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 その週末、折角の休みだというのに天気は悪く小雨が降ったりやんだりを繰り返していた。 
 この地域は昼と夜の寒暖差が大きく、晴れた日中は二十度を超すのに、太陽光の少ないこんな日は気温は十度近辺を彷徨う。厚手の長袖を着て、今しがた買ってきた食材を両手で抱えながら、澪は車のドアを肘で押してバタンとしめた。 
 
「これで、全部?」 
「うん、そうだね」 
 
 椎堂も澪と同じく両手に荷物を持っている。細い腕に抱えた荷物の危うさに、思わず手を伸ばそうと思ってしまうが、椎堂はこうみえても結構力があるのだ。 
 椎堂と暮らすまでは、こんなに自分が誰かの世話を焼きたくなる事など想像もしていなかった。 
 守ってあげたい存在というのもいなかったし、家族は兄である玖珂だけで、そう考えると椎堂への感情は恋人以上の別の何かも含んでいる気がする。 
 
 どうしてこんなに大量の荷物を抱える羽目になったかというと、普段行かない少し遠くの大きなスーパーへ買い出しに行ったからである。 
 
 
 澪が片方の荷物を一度玄関前のポーチに置いて、家の鍵をあける。靴を脱いであがり食卓の上へと荷物を置いてから、外に置いてある荷物を再び取りに行くと、椎堂が隣の家の住人と何やら話し込んでいた。 
 
「やぁ、ミオ。随分と沢山買い込んで来たみたいだな。冷蔵庫には入るのかい?」 
 
 抱える荷物を見て、澪にも声を掛けてくる。澪は少し笑顔を見せると、「多分、大丈夫。結構大きいから」と返し、そのまま軽く挨拶をして重そうにしている椎堂の片方の荷物も引き受けて部屋へと戻る。 
 
 両隣三軒は、椎堂達と同じく勤務先の病院からの紹介で借りているので住んでいる人物も当然職場が一緒だった。 
 
 今、椎堂と話している男はロバートといって、カウンセラーをしており妻は看護師である。ロバート夫妻は気さくないい人達で、最初に越してきた時に、スーパーの場所や、美味しい店などをいくつも紹介してくれたり、生活の面でとても世話になったのだ。料理好きの妻、アンナが作ったというおかずを今も時々お裾分けしてくれるのだが、日本人の自分達の口に合う物ばかりで、密かに楽しみの一つである。 
 
 ロバートは、一年ほど日本に住んだ事があるらしく日本語もそれなりに喋れる。そして看護師であるアンナも日本贔屓だそうで、時々会うと日本語の漢字が書いてあるTシャツを着ていたりする。 
 日本では着ている人がいないようなおかしな単語が書いてあるTシャツをどこで購入しているのかは知らないが、スレンダーで美人な彼女には不思議とそれが似合っていた。 
 
 椎堂が持つ残り一つ以外の荷物を運び終えて、澪はふぅと息をつく。外で笑い声が聞こえ、その後暫くして椎堂が部屋へと戻ってきた。 
 
 ヨイショといいながら荷物を食卓へ同じように置いて、椎堂は「重かったね」といって肩を回している。大きな紙袋から冷蔵庫へとしまう食材を選別しながら、澪は椎堂へと話しかけた。 
 
「ロバートさん、なんだって?」 
「うん、あのね。アンナさんの誕生日が来週らしいんだけど、その時パーティーをやるから僕と澪も招待したいって」 
「へぇ、そうなんだ」 
「一応一緒にお祝いさせてもらいますって返事しちゃったけど、来週末、澪も参加できるよね?」 
「うん。特に予定は無いから俺も行くよ」 
「良かった。アンナさん澪より一つ年下だったみたい。来週二十五になるんだって」 
「マジで……」 
 
 だいぶ年上だと思っていたのに、自分より年下だという事が判明して澪は驚いていた。いつも会う度に椎堂の事をcute boy等と言っているが、椎堂の年齢を知ったらこれまた驚くのではないかと思う。 
 
 買った物を冷蔵庫や冷凍室に詰めていくと、あっというまに庫内は食材でいっぱいになった。元々二人暮らしにしては巨大な冷蔵庫なのだが、それがいっぱいになるなんて相当である。 
 
 同じ事を考えていたのか、椎堂が澪の背後から顔を出して「買いすぎたかな」と苦笑している。 
 常温保存の残った食材を棚へとしまって、漸く片付けが済んだ頃には時刻も丁度よく、昼時になっていた。 
 
「そろそろ、お昼にしようか。僕お腹が空いちゃったよ」 
「ああ」 
 
 椎堂と澪はそれぞれ手にした物をもって、キッチンへと入った。たっぷりの水を薬缶にいれて火をかける。なんと、昼食はカップラーメンなのである。 
 体に悪いからという理由で滅多に食べる事はないが、先程行ったスーパーには日本で食べていた馴染みのカップラーメンがいくつか置いてあったのだ。 
 
 住んでいた時は、そんなに食べたい衝動にかられることもなかったが、こうして離れてみると懐かしさもあり、どうしても食べたくなってしまうのが不思議である。 
 椎堂とカップラーメンの棚の前で「たまにはいいよね」と互いに誰に許しを得るでもなく言いながら、それぞれの好きな物を真剣に選ぶ様子は思い返すとちょっと滑稽であったかもしれない。 
 沸騰した湯をそれぞれのカップに注いで箸と一緒に持って食卓へ戻る。 
 
「凄い久し振りだよな、こういう食事」 
 
 澪がそういって時計の針へと視線を上げる。入院している間はカップラーメン等食べる機会もないし、退院してからも食べていなかった。そのままこっちへ引っ越してきたので、かれこれ半年近くカップラーメンを食べていないことになる。 
 
「洋食もちょっと俺、飽きてきたし……」 
 
 昼は出先で食べているので必然的にその手の食事の回数が増える。食欲があまりない時は朝におにぎりを作っていったり、野菜のサンドウィッチを作っていったりはするが、時間が無いときや面倒なときはどうしても外食になってしまう。 
 
 そうなると手軽に済ませられる某ハンバーガーチェーン店のような店で昼食を摂るか、別の店のチキンスープ等になってしまうのだ。都心部から少し離れたこの周辺には気軽に行けるような和食の店自体が滅多になかった。 
 さすがに飽きているのは日本人なら仕方がない事なのかも知れない。てっきり同じ思いだろうと踏んで椎堂を見ると……。 
 
「そう? 僕は毎日ハンバーガーでも平気だよ」 
「…………」 
 
 椎堂は平気な顔をしてそんな事を言った。案外椎堂はどこでも生きていけるタイプなのかもしれない。ある意味タフである。 
 
 丁度三分が経過して、カップラーメンの食べ頃になった。 
 蓋を剥がして、後から入れる液体調味料を入れて完成である。湯気に乗って、安っぽいが懐かしい匂いが漂う。椎堂は味噌ラーメン、澪は醤油ラーメンである。 
 
 いただきますと呟いて、箸を入れて久々のカップラーメンを口へと運ぶ。湯が少なすぎたのか少ししょっぱい気もするが、久々のそれはやはり美味しかった。 
 半分ほど食べた所で、椎堂が交換しようというので、残り半分は互いの物を交換して食べた。 
 作るのもあっという間だが、食べるのもあっという間である。 
十五分で早くも昼食は終わった。 
 
「今日はこの後どうする?」 
 
 残りのスープを少しだけ飲んで椎堂がテーブルへ箸を置き顔を上げる。 
 
「そうだな、天気も悪いし……。ああ、そうだ。まだ片付けてない荷物あったよな?」 
「客間に置いてあるやつのこと?」 
「うん、そう。あれ片付けるか。いつまでも置きっぱなしにしておくわけにもいかないし」 
「そうだね、そうしよう」 
 
 引っ越してきた後、ほとんどの荷物は荷ほどきして整理したが、三つほど特に急ぐ必要の無い物を詰めてあるダンボール箱を放置してあるのだ。もはや今となっては何を詰めたのかも忘れているようなそんな箱なのだが、折角の機会だからそれを片付けることを決めた。 
 
 一昨日から抗癌剤を休んでいるので、気のせいもあるのだろうが体調がいつもよりいい気がする。こんな日に何も行動しないのは勿体ないと思うようになったのは最近の話である。 
 
 
 
 食事の片付けをし、少し休憩したあと、澪と椎堂は二階の一番奥にある客間へと足を運んだ。一応ベッドも用意されていていつ誰が泊まりに来てもいいようにしてあるが、今の所まだこの部屋を使うような人が家に来ることは無かった。 
 空気を入れ換えるために、小雨が吹き込んでいない方の窓を開けて風を通すと、少し湿った風が細く部屋へ入ってくる。 
 置かれている箱は、二つが椎堂の物で一個は何も書いていない箱だった。 
 
「この、何も書いてない箱なに?」 
「なんだろう? 僕も覚えてないんだけど……」 
 
 澪がガムテープを剥がして中を覗き込むと、段ボールの上の方にはタオルが山のように入っていた。それを取り出すと、その下には貰い物なのだろうか、お中元やお歳暮などののし紙がついたままの箱も一緒に入っている。そして、その中身が、またしてもタオルで澪は何だかおかしくなって苦笑した。 
 
 本当に開ける必要が全くなかったとしか言いようがない。タオルは使う物だから多いに越したことはないが、だからといってこんなに沢山のタオルをしまっておける場所もない。 
 
「全部タオルっぽいけど、どうすんの」 
「……これは、じゃぁこのままにして、晴れた日に庭の物置にでも入れておこうか……」 
 
 澪もそれに同意し、剥がしたカムテープを貼り直して箱を閉じる。 
 そして次の箱を開けると中には医学書や小説などの書籍がつまっていた。 
 
 椎堂は、「あ、こんな所にしまってたんだ! 探しても無いはずだよ」と一人納得して、自分の部屋へと中を取りだして運んでいる。澪も手伝って運んだのだが、椎堂の部屋はもう本だらけで置く場所がない。 
 勉強のために使う辞書のような物から料理の本まで。 
 そして、何故か幼児向けらしき絵本も結構な数があった。しかも相当古い物も混ざっている。 
 
「絵本、結構あるな」 
「ああ、うん。小児科にいた頃にね、子供達に話をするのに買った物と、何冊かは僕が子供の頃に読んでたやつなんだ。今はもう必要ないんだけど、気に入ってる物だけ何だか捨てられなくてね……」 
「なるほど。でももう棚に入らないんじゃない? 俺の部屋に置いておく?」 
「いいの? 邪魔にならないかな」 
「俺は、そんなに本ないから棚空いてるし」 
「じゃぁ、お願いしようかな」 
 
 今持ってきて平積みにされている絵本の山を、澪は再度持ち上げて自室へと向かった。最初から備え付けになっている壁の棚へそれらを順番に立てかける。全部収納し終えても、最下部の棚はまだ一段丸々空きがある状態だった。 
 
 全ての本を部屋へ運び終わって客間に戻る。ダンボールは残り一つで、そんなに大きくない箱である。 
 空になったダンボールを捨てやすくするために澪が畳んでいる後ろで、椎堂が箱を開ける。ビリビリとガムテープの剥がれる音がして、箱を開いた気配がした途端、椎堂は無言でそのまま素早くその箱を閉じた。 
 
「あれ? その箱結局何だったわけ?」 
「え! いや……。昔の物とかそういう……雑誌とか、みたいな」 
 
 明らかに何かを隠している様子の椎堂に、澪は予想を付けて心の中で悪戯な笑みを浮かべた。椎堂も男なのだから、その手の雑誌等か、後は昔の恋人からの手紙のような恥ずかしい物なのだろうと予想を付けたのだ。わざと気付いていないふりで椎堂へと声を掛ける。 
 
「雑誌? じゃぁ、あけろよ。部屋に運んでやるから」 
「いや、これはいいよ。特に必要なかったし。えっと、後で僕がやるし、うん」 
 
 椎堂が澪の横にある段ボールを引きずるようにして部屋の奥へと押し、その前に立ち塞がる。 
 
「……もしかして、エロ本?」 
「なっ! 何言ってるんだよ。そんなんじゃないってば」 
 
 からかって色々と質問する澪に、椎堂は何とか返答しているが頑なに箱の前から動こうとしない。こうなると、余計に何が入っているのか気になってしまう。澪はどうしても中身を見たくなった。 
 椎堂は、この部屋に置いて置くのも危険だと思ったのか、少し重いその箱を一人で持ち上げて振り向く。 
 
「やっぱり、部屋に置いてくるね」 
 
 そう言って一歩足を踏み出した途端、床に置いてあったガムテープに盛大に躓いた。 
 危ない!と澪が咄嗟に腕を伸ばして椎堂を支え、本人は床に激突せずには済んだが、手にしていたダンボールは大きな音を立てて床へ落下し、その中身を床へまき散らした。 
 
「気をつけろよ、ホントうっかりだな」 
「……ご、ごめん。有難う……、って、あっ!!!!」 
「……ん?」 
 
 散らばった箱の中身は雑誌ではなく、アルバムだったようで整理されていない何枚かの写真が飛び出ている。澪は抱きかかえていた椎堂から腕を放すとその中の一枚を拾い上げた。 
 
「……写真?」 
 
 拾った写真には、白衣を着た椎堂と……。隣にいるのは澪の手術の際に執刀医だった佐伯、そして見知らぬ女性の三人が写っていた。椎堂から、佐伯とは大学時代からの付き合いだと聞いていたので、この写真もその当時の物なのだろう。今より若干幼い椎堂ではあるが、隠すような写真でもない。 
 
「そ、それは大学の時の写真かな」 
 
 椎堂は澪の持つ写真をチラッとみたあと、他のアルバムや写真をささっと拾って積み上げる。 
 
「他のは?」 
「ほ、他のは、見せるような物じゃないから。昔の家族の写真とか」 
「へぇ、見せて」 
「いや、えっと……」 
 
 そういえば、此方へ越してくる飛行機の中で椎堂の子供の頃の写真を見せてと話したのを思い出す。最初は渋っていたが、最終的にはアルバムを見せてくれる約束をしたはずだ。 
 澪がその事を話すと、椎堂も会話を思いだしたのか、気まずそうに視線を逸らし、手にしたアルバムを手渡してくれた。 
 
 床に座ってベッドへ寄りかかり、澪は受け取ったアルバムを膝へと置く。椎堂が幼少時の物なのだから相当年季が入っているそれは、真っ赤な布地の表紙に糸で『私の生い立ち』という文字の刺繍がしてあった。今ではデジタルカメラが主流で、写真もデータ保存なのかもしれないがこうした写真のアルバムというのは懐かしくていい物である。 
 
 隣に腰を下ろした椎堂が一緒にアルバムを覗き込む。澪はページに指を掛けた。 
 一番初めのページには、父からの言葉、母からの言葉、初めて話した言葉などの記録ページが有り、その後産まれたばかりの椎堂と家族の幸せそうな写真が引き伸ばされて貼ってあった。写真の下には手書きで『誠二、誕生日おめでとう』と書いてある。愛され、望まれた誕生だったのだとそのページを見ただけで伝わってくる物だった。 
 
 『皆に好かれる優しくて思い遣りのある大人になりますように』願いを込められた筆跡の文字を追う。 
 
「幸せそうな写真だな」 
「……うん」 
 
 隣にいる澪の表情をみて、椎堂は少し複雑な気分で目を伏せる。澪は何も言わないけれど、家庭環境を知っているだけに、どんな気持ちで澪がこのアルバムを見ているのか考えると胸がきゅっと痛んだ。父親の顔を一度も見たことが無いと前に言っていた事を思いだしてしまう。 
 
 澪は次々にページを捲っていき、椎堂の妹が産まれた時の写真になっていた。そしてその後少ししてから、何故か椎堂が全く写真にいなくなったのだ。 
 
 近所の子供達と数人で写っている物が多かったが、その中にも椎堂はいなかった。公園で遊ぶ子供達。誰かの誕生日会の様子。海で海水浴をしている写真。 
 澪がアルバムをめくる手を止める。 
 
「なぁ……、誠二いなくない?」 
「…………」 
「もしかして、誠二が写真撮ってるの?」 
「……いるよ」 
「どこに?」 
 
 少し遡ってページを確認してみると、椎堂が恥ずかしそうにアルバムを指さした。椎堂のさした指の先に写っているのは……、スカートこそ履いていないが一人の女の子だ。 
 
「……え? これ……、誠二なの?」 
「……うん……」 
 
 椎堂が恥ずかしそうに頬をかく。姉と妹がいるという椎堂の家族は全員で五人である。改めてじっくり見返してみると、写真にはちゃんと五人が写っていた。 
 
──嘘、だろ……。 
 
 澪はアルバムを近づけてマジマジと見てみる。どこからどう見えても女の子にしか見えない子供は椎堂だったらしい。 
 今もそうだが、子供の頃からくせ毛のようで長めにカットされている髪はパーマをかけているようにカールしていて人形みたいである。そして、姉のおさがりでも着ているのか、ヒマワリの絵柄のシャツを着ていた。 
 
 しかし、よくよく見れば椎堂の面影は当然だがみつける事が出来た。澪が思わず苦笑すると椎堂は隣で盛大に溜め息をついた。 
 
「だから、見せるの嫌だったんだ」 
「ごめんごめん。でも可愛いし、別にいいんじゃない」 
「よくないよ。ちっとも」 
「でもさ、これじゃ、当時も女の子に間違えられただろ?」 
「……うん。かなり」 
 
 その後椎堂が小学生の頃の写真では、髪にリボンを結ばれて泣いている姿を写した物もあった。姉と妹にいつも遊ばれていたらしい。今となっては笑い話だが、当時は本気で困っていたと椎堂が珍しく不満げに愚痴を漏らす。 
 
 アルバムは椎堂が中学の入学式で撮った写真で終わっていた。詰め襟を着て眼鏡を掛け、大人しそうな優等生然とした椎堂はもう今とそんなに変わらなかった。 
 
 
 澪の知っている椎堂は、最初から医者で年上で。それは当然の事なのに、こうして自分の知らない椎堂を見られて嬉しくなる。家族しか知り得ないその表情を知った事で、少しだけ距離が縮まった、……この時は、そう思えた。 
 
 これ以降の写真は実家にはあるが、それほど枚数もなく、アルバムとしては持ってきていないらしい。 
 椎堂は前髪をかきあげると、澪からアルバムを取り上げて「おしまい」と、まるで紙芝居の終わりを告げるように言って、パタンと閉じた。 
 
「有難う、見せてくれて」 
「ううん。今度、澪の子供の頃の写真も見たいな」 
「アルバムとか持ってきてないから、そのうちな」 
「うん」 
 
 この部屋に来て整理をしてアルバムを見ていただけで、結構時間が経っていたらしい。いつのまにか小雨も止んで、窓からは明るい陽射しがさしこんでいた。 
 休日のゆったりとした昼下がり。陽射しを受けている椎堂の横顔に視線を向ければ、その視線に気付いた椎堂が「なぁに?」とでも言う風に澪へと振り向く。 
 
「……誠二」 
「うん……?」 
 
 椎堂の腰を引き寄せて間近に迫ったその薄い唇に、澪は自身の唇を重ねた。 
 
 不意打ちで驚いたように椎堂が躯をぴくりと弾ませる。寄りかかっていたベッドから抱くようにして位置をずらすと、澪はフローリングの床へと椎堂を組み敷いた。 
 
 痛くないように躯の下に回していた腕をそっとぬいて、額にかかる椎堂の前髪に指をさしいれる。地肌を後ろへ辿って髪を梳き、もう一度覆い被さるように口付けた。 
 
「澪……」 
 
 何かを言いたそうな椎堂の続きを待たずに、澪はその唇をきつく吸って、濡れた舌を差し込む。ハァッと短く椎堂が息を継いで、長い睫を伏せる。 
 さっきアルバムで見てきた椎堂の今までの姿が澪の脳裏に順番に再生され、その映像の最後に自分がいたらどんなにいいだろうかと願ってしまう。 
 
 唇を離し、甘えるように首筋に顔を埋めて椎堂の匂いを確認する。昔から知っていたかのようなその匂いに覚えるのは、安堵と愛情とそれから……。 
 自身の鼓動が早くなり、澪は椎堂の手に指を絡めて床へとおしつけると「……いいよな?」と一言だけ呟いた。椎堂の全てが欲しくなる。 
 
 返事をしない椎堂が視線を彷徨わせ、その後辛そうに眉を寄せている事に澪は気付かないまま……。椎堂の耳元へ口付け、耳朶を甘噛みする。 
 
「……っん、澪……待っ」 
 
 澪の愛撫に、椎堂の息も僅かに乱れ、忙しなく吐き出す息づかいだけが部屋に響く。 
 
 
 「いいよな?」と一言だけ呟いた澪の言葉に流されてしまう。初めて耳にする澪の欲情した荒い息づかい。名を呼ばれ、口付けされただけで熱く篭もっていく熱は本物には違いないのに、この先を望めない自分に焦る気持ちがそれを上書きしてしまう。 
 
 今ならまだ間に合うから、その手を掴んで止めないと……。 
 
 頭ではわかっているはずなのに、椎堂は手を動かせずにいた。 
 悔しさに唇を噛んでみても、澪への愛しさはたかまるばかりで、巧みに繰り返される愛撫にこのまま身を委ねたくなる。息を吸うのも苦しくなって思わず眦に涙が溜まる。 
 
 澪の手が下腹部を撫でてゆっくりと下りていくのを感じ、椎堂は震えながらその手を掴んだ。 
 
「……ん? なに?」 
 
 開けている窓から風が流れレースのカーテンをひらりと舞わせる。差し込む光に椎堂の顔が照らされたその瞬間。椎堂の頬に伝った涙の痕に気付き、澪は息を呑んだ。 
 
――どう……、して? 
 
 掴んだ澪の手から、椎堂がゆっくりと指を離す。 
 
 夢中になって押し倒した強引さが椎堂を傷つけたのかと思うと、椎堂へ触れる指先がゆっくりと停止し、澪の頭の中は真っ白になった。昼間の眩しさが嘘みたいに澪の視界を暗く染めていく。 
 
「……ごめん。嫌、だった?」 
「違う! ……そう、じゃないんだ……」 
 
 椎堂は澪の謝罪を即座に否定すると、どうしていいかわからないという風に首を振り、開かれたシャツをくしゃっと掴んで、ゆっくりと体を起こした。初めて見るような椎堂の悲しそうな表情が澪の目に焼き付く。 
 
「ごめんね……澪。今日はちょっと、お腹の調子が悪くて……」 
 
 今朝からずっと一緒に過ごしていて、椎堂が体調がいまいちというような事は一度も言っていなかったはずだ。明らかな嘘をつかなければならないほどの椎堂の動揺ぶりに、澪は言葉を失ったまま視線を逸らした。 
 
 こんな日だってある。そう思おうと何度も言い聞かせるが、その理由を問い詰めたくなる自分が何度も湧きあがってきて。うまく言葉を返せないまま、二人で黙ったまま、ただ時間が過ぎていく。 
 
「……澪」 
 
 切なげな声で名を呼んで、椎堂が澪の胸に顔を寄せる。椎堂の躯に腕を回していいのだろうか……。その迷いが澪を支配して抱き締めようとする腕を止める。 
 しかし、自分の胸に顔を埋めたまま震えた声で呟いた椎堂の声で、澪は我に返った。 
 
「ごめん……嫌いにならないで」 
「…………」 
 
 その意味がまるでわからない、しかし、理解が及ぶ前に澪は椎堂の躯に腕を回していた。 
 ぎゅっと抱き締めてやれば、その腕の中の椎堂は小さく震えていて。何とかして落ち着かせてやりたくて抱き締める腕に力を込める。 
 
「……どうしたんだよ。……泣くなって」 
 
 何かもっと気の利いた台詞を言えれば、そう思う物の何も浮かばず、ただ椎堂の背中を撫でる事しか出来なかった。どうしてこんな事になっているのか。答えがみつからないまま繰り返しその言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。 
 
 椎堂は理由を教えてくれることは無かった。ただ、抱き締めた腕の中の椎堂がどこかへ行ってしまいそうで急に怖くなる。 
 澪は確認するかのように何度も何度もその背中をさすった。 
 
「ちょっとは落ち着いた……?」 
 
 暫くして少しずつ落ち着いてきた様子の椎堂に声を掛けると、椎堂が黙って頷いた。 
 
「……腹痛いなら、少し部屋で休む? 何かあったかい飲み物でもいれて持っていってやるから」 
「うん……、有難う」 
 
 体調不良が嘘であっても、それに気付かないふりをしたかった。何かが起こっている事が理解できてもどうする事も出来ない。澪は突如訪れた不穏な空気を払うようにして立ち上がった。部屋を出ようとする澪の背中に椎堂の声が力なくかかる。 
 
「澪、あのね……」 
 
 その言葉を遮るように澪が言葉を重ねる。 
 
「ホットミルクでいいよな……。後で持っていくから……」 
 
 不安そうに澪を見上げる椎堂の視線に気付くと、部屋を出ようとしていた足をもう一度椎堂へ向けて、澪は目の前にしゃがんだ。 
 
「なに不安そうな顔してんの。いつまでも、そんな所座ってたら余計冷えるだろ」 
「……うん」 
「それとも、俺にお姫様抱っこでベッドまで運んで欲しいの?」 
 
 ふざけてそう言った澪が、安心させるように幾度も頭を撫でる。椎堂が眉を下げて「まさか」と小さく返し、今できる精一杯の笑みを浮かべる。澪は決して怒っているわけでもなく、寧ろその逆で……、いつもより優しい口調の言葉にいたたまれない気持ちなる。 
 
「じゃぁ、ほら、手かして」 
 
 立ち上がった澪に手を引っ張られ、椎堂も腰を上げる。すらっと伸びた澪の足先に視線を落としたまま客間を出て歩く。澪の顔をまともに見ることが出来なかった。 
 
「……俺ちょっと部屋片付けたいから、飲み物はその後でもいい?」 
「あ、うん」 
「じゃぁ、待ってて」 
 
 繋いでいた手が離れていく。ツゥと指先が滑って、澪の体温が消えていくのが酷く不安でたまらない。澪が自室のドアノブに手を掛けてそのドアがしまるまで、椎堂は廊下に立ったままそのドアを見続けた。 
 
 客間では、床にそのまま置かれたままのアルバムの刺繍文字が、誰もいない部屋で窓硝子に反射し薄い影を揺らしていた。 
 
 
 
 
 
 
 
 閉まったドアに寄りかかって、澪は目を閉じた。 
 すぐそこの廊下に椎堂の気配がまだ残っていて、少ししてやっと椎堂の部屋が開かれドアが閉まる音がする。 
 
「……、……」 
 
 潜めていた息を長く吐き出して、澪は自分のベッドへと腰を下ろした。体重でぎしりと沈むスプリングが一度音を鳴らす。 
 別に部屋の片付けなど特にするつもりは最初からない。 
 
 理由を問いただすのが躊躇われ、何も聞かないまま部屋に戻ってしまったが、思い返してもその理由は簡単にわかる物ではなかった。 
 澪は両手で頭を抱えると深いため息を漏らし、先程の椎堂の様子を思い出していた。 
 
 触られるのが嫌いという事も、今までの経験からしてないように思えるし。途中までは椎堂も感じているように見えた。その先に、椎堂があんなに動揺する何かがあるのだ。 
 
 思い返してみれば、椎堂と一緒に寝ることがあっても、椎堂からセックスに結びつくような誘いをしてくる事も一度も無かった事に気付く。 
 こうして考えている間にも、先程椎堂が言い残した台詞が頭から離れずに残っていた。 
 
――ごめん……嫌いにならないで。 
 
 震えながらそういった椎堂の台詞。 
 
 何がそこまで椎堂を追い詰めているのか……。自分の知らない事が沢山ありすぎて、そして、そんな椎堂を助けてやることも出来ない無力さが歯がゆくて自身に腹が立つ。 
 澪は苛立ったままその拳をベッドへと叩き付け、そのまま腰を上げた。 
 
 窓際に歩み寄り、すっかり夕方になっている窓の外へ目を向ける。いつもと変わらない隣家の壁と、自宅前の路地が橙色に染まっている。 
 
 窓を全開まで開くと、その瞬間強い風が部屋の中へ入り込んできて、澪は一瞬目を眇めた。背後で何かが落ちた音がし、澪が振り向いて部屋を見渡すと、先程椎堂の部屋から運んできた絵本が一冊横に倒れていた。ブックエンドがないので最後の一冊を斜めにして支えにしていたのだ。 
 棚へ向かって、倒れた本を立て直すと、絵本の間からひらりと一枚の写真が床へと落下した。 
 
――ん? 
 
 その写真を拾って、澪は再びベッドへと腰を下ろした。かなり雑多に積めてあった箱だったので、写真が紛れていてもおかしくない。 
 写真の中には制服を着た椎堂と知らない学生が写っていた。先ほどアルバムで最後に見た制服と違う物なので、高校の頃なのだろう。椎堂は眼鏡をかけておらず少し今と雰囲気が違う。ふざけている時に撮った写真なのか大きく笑っている隣の男の横で椎堂も笑みを浮かべている。 
 
 だけど……。 
 椎堂の視線はその男に向いていて、その視線は……、椎堂が自分に向けている視線と同じ感情を含んでいた。 
 
 過去の恋愛に口を出すつもりも全くないし、椎堂がゲイである事も知っているので彼がいたって何もおかしい事ではない。その事よりも、写っている椎堂の笑顔があまりに幸せそうで……。澪の胸に突き刺さった。 
 
 自分はこんな幸せそうな笑顔を椎堂にさせてやる事が出来ているだろうか。仕方がない事とはいえ、椎堂は毎日澪の体調に気遣い、その不安はいつも根底にあって消えることがない。普通の恋人であったならば、必要の無い心配事を抱えさせているのだ。 
 
 さっき見た椎堂の涙。写真の中の笑顔と対照的なそれが交互に押し寄せる。 
 
「……誠二」 
 
 澪は、その写真をポケットへとしまうと、一度深呼吸をして目を閉じた。澪の背中を強い夕日が染めて、ゆっくりとその強さを潜め夜に引き継がれていく。 
 澪は目を開けると、そのまま部屋を出てキッチンへと向かった。 
 
 
 
 
 冷蔵庫から牛乳を取り出して、小さな鍋に適量入れて火を掛ける。疲れているときに椎堂がしてくれるのと同じように、棚からハチミツを取り出して少しだけトロリと鍋にいれてかき混ぜる。 
 あまり甘すぎないように少量入れているのだが、温めた牛乳がほんのり甘くなって優しい味になるのだ。沸騰して煮立つ前に火を止めて、マグカップへとそれを注いで鍋を水に浸しておく。 
 
 冷めるといけないので、後片付けは後でやることにし、澪はマグカップを手に持って椎堂の部屋へと向かった。 
 
 部屋の前に立ってノックをしながら小さく声を掛けてみる。 
 
「……起きてる?」 
 
 部屋の中から椎堂が「うん」と返事をし、澪はドアを開けた。椎堂は横になってもおらず、ベッドに座って俯いていた。澪が入ってくると、いつも通りの優しい笑顔を向けてくる。どこかぎこちなく見えてしまうのは先ほどの事があったからだろう。 
 
「熱いから火傷するなよ」 
「うん、有難う」 
 
 澪からマグカップを受け取って一口飲み、椎堂は「すごく美味しい」と嬉しそうな顔を見せた。今はすっかり落ち着いた様子で澪はほっと胸をなで下ろす。 
 その後、思い出したようにポケットに手を入れて、先程の写真を椎堂の机へとそっと置いた。 
 
「これ、絵本に挟まってたみたいだから、ここ置いとく」 
「……写真?」 
 
 椎堂はカップを持ったまま立ち上がって、置かれた写真をみる。その瞬間、椎堂がハッと息を呑んだのがわかった。立ちすくんだまま写真を呆然と見ている椎堂を訝しく思い、澪がそっと肩に触れて顔を覗き込む。 
 
「誠二……?」 
 
 掴んだままのマグカップを奪って机の上へと置き、澪が椎堂の両肩を掴む。椎堂の顔は真っ青だった。