それから、午前零時 ー 後編 ー


 

 
 
禁煙六日目 
 
 店帰りに佐伯のマンションを訪れた晶は、いつものテンションは何処へ置いてきたのかというような暗い表情でエントランスの呼び出しのボタンを押していた。無言で開かれて佐伯の部屋前まで辿り着くと、あらかじめ開けられていた玄関に入り、部屋へと上がる。 
 佐伯は居間のソファで本を読んでいた。 
 
 いつも置いてある灰皿も片付けられているし、煙草の臭いも一切しない。晶はジャケットを脱いで佐伯の側へと歩み寄り、腰を下ろした。 
 この瞬間まで、佐伯も晶も一言も口を開いていない。これは普段では考えられない事だった。 
 
「……何読んでんの……?」 
「学会の論文だ」 
「……ふーん」 
 
――「…………」 
 
 佐伯は元々機嫌が良かろうが悪かろうが、表情を見ただけではわからない。しかし、晶の鋭い観察眼も捨てた物ではなかった。今まで付き合ってきて唯一佐伯の機嫌を計れる行動を発見済みなのだ。 
 読んでいる論文から視線を上げない佐伯が、眼鏡のリムを指で押し上げる。様子を窺っていると、三分もしないうちに再び佐伯が同じ動作をする。 
 
 そう、佐伯は機嫌が悪いと眼鏡に手をやる回数が増える癖があるのだ。繰り返されるその動作に、それが確信に変わる。 
 
 晶は手元にあったテレビのリモコンを手に取って電源を入れた。 
 静かだった部屋には途端に騒がしい声が響き渡る。音量をあげて雑音を増やす晶に、佐伯はわざとらしく読んでいた本をバサリと閉じた。佐伯の機嫌が悪い理由は、ひとつしかないわけだけど。 
 佐伯は閉じた本を手に持つと、ソファから腰を上げた。 
 
「どこいくんだよ」 
「書斎へ行く。ここじゃ、うるさくて集中できん」 
「折角俺が来てんのに!」 
「別に呼んだ覚えはない」 
「何その言い方!! っつーか、いつもならテレビつけても文句言わねーじゃん。イライラしてるからって八つ当たりすんなよ!」 
「誰がイライラしてるって言ったんだ。勝手に決めるな」 
「ほら! やっぱイライラしてんじゃん?」 
「してない」 
「いーや! してる」 
「……しつこい奴だ。あんまり煩いとその口塞ぐぞ」 
「あ、認めた?」 
 
 佐伯は舌打ちすると手にしていた本をテーブルへと置いて、押し倒す勢いで晶に覆い被さり口付けを落とす。 
 
「……なッ……いきなり……っ」 
 
 突然押し倒された事で、晶の髪がクッションの上でバサリと舞う。無理な体勢で口付けを受ける晶に一切構わず、窒息させる勢いで佐伯がキスを繰り返す。『口を塞ぐぞ』という目的通りその口付けは容赦が無くて、冗談ではなく息が出来ずに酸欠寸前になってくる。 
 
「要、苦し……って……」 
 
 晶の言葉はそのまま無視され、続く口付けにいよいよ限界が来て、晶は佐伯の顔を退けると体ごと横を向いて咳き込んだ。こんな強引な口付けにも関わらず、翻弄されて何だか気持ちよくなってしまっている自分は相当に馬鹿だと思う。思うけれど、それは佐伯のキスが巧みすぎるからであって、自分のせいではないので仕方がない……よな? うん。自分でひとまず自答して、晶はやっと吸えるようになった空気を繰り返し深く吸って気持ちを落ち着かせた。 
 
「……窒息するかと思ったし」 
 
 佐伯は、体を起こして睨んでくる晶から視線を外すと、軽く溜め息をついて再びソファへと深く腰掛けて目を瞑った。晶はそんな佐伯を見ながら、未だ騒がしく笑い声の聞こえるテレビを消し、心の中でそろそろかなと考えていた。一度咳払いして、声を整えると少し弱々しく口を開く。 
 
「あのさ、禁煙の賭けの事なんだけど……」 
「何だ。……ちゃんと続けているが?」 
「うん、それはわかってっけど……。……ごめん。俺もうやっぱ無理だわ……」 
 
 抱いたクッションに顔を埋め、申し訳なさそうにそういう晶を佐伯の視線が捕らえる。 
 佐伯は一拍おいて明らかにほっとしたように呟いた。 
 
「……ほう」 
「俺の負けでいいから、もうやめようぜ」 
「お前がそれでいいなら構わん」 
「良かった~! んじゃ久々に吸うかな~! 要も吸うっしょ?」 
 
 途端に元気になった晶に佐伯は一瞬訝しげな表情を見せたが、晶がにっこり微笑むと誤魔化されたのか、腑に落ちない様子のまま口を開いた。 
 
「……そうだな」 
 
 佐伯がしまっていた灰皿と煙草を取り出し、晶もポケットから煙草を取り出す。互いに一本取り出して口に咥え、その感触にえもいわれぬ懐かしさを感じていた。感動の再会はきっとこんな感じ。晶は心の中でそう思う。 
 
――これで、やっと終わったんだ……。 
 
 佐伯がライターで火を灯して、フと隣の晶を見ると晶がニヤリとして咥えていた煙草を口から外した。 
 晶の煙草にはまだ火がついていなかった。 
 
「はいっ! 要の負け~! いやぁ、熾烈な戦いだった! マジで」 
「…………」 
 
 そう、今日佐伯のマンションに来て今に至るまでの事は、全て晶の計画だったのだ。 
 何とかしてわざと佐伯を煽って苛つかせ、その後潔く負けを認める演技をする。佐伯に煙草を勧め、自分も吸うフリをして佐伯が火を点けた時点で佐伯の負けが確定する。そういうシナリオだ。 
 
 普段なら晶が火を点けていない事を見破る可能性が高かったが、流石に佐伯にもその余裕が残されていなかったのだろう。呆れたように晶を見ている佐伯の前で、自らも今度は堂々と煙草に火を点けた。 
 久々に肺の奥深くまで吸い込んだ煙草にクラクラしながら格別の至福を味わう。 
 
 かなりせこい方法で我ながら卑怯だとは思う物の、佐伯に勝つにはこの手段しかなく、もう限界だったのだ。このままいけば、時間の問題で確実に自分が負けていたと思う。 
 
「……俺を騙すとは、いい度胸じゃないか」 
「まぁね~。演技うまかったっしょ?」 
 
 佐伯が苦笑してやれやれと首を振る。 
 
「それで? こうまでして聞いて欲しい願いというのは何なんだ。一応、約束だからな。聞いてやる」 
「あ、うん。今度の休みでいいからさ。二人でメリーゴーランド乗りに行こうぜ」 
「…………??」 
 
 佐伯は晶をじっと見て眉を顰め、無言のまま二本目の煙草に火を点けた。 
 
「いや、だから! 遊園地にあるっしょ? 馬とか馬車とかがグルグル回るアレだよ」 
「それは、知っている」 
「それに乗りてーの。実は俺、今まで一回もメリーゴーランドに乗った事がない!? ってこの前気付いてさ!」 
 
――一体何の冗談だ……。 
 
 佐伯は、唐突に出された晶の願いに唖然としていた。乗った事がないのに気付いたと、さも凄い事を発見したように語っているが、気付いたからどうだというのだ。不思議な生き物でも見るような目で佐伯は晶へ再度視線を向ける。 
 
「…………正気か?」 
「え、何で? 別に普通だけど。それに、一人じゃ恥ずかしいからこうしてお願いしてるんじゃん」 
「人数の問題じゃないと思うが」 
「だーかーら。一生のお願いって言ってるっしょ」 
 
 百歩譲って、遊園地に出向くというのはまぁ許せる。佐伯は、次の休日を想像して頭痛がするのを感じていた。賭けに乗ってしまった事が間違いだったし、晶からのお願いがそんな事だとは想像もしていなかった。この歳になってあんな物に乗るはめになるとは、一生の不覚である。しかし、負けは負けだ。仕方がないので佐伯は腹をくくった。 
 
 
 
 
 
 
――そして現在。 
 夕方から都内の遊園地にやってきた二人は、晶の願いを叶えるためにメリーゴーランドの待機列に並び中なのである。 
 
 一回で二十人ずつ進むその列の次の二十人に佐伯達も含まれている。飾りを付けたおとぎ話に登場するようなメルヘンな白馬が上下に動きながらグルグルと回転しているのを眺めていると動きが次第に遅くなり、ゆっくりと止まった。 
 
『は~い! みんな~! 足下に気をつけておりてね! 舞踏会への旅は楽しんでくれたかな~!? またのお越しをお待ちしていまーす!』 
 
 王子の格好をしたアトラクションの係員が、テンション高くそんな事を言い、乗客が全員降りたのを見計らって、佐伯達の待機列の鎖が外された。 
 
『お待たせしました! 王子様、お姫様。おや~!? 今夜の舞踏会には大きな王子様もいらっしゃるようですね~! みんな足下に気をつけて出発の準備をして下さいね~! 間もなくお城行きのカルーセル出発します!』 
 
 大きな王子様というのは、明らかに佐伯達のことである。日頃そう恥ずかしいような場面にでくわす事も無いので、ここ数年で一番の苦行のような気がする。 
 
 係員に促されて、佐伯が真っ先に向かったのは二つだけ用意されているカボチャの馬車の中である。メリーゴーランドといえば、馬に乗るのが花形であって、馬車はその中でハズレの乗り物である。 
 馬車には馬の競走に負けた人間が仕方なく乗るというのが定番である。が、佐伯にとっては周りが覆われており姿が隠れる馬車は何が何でも乗りたい唯一の物だった。素早く馬車に乗りこんだ佐伯を追いかけて晶も隣へ乗り込む。低い天井に頭を下げている所に強引に入ってきた晶もまた、首を下に曲げて窮屈そうである。 
 
 一生の願いでもあるメリーゴーランド乗車であるにも関わらず、何故馬に乗らないのか。ぎちぎちに狭まっている幅から片足をはみ出させて佐伯が晶を肘でぐいと押す。 
 
「何でお前まで入ってくる。早く馬に乗ってこい」 
「……いいよ。馬車で……」 
「念願のメリーゴーランドなんじゃないのか? 遠慮せずに跨がってきたらどうだ」 
「煩いな、いーっつってんだろ……。俺は馬車に乗りたかったんだよ」 
「……フッ……。さてはお前、馬に乗るのが恥ずかしくなったんだろう?」 
「……、……」 
 
 図星を指された晶が、押してくる佐伯を押し返して狭い中に無理矢理足を乗せる。 
 
「だから最初からやめておけと言ったんだ」 
「だって……、こんなに恥ずかしいと思ってなかったんだから、仕方ねぇだろ」 
 
 大きな体躯の男が二人で乗り込むように作られていない馬車の中は酷く狭くて窮屈だった。少ししてゆっくりメリーゴーランドが回り出したと同時に、丁度点灯の時間になったのか、イルミネーションがパッとついた。少し懐かしいようなオルゴールの音と共に回り出すカボチャの馬車に揺られていると、あまりに場違いな事が一周回っておかしくなってくる。晶は少し顔を上げると、王冠型にくり抜かれた馬車の窓から外の景色に視線を向けた。 
 
「丁度ライトアップしたみたいだし結構綺麗じゃん?」 
「……まぁ、そうだな」 
 
 回っているせいでイルミネーションがキラキラと輝いて流線型を描く。こんな窮屈な馬車の中じゃなければもう少し雰囲気を堪能できるんだが……。佐伯はそう思いながら苦笑する。 
 あっという間に、メリーゴーランドの回転は止まって、例のアナウンスが流れ佐伯達は馬車を降りた。出口から出て、二人で一度振り返ると、次の回がもう始まって回り出していた。舞踏会への参列者はまだまだ続きそうである。 
 
 
 
 遊園地内をブラブラして、シネマタイプのアトラクションに一つだけ乗り、腹が減ったのでそのあと園内のフードコートで夕飯を食べる事になった。 
 少し肌寒いが、景色が綺麗なのでテラス席へと腰を下ろす。遊園地のマスコットでもあるキャラクターが描かれた紙皿に乗っているのは山盛りになっているポテトフライとバンズをずらして置いてあるハンバーガーである。ジャンクフードを食べる機会が佐伯はあまり無かったが、こういう場所では他の選択肢も少ない。 
 
 ストローでコーラを吸い上げながら、晶が辺りを見渡す。少し早めに夕飯をとっているので、周りはまだアトラクションに並ぶ列が長く続いている。東京湾が近いせいなのか、穏やかに吹く風に僅かに潮の香りが混じり、近くのポップコーンのバターの香ばしい香りと混ざって辺りを包む。 
 手が汚れるからと言って、箸でポテトフライをつまんで口に入れている佐伯が、晶へと徐に尋ねた。 
 
「それにしても、何で急にメリーゴーランドなんかに乗りたいと思ったんだ?」 
 
 晶がそんなにメルヘン趣味ではない事はわかっているし、遊園地が好きと言うのも今まで一度も聞いた事が無い。晶は、視線を佐伯へと戻すと楽しそうに笑みを浮かべた。 
 
「初めてだったから。メリーゴーランドに乗るの」 
「……それだけの理由か?」 
「そうだけど?」 
 
 佐伯は先を促す視線を向けて、飲み物に手を伸ばす。 
 
「登山も釣りもした事あるし、海も行った事ある……。メリーゴーランドは乗ってねーけど、遊園地は何回も来た事あるし、東京タワーもスカイツリーも上った事ある。そうやって考えてみるとさ、初体験っつーの? そういうのって、案外少ないんだよな」 
「……そうだな」 
「俺は、要と一緒に初めての事がしたかっただけ。人生の初体験を好きな人とできるって凄くね?」 
 
 晶の意図する所を理解した佐伯が、小さく笑う。 
 
「それで、メリーゴーランドか。他にも何か、考えればあったんじゃないか」 
「まぁね……、あると思う。でもこれでひとつ達成!」 
「それは何よりだ」 
「なぁ、要」 
「――ん?」 
 
「俺のこれからの初体験、全部――要がもらってくれる?」 
 
 晶がそう言って、佐伯をじっと見つめる。晶の瞳にイルミネーションが写り込んで、その中を煌めかせている。その瞳に釘付けになったまま、佐伯は薄く笑みを浮かべた。 
 
「いいだろう。ただし、物によるがな。今日みたいなとんでもない初体験は勘弁してくれ」 
 
「確かに。メリーゴーランドは、俺もマジ恥ずかしかったし」 
「お前が言うな。次はもっとマシな事にしろ」 
「りょーかいっ! 考えとく」 
 
 夕飯の続きに手を付けながら、他愛もない会話をする。ゆっくりとした時間の中で佐伯と過ごす。遊園地でのデート等、おおよそ自分達には不似合いだとは思うけれど、それでもこれはこれで楽しかった。 
 Lサイズのポテトの最後の一本を指で掴んで口に入れ、晶が背もたれへと寄りかかると、丁度横を拓也ぐらいの男の子が風船を持ちながら走って通り過ぎる。買って貰ったのであろう動物の形をした風船が、男の子の後をふわふわと追いかけていた。晶はその光景を見ながら想い浮かべるように口を開く。 
 
「今度来る時はさ、拓也も一緒に来れるといいな」 
「またメリーゴーランドに乗る羽目になるかもしれんが、いいのか?」 
「拓也と一緒なら別におかしくないっしょ? 今度は二人でちゃんと馬に乗るよ。他にもいっぱい、拓也が乗りたいって言ったやつぜーんぶ俺が一緒に乗ってやるんだ。……喜んでくれっかな」 
「ああ……、喜ぶんじゃないか。振り回されて相当疲れそうだがな……。その時はお前に任せる」 
「おう! 任せとけって。拓也を抱っこしてるとさー、すげぇ幸せな気持ちになるんだよ。いい匂いするし」 
「使っているシャンプーの匂いだろう」 
「ううん、そういうんじゃねーの、何て言うかな……。もっと幸せであったかい匂い」 
「……そうか」 
 
 晶はまるで自分の子供を思い出すように優しい笑みを浮かべる。偽りのない自然なままの晶は、ホストとして着飾っていなくても、他のどの男よりも魅力的だ。佐伯と共にいる時の安心しきったような態度、無邪気に笑うその眩しい笑顔が、佐伯にはどんな周りのイルミネーションより耀いて見えた。 
 
 
 
 フードコートから少し離れた場所に、この遊園地の売りの観覧車がある。 
 一週二十分以上かかるという巨大な物で、頂上からは街の夜景が一望できるとあって恋人達のデートコースの定番になっていた。メリーゴーランドと違い、それに乗るのはそう恥ずかしい物でも無いだろう。 
 食事を終え、最後に観覧車に乗ってから帰ろうという晶の申し出を、佐伯はすんなりと承諾した。 
 
 流石に人気アトラクションなだけはあって待機列は三十分以上あり、漸く佐伯達の乗り込む順番が回ってきた。待ち時間が長かったおかげですっかり夜になり、街のネオンも華やかな姿を見せている。グリーンに彩られたゴンドラへ乗り込むと、ドアがしまってロックされる。 
 
 次第に上へと登っていくゴンドラの中から景色を見ていると、あっという間に下にいる人間がミニチュアのように見えるまでになった。 
 晶は一度佐伯へと振り向くと、少し申し訳なさそうに頬をかく。 
 
「要、悪かったな」 
「何がだ」 
「禁煙の賭けの事。最後卑怯な真似しちゃってさ」 
「ああ、その事か。別に卑怯でもないんじゃないか。人を騙すのも戦略のうちだろう? 負けは負けだ」 
「そうなんだけどさ。男らしくなかったっつーか。うん……。だからさ、要のお願いも聞いてやるよ。それでおあいこだろ?」 
「ほう?」 
「あ! でも、あんますげぇ事は出来ねぇかんな? この前みたいに……その……」 
 
 先日の夜を思い出したのか、晶の耳が少しだけ赤く染まる。 
 
「安心しろ。それは別の機会に『お願い』としてじゃなくやってもらう」 
「……強制かよ。その強引さ、俺にもわけてほしーわ」 
「……フッ……。じゃぁ、お言葉に甘えて、ひとつ俺の願いも聞いて貰うか」 
「うんうん、なに?」 
 
 佐伯は向かい側に座って身を乗り出す晶を引き寄せると、その唇に口付けを落とす。バランスを少し崩したゴンドラがグラリと揺れ、晶は慌ててシートの側の手摺りに掴まった。 
 
「危ねーって。今揺れたし、落ちたらどーすんだよ」 
「じっとしてろ。お前が暴れなければ問題ない」 
「……っん……っふ……」 
 
 足下の鉄板についている靴底が、佐伯が口付ける度にじりじりとずれる。佐伯に口付けられながら、視界の隅にまばゆいばかりの夜景が写りこむのを横目で捕らえる。非日常的な密室は、一秒ごとに日頃の感覚を狂わせていく。 
 歯列をなぞられて一つ。縺れ合う舌の感触で一つ。互いに行き来する蕩ける熱量の中で、また一つと理性が欠けていき、その代わりに愉悦が浸食してくる。 
 
「……晶、」 
 
 佐伯の濡れた舌で唇をなぞられ、何処かから見られているかも知れないと思うのに躯は惑わされて熱が篭もっていく一方で、止まる術を知らない。佐伯に呼ばれるその声だけで堪らなくなる。 
 
 熱い吐息を漏らしながら、晶も目を閉じる。時々ギシッっとなるワイヤーの音と佐伯の息づかい。そして、自分の乱れた呼吸音、濡れた卑猥な音がゴンドラの中で響く。 
 
「……かな……め、これ以上は……やばいって……」 
 
 こうして口付けられただけで、すっかり勃ちあがった物が布地をはらせている。反応しやすい晶の躯を、服の上から愛しそうに佐伯がまさぐって耳元で低く囁いた。 
 
「帰ったら、たっぷり可愛がってやる。それまではお預けだな」 
 
 佐伯はそういうと勃ちあがった晶のそれを布越しに指でなぞり、大人しく口付けを解いた。惜しいような感覚を残したまま身を引かれて、晶は困ったように眉根を寄せた。 
 
――どうすんだ、これ……。 
 
 晶はとりあえず隠すようにジャケットの前を閉じて、火がついた躯の熱をどうにか下げようと深呼吸する。佐伯はそんな晶を見て愉快そうにニヤリとすると眼鏡を押し上げて元の座席へと深く腰掛けた。いつのまにかゴンドラは頂上に到達しており、ゆっくりと地上へ降り始める。 
 
 
「そのままでいろ」 
 
 
 佐伯が低い声で一言言って、眼下に望む夜景に視線を移す。 
 
「……え?」 
「俺の『お願い』だ。聞いてくれるんだろう?」 
「…………うん?」 
「これからもずっと変わらず、今のお前のままでいろ。それが、俺の『お願い』だ」 
「…………要」 
 
 佐伯の見ている視線の先の夜景を、晶も共にうつす。うまい言葉が見つけられないまま時間だけが過ぎる。胸がぎゅっと苦しくなって、その後じわりと温かくなった。 
 晶は手摺りに掴まったまま、身を乗り出して佐伯へと一度キスをする。 
 
 ゴンドラの硝子窓から空を見上げると、小さな星が夜空に散らばっているのが見える。星に願いをなんて曲があるのは知っているけれど、佐伯の願いは星に叶えて貰えるような物ではないようだ。 
 それを自分が叶えられることが嬉しかった。No1ホストである自分より、外科医である佐伯の方が口説くのが上手というのがどうにも納得がいかないが、こうして口説かれるのも悪くないと思う。 
 
 色恋なんて理屈は何も通用しない。惚れた分だけ愛を囁いて、惚れられた分だけセックスして、キスをする度に愛しくなって、抱き締め合う度にその想いが深くなる。 
 それの繰り返し。酷く単純だけど、どこにも存在しない方程式。 
 
 ゆっくりと下がっていくゴンドラが降り口へと到着する。佐伯と晶は共に降りたって歩き出す。佐伯達が降りたばかりのゴンドラには次の恋人同士が乗って、また上へ上へと登っていく。 
 
 晶が人混みを縫って先を行く佐伯との距離を詰めた。 
 
「何かつまめるもんでも買って、帰ったら乾杯しようぜ」 
「乾杯? 何の祝いだ」 
「別に何もねーよ。理由が欲しいなら考えるけど?」 
「例えば?」 
「うーん。そうだな……。初メリーゴーランド祝いとか?」 
「語呂が悪い。やり直し」 
 
 リテイクを食らって真剣に考え込む晶を置いて、佐伯はどんどん先を行く。 
 色取りどりのイルミネーション、楽しげな音楽、笑い合う人々の声。遊園地は一時のおとぎ話には違いない。絵本の世界を背にして、佐伯達は遊園地から遠ざかって現実の世界へと戻る。 
 地下の駐車場に向かい、晶は佐伯の車の助手席に手を掛けた。 
 
 
 まだまだ時間はある。今夜はこれから、別の物語が始まる予定だ。 
 佐伯と自分の大人のおとぎ話の始まりは、そう――魔法が解ける午前零時から……。 
 
 
 
 
 
 
 
Fin