note10
花束を持って二人でロバート家の門をくぐると賑やかな笑い声があちこちでもう響いている。着替えてきて正解だったようで、来客は皆パーティーに相応しい格好をしてきていた。
女性客が六割くらいを占めるので色とりどりのパーティードレスが実に華やかに空間を彩っている。澪はほとんどの顔を知らないが、椎堂は職場で顔を合わせているのであちこちに挨拶をしながら部屋の中を進んだ。
「やぁ! よく来てくれたね」
椎堂達に気付いたロバートが椎堂と澪にハグをする。妻に合わせて赤いポケットチーフをさし、揃いの色をさりげなく取り入れているところが洒落ている。ロバートが少し離れた場所にいるアンナを呼んだ。
長い裾を揺らして、アンナは側に来ると「今夜は来てくれて有難う」と満面の笑みを浮かべた。
「お誕生日おめでとう」と祝いの言葉をかける澪に続いて、椎堂も「お誕生日おめでとう。今夜は招待してくれて有難うございます」と声をかける。
プレゼントはもうギャレットから受け取ったようなので花束を渡すと、サプライズプレゼントをアンナはとても喜んだ。
ドレスが似合っていてとても綺麗だと椎堂が褒めると、アンナは嬉しそうに笑顔をみせて頬を染めた。アンナの着ているドレスは今夜のためにロバートが見立ててくれたのだそうだ。妻を褒められ、隣のロバートも少し照れている。二人のそんな様子が実に微笑ましかった。
仲が良いんだなと思って隣でみていると、アンナはプレゼントで貰った漫画について暫く語った後、何度もお礼を言ってははしゃいでいた。こんなに喜んで貰えると贈った方も贈り甲斐があるという物だ。
「ねぇ? Dr.シドウ? 今夜は王子様の取り合いになりそうな予感がするわ」
「え? 王子様」
突然出て来た「王子様」というワードに、椎堂がちょっと意味が分からないという風に首を傾げているとアンナはくすりと笑った。
「だって今夜のミオとシドウ先生、とってもクールなんだもの。王子様が来たってさっき友人達が大騒ぎしていたわ」
それを聞いた椎堂が「え!?」と驚く。真っ赤になって耳を掻きつつ、「玖珂くん、聞いてた?」と肩を竦めた。アンナは結構早口で、所々澪には聞きとれない部分がある事が多い。
しかし、本当は今回はだいたい聞き取れていたのだ。だけど、椎堂の恥ずかしがる反応が見たいので澪はあえて聞き取れなかった体を装った。
「ごめん、ちょっとよく聞き取れなかった」
「いや、えっと……、僕たちが王子様みたいにかっこいいとか、お友達と話してたなんて言うから……びっくりしちゃった……。社交辞令なんだろうけど」
「へぇ。……でも、今夜の椎堂先生はかっこいいって、俺も同意見かな」
しれっとそう言って口元を緩めると、椎堂は澪を少し睨んで澪の足を軽く踏んだ。さすがに面白がっている事がわかったらしい。
椎堂に言われてから気付いたが、確かにあちこちから視線を感じる。日本人が珍しいからなのだろうと最初は思っていたがどうやらそういう事ではないらしい。
アンナは暫く椎堂と話していたが主役は忙しいものである。遠くからロバートに呼ばれ、アンナは澪達に「楽しんで行ってね」と声をかけ軽やかな足取りで戻っていった。
彼女の後ろ姿を眺めながら澪は隣に並ぶ椎堂と二人きりになったのを確認して振り向き、わざと耳元で囁く。
「椎堂先生、顔赤いけど大丈夫?」
「……っ! ……アンナさんはともかく、澪まで変な事言うからだよ」
「変な事って?」
「…………そ、それは」
「ああ、……椎堂先生がカッコよくて、王子様みたいだって話?」
しらをきる澪に椎堂は小声で「澪? いい加減にしないと僕だって怒るよ?」と益々赤くなり、拗ねて怒った素振りを見せた。本当にからかい甲斐のある恋人である。ずっと二人きりならこのまま続けて怒らせてみたいが今はとりあえずその気持ちは封印しておくことにする。
「プレゼントさ、あんなに喜んで貰えて良かったな」
話題を変えるようにそういうと椎堂もホッとしたように息を吐き、向こうに見えるアンナをみて笑みを浮かべた。
「うん、本当だね。でも、ちらっと見たんだけど、あの漫画日本語だったよ? アンナさん読めるのかな?」
「さぁね」
アンナがもし読めなくても、ロバートなら翻訳できそうな気もする。それか、コレクションとして堪能し、絵柄を追っていくという楽しみ方も漫画なら出来そうである。
ひっきりなしに開閉していた来客を迎え入れる玄関のドアが漸く静かになり、皆が集まったのを見計らって、ロバートがスピーチを始めた。
硬い挨拶から始めた物の、隣に並ぶアンナに「そういうのはいいから」と文句を言われ、話もそこそこにロバートが冗談を飛ばしはじめる。アメリカンジョークというやつなのだろうが、これはいつまでたっても慣れずどこで笑えば良いのか実に難しい。
集まってくれたことに感謝を述べ、乾杯の後パーティーは始まった。
アンナが作ったと思われる見覚えのあるメニュー、ケータリングに頼んだピザやオードブル、中央にはドレスと揃いの真っ赤な薔薇が飾ってあり、誕生日ケーキが切り分けられていた。
室内はさすがにホテル会場のように広くはないので、開放された庭のほうへ飲み物は並べてあるようだ。ここまでの準備をするには相当な時間がかかったはずだ。下手をすれば昨日からもうすでに準備していた可能性もある。
一部の人間を除いて、日本での大人の誕生日などケーキでも食べて外食する程度が普通なのに、こういう所で習慣の違いに驚かされる。
みんなに挨拶してくるね、と言い残して椎堂が澪の側を離れたので、澪は部屋を一通り見て回ることにした。壁に飾られている写真はウェディングドレスを着ているところを見ると結婚式の時の物だろう。他にもロバートとアンナが二人で写っている写真が何枚も飾られている。中には日本好きの二人が旅行へ行ったのか、浅草の雷門前での記念撮影した物まであった。
写真を一通り見終えて庭に向かおうと足を向けた所で、澪は数人の女性グループに声をかけられた。アンナのハイスクール時代の友人だと言っているので歳は澪とほぼ同年代だろう。最初は三人程だったが、捕まっているうちに人数が増えて五人になった。澪は口々に話しかけてくる女性に苦笑いしてばれないように小さく溜め息をついた。
さすがに五人も集まられると引き連れて歩くわけにもいかなくなる。澪が諦めて側のテーブルへと着くと、女性達も澪を囲むように腰を下ろした。
一斉に話しかけられているので、はっきりいって半分も聞き取れていなかった。こういう時に助け船を出してくれる椎堂も側にいない。庭の方をチラリとみると、椎堂も数人の女性に囲まれていた。
アンナが先程言っていたのはこういう事になるという予想だったのかとやっとわかる。
口々に話す女性陣を前に、澪は笑みを浮かべると話が途切れるタイミングを待って口を開いた。
「ちょっといいかな。申し訳ないけど、俺は英語がまだあまり得意じゃないんだ。ごめんね」
澪がゆっくりとそう言うと、「大丈夫よ、ゆっくり話すわ。気にしないで」と返され、言葉の壁を思い知ると同時に押しの強さに感心する。遠回しに一人にして欲しいというニュアンスをこめて言ったつもりだった。日本ならば空気を読んでわかってもらえるはずだが、ここでは額面通りにしか受け取って貰えないようである。
これは暫くは彼女たちの相手をすることになりそうだ。澪は、興味津々な彼女たちの質問に答えつつ、グラスのドリンクを少しだけ飲んでテーブルへと置く。
彼女はいるのか、好きなタイプは、日本に戻る予定はあるのか、誕生日に年齢、しまいには身長まで聞かれ、澪は答えられる範囲で答えていく。まるで面接を受けさせられている気分だ。
しかし、ゆっくりとわかりやすい言葉で話しかけてくれる彼女たちの会話に次第に耳も慣れ、さほど考えずに言葉を返せるようになると会話はそれなりに弾んだ。
どうせ一人でいた所でする事もないのだから、これはこれで楽しむしか無いのかもしれない。
「ミオ、何か取ってくる? どれも美味しいお料理ばかりよ」
立食パーティー形式なので、好きな物を自分で取りに行くようになっている。澪は無意識に胃の辺りに手を当てた。
こっちの食事は見た目が派手で味が濃くこってりした物が好まれるので、今夜のメニューも多分に漏れずそういった物が並んでいる。
なので、どれも結構重そうであり、腹も減っていない事もあって手を出していなかったのだ。
食事に関しては何がきっかけでどうなるのかをまだ完全にコントロール出来ないので、やはり多少神経質になってしまう。
しかし、何も口にしないと言うのも不自然なので、澪は一度彼女達と一緒にビュッフェのあるテーブルへいき、中でも大丈夫そうないくつかのメニューを少しずつ皿に取り分けて元の場所へと戻った。
こうして落ち着かぬまま食事をして、食後に休憩する場所もないので不安がよぎる。祝いの席で具合が悪くなる事だけは避けたい。それに、見た目ではわからないが、今ここにいるのは医師か看護師が大半なのだ。そう思うと、病気の事を見抜かれそうでひやひやする。
そんな事を考えながら口にする食事は、やはりいつもと違って少し胸につかえた。
顔には出さないように気をつけながら何とか食べ終え、腹の辺りに残る違和感がこれ以上酷くならないように祈る。
気を紛らわすように先程椎堂がいる方へ目を向けると、椎堂の隣にはいつのまにかギャレットが並んでおり、共に数人の女性達と話していた。ギャレットがこのパーティーへ呼ばれている事は知っていたが、先程見渡した時には見当たらなかったのに……。
スキンシップのつもりで深い意味はないのかもしれないが、ギャレットが何度も椎堂の腰や肩に手を回すのを見てしまうとやはりいい気分はしない。澪は時計を見るふりをしてゆっくりと腰を上げた。
「友人に挨拶をしたいから、そろそろ失礼するよ。楽しい時間だった、有難う」
周りに笑みを浮かべて挨拶をし、何人かにせがまれて気もそぞろに連絡先の交換をする。その間も椎堂が気になってつい何度も見てしまう。漸く解放されて、庭の方へいる椎堂の所へ向かうと、澪に真っ先に気付いたのはギャレットだった。
白のカジュアルスーツに明るい群青色のカラーシャツ、いくら外人だからと言っても着こなせる人は少なそうな組み合わせである。しかし、ギャレットは完璧にそれを着こなしていた。
「クガ君じゃないか、こんばんは! 今君の話をしていた所だよ」
「どうも、こんばんは。俺の話、ですか?」
「うん、そうだよ。女性に囲まれてまるでハーレムだなってね。あんな可愛い子達に囲まれているのにクールに振る舞う君を、俺達も見習わないといけないって話してたんだ。本当に羨ましいよ」
ギャレットはゲイなのだから、羨ましいも何も女性なだけでアウトだろうに、よくそんな事がすらすらと言えるなと澪は少し呆れていた。
しかし、そんな事よりも椎堂だ。
さっきまでとどうも様子が違う気がする。こうして近くに来たのに椎堂は特に何も言わず、澪を一度見た後、不自然に視線を逸らした。
「ちょっと苦手な英語を教わっていただけなので」
ギャレットには無難にそう返して、椎堂の背中を気づかれないように軽く叩く。
「椎堂先生に用事があるので、ちょっといいですか?」
「ああ、勿論さ。おっと安心してくれ。二人の邪魔はしないよ」
ふざけてそんな事を言うギャレットに一緒にいた女性が笑う。冗談だととってくれているならそれに越したことはない。
「えっと、じゃあちょっと失礼するね。ギャレット先生またあとで」
「Ok!」
椎堂が澪の後ろを少し遅れてついていく。二人で少し人気のない庭の端によると、澪は空を見上げて一度長く息を吸って吐き出した。
至近距離で点滅するイルミネーションのランプを指先で弄りながら、澪が椎堂の顔を見ていると、椎堂は珍しく少し皮肉めいた言い方をしながら澪と視線を合わせた。
「向こうの女の子達の所には、もどらなくていいの?」
「気にしてたんだ?」
「それは……、その……。気にしてるって言うか、何て言うか」
椎堂がそういって俯き、柵に寄りかかってネクタイを指でつまみヒラヒラさせる。
「仕方ないだろ。こっちに来るタイミングがなかったんだから」
「……わかってるよ。だから別に怒ってるとかじゃないんだ……。みんなに挨拶して澪の所に戻ろうとしたら、もう澪は女の子達に囲まれてたから、僕が入る隙はないなって。澪、楽しそうだったし……」
やはりその事が不満だったらしい。自分も同じように女性達と話していたのに、その事はどう考えているのか……。
「楽しかったよ。半分は演技だけどな」
「え?」
「だってそうだろ? 呼ばれたパーティーで不機嫌な態度でいる程ガキじゃないけど、俺」
「そうだよね……。やだな、僕ちょっとヤキモチやいちゃったみたいだ。――ごめん」
椎堂はくるりと向き直ってイルミネーションに背を向け、誤魔化すようにちょっとだけ笑った。
「こういうの、自分は何ともないって思ってたんだけどな……。実際見ちゃうとダメだね……。あんなに綺麗で可愛い女の子が相手だと、僕に勝ち目はないなぁ、なんて……」
「当たり前だろ。誠二は男なんだから、女と同じ魅力があったら逆に怖いし」
「そ、それはそうだけど」
「比べるだけ無意味なんじゃない? そういうのとは違うだろ。俺はちゃんとわかってるけど」
「――澪」
「ついでだから俺も言わせて貰うけど、あんまりギャレット先生とベタベタすんなよな」
「えぇ? 僕は別にベタベタなんかしてないよ?」
「肩とか腰とか触られてるのみたけど」
「それは、こっちの人特有のスキンシップだから、別にギャレット先生だけじゃないし。それに彼は僕たちのこと知ってるんだよ?」
「わかってるよ。……俺のも、ただのヤキモチ。だけど……」
「うん?」
「あんまりギャレット先生には深入りしないほうがいい」
澪の中で、先日見たギャレットの様子が思い浮かぶ。ヤキモチで済まされない何かがありそうで不安だった。椎堂がちょっと困ったように澪に視線を向ける。
「……澪は、ギャレット先生が苦手なの? 優しくて親切な人だよ。僕凄くお世話になっているんだ」
「……今は別に、それでいいよ」
「どういう、意味?」
椎堂が不思議そうに澪の顔を覗き込む。――あの事を話してしまおうか。そう思ったが、これじゃぁまるで告げ口をしているみたいだし、はっきりと何があったのか知らずに主観で椎堂へ教えるのも憚られる。それに、自分でも気付いていた。
――あの事を話せばきっと、椎堂がギャレットに寄せている好意は多少なりとも崩れる。
そして、それを自分が望んでいる事を。
今はまだ何も起こっていないし、椎堂に対して恋愛感情があるのかも決まったわけではない。親切にして貰っているならその良好な関係を一時のくだらない嫉妬で崩したくは無かった。
「何でも無いよ」
澪がそう言って話題を終わらせると、椎堂も澪のヤキモチなのだと納得したようだった。
今夜は互いにヤキモチを妬いただけ。それだけの話だ。
「おや、Dr.シドウ? こんな所にいたんですね」
聞き慣れない声がかかり、二人して振り向くと初老の紳士が立っていた。澪は初めて会う人物だが、どうやら椎堂の上司のようで、椎堂が慌てて挨拶をしている。
「少し飲み過ぎたので、外の風にあたっていた所なんです」
「そうかそうか。楽しい場でのお酒はいつもより進んでしまう物だからね」
彼は穏やかな笑みを浮かべてそう言った。椎堂が隣にいた澪を紹介し、澪も軽く挨拶を交わす。ボランティアで研修中なのだと椎堂が澪の事を説明すると、「何かあったら力になるよ」と肩を叩かれた。有難うございますと澪も笑みを浮かべ、邪魔にならないように椎堂の後ろへ回る。
少しの間会話をしていたあと、挨拶をしたい人がいるといって椎堂は彼と一緒に部屋へ戻ることになったようだ。
「玖珂くん、ちょっと行ってくるね」
「ごゆっくり」
上司に連れられて歩き出す椎堂の背中を目で追う。
一人になった澪は、心地よい外の風に前髪をゆるく靡かせながら柵へと寄りかかった。
華やかな誕生日パーティー、こういう場所が苦手などといった事は全く無いが、久々だったせいもあり少し疲れている。
隣の自宅をフとみあげ、灯りの点いていない自分の部屋をじっとみつめる。越してきてから慌ただしく毎日が過ぎていて、感傷に浸ることなどないが。こうして自宅をみあげても、それが自分の住んでいる場所だと実感が湧かなかった。
日本から離れて遠い場所で全く知らない人達に囲まれて新しい道を進む自分。
一年前は、まだ歌舞伎町でホストをしていて、この先もずっと変わらない生活が続いていくと思っていた。
まさか自分が海外でこんな事をしているなんて夢にも思っていなかったからだ。同じ夜でも全く違う空の色を視界に映し、東京の街並みを思い浮かべる。
戻りたいとは思わないが、懐かしさを感じるのは確かだ。
そんな事を考えていた澪の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「……っ、……」
気のせいだと思う気持ちを否定するように、それは一度だけではなく何度も繰り返された。徐々に激しくなって身体を揺らすざわめく鼓動に短く息を吸うと、喉が締まってヒュッと音を立てた。澪は柵を手できつく掴んで、息苦しさを誤魔化すように咳を繰り返す。
――さっき無理に食事をしたからそのせい?
いつもすぐ治まるそれと何処か違うと薄々感じながらも、認めたくなかった。経験が無いわけでは無い。その先を知っているだけに、苦痛が蘇って焦燥感を高めた。胃の一部を残している場合でも同じ症状は出るが、全摘している澪は悪化する速度が他の患者より早い。
多分もう飴などで治まる症状ではないとわかっているが、気休めにでもなれば……、縋る思いで澪は深呼吸をしていつものように飴を取り出そうとポケットに手を入れる。しかし、ポケットの中は何も入っておらず指先には裏地が触れただけだった。
――……くそっ。
ここへ来る前に急遽着替えたので、その前に着ていた服から移し忘れていた事に気付き小さく舌打ちをする。息が上がってくる。頭が痛い。
焦る気持ちのせいで余計に脈は速くなり、額に浮かぶ冷や汗が、音もなくこめかみを伝う。
とにかく一度自宅へ戻って、いざという時の為に処方されているブドウ糖を摂取するしかなかった。
澪は何とか体勢を立て直すと、誰にも気付かれないように庭の端を通って建物の裏口へ向かう。やっと辿り着いて門をあけた所で、玄関側から外に出ていたギャレットにばったりと鉢合わせた。
どうやら煙草を吸うために外へ出て来ていたようで、ギャレットは煙草を咥えたまま澪を見ると驚いたように駆け寄ってくる。何でこのタイミングで……。一番会いたくない人間に見つかってしまうのか。
「クガ君!? どうしたんだい?」
痛む頭にギャレットの言葉が響き、澪は顔を顰めた。
「何処か具合が悪いのかい? 顔が真っ青だよ」
腕を掴まれ、診察するように手首で脈を計ろうとするギャレットの手を、澪は一度乱暴に払いのけた。態度も言葉も取り繕う余裕なんて残っていない。
「大丈夫だから、……ほっといてくれ」
「いや、それは医者として聞くわけにはいかないよ」
思いのほか食い下がってくるギャレットに閉口した所で、もう一度掴まれた腕を振りほどく力が出ない。それどころか、急激に嘔吐感がこみあげて、澪は小さく呻くと口元を手で覆った。
肩で浅い呼吸を繰り返し、咳き込む澪を興味深そうに眺めていたギャレットが考え込むように顎に手を当てる。
「君は……もしかして、持病があるのかい? ……それとも、重篤な病気の後遺症?」
そう言ったギャレットが掴んでいた腕を漸く放す。と同時に、顔からも心配そうにしていた表情がすっと消えた。
この前見た時と同じ、あの表情だ。多分心配なんてしていない。もっと違った別の感情でこの男は動いている。澪は咄嗟にそう思った。
ギャレットの質問に答える義理はない。澪はすっと顔を上げてきつい視線を送った。
「だったら、何だって、いうんだよ……」
「おっと!怒らないで欲しいな」
睨み付ける澪に大袈裟に怖がった素振りを見せ、ギャレットは肩を竦めた。「シドウは勿論君の病気を知っている。そうなんだね?」そう言って今度は悲しそうな表情を浮かべた。全てが演技にしか見えないギャレットが澪から離れ背筋を伸ばす。
苦しさに少し前屈みになっている澪を見下ろすと冷たい声で言い放った。
「君は酷い恋人だな。きっと、シドウを苦しめているよ? シドウは優しいからね。今の君を見たら彼は心配で胸を痛めるだろうね……可哀想に……」
そんな事は自分でもよく分かっていた。普通の恋人なら必要のない心配をさせている事も……。だからギャレットの言っていることは正しい。正しいから余計に腹が立った。何も知らない人間に言われたくない。
言い返す言葉を探すのも億劫で、澪が黙ったままでいると、ギャレットは今の状況に全く似つかわしくない笑みを浮かべた。
「俺なら、シドウを悲しませるような事はしないよ」
「……、……」
当たりたくもない予感が的中した。ギャレットは椎堂が好きなのだ。こんな状態でなければ売られた喧嘩を買ってやる所だが今はそれどころではない。ふらつく足を何とか進めて、ギャレットの横を無言で通って自宅へ急いだ。
澪の背中にギャレットが手を叩く音が絡みつく。急かすように続くそれに続いてギャレットが声をかけてくる。
「急いだ方が良いよ、クガ君。君の今の状態だと後五分も意識が持たないはずだ。でも安心して欲しい。シドウには僕から伝えておいてあげるから。もう一本煙草を吸ったら、ね」
――イカれてる。本当にこれで医者なのか?
ここまで頭がおかしい奴だとは思っていなかった。やはり先程もっと強く椎堂に「ギャレットには関わるな」と言っておくべきだったかと後悔がわく。
辿り着いた玄関の鍵穴が二重三重にぶれて見え、鍵穴に中々鍵を差し込めない。震える右手を左手で押さえ込んでなんとか鍵を開けると、倒れ込むように玄関に膝を突く。酷く気分が悪いので洗面所へ駆け込みたかったが、一度ついた膝を起こすことが出来なくなった。
薬が入れてある引き出しまであと少しだというのに……。
その距離は果てしなく遠く感じる。後五分、医者としてのギャレットの診断は恐ろしいくらいに正確だった。段々意識が遠のいていくのを身体で感じる事が出来る。
腕で支えていた身体から力が抜け目の前に床が迫る。そのまま頭を持ち上げることも出来ず目を閉じると、頭の中にギャレットの言葉が繰り返し再生された。
――君は酷い恋人だな。
――きっと、シドウを苦しめているよ?
「そんな事……、わかってんだよ……」
椎堂の後ろ姿がぼんやりと瞼の裏に浮かぶ。振り返った椎堂は泣きそうな顔をしていて、澪は言った。
「また、……泣いてる」
泣かせているのは――多分自分で……。
澪が床に倒れ込む音が、誰もいない真っ暗な部屋で響いた。