも知れないけど動かすよ?」
様子のおかしい椎堂達に周りの何人かが目を覚まし遠巻きに様子を伺っている。客室乗務員がやってきたので、ドクターズキットを持ってきて貰うように指示し、少年を平らな場所へと寝かせる。機内には血圧計やパルスオキシメーター、聴診器などの医療道具が常備はされているが、簡易的な処置をする事しか出来ない場合が多い。澪も目を覚まして、椎堂の後ろから様子を窺っている。
すぐに戻ってきた客室乗務員からドクターズキットを受け取り聴診器を首にかけて少年の血圧を測る。椎堂が何処が痛いかを聞きながら色々な箇所を押していくと殊更痛がる場所があった。
先程訴えていた吐き気は今はないようで腹痛が一番の苦痛の要因らしい。澪が「何か手伝おうか?」と椎堂に声を掛けたが機内では診察以外何もすることが出来ないのがもどかしい。椎堂は首を振って、「僕も何も出来ないから……」と少し悔しそうに漏らし、再び少年の方を向く。
超音波検査か、せめて白血球の増加を調べる血液検査がすぐに出来れば診断は確実なのに……。椎堂は、出来るだけ詳細にカルテを記載しながら心配気におろおろしている客室乗務員に告げる。
「急性虫垂炎の可能性が高いです……。空港に着いたらすぐに病院に搬送できるよう手配して下さい」
そう告げると椎堂はブランケットをもう一度持ち上げて今度は少年のズボンを手早く下げた。かなり痛みが酷いらしく少年はされるがままになっている。周りの緊張も加わり、少年が不安そうな表情を浮かべ、腕を伸ばして椎堂の服をぎゅっと握ってきた。
震える小さな手を椎堂は握り返し、安心させるように微笑んで両手をぎゅっと包み返す。医者である自分が動揺していては余計に患者の不安を募らせてしまうからだ。
「大丈夫だよ。空港に着くまで、ちょっとだけ我慢しようね」
そう言って片手を外すと背中ををいたわるようにそっとなでる。痛がる場合はなるべく診察以外は患部には触れないようにしてあげる方がいいのだ。持ってきて貰った濡れたおしぼりで額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、励ましの言葉を口にする。少年の心細さを思うと胸が痛くなった。
急性虫垂炎の場合は暖めてはいけないので追加で持ってきたブランケットを断り、先程の一枚だけを掛け直す。
腹痛開始時から二十四時間以内に手術をしないと腹膜炎を起こしてしまう。子供の場合はその頻度が非常に高いのだ。椎堂は時計を見る――空港に到着するまで残り四時間――急性虫垂炎の正確な診断は難しいが、診察をした限りでは、まだ、せん孔は起きていないと判断した。
同じ部位を圧迫し急に手を離すときに痛みが強くなる反動痛が見られるため安易に考えるのは危険だが、大丈夫である可能性が高い事に少しだけ安堵の息を漏らす。
澪は、的確に患部を触診し診察をする椎堂の背中を見ながら、入院していた時の自分と今目の前で椎堂に診察されている少年を重ねて見ていた。普段はだいぶおっとりしている椎堂だが、医者の顔になった時からは、いつもとは打って変わって頼もしい存在に見えるのだ。看護師達にてきぱきと指示を出していた、あの夜勤の夜の出来事を思い出していた。
心配そうに少年を見守る椎堂の眼差しは、よくある作り物の医者のそれではなく心からの気持ちの現れなのだ。そう思いつつ、澪も椎堂と同じように少年の無事を心から祈る。
症状は少年の体内では少しずつ進行しているのかも知れないが、それから2時間程は特に変化のない状況が続いた。椎堂はほとんどずっと少年に付きっきりという状態になっている。
機内では、他の乗客達には再び軽食が配られている。本来ならあと少しの空の旅を満喫しているはずだった。椎堂はそれどころではないので食事を断り、少年を寝かせている通路に座ったまま介抱していた。揺れる機内で固い通路にずっと座っているというのもそれだけで疲労が溜まる原因になる。
澪は席を立って椎堂の隣へと屈んでその肩をそっと叩いた。
「誠二、疲れたんじゃない?俺が変わりに見てるから、少し交代しよう」
振り返った椎堂に澪が頷いてみせる。
「澪……。……でも」
澪の身体を考えると、負担になるのではと不安がよぎり椎堂はすぐには「うん」と頷かなかった。
「俺なら大丈夫だよ。見ているくらいしか出来ないけど」
「……有難う。そうだね、じゃちょっと交代してもらおうかな……」
「ああ、少し休んだ方がいい」
今まで椎堂が座っていた場所へ澪が腰を下ろし、椎堂は座席へと戻る。すぐ隣なので何か異変があればすぐに対処する事は可能である。澪が気遣って交代してくれたが、狭い通路に座っている状態というのはやはり腰が痛くなる。椎堂は自分で腰をさすりながら、澪の方へ視線を向けたまま、渇いた喉を置いてあったお茶で少し潤した。
急性虫垂炎は、大の大人でもかなりの痛みに騒ぐ事もある。しかし、目の前の少年はとても我慢強いらしく泣いたり騒いだりという事は無かった。澪がそっと背中に手を当てると少年と目があった。不安げな瞳に自分が映り込んでいるのが見える。
自分もあの夜、こんな目で椎堂に縋ったのだろうか……。それは過去の事とはいえ、澪の中には印象深く刻まれている出来事だった。澪は手をそっと動かすと少年に向かって優しく微笑む。
「頑張れよ……大丈夫だから。……絶対に……」
以前に見せていた澪の冷たさは、今の澪にはもうない。終末治療について、今日までの間に澪は出来るだけ調べて勉強していたらしい。椎堂が「参考になるから」といって勧めた書籍も出国前には全て読み終え、椎堂へと疑問に思ったところを書きだして渡してきた時にはその詳細な疑問に少し驚いた物だった。
自分の身体で病に侵される痛みを知っている澪は、本当の意味での痛みを想像しか出来ない椎堂よりも患者側に寄り添うことが出来るのかもしれない。
少年を介抱しながら励ます澪を見て、椎堂は嬉しそうに目を細めた。
澪の変化が自分のおかげだなんて奢った事を思っているわけではない。ただ……。そう、少しだけ……。ほんの少しだけでも澪の為になったのならそれほど嬉しい事はないのだから。
澪の優しい表情が静かに少年を見つめるのをみて、椎堂の気持ちはふんわりと温かくなった。
一時間ほど経過した所で、機内のアナウンスが着陸が間近であることを告げる。少年の容態も大事には至らず椎堂と澪はホッと胸をなで下ろしていた。
当初、長時間の空の旅をどうやって過ごそうか等と考えていた機内での時間も、突然のハプニングによってたちまち過ぎ、気付けば到着まではあっという間の出来事だった気がする。
着陸の時だけは座席へ戻ってシートベルト着用が義務づけられているので、澪も席へと戻り腰を下ろす。窓から眼下を臨けば、同じ青空の下でも日本とは違うアメリカの広大な景色が広がっている。
「何か、あっという間だったよな」
「うん。そうだね」
どんどん地面に近づいた機体は轟音と共についに新たな地に着陸した。無事に空港へと到着した事で椎堂も安心したようで、隣でほっとした様子を見せた。
周りにいる乗客も今から訪れる土地での休暇を既に味わっているのか楽しげな声をあげている者もいる。機体は静かに速度を落とし機内アナウンスと共に飛行機は停止した。シートベルト着用のランプが軽快な音を立てて消え、それぞれが座席から立ち上がる。
椎堂達は少年の事があるので、他の乗客が全て降りるまで待機していた。他の乗客が全て降りると、空港の中まで来ていた救急車から担架が運ばれ狭い機内へと入ってくる。椎堂はそれに付き添って先に降り、澪は自分と椎堂の荷物を担ぐと担架の後に続いて機内を降りた。
一度飛行機内から出ると、今までがずっと暗かったのを差し引いても眩しすぎる日差しに澪は一瞬目を細め手を翳した。空気は少し乾いているように感じるが、何時間かぶりに吸う新鮮な空気は実に気持ちよく、吸い込んだ体を浄化していくように感じる。
救急車から救急隊員が降り立ってきた後、何故か別の方向に停車している空港専用車から一人の医師がこちらへ向かって歩いてきた。まっすぐに澪の方へと向かってきているようで少し離れた場所から声を掛けられた。
「Are you a doctor who did medical examination for him?」
(彼を診察したのは君かい?)
こんな所で偶然にも日本人の医者がいる事に驚いて澪は足を止めた。周りの外人と並んでもひけを取らないほどがたいのいいその医者は、日本人に見えるが英語で話しかけてくる所を見ると日系の外人なのかもしれない。
澪をどうやら医者と間違えているらしく今にも症状の説明を求めてきそうで、澪は言葉を遮るようにして否定した。
「いえ、俺じゃないです」
そう言って後ろを振り向くと、先に降りていた椎堂が丁度此方へ向かってきた所だった。澪の背後から椎堂が目の前の医師へと言葉を続ける。
「Yes. I did his medical examionation. This pacient age is 10 years old and his blood type is B.I seems that he has acute appendicitis. I verified Blumberg’s sign but it seems intestinal perforation are not yet. Could you do testing and treatment immediately because the symptoms is observed already passed 10 hours. I’ve described in this paper about his vital signs by last 15 minutes.」
(診察をしたのは僕ですよ。患者の年齢は10歳で、血液型はB型。急性虫垂炎だと思われます。まだ穿孔は起きていないようですが、ブルンベルグ徴候を確認しています。症状が出てから10時間は経過していると思われるので、至急検査と処置をお願いした所です。15分ほど前のバイタルはカルテに記載してありますが)
――え?
英語が苦手だと以前言っていた椎堂が実に流暢な英語で話している事に驚いて椎堂を見ると、「あ!」と椎堂が驚いて声をあげた。何に驚いているのか意味がわからず、澪が再び目の前の医師へ振り向くと、その医師も同じように驚いた顔をしていた。
「高木先輩……ですか!?」
――高木先輩?
椎堂が懐かしそうに微笑むのを見て漸く理解が追いつく。どうやら椎堂と目の前の医者は知り合いらしい。相手が椎堂だとわかった高木と呼ばれた医師は、さも愉快そうに豪快に笑い出した。
「いや、まさかこんな所で椎堂と会うなんてな!!世の中狭いな」
二人が会話を交わす後ろで担架に乗せられた少年が移動してきた。椎堂と高木は担架の方へ駆け寄り、椎堂はカルテの詳細を今度は日本語で説明をし出した。相づちを打ちながら耳を傾けていた高木が救急隊員に指示を出す。こちらは勿論英語である。
素早く酸素マスクのようなものを装着された少年が救急車へと乗り込んでいった。救急車には連絡を貰って待機していたのであろう少年の父親らしき男性が乗っており、椎堂や他の隊員達に頭を下げて、少年を心配そうに見守っている。
てっきり一緒に乗っていくものだと思っていた高木は救急車には同乗しないらしい。椎堂が車両に近づき、自分の連絡先を渡し挨拶をしている。
少年に向かって「もう大丈夫だから、頑張るんだよ」と言い残して椎堂は車両から離れた。すぐに救急車は発車し、澪が見ている前でたちまち小さくなっていった。
「後は任せるしかないからね……」
戻ってきた椎堂は、少し心配そうに澪にそう呟く。すっかり三人だけ取り残されてコンコースへと歩き出す。話しを聞いていると高木はたまたま用があり空港へと足を運んでいたらしく、今回の件と鉢合わせたのは偶然の出来事だったらしい。少年は空港近くの高木が勤務する病院へと運ばれるという事だった。
それにしてもこんなに偶然が重なるとは、凄い事なのではないか。新しい生活の初日で、しかも初日もまだ始まったばかりだというのに……。
「……で?こちらの彼は?」
高木が歩きながら澪の方を振り向き、椎堂に紹介するように促す。
「あぁ……えっと、彼は僕の友人で、玖珂くんです。色々あって……、こっちで終末治療の勉強する事になって一緒に来たんですよ」
当たり障りのないように説明をした椎堂が澪に「これでいいかな?」というような目を向けてくる。澪は一度頷くと「初めまして、玖珂です」と高木に挨拶を返した。
「初めまして、高木です。さっきは悪かったね、勘違いして」
「……いえ」
握手のために差し出された手を澪が握る。アメリカ在住歴が長いのかはわからなかったが高木はどうやらすっかりこちらの生活に馴染んでいるらしく、握手をした後、大げさな手振りでいきなり隣の椎堂の肩を面白そうにバシッと叩いた。一挙一動が激しい人物のようである。
「I thought you are Sido’s fiance. Ha Ha!」
(俺はてっきり椎堂のフィアンセかと思ったぜ ははは)
「No way! ……Stop be kidding」
(……っ!からかわないで下さいよ)
高木の冗談に英語で返し否定はしてみせた物の椎堂はかなり動揺しているらしく耳まで赤くなっている。その様子がおかしくて、澪は思わず苦笑する。これでは認めているようなものだと思ったが、高木はそれ以上は何も言ってこなかったのでその話は椎堂の望み通りそこで途切れた。
その後も何かと話していた高木は、この後もまだ空港で用事があるらしく、自分の勤務している病院の連絡先と自宅の電話を椎堂に教えると「また後日ゆっくり酒でも飲もう。玖珂くんも一緒に」と言い残して去っていった。
やっと二人きりになれた椎堂が軽くため息をついて澪を見て、やれやれといった感じで眉を下げる。
「高木さんって、誠二の先輩なんだ?」
「あ、うん。そうだよ。僕が医者になりたての頃バイトしていた病院に勤務していた人なんだ。昔から豪快な人でね、でも脳外科界では凄腕なんだ。あんなだけど」
「そうなんだ。まぁ、アメリカで医者やってるくらいだしな」
「うん。でも、ほんとびっくりしたよ」
椎堂がそう言って笑う。しかし、慣れない土地でこうして知り合いがいるのといないのとでは大きな違いがある。椎堂が勤務する予定の病院にも先輩がいるという話しだが、少しでも椎堂が頼れる人物なのだとしたら、その人数は多いにこした事はない。
「誠二、そう言えば……英語普通に喋れるんだな。びっくりした」
「いや、日常的な会話はそんなに話せないよ。あれは咄嗟に症状を説明しただけだし」
「そういうもの?」
「うん。高木先輩がいてくれて助かっちゃったよ。色々聞かれたら答えられないところだった」
医者スイッチの切れた椎堂は、すっかりいつものおっとりした雰囲気に戻っている。
「あの子も、早く元気になるといいな」
「うん、そうだね。きっと大丈夫だよ」
「ああ」
ふと澪を見て荷物を全部澪が持っている事に気づいた椎堂が慌てて腕をのばす。
「あっ、ごめん!荷物重かっただろう?今度は僕が持つから」
「別に平気だって」
「でも……。じゃぁ、半分ずつ持とうか」
椎堂が澪から半分荷物を受け取り肩から提げて隣を歩く。空いた方の手を澪へ近づけて椎堂が澪の顔を見る。繋いで欲しいと言い出せないその様子に、澪は黙ってその手を取った。軽く握り直してやると、椎堂もそれに返して少し力を入れる。
「澪、疲れてない?体調はどう?さっき少し咳が出てたみたいだけど……」
飛行機を降りてから、咳き込んでいたのをどうやら見られていたらしい。椎堂に見つからないように背を向けていたのに椎堂のこういう所は結構鋭くて驚かされる。
「さすがに少し疲れたけど、大丈夫だよ」
「そうだよね。明日は出歩かないで、二人でゆっくりしよう」
「ああ、そうだな」
空港内をゆっくり歩き、入国審査を受けスーツケースを受け取る場所まで行くと、澪達は遅かったからなのかそんなに混雑してはいなかった。
少し待っていると二人分のスーツケースがベルトコンベアに乗って流れてくる。日本から送った荷物が届くのが遅れた時の為に何泊分かの着替えを詰めてあるのだ。受け取ったそれらをカートに乗せて、澪達は空港のタクシー乗り場へ向かった。
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