高校二年の夏、照りつける太陽のせいで汗ばんだ制服のYシャツの釦を二つほど開けて三階の廊下を足早に歩く。 
 参考書の入った重い鞄は細い肩に食い込み気味だが、そんな事は気にならなかった。実験準備室の鍵を握りしめた手が僅かに汗ばみ、その鍵の意味を椎堂へと実感させていた。 
 
 度の強い眼鏡はどうしてもレンズが厚くなり、それをダサいと彼が笑うから、次の日からコンタクトにした。 
 この関係を公にしたくないとの彼の希望で、実験準備室で会う以外は校内で話しかける事も無く、普段は挨拶はおろか目線を合わせることも一度も無かった。最初に言い出したのは彼の方ではあったが、好奇の目で見られるのも恥ずかしいので椎堂もその意見に同意したのだ。それに、内緒で会う方が、二人だけの秘め事のようでドキドキしたというのもある。 
 
 ずっと好きだった彼の言う事なら何でも聞きたかった。 
 
 それが幸せで、嬉しくて……。 
 
 二人だけの実験準備室で会える時間、その時間のためだけに学校へ来ているといっても差し支えないほどだった。放課後の化学室に普通に入り、一番奥にある実験準備室へ近づく……。見慣れたドアの色が、何故か少しくすんで見えた。 
 
 
 
 
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 自分が同性愛者なのだと初めて気がついたのは、椎堂が中学の頃だった。周りの友人が少しエッチな写真が載っている雑誌を学校へ持ってきて騒いでいる輪に入っていても、特に何も感じなかった。最初は自分には姉も妹もいて、女系家族で過ごしてきたから慣れているだけだと思うようにしていたが、自分でもそうじゃないのではないかと気付き始めていた。 
 
 そのきっかけになったのは、教育実習でやってきた大学生を見た時だ。都会からやってきたその実習生は、こんな田舎の学校には大凡不似合いなお洒落な雰囲気でとても目立っていた。その実習生の事を考えると胸が苦しくなり何とも言えない気持ちになったのだ。 
 
 理科の教師になるべく実習に来ていたその大学生は、明るく冗談好きで生徒にも人気が高く、その大人っぽく都会育ちらしい彼の全てに椎堂は憧れていた。その時は、アイドルや芸能人に憧れて好きになるのとそう変わらない意味での好きだったように思う。背の高い細身の体に真っ白な白衣を着ていて、白衣の下はジャージという不釣り合いな出で立ちが彼そのものを現していた。 
 
 先生という立場を現す白衣と、親しみやすいジャージ、先生と生徒の狭間のような存在は、より一層生徒との距離感を縮めて身近な存在に感じさせた。大人しくて目立たなかった椎堂にも気を配ってくれ、夏休みの宿題の研究課題を皆の前で褒めて貰った時は、恥ずかしかったけれどとても嬉しかったのを覚えている。 
 
 この実習生のおかげで理科が好きになり、中学時代は研究者の道に進もうかと考えていたくらいである。 
 だけど、「好きです」と伝えることなんて出来なくて、そのまま実習期間が終わりをつげ、椎堂の片思いはあっけなく終了した。その後、無事に教職免許を取りどこかの中学の教師になったと暫くしてから聞いたが、その先を突き止めるまではしなかった。 
 
 何故なら、こんな田舎じゃ、そういう性癖を持つ人物は周りにおらず、そんな目立った事をしたら近所で何を言われるかわからなかったし、家族だって住み辛くなるのは目に見えていた。時々その実習生を思い出しては懐かしさに会いたくなることもあったが、時間が経つとその回数も自然と減っていった。 
 
 自分は男が好きなのだと自覚した所で、毎日は何も変わらず。今の時代のようにネットを通じて同じ趣味の友人をみつける事もままならず、皆と違うのはその一点だけだというのに、ただただ、孤独を感じていた。家族にも言えず友人にも言えない。 
 
 だからというわけではないが、高校は両親に無理を言ってかなり偏差値の高い都市部の私立高校を志願し、寝る間も惜しんで勉強をして、その高校へ入学を決めた。電車で片道二時間もかかる遠い高校だ。同じ中学からその高校へ行く者は椎堂以外誰もいなかった。 
 環境が変わればもしかして、普通に女の子を好きになれるのかも知れない。そんな淡い期待も少しはあったように思う。 
 
 しかし、高校に入学してすぐ行われた部活の新入生勧誘、そこで知り合った一つ年上の先輩を好きになって、漸く諦めがついた。先輩は中学時代にずっとこがれていたあの実習生に少し似た面差しだった。高校生らしく好奇心旺盛で性格はやや軽いといった感じで、そこは実習生とは違う気がしたが、田舎から出てきた椎堂にはたったひとつしか年齢の違わないその先輩がとても大人びて見えたのだ。 
 
 周り中で自分だけが人と違うのではないかと焦る気持ちと同時に、何処か安堵していたのは、相手が男でも女でも自分は恋愛などできないだろうと思っていたからである。誰かと付き合わない限り、その性癖を気にする必要もないように思えた。 
 
 入学して暫く経ち学校にも慣れてきた頃、声を掛けられるままに先輩と同じ部活に所属していた椎堂は、普通に先輩後輩として話す程度の仲にはなっていた。そんなある日、先輩から声を掛けられたのだ。 
 化学部の部室の奥にある実験準備室。 
 
 部活が終わって片付けをしていた椎堂に向けてかけられた先輩からの一言。 
 
――椎堂って、美人だよな。男に美人って言うのもおかしいけどさ。 
 
 心臓が止まるかと思った。突然の言葉に何も返せず狼狽えていた椎堂に彼が歩み寄ってきて、耳元で囁く。 
 
「なぁ、一度、お前とエッチな事試してみたいな……だめ?」 
 
 二人だけの準備室での甘い誘い。 
 それを拒む理由なんてひとつも見つけられなくて、椎堂が黙って一度だけ頷くと彼は準備室の鍵をそっと掛けに行った。ガチャリと響いたその音に、今自分は何をしているのだろうと現実感が薄れていく。 
 
 最初は言葉通り本当にお試しといった感じで、それぞれ見せ合って自慰行為をしあうだけ。そのうち行為はエスカレートしていって互いの自慰をその手でしあったり、口淫までするようになり、最終的に先輩の物を受け入れるようになるまでにそう時間はかからなかった。 
 
 しかし、少ない情報の中、男同士でするSEXの方法についても調べ、興奮気味で試して来る彼を受け入れるのに手放しで嬉しさを噛みしめていたわけではなかった。もっと気持ちの良い物だと想像していたのに、現実は全く違ったのだ。何かやり方が間違っていたのか毎回とても痛くて、涙が滲むこともあった。一番最初に受け入れた日は、夜に熱が出たくらいだ。 
 
 あまりに痛くてどうしても挿れられない時は無理にされることはなかったが。「ごめん」と謝り、彼がとても落ち込む姿を見たくなくて、椎堂はいつからか痛みを我慢して表情に出さないようになっていた。自分の性欲も勿論あったが、どんなに痛くても好きな相手とするそういった行為がとても幸せな事に思えたからだ。彼も同じ気持ちでいてくれていると信じて疑わなかった。 
 
 皆が帰った後に、大好きな先輩と続ける秘密の行為にいつしか依存するようになっていた事に当時は気付いていなかった。癒える間をおかず繰り返される行為により、傷ついた体には疲労が溜まり、成績が落ちて、学校でも、帰宅してからも先輩のことしか頭になくなっていった……。この関係がいつか終わるという事も、当時は考えてもいなかったと思う。 
 
 
 
 その日も、椎堂は準備室に足を向けていた。この頃にはもう、部活の後という決まり事も無く、部活がない日であっても時間が合えば放課後に会うというのは毎日の日課になっていた。 
 少しだけ髪を整え、準備室の扉に手を掛ける。いつもなら鍵は開いているはずなのに、その時の扉は鍵がかかっていた。おかしいなと思い、ドアの中の様子に聞き耳を立てた時、ハッキリ聞こえたのだ。 
 聞き慣れた先輩の気持ちよさそうな声と、女の喘ぎ声が。 
 
 びっくりして持っていた鞄を落とした事で、ドアの外で大きな音が鳴り、中が一瞬静まり返る。早くここから立ち去らないとと思っているうちにドアの鍵が外された。制服のシャツの釦を全部開けたままの先輩がドアを細く開いて、椎堂の腕を掴んで部屋へ引き入れる。 
 
 準備室の床に敷いてあるのは、自分が昨日も使ったレジャーシートだった。その上に座っていた下着姿の女生徒がびっくりしたように胸を隠す。椎堂は慌てて視線を落とし、女生徒を見ないように目を伏せた。 
 
「……あ、あの……」 
「椎堂もこっちこいって、お前もエロい事好きだろ?いつもやってるじゃん」 
「え?この子誰?……私、こんなの聞いてないよ」 
 
 如何にも不愉快そうに椎堂に視線を向けてくる女生徒の視線にどうしていいかわからなくなる。明らかに椎堂は邪魔者だった。そう思っていないのは先輩ただ一人のようだ。 
 
 動揺した椎堂は、「ごめんなさい」と一言だけ絞り出すように呟いて、急いで準備室を出て走りだした。何がどうなってるのかわからなくて、ショックというより驚きの方が先に来ている。広い校舎をでたらめに走って、辿り着いたのは体育館脇の通路だった。 
 
 元々そんなに体力が無いのもあって息が上がってもう走れず、椎堂はそばにあった花壇に座り込む。鞄を抱えたまま、体中が震えるのを感じて動けなくなっていた。 
 
――何だったんだろう。自分が今見てしまった光景は……。 
 
 風が強く吹き付け、背後にある花壇の乾いた土が風に乗って舞う。砂が入ったのか急に目が痛くなり、次々と涙が溢れてくる。椎堂は両目のコンタクトを手で外すと花壇に投げ捨てた。予備で持ってきている眼鏡をかけて、向かいの教室のガラス窓にうつる自分に視線を向けると……、そこには中学の頃と全く変わらない地味で何の特徴も無いちっぽけな自分がうつっていた。こんなさえない自分が憧れの先輩と付き合えていた事が奇跡のように思えた。 
 暫くそのまま座っていて、ハンカチで流れてくる汗を拭っていると、バタバタと足音が聞こえ、椎堂のそばでピタリとその音が止まる。 
 
「あ、いたいた!椎堂、探したよ。急にどうしたんだよ」 
 追いかけて走ってきたのか、いつのまにか目の前に来た先輩が困ったように眉を下げる。 
「……先輩」 
「彼女も怒って帰っちゃうしさ。お前ならもっと楽しんで遊べると思ってたのに」 
 
――……楽しむ? 
 
 何を言っているんだろう、と思った。好きな人が他の女とセックスをしている間に入って自分も楽しむ?全く理解がおいつかない。それもそのはずだった。先輩と自分の気持ちが全く違うという事に気付いたのはこの時が初めてだったのだ。 
 
「俺さ、お前綺麗な顔してるし、椎堂とエッチな事するの好きだけど。俺ら別に恋人なわけじゃないんだからさ」 
「…………」 
「お前だってそうだよな?一人でヤるより相手いたほうが盛り上がるし。お互い恋人とか出来るまでの慰め合いっていうか」 
 
――ああ、そうだったのだ……。 
 
 椎堂はそう思うと同時に、乾いた笑いしか出てこなかった。耳に届く先輩の言葉の全てが、これが現実なんだと叩き付けてくる。 
 
 男が男を好きになる事なんて想定していないのだ。彼は別に、椎堂を傷つけるために言っているわけではない。持て余している若い性欲をただ満たすだけのお遊びに過ぎなかったのだと真実を告げているだけだ。こんなに本気で先輩の事を想っている等と知られたら、多分気持ち悪がられるのだろう。人からされる告白は、受け入れるいれないは別として本来なら嬉しい物のはずだが、例外もあるのだ。 
 
 ゲイでもない相手を好きになるという事はこういう事なのだと初めて知った瞬間だった。 
 椎堂の気持ちを知らないまま、彼は少し距離を開けて座り、周りに誰もいないのを確認して恥ずかしそうに笑った。 
 
「……先輩」 
 もっと取り乱してしまうかと思っていたのに、自分の冷静さに椎堂自信が驚いていた。 
「ん?」 
「僕、彼女が……出来そうなんですよ。この前、告白されて。だから……もう、今日で終わりにしますね……」 
 
 平気で嘘を口にする椎堂の言葉を疑いもせず受け取った彼は、一瞬驚いた顔をしたがすぐに屈託のない笑顔を見せる。その中に、安堵の色をみつけて、彼はこの関係をきるにきれなくなって言い出せなかったのではないかと椎堂は思った。 
 まだ大人になりきれない自分達が、大人のまねごとで性行為をしてみても満たされるのは性欲だけで何も残らないのだと知る。 
 
「そっか、……おめでとう。じゃぁ仕方ないよな。安心しろって、俺と遊んでたことは秘密にしとくから」 
「……はい。じゃあ、僕は、そろそろ帰ります……」 
「うん、今まで楽しかったよ。彼女と上手くやれよ!もしまた、彼女と上手くいかなくなったら遊ぼうぜ」 
 
 心から祝福するように彼は笑って椎堂の肩を叩いた。「有難うございます」といって笑顔を返したけれど、きっとそれはうまく笑えていなかったのかもしれない。すっかり日が落ちて橙色に染まった校舎の外を歩きながら思い返す。一度も「好き」と言われた事も無かったし、実験準備室以外で会った事も無い。 
 
 冷静になって考えれば、とても付き合っていた状態では無かったのだ。先輩がいつも言っていた言葉でどうして気付かなかったのだろう。「秘密にしよう」「周りに言うなよ?」それは、男同士でそういう行為をしていることを【世間に知られたくない関係】だと言っているような物だったのに……。 
 
 そして、フと気付く。自分でさえ、「好き」という気持ちを一度も伝えていなかったことに。不思議と、涙は出てこなかった。 
 今となっては伝えなくて良かったのだと思う。だからこそ、短い間だけでも夢を見られたのだ。もしかしたら、先輩も自分の事が好きなんじゃないか、って。そんな甘い夢を……少しだけ見ていた。 
 
 それから部活は退部し、恋愛などに気が向かないように只管勉強に励んだ。落ちていた成績はすぐに戻り、次の学期試験では学年で一番の成績をとった。コンタクトレンズはあの日、花壇に捨てて以来する事は無かった。