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 日本を離れてこちらに来てから、一ヶ月が経とうとしていた。 
 
 来てすぐに椎堂の紹介で入った系列のスクールは、緩和ケア施設でのボランティア活動を目的とする団体が主催している物で常時行われている。 
 現地の人間は勿論、福祉関係者や現場を退職した医療従事者、他には澪のように海外から来て学んでいる生徒も沢山いて、年齢も上は五十代ぐらいまでと様々だった。開かれた環境で多くの人にホスピスの重要性を伝える、その趣旨に同意する人間達の集まる学校のようなものである。 
 
 ボランティアとして働くのに特別な資格はないが、働く内容についてや、ホスピスに対しての考え方。患者へのケアの方法。主に現場で仕事をするのに必要な様々な知識は数え切れないほどだ。日本のボランティアとは違ってその重要性は非常に高く、ホスピス設立にはボランティアがいないと認可がおりないほどの大切な支えなのである。 
 
 高校を卒業してすぐホストの世界へ入り、それしか経験の無い澪のような者には、通常の講義の他に、プラスして英会話も受講できるようになっていて、当然澪も英会話の講義を選択していた。 
 入学当初は右も左もわからず……。 
 
 そもそも、英語自体がまだ不慣れなので、辞書を引きながら意味を調べるだけで数日かかり、講義の内容を把握する所の話では無かった。 
 
 それでも、習うより慣れろというのは本当で、生活の全てが自宅以外では英語である現在の環境は、否応なしに英語力を身につけるには最適とも言えた。 
 日常の最低限の会話程度なら今は聞き取れるし、単語ごとではあるがどうにか相手に意思を伝えることも出来る。専門用語は常に持っている辞書で調べてその度に覚えるようにしていた。 
 
 帰宅後も椎堂に聞いたりと身近に教えてくれる人物がいる事も大きい。 
 出国前に自分も英語は得意じゃないと言っていた椎堂は、筆記などに関しては本当に苦手のようだが、会話に関しては全く問題が無く。流石と言った所である。 
 
 毎日勉強することは山積みであるが、余計な事を考える時間も比例して減るので、そんな日々も悪くないと澪は思っていた。 
 一日の終わり、こうして寝る前の疲労感が充実している実感に変わる。 
 
 
 
 体調の事もあるので、現地のボランティア実習に毎日参加する事は出来ず、現在は週に四回だけの参加である。残りの三日は休日だった。 
 慣れてきたら日数を増やせば良いからという椎堂に、当初は少し不満で最初から皆と同じようにと思った物だが、一ヶ月経った今、やはり四日が体力的には限界のようだった。思っていたより仕事内容がハードでもあり、人間の『死』に頻繁に直面する環境は慣れないうちは精神的にも厳しい。 
 
 今はまだ何も出来ないので、ただ現場に時々着いていったり、書類整理を手伝ったり程度ではあるが、セミナーの修了式を終えたらすぐに実践なので気が抜けなかった。 
 抗癌剤の休薬期間はともかく、服用している間は体調も中々安定しないので無理も出来ない。現に、あんなに夜に強かったはずなのに、疲れからかもう睡魔に襲われている始末である。 
 
――今日はもう寝るか……。 
 
 澪は手を伸ばしてスタンドの電気を消し、テキストとヘッドフォンをベッドサイドのチェストへと置いて、目覚まし時計をセットする。暗くなった部屋には、すぐに澪の寝息が静かに響いた。 
 
 
  
 明け方近く。 
 
 眠りの中で何故だか妙に息苦しさを感じ、澪は深い眠りから少しずつ覚醒しつつあった。寝る前はなんともなかったのに、何だろうと考えながらも眠気の方が強くて中々目を開けられない。 
 苦しさを紛らわすために寝返りを打とうとした瞬間、隣に人のいる気配に気付いた。ベッドがやけに狭い原因は予想がつく。澪はうっすらと目を開けた。 
 
 ぼやける視界に飛び込んできたのは、いつのまにか潜り込んでいた椎堂の寝顔だった。そしてその腕が澪の丁度首の真上に置かれている。苦しかった原因はこの腕だったのだ。 
 
 窓の外の風はいつのまにか穏やかになっていて、もう外の闇も薄くなってきており、カーテンレールの上部の隙間からは弱い朝日が差し込んで天井を明るく照らしている。 
 澪は何度か小さく咳き込むと、そっと椎堂の腕を外して布団の中へと入れ、肩が出た状態の椎堂が寒くないように掛け布団を引きあげる。 
 
 本来の寝室は椎堂とは別なのだが、週に数回はこうしていつのまにか椎堂が潜り込んで寝ている事があるのだ。まるで猫のようである。 
 澪がもう一度布団に潜って、椎堂の寝顔をまじまじとみていると、椎堂がその視線に気付いたのか少しだけ身じろぎした。 
 長い睫がゆっくりとあがり、うす暗い部屋の中で椎堂が幾度か瞬きをする。 
 
「……あれ……澪、どうしたの?」 
 
 半分夢の中と言った感じの椎堂は、寝ぼけた子供のような仕草で目を擦る。癖のある軟らかな前髪が、額でくるりとうねり椎堂の瞼へとかかった。 
 澪はその毛先を指先でひょいと後ろへ運ぶと、露わになった椎堂の額へ一度だけそっとキスをした。 
 
「……肩出してると風邪引くから、ちゃんとかけとけよ」 
「……うん。そうだね……」 
 
 椎堂は、キスをされた事にも気付いていない様子ですでに肩までかかっている掛け布団に少しだけ深く潜り込んで再び目を閉じた。 
 
 自分の胸に顔を寄せて甘えてくるその首筋からは微かに椎堂の匂いがし……。パジャマの襟の奥から真っ白な素肌がのぞく。なめらかにうつるその肌の感触を指先で確かめたくなる。最近こういう気持ちが起きるという事は、体力に多少なりとも余裕が出てきた証拠なのだろう。 
 
 無防備な寝顔を見ていると、目が覚めるような悪戯をしてしまおうかとも一瞬思うが、安心して身を寄せる椎堂を退けてまでそんな事をするのも可哀想なので結局はやめておいた。 
 澪は眠る椎堂の頭を幾度かそっと撫でた後、確かに感じた性欲を紛らわすようにきつく目を閉じ、再び自らも二度目の眠りに入った。 
 
 
 
 そして、朝 
 
 目覚ましのベル音が鳴って飛び起きた澪の隣には、明け方までいた椎堂の姿はなかった。あれから二度寝して、椎堂がベッドを抜け出した事にすら気付かないぐらい熟睡していたようである。 
 澪は起き抜けに欠伸を噛み殺すと、ベッドから足を下ろす。朝の冷え込みに一度体を小さく震わせ、そのまま厚手のカーテンを開いて空を見上げる。白い木枠で切り取られたような窓の外の景色は、真っ白な雲が青い空によく映えたいい天気であった。 
 家の前の通りでは隣家の住人がこんな朝早くから洗車しており、ホースから勢いよく放出されている水が、小さな虹を作っているのが見える。 
 
 澪はそっとレースのカーテンだけを閉め、デスクとお揃いの椅子にかけてあったカーディガンを羽織って、顔を洗うべく階段を下りていった。 
 半分ほど降りていった所で、キッチンの方から音がする。テレビの音声は勿論英語で、その英語の合間に聞き慣れない歌のようなメロディが微かに耳に届いた。 
 
 何の曲だろうと考えながら、洗面所で顔を洗って歯を磨き、居間を抜け椎堂のいるキッチンへ顔を出すと、椎堂が鼻歌を歌いながら朝食を作っていた。鼻歌といっても、普通の鼻歌ではなく、ちゃんと歌詞があって……。しかし、所々歌詞を忘れているのかそこだけは誤魔化すように歌っている所がおかしい。 
 澪は小さく笑うと、椎堂の背中へと声を掛けた。 
 
「それ、何の歌?」 
 
 澪が階段を下りてきた事にも気付いていなかったようで、椎堂が驚いたように振り向き、口ずさんでいた歌をぱっと止めた。 
 
「あ、おはよう。澪」 
「おはよう」 
「僕の歌……聴いちゃった?」 
「うん、聴いた。何の歌か知らないけど、何かの童謡?」 
「えっと……」 
 
 椎堂は急に恥ずかしそうに澪に背を向けると、続きを言わないままに朝食の準備の続きを始める。夕食は互いに時間がわからないので空いている方が用意する事になっているが、朝食は椎堂の担当なのである。 
 交互でもよかったのだが、椎堂はそれなりに料理が出来るらしいのでそこはお任せすることにした。 
 
 澪もとりあえずは作れるが、レパートリーは極端に少ない。何せホストをしていた頃はほぼ自炊などしていなかったのだから当然とも言えた。 
 野菜をおおまかに切ってブレンダーへと詰め込む椎堂の背後に寄って、澪はその項に鼻をうずめてわざと耳元で囁く。 
 
「もう一回、歌ってみて……」 
 
 椎堂は困ったように「えぇ」と小さく漏らし、仕方なく先程の歌を小声で口ずさむ。改めて聴いてみたが、やはり何の歌かわからない。 
 それに歌詞もかなり曖昧で、何度か同じフレーズが登場していた。 
 澪は腕を組んで考え込むように目を閉じ、食器棚へと寄りかかった。考えれば考えるほどやはりわからない。 
 
「やっぱり、俺の知らない歌かも」 
「それはそうだよ……だって、……僕が作った歌だし」 
「……作った?」 
 
 椎堂がブレンダーの蓋をして、スイッチを入れる。激しいモーター音が響き、みるみるうちに椎堂特性の野菜ジュースが出来上がっていく。豆乳の中に、セロリ・ピーマンに人参にバナナ、時々椎堂の気分次第で林檎やオレンジも追加される。体に良いからと毎朝これを飲まされているのだが、正直美味しい物ではない。 
 
「僕の即興だよ。作詞作曲、椎堂誠二」 
「何それ」 
 
 澪が呆れたように眉を顰める。椎堂のこういう所は、一緒に生活していて慣れてきたとはいえ本当につかみ所の無い部分でもある。自作の歌を口ずさむ人物なんて滅多におめにかかれない気がする。 
 
「で、タイトルは?」 
「え? ……考えてなかったけど……。うーん。じゃぁ、『君と僕』」 
 
 作詞作曲までしたというのに、タイトルについてはおざなりである。どこにでも有りそうな安直なタイトルに、澪は思わず苦笑する。 
 
「……ありがち」 
「うるさいなっ。そんな事言うなら、もう歌ってあげないよ?」 
 
 拗ねる椎堂を宥めるために澪は、背中からぎゅっと抱き締めるように腕を回すと首筋にキスを落とした。くすぐったそうに肩を竦める椎堂の耳が赤く染まって、それを誤魔化すように何度もブレンダーを回す。 
 こういう反応が見たくてわざと構ってしまう自分がいるのは自覚している。ブレンダーの中はもうすっかり液状になっているから、中の刃が空回りして音はそんなにうるさくない。 
 
 抱擁をといて食卓へ向かう澪の背中に椎堂が声を掛けた。 
 
「あ、澪。体温は?」 
「今測るとこ」 
 
 澪は食卓の上に置いてある体温計を手に取って口にくわえ、一緒に置いてあるノートを手繰り寄せる。すぐに終了の電子音がなってそれを口から外すと、今測ったばかりの体温を今日の日付の下にボールペンで走り書きした。 
 毎朝こうして体温を測り数値を書かされているのだ。 
 澪が書いた体温の数値の横の備考欄のような場所には、椎堂が花丸を書いていたりする。『よく出来ました』という意味合いなのか『確認OK』のどちらかだとは思うが、意味を聞いたことは無い。小児科にでも入院している気分である。 
 
 少しでも体温が高いと椎堂の内科医モードが発動してあれやこれやと言われるのだが、今日は大丈夫そうだった。 
 
――三十六度二分 
 
 至って普通の体温である。濡れた手をエプロンで拭きながら、椎堂がノートを覗き込みにくる。「平熱だね」安心したようにそういうと再びキッチンへと戻っていった。 
 朝食の準備が出来、食卓には先程の野菜ジュースとトースト、フルーツの入ったヨーグルトに目玉焼きが並べられる。和食の時もあるが、頻繁に日本の食材を買いに行くわけでは無いので、主食はパンになっている。二人ともご飯よりパンの方が好きなので、それを苦痛に思うことも全くないのが幸いである。 
 揃いの箸で朝食を口に運びながら、椎堂が口を開く。 
 
「澪、今日は何時頃帰ってくるの?」 
「俺は、夕方には帰ると思うけど。誠二は?」 
「うーん。僕もそれぐらいを予定しているけど……。今日はマーティムさんの所にも行くし、帰ってからも、オン・コールの担当日なんだ」 
「ああ……。じゃぁ、今夜は別々に済ませるか」 
「うん、そうだね。あ! 面倒だからってちゃんと夕飯は食べないといけないよ?」 
「はいはい。ちゃんと食べるから」 
「うん」 
 
 アメリカのホスピスは日本とは違い半数以上が在宅による訪問ケアなのである。 
 余命のない人達が余生を過ごすという意味合いだけではなく、痛みを伴う患者の緩和ケアも含めて行っている。総合病院内の医師達にはチームがあり、そのチームで担当した地域の医療サービスを行うという仕組みなのだ。 
 
 椎堂の勤務する病院は、ホスピス専門の施設ではなくごく一般的な総合病院であるが、その中にホスピスに関わるチームがあり、椎堂は現在通常の医療業務と、そのチームを兼ねて研修中である。 
 研修が終わり、正式にホスピス医を兼ねる事になると椎堂自身が現場へ出向くことはなくなるが、今は研修中なので椎堂も訪問ケアへ参加している状態だ。 
 
 その中でオン・コールというシステムがある。簡単に言ってしまうと日本で言う当直のような物で、時間外の患者の急変等に対応するシステムである。 
 
 マーティムというのは、一人暮らしの老人でとても気難しく主治医からの連絡事項を見ても問題のある患者とされていた。 
 一軒につきだいだい四十分前後の訪問で住むところが、彼の所へ行くと二時間近くかかる事もあるらしい。しかも、マーティムの住んでいるアパートはブロックが相当離れていて行き帰りにも時間がかかるのが難点なのだ。 
 澪もつい先日ボランティアの実習で見学しに行った際に彼に会ったが、確かに愛想のない老人でいかにも頑固者といった感じであった。 
 
「マーティムさんって独身?」 
「ううん。奥さんは一昨年だかに亡くなって、息子さんが遠いところにいるらしいんだ。もうちょっと顔を見に来てあげたらいいのにと思うけど……それは、僕らが踏み込んでいい範囲じゃないからね……」 
「……そうだな」 
「そうそう、マーティムさんに初めて会った日にね。僕、学生に間違われたんだよ。『そこのボランティアの学生は何故白衣を着ているんだ』ってね」 
 
 元々椎堂はとても三十を越えているようには見えないし、日本人はそうでなくても若く見られることが多い。しかし、椎堂にはそれが少し不満だったらしい。 
 
「若く見られたなら、別にいいんじゃない?」 
「まぁ、そうなんだけど……。一緒に行ったチームリーダーが椎堂は医者ですよって説明してくれてやっと診察させてもらえたんだ。若く見えるだけで安心感を与えづらいなんて事になったら今後困るよ……」 
 
 なるほど、そういう意味か。 
 澪は納得して頷く。若く見られるという事は、新米の医者なのでは? という風にも捉えられ、そうなると患者が不安を抱く可能性を心配しているのだ。 
 
「顔を覚えてもらったらそういう事もなくなるだろうし、接していれば誠二がちゃんと医者だってわかってくれるだろ」 
「そう、だといいんだけど……」 
「大丈夫だって。そんなに心配するなよ」 
 
 椎堂は「うん」といった後に、「澪は、僕のお兄ちゃんみたいだね」なんて言って、照れたようにはにかんだ。その様子は確かに澪から見ても年上には思えなかった。患者に若く見られる事は困るらしいが、こうして自分に子供みたいだと思われることは気にしていないらしい。 
 
 食事の時に邪魔だというので、ピンで留めれば? という澪のアドバイス通り、最近は長くなった前髪を適当にピンで留めているのでそれが余計に子供っぽく見えてしまう。ちゃんと留めているならわかるが、椎堂はお洒落には案外無頓着である。 
 
 一昨日なんか、ピンが手元に無いからとキッチンの輪ゴムで前髪を縛っていて、取るときに相当痛がったので、仕方なく澪がほどいてやったのだ。服装に関しても、清潔感のある服装なら何でも良いらしい。 
 そんな適当な椎堂ではあったが、何を着ていても、輪ゴムで前髪を縛っていても可愛いと思えてしまうのだから特に文句も無かった。寧ろ椎堂がお洒落に目覚めて髪を染めたりピアスをしたりしだしたら、止めてしまうかも知れない。 
 
 澪がそんな事を考えながら自分を見ているとはつゆ知らず、椎堂は最後に残していた目玉焼きの黄身を慎重に箸で掴んで素早くパンの上へと移動させた。 
 その顔がいつになくとても真剣で、澪は笑いを堪えるのに少し苦労する。おかしそうに自分を見ている事に気付いた椎堂が「ん? どうかした?」と首を傾げる。 
 
「卵の黄身、そんなに慎重に扱う奴初めて見るなと思っただけ。子供みたい」 
「え!? 普通だよ? だって黄身が崩れたら大変だし」 
「へぇ、そうなんだ? どう大変なの?」 
「それは、ん……?」 
 
 そこまで返事をした時点で、椎堂はからかわれている事に漸く気付いたようで、反撃するように澪の皿に箸を伸ばした。まだ食べていない黄身の部分を箸でつついて悪戯してくる。 
 軟らかい半熟の黄身が、崩れた部分から少しだけとろっと流れ出す。 
 椎堂はこの攻撃で、澪が焦ると考えていたようだがそれは見事に外れた。皿に流れ出す前に、澪がそれを器用に絡め取ったまま素知らぬ顔で口へと入れたからだ。 
 
「…………」 
 
 面白くなさそうに、視線を逸らす椎堂に澪は堪えきれず小さく笑った。 
 
 
 
 
 
 朝食を終え、後片付けは澪の役目なので二人分の少ない食器を洗う。そのままキッチンにあるグラスで朝食後の薬を飲んで、澪はひとつ息を吐いた。 
 忘れないように一週間ぶんの薬を朝昼晩とわけて置いてあるのだが、確か抗癌剤は明日で投薬期間が終わり、二週間の休薬期間へ入るはずなのだ。 
 
 一ヶ月連続で服用して二週間の休憩、これの繰り返し。こちらへ越してきてから、初めての休薬期間という事になる。 
 
 最近若干貧血気味なのと口内炎が治らないのだが、これで少しは改善されるはずである。たかがカプセル二つを朝晩に飲むと言うだけであるのに、服用中はやはり体調の変化に敏感になるし、その事自体がストレスでもある。一応一年間という話ではあるが、定期的に受ける検査の結果次第ではその期間も延長される可能性は十分にあった。 
 澪は空になった薬のシートをつまんで、苦い思いでそれを眺めていた。 
 
――こんな小さな薬だけで転移が抑えられるなら文句言えないよな……。 
 
 入院していた頃の不調に比べれば、こうして毎日何も問題なく過ごせているのだから、多少の事なら我慢が出来る。しかし、早く治療が終わって欲しいというのが正直な気持ちでもあった。 
 
「澪? どうかした?」 
 
 出かける準備を済ませた椎堂が、キッチンで薬の空を手にしたまま何か考えている様子の澪に気付いて小さく声を掛ける。 
 
「いや、別に……」 
 
 澪は手にしていたシートをシンクのダストボックスへと捨てて、一度手を洗い振り向く。心配そうに自分を見ている椎堂の視線から目をそらしたまま、薬のしまってある引き出しをそっと閉じた。椎堂がそれに気付き、穏やかに笑みを浮かべる。 
 
「明後日から、投薬はおやすみ週間だね」 
「ああ、うん」 
「何か澪が食べたい物があったら買ってきて、週末にはゆっくりしよう」 
「……ああ」 
 
 椎堂はちゃんと休薬期間を把握している。服用中の食欲不振を少しでも緩和させられるような食事に気をつけ、澪の体への負担になる事はせず気を遣ってくれる。そんな椎堂にこれ以上心配事を増やすわけにはいかないので、些細な不安などを澪が口にすることはなかった。 
 
 澪は安心させるように笑みを浮かべると、出かける支度をしてくると言い残して自室へ向かう。場所が近いので、出かける時は一緒に家を出るからだ。そろそろ用意をしなくてはいけない時刻だった。 
 
 
 
 
 澪が階段を上る後ろ姿を見送った後、椎堂は僅かに目を伏せた。 
 普通に過ごしている毎日のように見えても、澪は健康体の自分とは違う。毎日飲み続ける抗癌剤が精神的にも負担になってくる事はよくある話だし、自分に気を遣って言わないだけで、僅かな体調変化もきっとある。 
 
 そういう事を口にしない澪だからこそ、自分が些細な変化にも気付いてあげなければいけないのだ。 
 椎堂は、二階で準備をしている澪の足音を聞きながらテーブルへ置いてあるノートとペンを手に取った。一ヶ月分の澪の体温の計測に目を通しながら願う。 
 
――澪が明日も元気に過ごせますように……。 
 
 願いを込めた花丸を小さく書き込んで、椎堂はそっとノートを閉じた。