俺の男に手を出すな 4-11


 

 晶がまだ店に出ている十時頃、佐伯は晶のマンションへと出向いていた。 
 勤務を終えたその足で向かい、ポケットへ両手をいれたままエントランスへ入っていく。携帯と自宅へ、昨日と一昨日に電話をしてみたが晶は留守電になっており、些か心配になったので様子を見に来たのである。薬を受け取った日にメールで礼が届いて以来音沙汰がない。 
 現在の時刻は十時、どうやら晶は店に出たのか留守のようである。 
 
 エントランスに入る前に晶の住む部屋のあたりを外観から見上げてみたが、その一帯は灯りが点いている様子は無かった。 この時刻で一切灯りが点いていないというのは留守の証拠である。特に晶は、自宅にいれば必要な部屋以外にも電気をつける癖があるので、暗いという事はそう言う事なのだ。 
 
 念の為にエントランスにあるポストの方も外から見てみたが、小さめの集合ポストは郵便物が溢れているといった事も無かった。その様子から晶は出かける程度には回復したのだと予想を付け、佐伯は少し安心して息を吐いた。 
 元気になっているなら問題ないので、痕跡を残さぬまま立ち去ることにする。そのまま待たせていたタクシーへと再び乗り込むと自宅へ向かってもらった。 
 
 
 
 今夜はやけに疲れが溜まっている。 
 ここ数日続いている睡眠不足のせいもあるが、来週に行われる茗渓大でのオペがひかえているからというのもある。 
 普段はどんなオペがスケジュールの先に組まれていても日常生活に支障をきたすことはない。自身で条件に出した鈴川との約束事が佐伯の肩に重くのしかかっていた。 
 
 今日は朝から二件のオペをこなし、その後茗渓大とテレビ電話を通じてのカンファレンスがあった。簡単な資料は前に貰っていたが、具体的な患者の資料を見たのは初めてだった。そして、知ったのだ。患者が部分内臓逆位だという事を……。そんな事は最初は言っていなかったのではないかと問う佐伯に、鈴川は顔色一つ変えずに言った。 
「おや、そうでしたか? すみません。すっかり佐伯先生にはお伝えしたつもりで」と、その台詞に鈴川のしたたかさを垣間見た気になる。 
 
 部分内臓逆位の患者の膵頭十二指腸切除は、佐伯にとっても初めての症例だった。完全内臓逆位のように全部が逆というわけでなく、内臓の一部が通常と異なった場所にあるので全く同様の症例は資料にもほとんどない。そもそも部分内臓逆位自体が五千~一万人に一人という珍しい症例であるからだ。 
 しかし、それが判明したところでもう後戻りは出来ないところまで来ていた。 
 
 
 
 タクシーを降りて、漸く自宅へ戻ると、佐伯はコートとジャケットを脱ぎネクタイを外して洗面台で手を洗った。少し乱れた髪を結び直し、そのまま居間へと向かう。時刻は十一時をまわった所である。点滅している固定電話の留守電を再生しながら、酒とグラスを用意して居間のテーブルへと置く。五件ほど入っていた留守番電話のメッセージはどれもくだらないものばかりである。電話機の消去ボタンを一度押して、佐伯はソファへと深く腰掛け長く息を吐いた。 
 
 眼鏡を外して背もたれへ寄りかかり、体重をかけ静かに沈むまま暫く目を閉じる。時々鈍い痛みがあるのは、疲れている時に時々起こる偏頭痛のせいである。本来ならさっさと風呂に入って寝てしまえばそれで済むが、今日はまだやることがあるのだ。 
 
 閉じている瞼の裏側は、最初こそ真っ暗な闇だったが、暫くすると様々な方向から術式の図解や文字列が流れ込んでくる。不規則に幾重にもなったそれらが止まることなく動く様子はそれだけで頭痛を酷くさせた。 
 
 佐伯はゆっくりと目を開くと眼鏡を掛け、テーブルに用意したグラスへ酒を注ぎ一気に煽る。 
 ストレートのそれは、喉を軽く焼いて胃の腑へと落ちる。熱い感覚に、体のだるさが少しだけ紛れる。チェイサー代わりに用意しておいたミネラルウォーターを口に含み、佐伯は足下においてある鞄から全ての資料を取り出してテーブルへとバサリと置いた。 
 濡れたグラスを片手に持ったまま、次々と資料を確認していく。 
 不透明な点があれば調べ、似た症例を探してはそれと照らし合わせシミュレーションを行う。佐伯の頭の中ではこうしている今もリアルなオペが脳内で行われており、それに反応するように指先が時々ぴくりと動き、曲げた人差し指が紙の上を滑る。 
 
 佐伯は何杯目かの酒をつぎ足し、煙草に火を点けた。ジジッと音を立てるそれを長い指に挟み、上りゆく紫煙をゆっくりと目で追う。 
 
 すっかり集中していたが、フと時計を見るともう二時を過ぎている。今夜は帰宅してからまだ風呂にも入っておらず、着替えてもいない。膵頭十二指腸切除自体は勿論初めてやる手術では無かったし、普段ならこんなに慎重になる事も無いというのに……。何度シミュレートしても、成功率は納得出来る上限まで届かなかった。佐伯は煙草を灰皿でもみ消すと深く溜め息を吐く。 
 
 自信がないわけではない。しかし、人間のやる事に100%が存在しない限り佐伯の中の僅かな強迫観念が消え去ることもなかった。こんな落ち着かない夜は初めてだ。 
 
 鈴川の次期教授の椅子、及びその後の医局で鈴川の権力維持を確実にするゲームには、この手術を成功させた外科医というコマが必要なのだ。それを理解した上で引き受けたのは、鈴川の為では決してない。 
 自らがそのコマになるのと引き換えに、佐伯が出した条件。 
 それは、『オペを成功させて助教授の話を引き受ける代わりに、こちらのプライベートを今後一切詮索しないで欲しい』という約束だった。 
 
 身内で固めるつもりで、独身の佐伯に堀井の娘を引きあわせたようだが。出世のためとはいえ、最初から見知らぬ女と婚約する気など全くない。しかし、最初から無下に断れば現在の交際関係を調べられ、晶の存在が明るみに出る。別れさせるために卑劣な噂を晶の界隈に流されるかもしれない。その時、巻き添えを食って仕事に支障をきたすのは間違いなくホストである晶だ……。 
 
 この約束がどれほどの効果を持つかわからないが、少なくとも今後表だって接触してくることは控えるはずである。――先手を打ってその先を遮断する以外方法がなかった。 
 
 
 全ては来週のオペの結果次第である。最大の賭けは、佐伯の胸に確実に影を落としていた。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 晶が店を出た頃には、もう深夜二時を過ぎていた。 
 
 これでも一応、指名が一段落した所で皆が今日は病み上がりだから早く帰れと言ってくれたからの結果である。クローズまではいるつもりだったのだが、その言葉に甘えさせて貰う事にしたのだ。自宅に帰らず恋人のところへ直行するのが心苦しくもあるが……、今夜だけは我が儘を通すことにし、心の中で仲間達に謝罪する。 
 
 皆に礼を言ってクローズ前の店を後にし、呼んであったタクシーに乗り込んで佐伯のマンションへ向かう。この時間になると平日なのも相まって道は空いており、信号以外で停車する事も無く目的地へ辿り着けた。時刻は三時少し前になっていた。 
 タクシーを降りた晶は、佐伯のマンションを見上げて足を止める。約束していない時にこうして突然訪ねる事も珍しくないのだが、今夜は何となく入りづらい。佐伯の夜勤の日程を知らないので、もしかしたら自宅にはいない可能性もあるが、高い位置にある佐伯の部屋は見上げただけでは在宅しているかの確認は出来そうになかった。 
 所々灯りが漏れている部屋もあるが、この時間だとその数もそう多くは無いようで上階へ行けば行くほど、空の闇が色濃くなっている気さえする。 
 
 晶は一度深呼吸をするとマンションのエントランスへと足を踏み入れた。 
 いつきても高級マンションそのもので重々しく開かれる自動ドアまでもが、まるで企業ビルのようである。指を伸ばし、すっかり覚えている部屋の番号を押して暫く待ってみる。 
 夜勤でなかったとしても、普段なら寝てしまっている時間である。いない事にどこか安心してしまっている自分がいて、晶はそんな逃げ腰の自分を自身で追い出すように目を閉じた。 
 もう一度だけ……。晶は唾を呑み込んで部屋番号を押してみる。機械の雑音が一瞬響き、すぐに佐伯がインターホンを取りあげた。 
 
『はい……。ん? ……晶か?』 
 
 晶は咄嗟に返事を返せず写っているであろうカメラを見上げ視線を止めた。佐伯からはエントランスが見えているので、何も言わなくても晶の姿を確認することは出来る。訝しげに出された佐伯の声に晶は慌てて返事した。 
 
「あ、俺だけど……。……こんな時間に、悪い」 
『……とにかくあがってこい』 
 
 佐伯はそう言うとすぐに受話器を置いた。目の前のロックが外され自動ドアが迎え入れるように左右に開かれる。晶はそのまま佐伯の部屋へ向かった。エレベーターの階数表示が、佐伯の住む階に近づいてくるだけで心臓がざわざわして落ち着かない。 
 
 扉が開く際に鳴る音が、深夜だからかやけに大きく響き、晶は佐伯の部屋の前まで歩きながら辺りを少し見渡した。 
 ここ最近、佐伯のマンションには来る機会もなかったので、玄関前の手すりから見える景色に懐かしさのような物を感じてしまう。一年間色々な季節の景色をここから眺めてきた。出会った頃の寒い季節、春が来て、夏が来て……、また涼しくなって。いつだってここに来る時は、佐伯の存在が近くにあった。そんな当然のことを考える。 
 
 晶が到着するのを待っていたかのように、インターフォンを押す前にドアが細く開かれチェーンが外される。たった数日会っていないだけだというのに、顔を覗かせた佐伯を見た瞬間、晶は何とも言えない安心感に一瞬にして満たされるのを感じていた。 
 
「どうしたんだ……? こんな時間に」 
 
 佐伯は、晶を玄関の内側へ入れると再び鍵を閉める。こんな時間と佐伯が言うだけの時間でもあるのに、佐伯は寝てはいなかったようである。ネクタイこそ外していたが、帰ってきたままのYシャツ姿であり、眠っていた様子がないことを裏付ける。 
 
「急に悪いかなって思ったんだけど……。お邪魔……します」 
 
 晶は佐伯の顔をまともに見ないままに、靴を脱いで部屋へ上がり込み、リビングへと先に歩いていった。暫く来ていなかったが、部屋は相変わらず整頓されていて変わった様子はない。 
 ただ、やけに酒の匂いが部屋に充満しているのに気付き晶はまわりを見渡す。 
 
 リビングのソファーテーブルへ視線を向けると、何かの書類がテーブルへと積まれており、その横には佐伯が今まで飲んでいたのであろう飲みかけのウィスキーがグラスに半分ほど残ったままになっていた。氷が溶けて汗を掻いているそのグラスを見ながら、晶は小さく呟く。 
 
「こんな時間なのに、……酒呑んでたんだ?」 
「……あぁ」 
「一人で?」 
「他に誰かいるように見えるのか?」 
 
 佐伯はいつもと変わらなくそう言って少し笑うとリビングのソファへ腰を下ろした。突然やってきた晶に最初だけは少し驚いていた様子を見せたが、まるで来るのがわかっていたかのように今の佐伯はいつも通りだった。 
 晶に構わず、飲みかけの酒の入ったグラスに手を伸ばし、一気に飲み干すと煙草に火を点けて吐き出した。 
 
 寒かった外と違い、暖かな室内でコートを着ていると暑いくらいである。晶はコートとジャケットを脱いで、椅子へとそれらをかける。そして、佐伯の隣へと腰掛けた。 
 煙を吐き出しながら佐伯は徐に口を開く。 
 
「具合はどうなんだ……、送ってやった薬は飲んだのか?」 
「ああ、うん……有難う……。おかげで、もうすっかり良くなったからさ。今日は店にも出たし」 
「……そうか」 
 
 佐伯は、何故薬を受け取らずに帰ってしまったのかさえ聞いてこないし、佐伯からの電話に出なかった理由も聞いてこなかった。一度寝込んでいる間に電話があったのだ。携帯へ一回、それに出ずにいると自宅へもかかってきた。晶はあえてその電話を取らなかったのだが、佐伯はその事についても追求してこなかった……。 
 
「なぁ……明日、仕事じゃねぇの?」 
「仕事だが、何でだ」 
「だって、こんな時間まで酒呑んでるからさ。もしかして帰ってきたばかりとか?」 
「いや、十一時頃には帰宅していた。まぁ、仕事といっても明日は夕方からだからな。問題ない」 
「そう……なんだ」 
 
 テーブルにおかれているウィスキーのボトルに目をやると、もうほとんど残っていないのがわかる。もしかしたら相当な量を飲んでいるのかも知れない。 
 佐伯は酒に強い上に顔にも出ないので、その態度で酔っているかどうかは判断出来ないが何となくいつもとは違う気がしていた。こんなに近くにいても、やはり佐伯が何を思って何を考えて今こうしているのかがわからなかった。 
 佐伯は灰皿に煙草を押しつけると晶の方をゆっくりと振り向く。 
 
「……何か話があるんだろう?」 
「……あるよ。その為に来たんだし」 
「ほう……。じゃぁ、話したらどうだ」 
 
 話せと言われて、はいそれでは、と話すような話ではない。心の中で繰り返し考えた台詞も佐伯の前では見事に消し飛び、晶の頭の中は真っ白になっていた。隣り合った佐伯の肩に晶の肩が僅かに触れる。いつもは体温の低い佐伯はひんやりとした感じがするのに、当たった肩は温かかった。 
 
 部屋のせいもあるのだろうが、やはり相当酔っているに違いないと晶は思う。普段、そこまで佐伯が酒を飲むのを見た事が無い。まして、次の日も仕事なのに、一人でこんな時間まで飲んでいるのはやはりおかしい気もする。 
 
 そう思うと、そこまで佐伯にさせている何かを聞き出すのが本当にいいことなのか自信が揺らいできてしまう。晶はめげそうになり、そんな自分を叱りつつ覚悟を決めた。 
 
「……どうした? 話さないのか」 
「あのさ」 
「――ん?」 
 
 晶は佐伯へ向き直ると、佐伯の目をじっと見つめる。佐伯はいつもと明らかに違う様子を見せる晶の視線にも全く動じず、自身も視線を外さないまま晶の顔を真っ直ぐ見つめる。 
 
――要、少し痩せた……? 
 
 そう思うのは部屋の照明のせいなのかもしれない。しかし、佐伯のいつも通りのクールな表情の下に、僅かにだが隠しきれない疲れが見えた気がして、晶の出す声が僅かに震えた。 
 
「俺、知ってるんだ……。大阪、行く事」 
 
 レンズ越しの佐伯の目がすっと細められる。しかし、佐伯は何も言わなかった。その無言の態度が拒絶されているようで、晶は佐伯の腕をきつく掴むと力を込める。 
 
「何で、……何も言わねぇの?」 
「……そんな事、誰から聞いた」 
「誰だっていいだろ! 今は関係ないじゃん」 
 
 思わず声を荒らげる晶に、佐伯は苛立ったように掴まれた腕を外すと「こんな時間に、そんなに大きな声を出すな」と眉を顰めた。否定しない所を見ると、話は本当らしい。 
 全く取り合ってくれない佐伯に晶の中でも苛立ちが募る。冷静に話さなければいけないと心の中ではわかっているのに、どんどん不安が気持ちを追い込み、焦燥感を高めてしまう。 
 
「要はいっつもそうだよな……。なんも言わねーし、何でもそうやってはぐらかしてさ」 
「……別にはぐらかして等いない」 
「はぐらかしてんじゃん!! 答えないのは、そういう事だろ? 違うのかよ」 
「答えないのは、お前に関係がないからだ。それ以上でも、それ以下でもない」 
 
 語気を強めて冷たく一喝すると、佐伯はテーブルにおいてあったボトルからストレートで酒を注ぎそのまま一気に飲み干した。 
 
――お前には関係ない。 
 
 それは予想していた台詞だった。 
 佐伯ならそういうに違いないと思っていた。しかし、どうしてもその言葉を受け取ることが出来なくて……。怒っている訳じゃない。悲しくてそれ以上に悔しくて、愛しさと混ざり合った感情が制御できず晶の中で溢れ出した。 
 
 晶はもう一度酒を注ごうとする佐伯からグラスを奪うと乱暴にテーブルへと置いた。ガラスで出来たソファーテーブルにグラスがぶつかり、静かな部屋に激しい音が響く。波だったグラスからウィスキーがテーブルへばしゃりと零れた。 
 
「……もう一度、言って見ろよ」 
 
 晶の声が低く佐伯へ向けられる。 
 佐伯は、晶が奪ったグラスに視線を向けたまま何がおかしいのか不遜な口元を少し歪めた。 
 
「……何度でも言ってやる。お前には関係ない。これで満足したか?」 
 
 晶は拳を握りしめ、苛立ちに肩を小さく震わせた。晶の気持ちをわかっていないはずはない。だからこそ、拒み続けるのだ。 
――くそっ……。何でこうなるんだよ!! 
 今ここで冷静さを保つことは不可能だった。晶は佐伯を睨んだまま静かに顔を上げる。 
 
「満足したかじゃねーだろ……、マジで、関係ねぇって思ってんだ?」 
「ああ、そうだ」 
 
 晶が呆れたように小さく笑う。 
 
「だったらさ、俺らもう、終わりなんじゃねーの?」 
「…………」 
「大事な事は一切話さない。俺が聞いても、お前には関係ないで済ませられてさ……。それで俺が、はい、わかりました。って納得するとでも思ってんのかよっ! ふざけんな!!」 
 
 怒りに任せ投げつけるようにそう言って立ち上がった晶は、一瞬なにが起こったのか理解に戸惑った。立ち上がったはずの身体が、その瞬間凄い力でソファへ押し倒されたからだ。 
――え? と思う暇もなく背中が沈み、佐伯の指が食い込むほど肩をソファへと押しつけらる。掴まれた肩に痛みが走り、晶は顔を歪めると佐伯の手を乱暴に払いのけようとした。 
 
「……っ……痛ってぇな! 離せよっ!! この馬鹿力!」 
 
 強い視線で佐伯を睨み付け、その腕から逃れようとするが身動きがとれない。決して力が弱いわけではない晶がこうも逃れられないのは佐伯の力がそれ以上に強力であるからだ。 
 どれだけ力を入れているのか、佐伯自身も僅かに震えるほどの力が腕に込められていた。晶を見下ろしたまま佐伯はきつく眉根を寄せている。 
 
 そして、……佐伯は苦痛の滲んだ声で、一言だけ、呟いた。 
 
「――お前に……、何がわかる……」 
 
――……かな、め? 
 
 自分を見下ろしそう吐き捨てる佐伯の辛そうな表情に、晶は驚きのあまり言葉を失い、怒りさえもすっかり消し飛んでしまっていた。何度も瞬きをし、ただただ信じられないその佐伯の様子に、抵抗も忘れ茫然と見上げる事しか出来なくなっていた。 
 
 佐伯の長い髪が肩から滑り落ちて晶の首筋をなで上げ、静かに揺れる。唾を飲み込む音が響くほど部屋は静かで、時間が停止したかのようである。 
――ショックだった。 
 佐伯が自身の内部へと募る感情を、こんなに表に出すのを見るのは初めてだったからだ。晶は佐伯のその表情を見て言葉を喉の奥から出せずに幾つも溜め込んだ。 
 
何で……。 
どうして……。 
答えのわからない疑問が頭の中を埋め尽くす。 
 
 肩を掴む佐伯の腕がふいに力を失い、佐伯は手を放すと先ほどと同じ位置へと戻る。掌を額に当てたまま俯き、自身の行動を後悔しているように小さく呟いた。 
 
「すまん……。少し、酔っているのかもしれん……。痛かったか? ……」 
「……平気……だけど……」 
 
 深く溜め息を吐く佐伯を見ながら、晶も体をゆっくり起こす。どんな言葉を続ければいいのだろう。今まで掴まれていた肩の痛みが消えると同時に、言いようのない不安が押し寄せる。いつもは頼り甲斐があり、大きな存在に見えた佐伯がひどく儚く晶にはみえた。 
 
 こんなにも佐伯は思い詰めていたのだという事実に打ちのめされそうになる。昨日までの自分も色々考えたし、凄く悩んだと思う。しかし、こんな佐伯を見た後では、それさえもちっぽけな事のように思えてきてしまうほどで……。 
 多分佐伯は、晶にだけではなく、誰にも話さず一人で考え先へ進もうとしているのだ。 
 
 何も出来ない自分の存在がもどかしくて、どうしたらいいのかわからなくなる。もう何も言わない佐伯の背中が晶の瞳の中で小さく揺れていた。 
 
「……要、俺……わかんねぇよ……」 
 
 晶は、自然に熱くなってくる目頭から零れそうになる涙を必死で押しとどめると、佐伯の体へ腕を回した。