俺の男に手を出すな 4-10


 

 佐伯から送られてきた薬を全部飲み終え、何とか熱も下がって復調するのに三日も要してしまった晶は、LISKDRUGの一階上にある茜の店に顔を出していた。 
 
「こんばんはー。茜姉さんもういるー?」 
 
 店の鍵が開いていたので中に入って声を掛けてみたが、返事がない。茜はいつも一番乗りで店に出ていることが多いのでもういるはずなのだが、今日に限ってまだなのだろうか……。そう思いつつ暫く待ってもう一度声をかけた時、「ちょっと待ってて~」と返事が聞こえ、少しして奥から茜が慌てて顔を出した。 
 
 いつもの派手目の衣装とアップにしたヘアスタイルはバッチリきまっているが、化粧をまだしていないらしい。まずい時に来ちゃったかなと思っていると、茜が「まぁ!!! 晶ちゃん!!」と突然抱きついてきた。 
 いきなりの熱い抱擁を抱き留めて、思わず晶は苦笑する。 
 
「熱い再会だな~、ってか今来たらまずかった? 俺、出直そうか?」 
「別にいいわよ。あっ! でもあんまり顔を見ちゃダメ! すっぴんなんだもの……」 
 
 普通その台詞の後は、恥ずかしそうに自分の顔を両手で覆ったりするものだと思うが。茜は晶の目の前を隠すように大きな掌を突き出した。確かに、晶から茜の顔は見えづらくなったがその行動がおかしくて、晶は小さく吹き出す。 
 
「みたいだね。でも、そのままでも可愛いから問題ないっしょ」 
 笑みを浮かべて茜の顔を悪戯に覗き込む。 
「やだー。もう晶ちゃんったら!! って、そんな事はどうでもいいのよ! もう体の具合はいいの?? ずっと心配してたのよぅ……。熱は下がったの?信ちゃんから様子は聞いてたけど……」

 
 茜が隠すために伸ばしていた手を晶の額に移動させ、心配そうに手を当てる。手首につけている茜の香水の甘い香りが晶の鼻孔を掠めた。 
 
「有難う、もうすっかり。茜姉さんがくれた蜂蜜のやつ、めっちゃ美味しかったよ。あれ飲んでたおかげで早く治ったのかも」 
「ほんとー!? 良かったわ~。いつでも作ってあげるから風邪引きそうになったら、今度から私にちゃんと言うのよ」 
「うんうん、その時はまたお願いしよっかな。あ、これ。渡そうと思って来たんだけど」 
 
 晶が小さな紙袋を茜に差し出す。 
 
「あら……。なぁに? 私が貰っちゃってもいいの?」 
 
 「どうぞ」と晶が頷くと、茜は嬉しそうに中を覗いてパッと目を輝かせた。 
 
「前に好きだって言ってたからさ。俺、この店の食った事ないから美味しいかわかんないけど。蜂蜜のお礼って事で」 

 前に玖珂と茜の店で飲んでいた時に、茜がキャラメルが大好物だと話していたのだ。自宅から店に来る途中の駅にキャラメルの専門店があるのは前に雑誌で見たので知ってはいたが、店に入って買ったのは初めてだった。 
  キャラメルなんてあまり買う事も無いし、専門店がある事すら意外だったが、店内には晶の想像する所謂普通のキャラメルではなく、生の花が埋め込まれている物や動物の形をしている物、色もカラフルなそれらがショーケースの中に所狭しと並べられていた。 
 どれがいいのかわからないので、一粒ずつ色々な種類を詰め合わせて貰ったのだ。透明な箱に入った色とりどりのキャラメルをみて茜はとても嬉しそうにしている。 
 
「お礼とか気にしないで良かったのに~。でも私がキャラメルが好きな事、覚えていてくれたのね……。本当に晶ちゃんったら……」 
 
 感激して何度も中を覗く茜は、終いには「もう芸術よね、これは。私食べないで飾っておこうかしら!」等と言い出している。 
 
「いや、賞味期限あるだろうし、食べたほうがいいんじゃないの?」 
 笑ってそう返すと、茜も笑みを浮かべた。 
「でもさ、茜姉さん、何でキャラメルがそんなに好きなの?」 
 
 フと湧いた疑問である。茜は一粒を箱から取り出すと、包みにくるまれたそれを掌に載せて優しい笑みを浮かべ呟いた。 
 
「昔ね……。好きな人がいて、その彼がキャラメルが大好きだったのよ。二人でいる時、いつも一緒に食べてたの。その時がすごーーく幸せでね……、今もキャラメルを食べるとその当時のこと思い出すのよね」 
 
 想像していた理由と全く違った事が茜の口から告げられる。照れたように頬を染める茜はごまかすように続けて口を開いた。 
 
「勿論素敵な想い出よ? だから今も好きで、食べると幸せな気分になるってお話」 
「……そっか」 
 晶は静かにそう言うと、茜の掌に載せられた一粒のキャラメルを指で拾い上げる。 
「――晶ちゃん?」 
 
 包装を解くと、スミレの花びらが埋め込まれた薄紫のキャラメルから甘い香りが放たれる。 
 
「茜姉さん、口開けて?」 
 
 晶がつまんだキャラメルを茜の唇へと持っていく。茜が恥ずかしそうに少し口を開く。晶はキャラメルをその口へそっと落として優しく微笑んだ。 
 
「また甘い想い出がいっぱい作れるようにさ……、今のキャラメルに願いを込めておいたから」 
 
 茜がドキッとしたように視線を逸らす。口の中でゆっくり溶け出すキャラメルが、晶の台詞によって一層甘さを増した気がして……、茜は俯いたまま晶の手をそっと握った。 
 
「ほんと、いやになっちゃう……。No1ホストが恋人だったら心臓が持たないわね……。晶ちゃんが恋人じゃなくて良かったわ」 
「え~? ひっどいなー」 
「でも、アリガト……。今、とっても幸せよ。晶ちゃんのおかげでね」 
 
 再び礼を言い嬉しそうにしている茜を見ていると、晶も嬉しい気分になる。 
 
「……良かった。じゃ、俺もう店戻るわ」 
「うん、またゆっくり遊びに来てね」 
「了解~、んじゃまた!」 
 
 ドアを片手で開けたまま、茜が手を振る。晶も手を振り替えしながら階段を下りた。 
 
 
 
 
 一階下りて、久し振りに顔を出そうとしている店のドアの前で晶は足を止めた。 
 ドアを開けようと手を掛けては「いや、待てよ」と難しい顔でまた手を離す。 
 
 このドアを開けるには、少し覚悟が必要だった。というのも、信二が事の次第を大袈裟に店で説明したらしく、ちょっとした騒ぎになったようなのだ。 
 話を聞いた玖珂までもが心配をし、自宅へ電話を掛けてきた時は晶も驚いた。たかが風邪だというのにどうしてこんな事になったのか……。 
 
 その原因は、勿論信二の大袈裟な説明によるところが大きいのだが、それともう一つは最初に休んだ日の前にしたワイン勉強会での晶の憔悴っぷりも信二の説明を裏付けるには有り余るほどだったはずだ。 
 晶はまず、ドアを細く開けて店内を見渡す。騒ぎを見越して相当早くに来たので開店まではかなり時間がある。運が良ければそんなに人は来ていないはずだった。 
 とりあえず目に付く所には誰もおらず、少し安心してドアを広くあけて忍び込む。ドアが閉じきる瞬間手から離れたドアが音を立てる。と、その時。 
 
「晶先輩!?」 
 
 めざとく晶に気付いた奥にいる信二が振り返った事で、驚きの早さでその場にいた皆が集まってくる。予想していたとは言え、その素早さには流石に驚き、晶も一歩後ずさってしまった。 
 今日から店に出ることは予め信二へメールしてはあったが、何故今日に限ってこんな早くに皆、店に出ているのか。 
 しかしながら、その質問を口にすることは出来ず、晶はドアから一歩入ったパーテーションの所で立ち尽くしていた。 
 
「もう、平気なんっすか!? まだ休んでた方が良いってメール返信したのに」 
 
 まず、信二が心配そうにそう言って口を開く。 
 その次からは、もう誰が何を言っているのかわからないほど一気に質問と心配が飛び交った。――あぁ……、この感じ。何処かで似たような光景があったように感じて思い返す。そう言えば、ビルで火事騒動があった際に怪我をして帰ってきた日も、今と全く同じ状況になっていた気がする。 
 
――このデジャヴュ感……。 
 
 晶は逃げ出したくなるのを抑えて、とりあえず笑顔を作ると繰り返し「もう治ったから」と口にした。 
 
「いや、でも今年のインフルエンザって死んだりする人もいるっていいますからねっ」 
「40度以上も熱が出るなんて、やっぱりおかしいんじゃないか? 一度病院で精密検査とか……」 
「体重が5 kgも落ちたって本当か? それヤバイんじゃ……かなり」 
 
 後輩に同期に、フロアマネージャーの坂下までもが加わっている始末だ。こんなに心配をしてくれるなんて有り難いことではあるが、この騒ぎには苦笑いするしかない。 
 一つずつ訂正していくのもおかしな物ではあるが、インフルエンザではなくてただの風邪だし、熱も40度はなかったはずだ。体重も量ってはいないが、多分変わっていないと思う。 
 
 いつのまにか重病人扱いをされてしまった晶は、聞こえないようにそっと溜め息を吐いた。そして、輪から少し外れた場所にいる信二をチラリと見る。 
 真剣に心配しているのが、その表情からも読み取れて苦々しく思いながら、晶は「まぁ、いいか」と肩を竦めた。 
 
 実際、最初に店で倒れた時、信二がいなかったらどうなっていたかわからない。自宅まで送ってくれ、その後も買い出しへ行ってくれたり、何より気力がなくなっていた晶を元気づけてくれたのは信二なのだ。 
 休んでいる間も、店の手があいた時には様子を聞くために何度か電話をしてきてくれていたし、それこそメールは毎日来たと思う。晶はそう思い直し、とりあえず周りに心配を掛けた事をもう一度謝罪した。 
 
「いや、ホント。もう全然元気だから! 何か心配かけたみたいでごめんな」 
 
 晶の元気な姿にひとまず安心した皆が「無理するなよ」等と口々に言っては漸く納得して元の場所へと戻っていく。皆が戻ったあとで一息吐いていると、信二が近くへと寄ってきた。 
 
「――熱とか本当に下がったんっすか?」 
「ああ、うん。おかげさまで。信二も、マジでありがとな。今回はお前がいてくれて助かったよ」 
「いえ、そんな……。俺は、晶先輩が元気になってくれれば、それでいいっすから」 
「今度さ、礼に飯でも奢るから、都合良い日あったら教えてくれよ。な?」 
「そんな、気を遣わなくていいっすよ。あ、でも……それって俺と晶先輩二人でって事ですか?」 
「え……? うん、別に他の奴も誘ってもいいけど??」 
「いえ! 二人で行きましょう!! この際、駅前のマックでも俺全然いーんで!」 
「いやいや、何でファーストフードなんだっつーの。もっといい所連れて行ってやるから」 
 
 信二は何故かガッツポーズをしてやけに喜んでいる。自分が店に復活した事をそんなに喜んでくれるなんて本当に可愛い後輩だなとつくづく思ってしまう。そんな信二が「……あ」と小さく声を上げる。 
 
「そういえば……。そろそろかな……」 
「――は? そろそろって、何だよ?」 
 
 信二がそう言って壁の時計を見るのにつられて、晶も時計を見あげる。開店前のこんな時間に一体何があるというのか。再び質問しようとした晶が口を開く間もなく、背後のドアが音を立てて開いた。 
 ドアから入ってきたその人物の姿を見て、晶は驚いて目を丸くした。 
 
「あれ!? 玖珂先輩!?」 
 
 玖珂は、最近は三号店の件で忙しく、晶のいる店にもほとんど顔を見せる事がなかった。しかも店が始まる前のこんな早い時間に来る事はまずない。もし来るとしても客が引けた後、明け方になってから顔を見せるくらいが普通なのである。 
 信二に肩を叩かれ、晶が振り向くと信二が小さな声で晶へ耳打ちする。 
 
「さっきたまたま電話があったんっすよ。晶先輩が今日から店に出てくるって言ったら、顔を出すからって仰って」 
 
 玖珂は元気そうな晶を見て、心から安堵したようにはぁと息を吐いて脱力した。何処かへ行っていた途中なのか何やら手に重そうな鞄を持っており、それを床へと置くともう一度晶へと振り向く。 
 
「体調は、大丈夫なのか? 晶」 
「あ、はい……。すみません、心配かけて。電話までもらっちゃって……。もう平気なんで」 
「そうか……。いや、でも店で倒れたって信二君から聞いた時は本当に心配したぞ。見舞いに行こうと思っていたんだが……、返って気を遣わせると悪いからな。控えたんだが……」 
「いや、そんな。見舞いなんて大した事ないですから」 
 
 玖珂は深い溜め息を吐き出し言葉を続ける。 
 
「でも……本当に良かった。晶は結構無理する性格だからな……。それに、若いからと言って何があるかわからないぞ」 
「……はい。……わかってます。気をつけます」 
 
 若くして癌になった澪の事があったせいなのだろう。玖珂は真面目な顔でそう言うと、本当に良かったともう一度呟き、漸く晶に安心した笑みを零した。 
 晶は、自分はとても幸せなのだと改めて感じていた。眠らずに徹夜で看病をしてくれた佐伯はもちろん。茜や信二。玖珂をはじめ、店の仲間達も。今回の事でそれがよくわかる。 
 そういうのを忘れないように、これからも頑張ろうと新たな気持ちで自分に気合いを入れ直した。 
 
 ふと視線を足先へとむけると、玖珂の鞄から少しはみ出している書類袋が目に留まり、晶はその内容をチラリと覗く。やはり、どうやら三号店関係の書類らしい。 
 忙しくしている玖珂にこうして会えたのはいい機会かもしれないと思い、晶は隣にいる玖珂に小声で話しかけた。 
 
「玖珂先輩、今って少し時間ありますか?」 
「ん? ああ。少しなら大丈夫だ。どうしたんだ? 何か話があるなら聞くが」 
「例の件で、ちょっと……」 
「……そうか。じゃぁ、折角だし、ちょっと外へ出て話すか」 
「そうっすね」 
 
 少し離れた場所で様子を見ていた信二に、玖珂と少し話があるから出てくることを告げて、二人で店を出る。すっかり夕方になっている通りには、チラホラとネオンが灯りだし、今夜のはじまりを感じさせる。たかだか数日店に出ていなかっただけなのに、その空気がやけに懐かしく感じてしまう。それと同時に、自分の立つべき場所を晶に再確認させた。 
 通りに出て少し歩くと、小さな喫茶店があるのでそこへ玖珂と二人で入った。 
 
 初めて入った店内はさほど広くなく、晶達は一番奥のテーブルへ腰を下ろし、オーダーを取りに来たウェイトレスにコーヒーを二つ注文した。 
 
「急にすみません。玖珂先輩忙しそうだからこんな時でもないと時間とれないかなと思ったんで」 
「いや、構わない。気を遣わせてすまないな。忙しいと言っても気が焦っているばかりでね……。ただ単に、俺の要領が悪いのかもしれないが」 
 
 玖珂がそう言って笑う。三号店の件を引き受けるかどうかをまだ保留にしている自分の事も玖珂を焦らせている要因の一つなのだろう。急かすような事を一度として言ってこないのは玖珂の優しさでしかなく、いつまでもそれに甘えているわけにはいかなかった。 
 運ばれてきたコーヒーに一度口を付け、晶は静かに切り出した。 
 
「三号店の件なんですけど、自分なりに色々考えてみて……、引き受けさせてもらおうかなって」 
 
 玖珂は穏やかな笑みを浮かべて、晶の言葉に含まれる微細な不安を聞き出すように促す。額面通り、引き受けるという事だけを言いたいわけではないとわかっているのだ。 
 
「そうか、体調が悪かったのに考えてくれて有難う。嬉しい返事だが、その前に少しでも不安な事があるなら聞かせてくれないか」 
「あれ……、バレてます? ……玖珂先輩の鋭さには叶わないっすね」 
 
 晶がそう言って苦笑し言葉を続ける。 
 
「不安って言うか……、もし俺がオーナーを引き受けた後も、三号店でホストとして店に出る事って可能なんですかね……」 
「晶はまだホストとして店に出たいってわけだな? 勿論禁止という規則は無いよ。ただ……前例がないからな。両立出来るかは、俺も何とも言い切れない部分もあるが……」 
「ですよね……。あ、でも、別にオーナー業を軽く見ているとかそう言った事は勿論無くて」 
「大丈夫。それは、わかってるから。そういう意味で捉えることは無いから安心していい」 
「有難うございます」 
「――俺が危惧しているのは、無理をして晶に負担がかかりすぎるんじゃないかって事だけだ……。慣れるまでは体力的にも、精神的にも結構厳しいと思う。時間拘束もホストだけをしている今よりずっときつくなる。それはわかるな?」 
「……はい、わかってます。それでも、俺やっぱり接客が好きだから……」 
「……なるほど」 
「前例がないのに我が儘言って困りますよね……。でも俺、引き受けたらどっちもやっていく覚悟は出来てます」 
 
 玖珂を真っ直ぐみて、覚悟は出来ていると告げる晶に、玖珂は静かに息を吐くと優しげな笑みを浮かべて頷いた。 
 
「その言葉を聞いて安心したよ」 
「……え?」 
「俺が、全面的に肯定しないだけで諦めるようでは、到底続けられないと思ってね……。試すような物言いをしてすまなかった」 
「そんな……」 
「それだけ覚悟が決まっているなら、安心して任せられそうだな。改めて引き受けてくれた事に感謝するよ」 
「いえ……俺の方こそ、こんな大きなチャンスに声を掛けて貰えて感謝してます。先の事とか今まで全然考えて無くて……、今回の件でじっくり考えるいい機会を貰えたっていうか……」 
「そうか。頑張ってくれるのは嬉しいが無理はしないでくれよ? 慣れないうちは、俺も出来る限りサポートさせて貰うし、何か問題が起きたらいつでも頼ってくれて構わない」 
「心強いです。初日に泣きついても怒らないで下さいよ?」 
 
 ふざけてそう返した晶に、玖珂は「初日は携帯が鳴る度にひやひやしそうだな」といって笑った。 
 少し冷めたコーヒーを互いに半分ほど飲んで、煙草に火を点ける。 
 
「それにしても、晶の提案がこういう形だとは想像していなかったな。両立の件は最初から考えていたのか?」 
「いや、最初は接客やめたくなくて、正直迷ってました……」 
「そうか」 
「でも……。友人に相談する機会があって、その時に、既存のやり方に沿わなくてもやれる覚悟があるなら、独自のスタイルでいくという方法もあるってアドバイスを貰って……。それなら俺も頑張れるんじゃないかって思ったんです」 
「その友人は、晶のことをよく理解してくれているんだな」 
「そう……ですね。背中を押して貰って結論を出せました」 
「いい友人を持っているな。腹を割って相談できる相手なんて、大人になると中々いないもんだからね」 
「……そうかもしれないっすね」 
 
 晶は佐伯の顔を思い浮かべる。自分の事を理解してくれて……、こうして決断を出すきっかけを与えてくれたのは間違いなく佐伯である。自分も佐伯にとってそういう存在でありたいと願わずにはいられなかった。 
 玖珂の話では、三号店がオープンするのは来年らしい。詳しい日付までは決まっていないようだが、今の店にいられるのは長く無いだろう。具体的な数字がぼんやりと見えてきたことで現実味が一層増していく。  
 
 自分がこの先進む事になる道を照らす街灯が、ひとつずつ灯っていくのが見えるようだった。まだそれはハッキリしなくて淡い光だったが、自分の足で進んでいく度にきっとそれは確かな光になっていくのだ。 
 一人ではどうにもならなくて、誰かに頼るかも知れない。でもその時が来るまでは……。晶は自分の覚悟に後悔がないように今の気持ちを心に刻み、もう一本煙草を取り出した。 
 
 
     *     *     * 
 
 
 玖珂とは喫茶店を出た所で別れ、そのまま晶だけが店へと戻る。オープンの時間がせまってきて、晶もとりあえず裏へと回り、店に出る準備を整えた後、いつものようにソファへと腰掛け煙草に火を点けた。 
 今から客が引けるまで店にいて、その後今日は佐伯のマンションへ寄ると決めている。それが、色々考えた末の晶の出した結論だった。 
 
 今日行くことはもちろんまだ佐伯には言っていない。電話をしてからとも思ったのだが、何をしに来るのかと聞かれた場合、電話で話すような内容ではないのでやめておいた。 
 それに、電話だと途中で切られてしまう可能性も十分にあり、それだけは避けたかった。 
 ソファに背を預けて目を閉じ、何度も繰り返し考えた言葉を頭で反芻してみる。 
 どうなるかはわからない。だけれど、その結果が最悪別れという形になっても後悔はしないと心に決めていた。 
 後何時間か経過すれば、その結果は出ているだろう。 
 
 店が開いたらしく、「いらっしゃいませ」という声が扉を隔てて耳に届く。晶は気持ちを切り替えて、ゆっくりと目を開けた。 
 左右の髪を両手で後ろへなでつけ、立ちあがって姿見の前に立つ。 
 早速指名が入り声がかかる。 
 晶はソファの背もたれへと掛けていた黒のジャケットを片手で掴んでバサッと羽織った。 
 
――んじゃ、行くとしますか……。 
 
 翻ったジャケットが部屋の空気を揺らす。 
 灰皿に残された吸い殻の灰がふわりと宙に浮かび、その後音もなく舞った。