明るい外の陽射しが窓からさし込む教室。日が昇りきっていない今はまだ午前中だった。椎堂は、昔の自分を思い出しながら、やれやれと肩を落とす。今は自分が白衣を着ている側で、初恋の実習生と年齢もほぼ同じになっている。あの当時は随分大人に見えた大学生も、自分が同じ年齢になってみると全く大人じゃなかった。 
 
 高校の頃と比べて変わった事と言えば、簡単に人を信じなくなった事と、恋愛に前より臆病になった事くらいだ。成長どころか寧ろ退化している事に溜息しか出ない。どうせ、誰とも付き合うことなんて出来ないのだから、好きになったとしても告白する機会なんてなくたっていいと今は思う。告白された相手だって、迷惑以外の感情を持ってくれるはずもないのだから……。 
 
 午前中最後の講義が佐伯と重なった椎堂が、いつものように美佐子と佐伯の側によると、美佐子が席を立って「どうぞ」と椎堂を迎え入れる。別に真ん中に座るという決まりがあるわけでもないのに、3人で並ぶといつも椎堂は真ん中に座らせられるのだ。 
 
「美佐ちゃん、今日は早いね。まだ研究室かと思ってた」 
 
 椎堂がそう言って微笑むと、美佐子も笑い返す。美佐子は肩までの緩いウェーブした髪を邪魔そうに一つに縛ると、椎堂へ言葉を続けた。 
 
「さっきまでいたんだけど、煩わしいことがあって逃げて来ちゃった」 
「煩わしい事?またナンパでもされた?」 
「成功する確率くらい、いい加減覚えれば良いと思うの」 
「相変わらず手厳しいな……。美佐ちゃんは」 
 
 椎堂はピシャリとそんな事を言う美佐子に苦笑する。顔立ちスタイル共に整っている美佐子は学内でも目を引く存在なのだが、性格がきつく、というか少し変わり者である。そんな美佐子の内面を知らない生徒からよく声を掛けられているのだが、その度に冷たくあしらっており、知っているだけでもかなりの生徒が玉砕している。 
 
 しかし、美佐子は何故か佐伯と椎堂を気に入っており、気付くと3人でいる事が多くなり、3年経った今ではもうこれが普通の事となっていた。東京の医大へ進学を決め、佐伯と美佐子に出会ったのは入学してすぐの頃である。新入生歓迎会で隣の席になり話したのがきっかけで大学でも話すようになった。最初は同じ講義の時に話す程度だったが、いつのまにかこの3人でいる時間が増えていったのは自然な流れだった。 
 椎堂は元々女性を恋愛対象に見られないので、そういう目で見てこない椎堂といるのが美佐子も居心地がいいのか……、佐伯と椎堂は結構美佐子に懐かれている。 
 
「誠二君はさ、チョコと葡萄、どっちがいい?」 
 
 突然繰り出された質問に椎堂が答えようとした所で、佐伯が遮るようにこちらを向いて口を開く。 
 
「死にたくなければ、どっちもやめておけ」 
「……え?」 
 
 美佐子がムッとして佐伯を睨んでいるが、佐伯は気にも留めずまた手持ちの本に目を向けている。最近結構伸びてきた髪が鎖骨の辺りで揺れて佐伯の顔を隠す。 
 
「今回は成功しているから、平気よ。じゃあ、誠二君はチョコね」 
 
 どっちがいい?と聞いてきた事に答えていないにも関わらず、美佐子は椎堂の前には茶色の塊、佐伯の前には……、やっぱり茶色の塊(少しだけ紫がかった)をポンと置いた。 
 どうやら手作りの『何か』らしいのだが、一体何なのかわからない。ただひとつわかるのは、非常に固そうだという事だけだ。 
 
「美佐ちゃん、これなにかな?クッキー?」 
「ううん。特に名前は無いわ。材料はクッキーに似てるけど、もっと体の事を考えて作った物よ」 
「へ、へぇ……。じゃあ、折角だから貰うね」 
 
 名前のない塊を椎堂は手に取ってみる。女の子の作った物を露骨に拒否するなんて可哀想だし、食べれば美味しいかも知れないし……。そう思い、半分に割ろうとしたが、想像を絶する固さで歯が立たない。体の事を考えて作ったらしいが、歯のことは一切考慮していないらしい。 
 
 思い切って一口で全部を口に入れると、ただただ苦かった。そして、謎の酸っぱさがある。チョコの味も微かにする気もするが、苦みと酸味以外の味を探すのは難易度が高い。期待した目で椎堂を見る美佐子に、椎堂は少し笑みを浮かべてその物を嚥下する。 
 
「どう?食べれそう?」 
 
 美味しい?と聞いてこない所を見ると、目指しているのはおいしさではなく『食べられるかどうか』なのかもしれない。 
 
「う、うん。でも、ちょっと固いかな……」 
「あぁー、やっぱりそうだよね」 
 少し肩を落とす美佐子に佐伯が容赦ない言葉を被せる。 
「固い固くない以前の問題だと思うがな。椎堂も律儀に食ってやる必要なんかないぞ。放っておけ」 
 
 佐伯の前に置かれた葡萄味の塊を美佐子に突き返すと、美佐子もしつこくそれを佐伯へと押し返す。椎堂の目の前で茶色の塊が行ったり来たりしているのがとてもおかしい。そんな二人のやりとりをみて、椎堂は苦笑していた。 
 
 何往復かした塊に、ついには佐伯が諦め「うるさい奴だな……」と文句を言いながら、その塊を口へ入れた。佐伯も相当頑固だと思うのに、その佐伯が根負けするほど押せる美佐子はやはり凄いと思う。 
 佐伯は無表情でガリガリと塊をかみ砕き、持ってきていたペットボトルの飲み物で飲み込んで溜息をついた。 
 
「固い。まずい。クエン酸の入れすぎ。ドッグフードの方が100倍ましだ」 
「佐伯、ちょっとそういう言い方は美佐ちゃんが可哀想だよ」 
 
 佐伯にボロクソに言われて、流石に落ち込んでいるかと隣の美佐子を見てみると、美佐子は寧ろ満足げで手帳に『クエン酸の量を減らす』と書き込んでいる。本当にこの二人はよくわからない。だけど、たまに話すぐらいの関係の人間はいても、こうして常に一緒に居られる仲間がいない椎堂には、この3人でいる時間がとても楽しく思えた。佐伯への憧れが少しずつ恋愛感情に近づいている事に自分でも気付いていたが、佐伯への想いを口にするつもりはない。それに、本気で恋愛をするという事が今はまだ怖かった……。嫌な思い出を封印するように、椎堂は頭から記憶を追い払った。 
 
 そんなクッキーもどきの試食会が終わる頃、教授が教室内へと入ってきた。ざわざわしていた生徒達も教授が入ってきた途端静まりかえり、教室には真面目な空気が一瞬にして漂う。今日の講義の教授は非常に厳しくちょっと無駄口を叩いているとすぐに教室から追い出されてしまう。先日など、居眠りやら私語やらで教室を追い出された生徒が10人以上いたはずだ。 
 
 そんな講義が始まって20分ほど経った時、ふと椎堂が隣の佐伯を見ると驚く事に佐伯はノートをとっていなかった。 
 
「佐伯……、もっと真面目に聞いた方が良いよ。来週試験があるって噂だよ?」 
 
 小声で隣にいる佐伯に話しかける椎堂は、教授の方をちらりと見ながらテキストのページをめくる。当の佐伯はと言うと適当に開いているテキストはページさえ合っていない始末で、持ち込んだ本をその上に広げると読みふけっていた。 
 
 椎堂は小さくため息を吐く。後ろの方でもないので教授の目が届かないとは100%言えない。いつ注意されるかと思うと佐伯よりこちらがビクビクしてしまう。そんな椎堂の忠告をきくでもなく佐伯はボソッっと呟く。 
 
「試験なんて基礎しか出ない。何も問題ない」 
 
 佐伯が問題ないというその試験に他の生徒達は四苦八苦しているというのに……。黒板にチョークで書く音がぴたりと止み、教授がふとこちらに目線を投げる。問題を書き終えた教授が一つ咳払いをした。 
 
「じゃぁ、そこの君。胆嚢癌における消化管再建術式を行う場合はどうするかね?」 
 そこの君というのはどうやら佐伯の事のようだ。椎堂は慌てて佐伯を肘でつつく。 
「おい、佐伯、あてられてる」 
「――ん?」 
 
 佐伯は面倒そうに本から目をあげると立ち上がる。黒板をしばし眺めた後、低い声で淡々と説明しだした。 
 
「右からの肝切除では、肝切離前に門脈の切除・再建が可能なので、口径差を考え、門脈本幹にこれと直交するように斜めに血管鉗子をかけます。縫い代を考慮し、かつ門脈口径が合うように門脈を切離。5-0プロリン糸を用いて、後壁はintraluminal法、前壁はover and over法で縫合を行います。以上です」 
「……よ、よし」 
 
 何か言いたげな雰囲気だったが佐伯の完璧な答えに教授も言葉を飲み込んだようだった。椎堂は感心にも似た気持ちで佐伯を見上げる。隣の美佐子は愉快そうにクスリと笑っていた。 
 何故講義を聞いてもいないのに咄嗟に答え、しかも完璧なそれを用意することができるのだろうか。自分と比べていつも冷静で物怖じしないその性格が椎堂は羨ましかった。よし、と言われて腰を降ろした佐伯は何事もなかったかのように再び先程の続きを読み始めた。呆れるほどにマイペースな佐伯は何に関してもこんな態度である。 
 
 本人が「何も問題ない」と言っている通り、佐伯の成績は毎回トップクラスで、徹夜で試験勉強をしてやっと椎堂は同じレベルにいるといった状態であった。美佐子もどちらかと言えば佐伯に近く、試験前にも謎の菓子作りをしていたり、研究室にこもって独自の研究をしていたりする。この二人の脳の作りは、どこか違うというのは常々椎堂が感じていることである。 
 
 
 
 
 長かった午前の講義が終わり、美佐子は研究室に用事があると出て行き、椎堂はテキストをまとめていた。読みかけの本をバサッと閉じた佐伯が窮屈そうに長い手足をのばし、その後腰を上げ椎堂へと声を掛ける。 
 
「午後の講義は、お前どうするんだ?」 
「午後?一限目はとってないけど、二限目はあるから図書室で時間を潰そうかなと思ってるけど……。佐伯は?」 
「俺はお前とは逆だな。午後一の講義はとってある」 
「そうなんだ」 
「そろそろ、飯でも食いにいくか」 
「あぁ、うん。そうだね」 
 
 椎堂もまとめ途中のノートを閉じて、鞄へ入れ席を立つ。佐伯と椎堂は連れだって学食へ向かった。学内の学食は美味しいとも言えなかったが外へ出るのが面倒なのと、値段が安いので毎日結構賑わっていた。 
 食券の売り場で椎堂が何にするか迷っていると、後ろにいた佐伯がすっと腕を伸ばし……。そして、勝手にメニューのボタンを押した。 
 
「人の食べる物まで決めるなよ。佐伯」 
 
 そう言って椎堂は佐伯を見上げて少し睨む。 
 長身の佐伯はこうして並んでいると随分見上げないとその表情が見えない。睨むつもりがただ見上げている格好になってしまうので、その効果は限りなく薄かった。 
 
 音もなく出てきた食券を佐伯は椎堂に渡す。それは、焼き肉定食で椎堂は食券を見て顔を顰めた。 
 今日はあまり食欲がないので軽い物にしようと思っていたのだ。学食は量が多い上に、焼き肉定食などヘビーな物を食べる気分ではない。佐伯は自分も同じ物を選ぶとすぐにカウンターへ向かって歩いて行ってしまった。 
 仕方がないので椎堂も着いていってカウンターに食券を出す。 
 
――残すのが嫌だから、少しにしようと思っていたのに。どうするんだ、これ。 
 
 そう思うものの、もう買ってしまったのだから仕方がない。 
 空いている窓際の席に腰を下ろし、少し待っていると予め作ってあったのをよそっただけの定食がカウンターから出され番号が点滅する。 
 カウンターへ再度行き、そのトレイを受け取ると佐伯は席にさっさと歩いて行った。せめてご飯を少な目にして貰えばよかった……。山盛りに盛られている焼き肉定食に溜息が出そうになる。椎堂は重いトレーを持って佐伯の向かい側の席へ腰を下ろした。 
 
 佐伯は目の前の椎堂にかまわず、箸を取り出すとおかずを口に放り込みながら黙って隣へと置いた本をまた読んでいる。そんなに面白い本なのだろうかと椎堂は目をこらし、その内容に目を瞠った。 
 何かの小説かと思っていたその本は医学事典だったのだ。かなり厚い本だとは思っていた物のまさか事典だとは思いも寄らなかった椎堂は、しばし佐伯の読むそれを呆然と眺めていた。 
 
「――何だ?」 
 
 そんな視線に気付いて佐伯が不思議そうに顔を上げる。 
 
「あぁ……いや……。佐伯、何で事典なんか読んでるんだ?」 
「これか?」 
「うん。何か調べ物でも?」 
「いや……、別にそういうわけじゃない」 
 
 佐伯はそう言うと定食のご飯を箸で口に運ぶ。そうじゃなければ何だというのか先を言わない佐伯の言葉を椎堂は待っていた。ご飯を飲み込んだ佐伯が口を開く。 
 
「全部暗記すれば。持ち歩かなくて済むだろう?荷物が重いと面倒だからな」 
「――は?」 
 
 思わずその突飛な答えに呆れてしまう。医学の事典はそれこそ何巻にも渡っており佐伯が見ているそれもその中の一冊にすぎない。それを全て暗記する事など到底できるはずもないと椎堂は思っていた。 
 
「ちょっと意味がわからないんだけど。……そんな、全部暗記するなんて無理に決まってるよ」 
「そうか?」 
 そう言って佐伯は本の表紙を徐に確認する。 
「これはもう6冊目だが、それまでのものは全て暗記したはずだが。まぁ、忘れている事もあるかもしれんがな」 
 
 椎堂は信じられない思いで呆然となった。佐伯の頭の中にはこの事典が6冊分入っているという事はにわかに信じがたい事だった。普通の学生がやってのける所行ではない。 
 すっかり食事の最中だというのを忘れていた椎堂が、少し冷めつつあるご飯に思い出したように箸を付ける。それを見ていた佐伯は、少し笑って椎堂の方へ顔を向けた。 
 
「椎堂、お前も暗記すれば、そんな荷物いらなくなるぞ」 
 
 重そうな椎堂の鞄を指さして佐伯が笑う。 
 
「僕はとてもじゃないけど、出来ないよ。今の講義で手一杯だし」 
「そう思いこんでいるだけさ。案外やろうと思えば人間の脳は色々期待に応えてくれるぞ?やろうと思うか思わないかの違いだけだ」 
「……佐伯の脳みそと僕の脳みそは多分別物なんじゃないかな。半分僕に分けて欲しいくらいだよ」 
 
 椎堂は苦笑して残りの定食を食べ進める。が、半分ほど食べた所で箸をおいた。どう頑張っても、とても全部を食べられそうにない。 
 
「何だ、もう食わないのか?」 
「ああ、うん。……今日はちょっと食欲が無いんだ……作ってくれた人には申し訳ないけど……」 
「だろうな」 
「ん?どういう意味?」 
「朝から顔色が悪いから、そんな事だろうと思っていた。どうせ昼飯もちゃんと食わないで済ませようとしていたんだろう?お前はもっと体力を付けるべきだと思うが」 
 
 だから焼き肉定食をわざと選んでやったと言わんばかりの台詞に椎堂は閉口した。顔色が悪いとしても、それは多分他人にはわからない程度だったはずだ。些細な体調の善し悪しは口にしない限り余程でないと人に知られることはない。そう思っていただけに佐伯の観察眼の鋭さに舌をまく思いだった。医者に向いているのは間違いないとこんな所でも感心してしまう。 
 
「……よくわかったね……。僕は、気が小さいから、明日の事を考えるとどうにも……昨日からあまり寝ていないんだよ」 
「明日?……何かあるのか?」 
「何って、明日実習があるだろう?」 
「あぁ……、その事か」 
 
 佐伯はやっと思い出しはしたが、理解不能だというような表情で苦笑している。明日行われる実習は、現場のオペと寸分違わない状況で行われるものである。図解や動画などで何度も繰り返し見ているとしても、やはり実際とは大差がある。慣れていないせいか、椎堂はその事を考えるだけで今朝から憂鬱な気分になっていたのだ。 
 
「実習中に貧血を起こすなよ」 
「……気をつけるよ」 
 
 佐伯は椎堂の半分残した定食を自分の食べ終えたものと差し替えると、その残りを食べ始めた。佐伯は見た目に反して案外量を食べる。それにしたって、佐伯の定食だって大盛りだったはずである。 
 
「佐伯、そんな無理しなくてもいいよ……」 
「別に、今日は腹が減ってるんだ。気にするな」 
 
 椎堂が食事を残すのが嫌いだと知っていて、気を遣ってくれているのか。それとも自分が勝手に食券を選んだことに対する責任感なのか。佐伯はすぐに椎堂の残りもたいらげた。恩着せがましく押しつけてくる親切ではなく、佐伯のそれはとてもさりげない。 
 
 突き放しているようで実は椎堂の事を誰よりも気遣ってくれている。そんな佐伯に、椎堂はいつも守られている自分を感じていた。同じ男として甘えているばかりではいけないと思うものの、どう頑張っても佐伯には追いつけそうにない自分の事も理解している。佐伯といると何故かひどく安心した気持ちになるのは、好意を寄せている自分の気持ちがあるからなのか、ただたんに男として憧れているからなのか、そこはまだよくわからなかった。 
 
 
 
 食事を終えても午後の講義まではまだ暫く時間がある。佐伯が喫煙者なので、この後はいつも決まってまっすぐに喫煙所に向かう。学内はほとんどが禁煙で、唯一煙草が吸える喫煙所は一カ所しかなく、巨大な空気清浄機が激しく音をたててフル回転していた。 
 
 椎堂は煙草は吸わないが佐伯と共に訪れる回数は少なくない。耳障りな轟音と空気の悪いこの場所があまり好きではないが数分の我慢なので渋々同行している。 
 
 医学の道を歩む者が、身体に悪いとされる煙草を吸うのはおかしな話しだが喫煙所はいつも学生でいっぱいだった。今日も白く煙った中、佐伯は気にもせずに灰皿の近くに腰を降ろす。そして煙草を取り出すと火を付けて吸い始めた。煙を吸ってゆっくり吐き出す佐伯が隣にいる椎堂へと振り向く。 
 
「椎堂、そういえばお前はなんで吸わないんだ?前にどんな味かと聞いていたよな」 
「――え?だって身体に悪いし。それに……、一度も吸った事がないから」 
「……そうか」 
 
 佐伯は自分で聞いたにも関わらずそっけなくそう言うと、何故かもう一本煙草を取りだして咥えると火を点けた。そしてそれを椎堂の前に差し出す。 
 
「吸ってみろよ。何事も経験だ」 
「え?いいって。僕、吸い方わからないから」 
 
 そう言った椎堂の台詞に、隣にいた男子学生が馬鹿にするようにクスリと笑った。むっとした椎堂は、結構負けず嫌いな所もあるのだ。笑われた事を悔しく思い、佐伯の煙草を受け取った。 
 
「べ、別に煙草ぐらい、僕だって吸えるよ」 
 
 そう言って初めて持つ煙草をぎこちなく指で挟むと口に咥えた。どうやって吸い込むのかわかりかねたが、見よう見まねでとりあえず一気に吸い込んでみた。苦いような煙たいような感触が喉をつたい、何一つ美味しくもない。 
 
 深く身体に吸い込まれた途端、驚いたように身体が拒絶し激しく咳き込む。どうやら変な吸い方をしたようで気管に入ったらしい。綺麗な空気を吸おうにも周りは煙だらけで、椎堂は噎せながら涙を浮かべた。 
 佐伯が自分の飲んでいた缶コーヒーを差しだし、驚いたように背中をさする。 
 
「大丈夫か?一気に吸い込みすぎだろ」 
 
 格好悪いのと苦しいので椎堂は佐伯の手を払うと喫煙所から廊下に出た。中からは一部始終を見ていた学生の隠しもしない笑い声が椎堂を追う。恥ずかしくて顔が紅潮するのがわかり、椎堂は足早にその場を去った。煙草一本も吸えないなんて、本当に情けない気分である。もう大人なんだから、佐伯と並んで一服するくらい出来るようになりたい気持ちもあった。どうやら、自分の体質にはあっていないようだが……。 
 
 
 
 椎堂が喫煙室を出て行った後、佐伯はゆっくり立ち上がると周りの学生を横目で睨んだ。椎堂を馬鹿にして笑った輩がどうしても気に入らなかったのだ。椎堂が以前「煙草ってどんな味がするの?」と聞いてきたのを思いだして試しに渡しただけで、恥ずかしい思いをさせるためにやった事ではない。 
 
 出て行ってしまった椎堂を追いかけるために吸っていた煙草を灰皿へと落とし。部屋を出る際に、わざと笑った張本人の足を軽く踏みつけた。 
 
「痛ってぇな、何すんだよ」 
 
 佐伯に足を踏まれた学生がくってかかろうとした時、その学生の友人が袖をひっぱってそれを制止した。 
 
「馬鹿、お前。やめろって三年の佐伯だぞ」 
 
 周りにいる学生がしんと静まりかえる。佐伯は冷たく微笑むと部屋を出る前に一言だけ呟く。 
 
「すまんな。視力が悪くて、よく見えないんだ。落ちているゴミと間違えた」 
 
 悔しそうに唇を噛む学生はそう言われてもそれ以上は突っかかってこなかった。佐伯はそのまま喫煙所を出ると椎堂を探しに歩き出した。あの様子だと怒っていそうだが、椎堂が行く場所の見当は幾つかついている。 
 
 先程の学生が佐伯の名を聞いて大人しくなったのには訳があった。そんなに逞しい体格ではなかったが佐伯は喧嘩が強いという噂は学内では有名なのだ。自分で言ったわけでもないし、勿論誰かと殴り合いの喧嘩をした事も無いが、噂というのはどこまでも愉快に広がる物であり、終いには【指を怪我すると外科医として致命傷なので足だけでねじ伏せる】という喧嘩の仕方や、何人か病院送りにしたという噂まで耳にした事がある。まるで都市伝説のようである。勿論全てでたらめのただの噂ではあるが、別段否定する必要性もないので佐伯はそのまま放置していた。 
 
 飛び抜けて長身な事と、佐伯の誰に対しても冷たい態度や皮肉な言動等がそれを噂だと片づけられない裏付けにもなっているようだが、本人は全く気にも留めていなかった。どうでもいい他人にどう思われようが、全く関係ない。 
 
 
 
 暫く廊下を歩いて、佐伯は中庭の中にあるベンチに椎堂の姿を見つけた。椎堂はこの場所か、後は屋上のベンチか図書室のどこかにいる事が多く、想像通り居場所をみつけるのは簡単だった。 
 佐伯の姿を見つけると椎堂は少し腹を立てているのかそっぽを向いている。佐伯はそんな椎堂の仕草が可愛いく思え、少し口元を緩めて距離を縮める。 
 
「何だ、怒ってるのか?」 
「……怒ってないよ。で?何しにきたんだよ」 
「怒ってないわりにはご機嫌斜めだな。機嫌直せよ」 
「だから、怒ってないし機嫌もわるくな、、ッ!?」 
 
――え!? 
 
 椎堂の言葉を塞ぐように、佐伯はいきなり腰を屈めて自分の唇を重ねた。何がどうなって佐伯と自分がキスをしているのかわからず、ただ椎堂はされるままになって固まっていた。やっと自分の状況がわかると椎堂は赤面して咄嗟に佐伯を突き放した。 
 
「な、な、!!何するんだよ!」 
「何って、普通のキスだろう。お前、キスした事ないのか?」 
 
 平然と言ってくる佐伯に唖然とする。どんなキスだろうが、こんなに突然されたら誰だって驚くに決まっているというのに佐伯にはそれがわからないらしい。しかも学内で昼間からである。 
 
「そうじゃなくて!な、なんで……。よく人前で、こんな……誰かに見られたらどうするんだよ」 
 そう言った椎堂に佐伯が怪訝な顔をする。 
「見られたらどうだっていうんだ……。隠すような事なのか?お前も本当に鈍いやつだな」 
 
 佐伯に鈍いと言われたのも頭に来るが、その意味を考えると怒りより羞恥が強くなる。たったいまキスをした唇にまだ佐伯の感触が残っていた。男の自分とキスをする事も勇気があるが、それを隠すような事でも無いと言い切る佐伯の潔さが椎堂を驚かせる。フと高校の時の事が脳裏を掠め椎堂は当時の先輩がひたすら隠したがっていた事実を思い出していた。普通の恋愛なんて一生出来ないと思っていた。 
 
 佐伯は立ったまま、空を見上げると眩しそうにレンズ越しに目を細めたあと椎堂へ振り向く。 
 
「お前が好きだ。俺とつき合えよ」 
 
 椎堂は返事を返さないまま佐伯のその横顔を見つめていた。佐伯に好きだと言われて喜んでいる自分が何処か人事のようでもある。まだ恋愛を出来る自信はなかったけれど……。佐伯なら待っていてくれるのではないか、そう思った。 
 
 椎堂はもう隣にいるのが当たり前になっている佐伯の存在の横で一緒に立ち上がり空を見上げた。真っ白な雲が流れていて何かの形に見えてくる。暫くそれが何の形なのかを考えてみたが、そんな事はどうでもよくなっていた。 
 
「……僕も、好き……かも」 
「『かも』は余計だろ」 
 
 佐伯が笑う。椎堂は佐伯がそうやって嬉しそうに笑ったのを初めて見た気がして、自分も微笑んだ。前触れもなく親友から恋人になった隣にいる男は、とても自分勝手で強引だが、それでも誰よりも眩しかった。 
 
 講義の始まる時間になり、廊下で佐伯と別れる。互いの想いが通じ合う事、それがこんな穏やかな気持ちになると初めて知った。それを教えてくれたのは佐伯だった。例えそれがいつか終わる日が来るとしても……。後悔はしないだろう。椎堂はそう思いながら図書室へと足を向けた。 
 
 
 
 
Fin