note 3


 

 
 
 
 このままマグカップを持っていたら、間違いなく椎堂はその手からカップを床に落下させるだろう……。そう思って奪い、机に置いたカップからは、未だに湯気がゆらゆらと立ち上っている。 
 甘いミルクの香り、知らない男と椎堂の過去の写真、机の上におかれたままの整理されていない様々な書籍。 
 何一つ交わらない、不協和音のようなそれらを隠すように、澪は椎堂の目の前で腰を屈め、その腕を強く掴んだ。 
 
 静かに口を開く澪の声が、静まった部屋に波紋のように広がる。 
 
「……誠二、いいか。俺の事見て」 
「…………澪……?」 
 
 写真に向けていた視線を剥がすようにして、椎堂がゆっくりと澪の瞳へそれを移す。真っ直ぐ射貫く視線に堪らずそらそうとする椎堂に、澪は静かながらも語気を強めて掴んだ肩を揺さぶった。 
 
「ちゃんと見ろよ」 
「……っ」 
 
 眼鏡のレンズ越しに椎堂が漸く視線を定める。澪はその視線をしっかりと捉えたまま言い聞かせるように言葉を選んだ。 
 
「今、ここにいるのは、俺と誠二だけだ。わかるよな?」 
「……うん」 
「誰も、誠二が嫌がる事をする奴はいないし、余計な詮索もしない。大丈夫だろ? だから、……ゆっくり深呼吸して」 
 
 椎堂が不安そうな表情を少し緩めて、澪の言葉に続いて何度か深呼吸を繰り返す。幾らか頬に赤みが戻った椎堂を、その間、見守るように見つめていた澪が肩から手を外し、所在なげに開いている椎堂の手にそっと自分の手を伸ばした。 
 
「……手、触れるよ?」 
 
 返事を待っているわけではなく、これは確認である。澪はゆっくり椎堂の手を握って変化がない事を見てとると、その手に少し力を入れた。椎堂の部屋を出て自分の部屋へと連れ込み、ドアを閉める。 
 澪のベッドまで連れて来た所で、椎堂が「あの……」と口篭もって澪へと視線を上げた。 
 
「……どうして、ここに」 
「理由? 特にないけど」 
「…………」 
「あのまま……あの部屋に誠二を置いておきたくなかった。それだけ……」 
「……澪」 
 
 自らのベッドのカバーを半分捲ってシーツを少し整えると、澪は椎堂の手を放した。 
 
「どこで休んでても一緒だろ? だったらここに寝てろよ。俺、夕飯まで勉強するから」 
 
 椎堂と距離を取ってそう言いながら、澪が棚から参考書を何冊か選んで取り出す。不安を煽らないように体にあまり触れないようにしてくれている澪の気遣いが伝わり、椎堂の胸がぎゅっと痛くなった。 
 ――何があったの? どうしたの? ――何で、抱かせてくれないの? ――きっと聞きたい事は沢山あるのだと思う。だけど、澪は一言も椎堂を問い詰めるような事を口にしなかった。 
 普通なら愛想を尽かされてもおかしくない事をした自分に対し、理由も聞かず、ただ傍にいてくれる澪にだからこそ、何もかも打ち明けてしまいたくなる。 
 
 誰にも言った事の無いその事を話しても、澪は受け入れてくれるのではないか、そんな考えが浮かぶものの、切り出し方もわからず……、言う勇気が口にする前に消えていく。 
 
 いつかはこうなる事がわかっていたのに、言い出さなかったのは……。このままの幸せがずっと続いて欲しいと強く思ったからだ。それ程に、毎日がただ幸せだったのだと思い知る。 
  
 
 椎堂は自分の掌へ視線を落として、いつのまにか力んで握りしめていた指をゆっくりと開いていく。何も掴んでいない掌の中にあるのは透明な空虚さだけだった。 
 こうしてまた過去と同じ事を繰り返す……。今許されているのは、澪の優しさがあるからで、自分自身はなにも変われていない。澪となら、もう一度やり直せるのではないか、そう思った自分の甘い考えが砕けては心に沈んでいく。 
 
 
 佐伯と付き合っていた当時の事を思い出して、椎堂は澪のベッドに腰を下ろすと、苦い思いでそっと目を閉じた。 
 恋愛をするという事に不安しか無かった椎堂に、想いが通じて共に過ごす時間の楽しさを教えてくれたのは佐伯だった。しかし、交際期間が長くなるにつれ体を求める関係になるのは当たり前のことで。もうその頃には、楽しいはずの恋人との時間が苦痛になるほど過去の思い出に取り憑かれていた。 
 
 このままではいけないと思い、何度も佐伯に話そうと思ったが、結局心を曝け出すまで佐伯を信じ切る事が出来なかったのだ……。 
 体の関係を持つ前に、自分から別れを告げて距離を取った。理由を聞いてくる佐伯には最後まで嘘をついた。「友達に戻りたいから」と。 
 
 今になって思えば、鋭い佐伯には多分その嘘はばれていたのかもしれない。 
 愛する人を失って裏切る事と引き換えにして己を守る方法しか思いつかなかった当時の自分は、未熟で臆病だったと思う。けれど、今足下を見れば、自分は全くその場から前進していなかった。 
 
――また、同じ過ちを繰り返して……そして、失っていくのだろうか。今度は、澪を。 
 
 そう考えると寒くもないのに体が震えてくる。 
 あれから十年近く経っているのに、椎堂の時計の針は壊れたままその秒針でさえ、動かずにいる。 
 
 
 机に向かう澪の背中に椎堂は黙って視線を向けた。 
 その背中を見ていると、澪が入院してきて初めて会った日からの様々な出来事が胸の中を掻き乱す。記憶を辿るように一つずつ取り出してみれば、つい最近の出来事なのに、それが遠い昔のことのようにも思えた……。 
 
 時に発熱で汗ばみ、倒れた時は氷のように冷え切っていたその背中に夜ごと何度も手を当てさすってきた。その感触を未だに忘れる日は一日もないというのに。 
 苦痛の闇に飲まれそうな澪と共に何とか前に進んで、ようやく手に入れた今の幸せ。今だって手を伸ばせば、愛しい存在はその指で触れることが出来るのだ。 
 自分の全てを投げ捨ててでも救いたかった澪が今は傍にいてくれる。その伸ばされた優しい腕を自分は拒絶した。 
 
 静かな部屋に澪が参考書をめくる音と筆記の音が響く。全くゼロからのスタートになる分野に臆すこともなく、再発の不安も一切口にせず前向きに進む強さ。新しい目標を見つけるきっかけを与えたことに対して、澪は感謝していると今でも時々言ってくれる。 
 
 それなのに、今の自分は逆に澪をわずらわせるような事をしているのではないか。 
 それだけは、してはいけない事……。 
 椎堂の混乱する頭の中が、すっと冷えていく。  
 
「澪」 
「……ん?」 
 
 振り返らないまま澪が返事をする。 
「…………有難う……」 
 椎堂はベッドから腰を上げると、そう声を掛けドアの前まで進んで澪へと振り向いた。 
「僕はもう平気だから、……部屋に戻るよ。勉強の邪魔になってもいけないし……体調ももう落ち着いたから」 
 笑みを浮かべてそう言い残し、ドアノブに手を掛けた椎堂の耳に澪の声が小さく届いた。 
 
「……行くなって……。言ってんだろ」 
 
 書き取る手を止め、ペンを握りしめて顔を上げないまま澪が呟く。 
 
「…………でも」 
「……手の届く所にいろよ……頼むから……」 
 
 澪が顔を上げる。綺麗な横顔が辛そうに歪み、真っ直ぐな前髪が揺れる。大きな掌がその表情を隠すように被せられた後、澪は小さく息を吐いた。 
 奪われた言葉が、それ以上澪から発せられることは無いけれどその表情が様々な想いを物語っている。 
 不安で行き場を失っているのは自分だけでは無い事に今更気付く。澪にそんな表情をさせているのが自分だという事にも。 
 
 椎堂は、慌ててドアノブにかけていた手を放して後ろへ回した。 
 
「……澪、じゃぁさ、一緒に下に行かない? 僕はそろそろ夕飯の準備をするし、ご飯が出来るまで下で勉強したらいいんじゃないかな」 
 
 澪は少し考えた後、一言だけ返事をした。 
 
「……いいけど」 
「じゃぁ、決まり! 今夜は何にしようかな。澪は何がいい? お魚も買ったからムニエルも出来るし。そうだ。澪の好きなオムライスでもいいよ」 
 
 出来るだけ明るくそう言いながら、下へ運ぶのを手伝おうと澪の机の上にある参考書に椎堂が腕を伸ばすと、澪と丁度タイミングが重なって互いの手が重なった。 
 はっとして手を引こうとする前に、澪が椎堂の手を掴む。 
 
 絡めた指から伝わる澪の体温、温かいそれを感じて椎堂は急に溢れそうになる涙を堪えた。視界にうつる【緩和ケアガイドブック】という参考書の文字が視界の中で滲んで歪んでいく。椎堂は澪の手を力なく握り返すと震える声で口を開いた。 
 
 
 「……澪、ごめんね……。ちゃんと、話すから……少し時間を下さい……」 
 
 
 澪は俯く椎堂を見つめると、絡めていた指を解き、ポンと椎堂の肩に手を置いて立ち上がった。 
 一度大きく息を吸って、参考書を手にして立ち止まる椎堂の頭を片手で抱き、自分の胸へと引き寄せた。 
 規則正しい心音のリズム。澪のシャツに椎堂の涙がしみて色を変える。伝わる鼓動に混じって、優しい澪の声が耳を伝って椎堂の胸を浸していく。 
 
「……誠二が、話したくなったらでいい。……、無理させたくないから……」 
「…………」 
 
 背中に回した腕がぎゅっと椎堂を抱き締めて、澪は抱えた椎堂の頭に軽く顎を乗せた。 
 
「……オムライス、作ってくれんの?」 
「……うん。ケチャップでね。澪の好きな文字も書いてあげるよ」 
 
 椎堂が涙声でそういって笑うと、澪は「子供かよ」と一言だけ言い、顔を覗き込んで椎堂の涙を拭うと少し笑った。 
 
――行こう……。 
 
 澪が勉強道具を手にして、ドアの側にある部屋の電気を落とす。ちゃんと伝えなければいけない事を整理して、澪に話そう。椎堂はそう心に決めつつ、今はもう少しだけ澪の言葉に甘える事にしてその手を繋いだ。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 月曜の朝は少し慌ただしい。早朝のカンファレンスがある為、椎堂がいつもより一時間早くに出勤なのだ。いつも通り体温を測ってノートへ書き込んでいると、その背後から声がかかる。 
 
「澪、僕の鍵知らない?」 
 
 慌てた様子の椎堂が、シャツのボタンをしめながらそう言い部屋をうろうろしている。小物入れになっている引き出しをあけて探しているようだが鍵が見当たらないらしい。 
 澪はいつも通りの時間に家を出るので、まだパジャマ姿である。食卓でテレビを眺めていたが、その声で椎堂の方へと振り向いた。 
 
「先週使ってた鞄は?」 
「あっ! そうか! そうだね」 
 
 今日は書類が多いからといつもと違う鞄を持っている事に気付いた椎堂がバタバタと階段を駆け上がっていく。少しして二階から「あったよ!」と椎堂の声が届く。 
 鍵を手にした椎堂が再び階下に降りてきて、それを今日の鞄にしまい込むと澪の座る椅子へと手を置いた。 
 
「澪、よくわかったね。実は秘められた超能力があったりして」 
「ないと思うけど」 
 
 そっけなくそんな事を言う澪に椎堂がくすりと笑う。 
 
「じゃぁ、行ってくるね」 
「ああ、行ってらっしゃい」 
 
 少し躊躇った後、椎堂の方から澪の額へ軽くキスをする。その後、椎堂が自宅を飛び出して行き、玄関のドアが軽い音をたててしまる。 
 澪は、飲みかけの紅茶を一口飲んで背もたれへと寄りかかった。 
 
 いつも通りの朝。 
 何も無かったかのように振る舞っている椎堂が少し無理をしているのがわかる。 
 週末にあんな事があったせいで、あの日の晩は互いにどこかぎこちない感じを残したまま終わった……。 
 
 何気ないいつもの会話をしていても、完全に心の中から消えることはなく、その証拠にどちらから言い出したわけでもないが、夜は二人で最初から澪の部屋で眠った。 
 寝ている最中に潜り込んでくる事はあっても、最初から一緒に寝るのは越してきてから初めての事だ。 
 口にしない不安を誤魔化すように朝まで繋いでいた手の感触が、今も掌に残っている気さえする。 
 
 澪はマグカップを両手で覆って軽く溜め息を吐いた。 
 
 
 つけている番組が子供向けの番組に切り替わり、鮮やかな色のキャラクターが楽しげな歌を歌い出している。如何にもアメリカっぽい番組である。 
 部屋の時計に視線を向け、そろそろ自分も用意をするかと腰を上げる。賑やかなテレビの電源を切ると部屋は一気に静まりかえって、切り替わるように電話の音が鳴り響いた。 
 
 慌ただしく飛び出していった椎堂が忘れ物でもしたのかと思い、澪は壁に掛けてある子機を手に取って受話口へと出た。 
 電話の相手は、予想もしていない相手だった。 
 
『もしもし? 澪か?』 
「兄貴??」 
『ああ、そうだ。ビックリしたか?』 
「まぁ、ちょっと……。どうしたんだよ、こんな時間に」 
『こんな時間って、そっちは朝だろう? ちゃんと時差を考えて電話したんだが……』 
「そっちは夜中の三時くらいだろ?」 
『よくわかったな。今はまだ店なんだが、お前がどうしてるかなと思ってね。体調はどうだ? 変わりはないか?』 
「うん、平気」 
『そうか、良かった……。安心したぞ。まぁ、椎堂先生が一緒だからな、心配は要らないとは思ってはいたが』 
 
 心配は要らないと思っていたと言いながらも、玖珂からは先週メールが着ていたはずだ。体調のことだけではなく、現在学んでいるセミナーの事や、こちらでの生活の事。自分はそうやってあれこれ心配してくるくせに、返信でこちらが「仕事は最近どうなの?」と聞けば、「俺の事は何も心配要らない。全て順調だよ」とどこまで信じて良いのかわからないような返信をしてくる始末だ。 
 
 しかし、こうして直接電話を掛けてくるのは珍しい事でもあった。 
 澪は受話器を持ったまま移動し、居間のソファへと腰掛ける。 
 
『それで、先生とはうまくやれているのか?』 
「うまくって、なんの意味だよ」 
『なんのって……、深い意味はないが。お前が我が儘を言って困らせたりしていないかちょっと心配しているだけだ』 
「あのな、ガキじゃねぇんだから……。普通にちゃんとやってるって」 
『そうか、それならいい。椎堂先生は、そこにいるのか?』 
「いや、誠二は……じゃなくて、先生はもうでかけてていないけど」 
 
 うっかり、いつもの調子で椎堂の名前を呼んでしまった澪に、受話口で玖珂が苦笑する声が聞こえる。関係を知られているとは言え、こういった事はやはり兄弟間では恥ずかしい。 
 
『朝が早いんだな……。椎堂先生にも体には気をつけて下さいって言っておいてくれ』 
「伝えておく」 
『それで、用件なんだが。近いうちに……、といっても少し先だが纏まった休みがとれそうなんだ。一度お前の顔を見に行こうと思っているんだが、都合はどうだ?』 
「来るなら予定合わせられると思うけど」 
『そうか、わかった。また日程が決まったら連絡する。……会った時に……、ちょっとお前に渡したい物があってな』 
「……え? 何の事?」 
『長くなるから、会った時に詳しく話すよ』 
「……よくわからないけど、まぁいいや。俺、そろそろ出かけるから」 
『ああ、忙しいところすまなかったな。お前の声が久々に聴けて嬉しかったよ。無理しないで頑張れよ』 
「うん、兄貴も」 
『ああ、有難う』 
 
 それじゃぁ、また。と言って電話を切った後、澪は少し笑みを浮かべた。久し振りに聞いた玖珂の声に、懐かしさを感じる。相変わらず忙しそうではあるが、声を聞く限りでは元気そうな事に安心した。 
 しかし、渡したい物が一体何なのか見当もつかない。口調的にそんな深刻な何かではないとは思うが、あぁして詳細を隠されるとやはり気になってしまう。 
 
 そんな事を考えつつ電話の子機を元あった場所に置いて、支度をするために澪は自室へと向かった。 
 
 今日の午後は、定期検診があるので午前中だけ講義に出る予定である。越してきてすぐに一度主治医を決めるために訪れた病院は、空港で偶然居合わせた椎堂の先輩でもある高木が勤務する病院だった。 
 椎堂が勤務する病院でも良かったのだが、高木がいる病院は消化器外科で腕の良い医師がいると椎堂が聞いてきて、何かあった時のためにそこに決めたのだ。 
 
 初対面の時から澪にも友好的に接してくれる高木とは、そんなわけで今までにも数回顔を合わせている。空港の時にも感じた事だが、高木は顔が広いらしくあちこちの病院で顔が利く。また神出鬼没でもあるため、意外な場所でばったり会うことも少なくなかった。 
 
 
 日本での処方箋等が記載されている診察に必要な物をファイルへといれて、澪は忘れ物がないかもう一度チェックする。 
 着替えも済ませ、用意し終えた鞄を肩に掛けて一階へ下り、戸締まりを確認すると澪も自宅を後にした。