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 徐々に戻ってくる意識のせいで現実との境目が曖昧に混ざる。先に覚醒した聴覚が、秒針の音をとらえる。何度か瞬きをし目を開けると、澪が今寝ている場所は倒れた時のままだった。 
 
 あれから何分、いや何時間か経過したのか。薄暗い部屋の中では時間の感覚があやふやでわからない。 
 玄関先の天井、見慣れた壁紙には最初から飾ってあったどこかの知らない風景写真が白木の枠に入れて飾ってある。 
 しかし、徐々に目が慣れるにつれ違いがわかってきた。 
 
 視線を落とせば身体には上掛けがかかっていて、頭の下には柔らかなクッションが置かれている。そういえば倒れた時とは体勢も違っていた。 
 そして狭い玄関の向かい側の壁により掛かるようにして、椎堂が座り込んだまま目を閉じているのを発見した。 
 
「……ん」 
 
 短く息を吐きゆっくりと身体を起こすと、気分はあまり良くない物の、倒れる直前の体調の悪さはすっかり消えていて、澪は安堵の息を溢す。 
 
「――誠二」 
 
 手を伸ばして、Yシャツのまま眠っている椎堂の肩にそっと触れる。着替えることもしないままずっと側に付いていてくれたのだろうか……。うっすらと目を開けた椎堂が顔を上げて目を擦る。 
 
「……澪? ……あれ……、」 
「おはよう」 
「え……」 
 
 寝ぼけている椎堂に小さく苦笑すると、椎堂はハッと気付いたように姿勢を正した。 
 
「澪!? 気がついたんだね!?」 
 
 澪が伸ばした手を握って嬉しそうに胸に当て、椎堂はほっとしたように微笑んだ。近づいて顔を覗き込み、気分はどう? と小声で窺う。 
 
「もう平気……。有難う」 
「……良かった。……本当に、びっくりした……急にいなくなっちゃうし」 
 
 椎堂の長い睫が僅かに震えて伏せられる。安堵からうっすらと堪る涙がこぼれ落ちる前に、澪は指先でそれをすっと拭ってあやすように肩を撫でた。 
 
「自分で薬飲むつもりで戻ったんだけど、間に合わなくて……。誠二が介抱してくれて、助かった」 
 
 起きた時に気付いたが、口の中は残った錠剤の余韻で酷く甘くて、椎堂が処置をしたのだとすぐに分かった。低血糖で意識がない場合は誤嚥を防ぐために、錠剤は歯茎と唇の間に擦り込ませて適切な量の投与を行う。先日セミナーで習ったばかりで澪も知っている方法である。 
 
「……うん。本当は二階のベッドに寝かせてあげたかったんだけど、澪大きいから……、僕一人だと運べなくて……。こんな場所でごめんね。身体、痛くない?」 
「大丈夫」 
「後ね、ちょっと指先で血を採ったから絆創膏してあるけど。それ、後でもうとっていいから」 
 
 椎堂に言われるまで、指先のそれには全く気付かなかった。確かに少し血が滲んだ絆創膏が巻かれている。血を採ったからと椎堂は言うが、この場でそんな事が出来るのか。不思議に思って指先を眺めていると、椎堂がそれに気付いて口を開いた。 
 
「血糖測定器っていうのがあって、それで測るときに血液がちょっとだけ要るんだ。だから穿刺器具で指先からとったんだよ。投与する薬剤の量を調べたかったから」 
「そう、なんだ」 
 
 振り返って見ると、今まで澪が寝ていた頭上に、見慣れない器具がいくつか置かれていた。勿論自分が買った物ではないし、自宅にこんな器具が用意されているのも知らなかった。 
 
「うちに、こんな物あったんだ?」 
「あ、……うん。もしもの時のためにと思って……。僕が勝手に用意してたんだ。役に立って良かったよ」 
 
 そのおかげでこうして自宅で処置ができて、現在復調出来ているのだから、そこは感謝しかない。澪は器具の一つ一つに視線を向けた。 
 聴診器に手動の血圧計、椎堂が言っていた血糖測定器に血を採取する摂氏器具。他にも何に使ったのかわからないが幾つかの道具が置かれている。そのどれもが普通の家庭にはそうそうないものばかりだ。 
 
 もしもの時のために。『もしも』に備えて準備されたそれらは、澪の病気が常に椎堂の中で存在し続ける事を裏付けていた。普通に生活している日常で、忘れる事が一時もないという事。こんな玄関先で、倒れた恋人の横で深夜まで付き添って……。 
 それなのに、椎堂はひとつも嫌な顔は浮かべない。いつもの優しげな眼差しは寸分変わらず、目が覚めたことを自分の事のように喜び澪を見つめていた。その視線は嬉しくもあり、申し訳ない気分にもなる。 
 
――きっと、シドウを苦しめているよ? 
 
 自分が倒れているのを発見した時の椎堂の胸の内を想像すると、そこにはやはり不安と苦しさしかなくて……。ギャレットの言った言葉が重くのしかかる。ズキリと痛む頭に澪が咄嗟に手をやると、椎堂が心配そうに眉を寄せて澪の額に手を当てた。 
 
「少し微熱があるのかな……、頭痛い?」 
 
 澪は平気だというように軽く首を振って微笑み、椎堂の体を引き寄せ静かに腕を回した。 
 
「……澪?」 
「ごめんな……」 
「え、……なんで澪が謝るの……?」 
 
 澪はその問いに返事をせず、椎堂を抱き締めたまま目を閉じた。心配ばかりさせてしまう自分に嫌気がさすが、どんなに気をつけていても今回みたいな事が起きる可能性はこれからも確実にある。月曜からの抗癌剤の副作用だってどうなるかわからない。 
 再発したら、転移をしたら……、椎堂を残して死んでしまったら……。 
 
 普段は考えないようにしているそんな終わりのない恐怖に支配されそうになる。椎堂の幸せを心から願っているのに、その幸せを消し去るのもまた自分かも知れないという事。 
 抱き締めた椎堂の髪に指を滑りこませれば、軟らかな椎堂の髪の感触が伝わる。 
 
「澪、……どうかした?」 
 
 椎堂の声で澪は閉じていた睫をそっとあげた。薄暗い部屋の中でどこか違う世界に取り残されてしまったように感じる。 
 腕の中にある椎堂の体温、甘えるように澪の肩に頬を寄せる椎堂から優しい匂いがする。何故か急に――どうしようもなく悲しくなった。 
 
 胸が苦しいのは病気のせいなんかじゃなくて、自分ではどうにも出来ない悔しさと、流せない涙と。 
 
「どうもしないよ。……もうちょっとだけ、このままでいて」 
「……うん」 
 
 椎堂への愛しさが波のように押し寄せる。「どうもしないよ」なんて本当はただの嘘でしかない。だけど、椎堂の悲しげな顔を見るよりはずっとマシだ。そう思った。 
 口内の甘さが引いていく。代わりに残ったのは苦い気持ちと、消せない不安感だけだった。 
 
 
 
 
      *     *     * 
 
 
 
 
 休薬期間の最後の日曜。 
 
 当初の予定では椎堂と何処かへ出かけようと計画を立てていたというのに、それはあっさりと却下されてしまった。 
 土曜の夜にあんな事があったので、仕方がないとはいえ貴重な二週間の最終日がこんな事になってしまった事はやはり悔しい。「少しなら平気だから、買い物ぐらいは一緒に行く」と何度言っても、椎堂はいつになく頑固で聞き入れてくれず、出かけるどころかほとんど部屋に軟禁状態で。 
 
 結局買い物には椎堂が一人で行き。その材料で作った夕食は、澪が好きだと言っている物ばかりだった。いつもより数品多いおかずは、体調を気遣っての事なのだろう。 
 
 食べたいなと思った物だけ、大丈夫そうなら食べてみて。そう言った椎堂が一瞬見せた不安げな表情に身を削られる思いがした。それに気付いてもどうしようもなくて、黙って箸をのばす。 
 それ以上椎堂の表情をみる事が出来ず「美味しいよ」と返すのが精一杯だった。 
 全てにおいて慎重にならざるを得ない状況を作ってしまったのは自分なので、大人しくそれに従って食事を摂る以外ない。 
 
 十時になって早々と寝る準備を始めた椎堂と一緒にベッドへ入り、目を閉じる。 
 こんなに早く寝ることは普段ないので中々寝付けず、振り返って暗い部屋で椎堂の顔を眺めて過ごす。 
 いつもと違い、一切寝返りを打たない椎堂の体を抱き寄せて「もう……、寝た?」と小さく囁けば、椎堂は「……うん」と目を閉じたまま――返事をした。 
 
 互いに指を絡ませたまま……。結局寝付けたのは相当後になってからだった。 
 
 
 
 
 
 月曜の朝、いつもと同じく起床して食卓に着く。 
 
 相変わらず朝の番組が騒がしく部屋に響き、見慣れたコマーシャルが耳に残る音楽を鳴らす。この時間だと、多分向かいの家では玄関前の木々に水をやっていて、そこで飼っているゴールデンレトリバーが嬉しそうに主の周りを駆けている頃だろう。毎週月曜の変わらない朝。 
 なのに、家の中の空気はいつもと少し違っているように感じた。 
 沸騰して音を立てるケトル。キッチンにたつ椎堂の後ろ姿。表面的には変わっていないはずなのに。 
 
 澪はキッチンへ入り、グラスをとるとそのまま冷凍庫を開けた。昨夜早くに就寝してから水分を取っていないせいもあって喉がやけに渇いている。 
 しかし、何かが飲みたいと言うより冷たい物が食べたくなったのだ。かき氷でもあれば一番良いが、そんな物は常備していない。仕方がないので小さな氷を二つ口に入れて噛み砕き、グラスへも氷を継ぎ足す。 
 その様子を手を止めて見ていた椎堂と目が合って、澪は冷凍庫をしめながら椎堂へと振り向いた。 
 
「ん? なに?」 
 
 椎堂は何故か誤魔化すように笑みを浮かべ、すぐに視線を手元へ落とした。理由はわからないし、もしかしたら気のせいなのかも知れないが。 
 
「何だよ?」 
「……ううん。何でも無いよ。もうすぐごはんできるから待ってて」 
 
 何か言いたそうな椎堂が気になるが、さっぱり意味が分からない。朝からそんな冷たい物を食べると腹を壊すと注意したかったのかも知れない。それなら言ってくれれば良いのにと思う。 
 食卓へ戻り、澪がテレビを眺めながら体温を測ると、ずっと平熱を記録更新していた体温が今日でその記録の終わりを示していた。 
 
――37度2分 
 
 熱があるというほどに高くはないが、平熱というには少し高い。キッチンで朝食を用意する椎堂は今日はやけに時間がかかっている。こちらに気付いていないのを横目で確認して、澪は素早く体温計の電源を落とすと、いつもと同じ体温をノートへと書いた。 
 
――36度4分 
 
 書き終えた途端に声がかかりひやりとする。 
「澪、体温はどうだった?」 
 キッチンから声をかけてくる椎堂に悟られないように間を開けず返事をする。 
「いつもと一緒」 
「そっか、良かった。あ、そうそう」 
 椎堂が食卓へ朝食を運んできて並べ、澪の隣で立ち止まる。 
 
「今日は午後から現場実習だよね?」 
「……? その予定だけど?」 
「澪は平気だって言うと思うけど、今日はおやすみして」 
「……え? 何でだよ」 
 
 調子が悪い時も今まであったが、椎堂がこんな事を言ってきたのは初めてだった。そういう時には心配はしてくるが、注意をしつつも休めとまでは言わない。ただでさえ皆より少ない回数しか講義を受けていない澪が後れを取るのを嫌うのをよく知っているからだ。 
 
「実習先で具合が悪くなったら大変だから、ね」 
 
 微熱はあるが、ほとんど誤差の範囲であるし、そもそも微熱がある事を椎堂は知らないはずである。 
 
「昨日だって十分休んだし、気をつけて食事もするから大丈夫だって」 
「ダメ」 
 
 そういった椎堂が椅子に座る澪の前にしゃがんで澪を見上げる。 
 
「ねぇ、澪」 
「なに……」 
「気付いてる?」 
 
 体温のことがバレたのかと思ったが、続く言葉でそうではない事がわかる。 
 
「昨日から貧血の症状が酷くなってる。澪が気にするだろうから昨日は言わなかったけど……」 
「……、……」 
「……処方されてる貧血の薬を服用してて今の状態。飲んでなかったら……、意味はわかるでしょ? 普通の人なら平気かもだけど、澪はまだちょっとした原因で他の部分に影響が出るから。もっと自分の身体のことを優先的に考えなくちゃ」 
「…………」 
「それに、今日からまた抗癌剤を飲むよね。今の体調で服用を始めて、もしかしたらまた具合が悪くなるかも知れない。様子を見るためにも初日の今日は安静にしていて欲しいんだ。僕のお願い、聞いてくれるよね?」 
 
 いつも穏やかな椎堂だが、その顔は真剣でふざけている様子は一切無い。それだけ、心配していると言う事なのだろう。貧血の症状が出ているという事も、前からその傾向はあったので自分では気付いていなかった。だから昨日からあんなに徹底して身体を休めるように言ってきていたのだ。 
 
「……わかったよ。今日は家でゆっくりしておく」 
「うん、そうして。何かあったらすぐ電話するんだよ? 僕も昼休みに一度連絡入れるけど」 
 
 椎堂がやっと安心したように笑みを見せて腰を上げる。 
 
「今ね、スープとお粥を作っておいたから。大丈夫そうな時に食べて。無理に全部食べなくて良いから」 
「……ああ、……うん。有難う」 
 
 今日はやけに時間がかかっていると思ったが、澪の分の食事を作っていたのだ。それから共に朝食を食べる頃には、いつも通りの椎堂になっていて、時々くだらない事を言ってはおかしそうに笑って澪も笑みを浮かべた。 
 
 
 
 早めに出勤する椎堂を見送って一人になった後、スクールへ連絡を入れて今日は休むことを伝える。 
 電話を切った後何度目かの溜め息をつき、食後の薬と抗癌剤を飲む。 
 また一ヶ月はこれを飲み続けるのだ。小さなカプセルに入ったちっぽけな薬は、飲みこんだ後も下に落ちていかない気がして、何度も水を飲み下す。澪は食卓の前で暫く考え込んだ後、自室へと向かった。 
 
 手持ちのノートパソコンを開いてネットに繋ぐと、手術後の貧血の症状を検索してみる。 
 日本語で書かれたページを選んで片っ端から読み漁ってみると、椎堂が言うようにほぼ全ての症状が自分に現れているのを知った。 
 机の端に置いてある写真立てに自分の顔が写る。鏡でもないその硝子に映った顔でさえ蒼ざめているのわかる。澪は手を伸ばして写真立てを伏せると、口をきつく結んだ。 
 
 たまたま週末から調子が悪いだけで、すぐにまた前みたいに戻るはずだと思っていた。何種類もある薬だってかかしていないし、生活だって規則正しくしている。自分で気をつけられることは全てしているはずだ。 
 様々な安心要素を必死で手繰り寄せて強引に自分の気持ちを宥めてみるが、現実は何も変わらない。現に体調は悪化していて、中々治る気配を見せない。澪は検索の窓を全て消すとパソコンの電源を落とした。 
 こういうのは調べれば調べるほど全てを悪い方へあてはめてしまって自分を追い詰めるだけだと経験上分かっている。パソコンを脇へとよけて、気を紛らわすために参考書を手に取った。 
 
 今日の実習は休んだが、明日からの講義にはまた参加するつもりなので、今までやってきた事を復習する事にする。集中力はかなりあるほうなので、勉強をしだすと先程までの不安な気持ちも、その間だけは忘れることが出来た。 
 参考書を書き写し、講義でとったノートと照らし合わせる。間違っている箇所にマークを付け、忘れないように何度も書き直して、調べた場所には付箋を貼っていく。椎堂に選んで貰った参考書は使い込んでいるせいでかなり痛んでおり、表紙の鮮やかな緑が白くなってきている。 
 夢中でそんな事を繰り返していると、あっという間に時間は過ぎて気付くと十二時近くなっていた。 
 
 そういえば、洗濯物がたまっていたなと思い、昼食を食べる前にそれを片付けてしまう事にする。何かしていないとつい余計な事を考えてしまうから丁度良いと思った。 
 洗濯は二人暮らしではそんなに大量に溜まるわけでもないし、気付くといつのまにか椎堂が済ませているので澪はあまり洗濯をした事がない。 
 
 洗面所へ降りていき、衣類を洗濯機に全て入れ、洗剤を探すのにあちこちの棚を開ける。 
 漸く見つけた洗剤を適当に投げ込んで洗濯機のスイッチを押した。 
 二人分の洗濯物が回転しながら徐々に水に浸っていく。こうして回っている洗濯機を眺めていると一緒に住んでいるのだという実感が湧いてくる。椎堂も同じように感じているのかもしれない。 
 
 
 いつまでも見ていても仕方がないので後は洗濯機に任せ、澪はそのままキッチンへと向かった。 
 抗癌剤のせいなのか、胃の辺りが重苦しくて本当は食欲がない。しかし、忙しい中朝から自分の為に作っていってくれたのだから少し食べようと思い、鍋ごと冷蔵庫に入っていた粥を取り出した。 
 鍋蓋の上には、セロハンテープでメモが貼ってあって、澪はそれを剥がして手に取る。 
 
『味が薄い場合は棚にある粉末の出汁を足して下さい。足しすぎに注意! (※ぱらぱらぱらっと足す量です)』 
 
 澪の脳内で椎堂の声で読み上げられたそれに、思わず口元を緩める。 
 
 注意書きをするなら、小さじ一杯とか何グラムとかそういう単位で現す物だと思うが、椎堂は擬音で書いている。だいたい伝わったから別に良いが、薄味で構わないのでそれを実行することはなかった。 
 半分ほどを茶碗によそい電子レンジへいれて温めている間に、スープの方にも火をつける。 
 沸騰した所でカップへよそって、温まった粥と一緒に食卓へと運んだ。湯気の立つそれにスプーンをいれて澪は軽く溜め息をついた。 
 
 午前中はそんなに感じなかったが、倦怠感が強くて気を抜くと机に伏せてしまいそうだ。椎堂の言う事を聞いて休んで良かったのかも知れない。 
 
 
 粥の味付けもスープの塩加減も、普通に美味しいはずなのに食事は案の定進まなかった。最初から半分しかよそっていないにもかかわらず、完食できずに澪はスプーンをおいた。 
 少し休んで、また時間を置いて食べたくなるかもしれない。僅かな希望を持って、残りにはラップをかけて再び冷蔵庫へとしまう。 
 
 食器を洗っていると洗濯機が終了の音を鳴らしている。 
 片付け終わって出来上がったばっかりの洗濯を抱えると澪は一階の奥にある乾燥室へ移動した。こちらでは、ほとんどの家で洗濯物は中へ干すか、乾燥機を使うかの二択しかないのだ。 
 紐に吊されたハンガーに全ての洗濯物を丁寧に干していく。 
 
 干している時に気付いたが、何だかゴワゴワしていていつものしなやかさがない。そう言えば買い物の際に椎堂が柔軟剤を買っていたのを思いだしが今更どうしようもない。 
 下着類は二人とも似たような物が多いのだが、並べて干すと椎堂の物の方がサイズが小さくて不思議な気分である。 
 
 
 全てを干し終えて自室へ戻ると、澪はベッドに仰向けに転がった。 
 まだ昼を過ぎたばかりで椎堂が帰宅するまでにはかなり時間がある。普段の平日の休みには外へ出かけたりしているので、一日中こうして自宅で過ごすことは滅多にない。特にする事もないし、明日までには体調を戻したいのでひとまず身体を休める事に決めた。一度横になれば、無理をして起きていたと実感してしまう程に楽だった。 
 部屋着のまま布団の中へと入り、目を閉じる。特別眠いというわけではなかったが、目を閉じるとあっというまに眠りに落ちた。 
 
 
 胸が焼けるような不快感によって澪が目を覚ましたのは、それから一時間後。 
 心地よい眠りとは程遠く、暑くもないのに汗で濡れた首筋、そのくせに末端は冷えていて、汗を拭おうと体を起こすと酷い吐き気に襲われた。 
 
――……っ。 
 
 少しでも動けばその場で嘔吐してしまいそうで、慌てて前傾し動きを止めて耐える。 
 視線だけでどうにか出来る方法を探すが、ゴミ箱は遠いし、手の届く範囲で受けられるような袋もない。何度もこみあげてくるそれに喉を焼かれて生理的な涙が滲む。こんな所で吐くわけにはいかない。 
 ほんの束の間動けるようになったタイミングで、澪はベッドから飛びおりて洗面所へ向かおうと階段を駆け下りた。 
 
 雑にドアを開き、便器の蓋をあげて顔を向けると、ギリギリ間に合った吐瀉物が声も出せないまま喉をせり上がる。水分の多いそれは制御できないままバシャリと便器に勢いよく叩き付けられた。 
 
「……オェッ、は、ぁ、……ヴッ、」 
 
 吐き気に誘発されて濁った咳が止まらず、その合間にも何度も嘔吐する。 
 先程食べた粥やスープの残骸がほぼそのままの状態で体内から排出されて行く。折角騙し騙し食べたというのに、これでは全く意味が無い所か食べない方が良かったのではとさえ思う。 
 
 無残なそれを見たくなくて何度もレバーをひいて流し、澪は便器へと顔を伏せた。吐き出す度に腹の内側がひきつけを起こし、手術の跡が疼く。水を濁す吐いた物は明らかに食べた量より多く、しまいには朝に食べた物まで出て来ていた。 
 
 激しい嘔吐の波が小休止した所で、少し頭を動かせばすぐにそれは揺り戻されてしまう。 
 目前に迫る透明な水面に向かい、溢れる唾液を吐き出し、濡れた口元を手の甲で拭う。フと、これは抗癌剤の副作用なのではと考えた。だとしたら、初日でこれでは先が思いやられる。 
 
 えづくだけで何も吐き出せない状態まできてしまうと苦痛は増すばかりだった。 
 無いはずの胃の場所が冷たい手で鷲掴みにされているように痛んで、庇うように自身の手を添え何度もさする。 
 
「は、……ぁ、ッく、……ッエ、」 
 
 しつこく居座る吐き気があまりに苦しくて思わず指を喉奥へいれる。無理矢理刺激した衝撃で吐き出されるのは少量の苦い液体だけだった。 
 どうしたら吐き気が治まるのか、途方に暮れてじっとしていると暫くして完全にと言うわけではないが漸く吐き気は治まる気配を見せた。腹をさすりながら、疲れ切って洗面所の壁に背中を預け座り込む。走ってきたかのように早鐘を打つ心音を宥め、ハァハァと荒い呼吸を繰り返す。 
 
 全部吐いてしまったせいで喉が異常に渇いていた。 
 しかし、今すぐ何かを口にしてもすぐに戻してしまうだろうと思うと水分を摂る勇気が出ない。 
 ほんのさっき、眠る前まではここまで気分が悪くなかったのに……。 
 
 
 すぐに立ち上がる気力も無く洗面所に射し込む昼間の陽射しに目を細め、ぼんやりと窓から見える空を見続ける。飛行機が通った後に出来た真っ白な細長い雲が一直線に伸びていて、窓の端から端まで続いていた。そのまま暫く休んでいると、次第に落ち着いてきて体調は安定した。 
 
 澪はけだるい体を壁により掛からせたまま、一人の時で本当に良かった、と思っていた。 
 自身の傷跡に手を当て、嘔吐で疲弊した体力を回復させるように目を閉じてゆっくり呼吸を繰り返す。 
 
 
 こんな病気になる前、大人になってからは風邪すら滅多に引かない体だったのがこの有様だと思うと情けなくて思わず自嘲してしまう。 
 しかし、まだ小学校低学年くらいまではよく寝込んでいた事も同時に思い出していた。 
 
 子供ながらに、母親がそう簡単に仕事を休めないというのを理解していて、どんなに高熱が出ても隠す癖が付いていた。だけど、母親はそれをすぐに見抜き「どうして黙ってるの」と結局ばれて怒られるという結末。 
 具合が悪いのを隠していたくせに、それがばれて母や兄が優しく看病してくれると凄く嬉しくて、熱のせいにして素直に甘えることが出来た。ずっと熱が出ていれば良いのになんて思ったものだ。 
 
 それに、普段は虫歯になるからとあまり食べさせて貰えなかった甘いアイスを食べていいのもそういう日だけで……。 
 熱を出すと、玖珂が高校の帰りに一つだけ買ってきてくれる虹色の細かいゼリーが入ったバニラアイスが大好きだった。「兄ちゃんも食べなよ。すこしあげる」とスプーンでゼリーの場所を差し出すと、玖珂は決まって「これは澪のしんどいのを治す魔法だから、お前が全部食べていいよ」と言っていて、それを食べると本当に元気になった気がした。なので結構大きくなるまで本当に魔法のアイスクリームなのだと思っていた。
 魔法なんて言葉を信じていたとか、今思い返せば恥ずかしいし本当に子供だったなと思う。 
 
 
 少し前まではそんな事はなかったのに、椎堂と暮らすようになってから、時々こうして家族の記憶が蘇る。 
 暮らしに余裕が出来たせいなのか。それとも、椎堂に対して失った家族の温かみのようなものを重ねているのか、自分でもハッキリわからなかった。 
 
「……誠二」 
 
 小さく声に出して名を呼んだ所で、微かに携帯の着信音が鳴っているのに気付いた。 
 携帯は二階の自室に置いてある。 
 澪は壁に手を突いて立ち上がると何度か口をすすぎ洗面所を出た。 
 
 部屋に向かう途中で着信音は鳴り止んだが、休み時間に電話をするような事を言っていたので相手はきっと椎堂だろう。早く折り返し連絡を入れないとまた心配をかけてしまう。 
 自室に戻り机で着信を知らせるランプを点滅させている携帯を手に取ると、相手はやはり椎堂だった。履歴から折り返し電話をかけるとすぐに繋がった。 
 
「俺だけど、ごめん。ちょっと取れなくて」 
『ううん、もしかして起こしちゃった?』 
「いや、寝てないけど。なんで?」 
『ちょっと声が掠れてるから、寝起きかなって思って』 
 
 先ほどの嘔吐のせいで声が掠れているのかもしれない。澪は電話を離して何度か咳払いをして声を整える。 
 
「今、昼休み? 少し遅いな」 
『うん。午前中の仕事が長引いちゃってね。澪は、もうご飯食べた?』 
 
 澪は一瞬返事を躊躇って息をのんだ。折角作ってくれた椎堂に、食べたけど全部吐いてしまったとは言えない。 
 
「ああ、さっき……」 
『そっか。少しでも食べられたんだったら良かった』 
「うん……。誠二はこれから? 何食うの?」 
 
 早く話題を変えたくてそう言うと、椎堂は「えっと……」と何故か少し困ったような声を出した。椎堂が話す合間に背後で救急車のサイレンが聞こえる。外に出て話しているようで、強い風が吹くとザザッっという雑音が混ざって届いた。 
 
『……今日は今からギャレット先生に食事に誘われてるんだ。あの……、患者さんのことで話があって、食事しながらって事になってて……』 
 
 言いづらそうにしているのは、パーティーの時に話したことが原因だと予想が付く。 
 ギャレットと椎堂が食事に行くのは初めてではないが、椎堂に向ける感情が恋愛感情である事を知った今、本当は一緒に行かせたくない。 
 
 しかし、パーティーの夜のことを話さない限り引き留める理由が見つからないのも事実だった。 
 心配ではあるが椎堂に対しては「優しくて親切な同僚」として接しているようだし余計な真似は多分しないだろう。黙っている澪に椎堂が言葉を続けた。 
 
『もし澪が嫌だったら、話は別に食事以外でするから断るけど……』 
「……別に、断れって言うつもりないし、行ってくれば」 
『……いいの?』 
「ただの同僚と飯食うだけだろ。……それとも、行くなって言って欲しかった?」 
『ち、違うよ。ただ、澪が嫌がる事とかしたくないから、ちょっと聞いてみただけ』 
 
 黙っていたってバレる事はないのに、正直に話してくる椎堂は真面目な上に不器用だと思う。でも、その気持ちは素直に嬉しかったしそういう椎堂だからこそ安心できる。 
 
 そして、強く言えない理由の一つは、澪の中にある負い目だった。 
 あの晩ギャレットに言われたからではなく、以前から思っていた事だ。 
 自分がしてやれない事でも、ギャレットならしてやれる。同じ医師としての意見交換、美味しい物を食べに連れて行ったり、行った事の無い場所で楽しい時間を過ごしている間はきっと椎堂もストレス解消になるだろう。悔しいが、一時でも澪の病気の事を忘れさせるには自分以外の誰かが必要なのだ。 
 
「帰ったら、何食ったか聞かせて」 
『うん、わかった。ねぇ澪、体調はどう?』 
「……朝と変わらないよ」 
 
 嘘をつく澪に椎堂の訝しげな声がかかる。 
 
『ホントかな……? 澪、体調悪くてもあまり言ってくれないから……』 
「……、本当だって」 
『ちゃんと安静にしてないとダメだよ? なるべく早く帰るからね』 
「別にゆっくりでいいけど」 
『澪、酷いよ。僕は早く澪の顔が見たいのに……』 
「うそだって、……早く帰ってこいよ」 
『うん!』 
 
 じゃぁねと言って電話を切った後、そういえば椎堂と電話をするなんて久々だなと思う。一緒に住んでいるのだから当然毎日会っている。何か話があっても夜に話せば良いと思ってしまうので電話をする機会はほとんど無かった。 
 
 澪が机の上に携帯を戻そうとした瞬間、一通のメールが届いた。 
 相手は椎堂で、メールを開くと――澪と電話でお話しするのは久し振りで、緊張しました。後ね、今、猫が近くにいて写真を撮ったので送ります。――と書いてある。何故か分からないが椎堂からのメールはいつも丁寧語だ。そして、その内容通り猫の写真が添付されていた。 
 
 澪が前に猫が好きだと話したので撮って添付したのだろうが、ピントがあっていないため全面にフォーカスがかかった状態である。そういえば、椎堂は携帯で写真を撮るのが苦手なのだ。近寄りすぎていたり離れすぎていたりでうまく撮影できているのを見た事が無い。 
 
 猫を前に慎重に撮影をしたであろう椎堂の姿を思い浮かべると、ほんの少し気分の悪さが紛れた。 
 
 澪は携帯を持ったままベッドへ座り返信画面を開く。――写真見たよ。猫も可愛いけど、今度は誠二の自撮り送って。――送信ボタンを押して、携帯を枕元へと置いた。 
 また吐き気がしたら困るのでゴミ箱を側へ持ってきて、ベッドへ横になる。まだまだ日は落ちそうに無かった。