note12


 

 
 夕方になって帰宅した椎堂は、言葉通り本当に早い帰宅だった。 
 「おかえり」と声をかけ、玄関を開いてやると、椎堂は「ただいま」と言って照れたように澪に笑みを浮かべた。同棲していれば至極普通の光景である。 
 
 一緒に暮らし始めて随分経つのに、椎堂はこうして澪が先に自宅にいて迎えると少し恥じらうような素振りを見せる。 
 長年の間、帰宅しても誰もいない生活をしていたので慣れていないのはわかるが、その反応は何度見ても初々しい。 
 戻ってくるべき場所で待っていてくれる存在がいるのは当たり前のことではない。と、互いに分かっているからなのかも知れない。 
 
「随分早いな、まさか早退?」 
 
 冗談で軽く言ったのに、椎堂は「それは違う」とでもアピールするように首を振った。 
 
「ズルとかしてないよ? 今日じゃ無くていい仕事は、明日に回したから、早く帰れただけなんだ」 
「ズルって言葉……久々に聞いた」 
 
 玄関で屈んで靴を脱ぐ椎堂の上から腕を伸ばし、澪が鍵を閉めつつ苦笑する。 
 
「澪、起きてたんだね。寝てて良かったのに」 
 
 部屋へあがり食卓の椅子へと鞄を置きながら椎堂は澪へと振り返った。澪はだるさを誤魔化すように「そんなにずっと寝てられるかよ」と背中を向けて小さく笑う。 
 椎堂は、そのままキッチンで手を洗うと朝に作った粥とスープを確認している。椎堂が帰宅する一時間ほど前、若干体調が落ち着いていた頃スープだけ再度飲んだのでそんなに残っていないはずだ。 
 
 夜まで何も口にしないとなると、夕飯時にまた急に昼のような事態に陥るかもしれないと思ったからだ。しかし、結局粥はそのまま残っている。折角作ってくれたのに半分しか減っていない事に罪悪感を抱き、言われる前に言い訳の言葉を考えていると、キッチンの壁に寄りかかっていた澪に椎堂が嬉しそうに顔を向けた。 
 
「食べようって頑張ってくれたんだ?」 
「え……?」 
「僕の書いたメモ。読んでくれたって事は、冷蔵庫から出したって事でしょ」 
「ああ、うん……。ちょっと調子悪くて半分しか食えてないんだけど、その……、悪い」 
 
 澪がそう言って視線を落とすと、椎堂は「嫌だよ、澪」と言いながら真っ正面から突然抱きついてきた。 
 
「急に、なに?」 
 
 それを受け止めつつ真下から見上げる椎堂と目を合わせると、椎堂は寂しそうな表情を浮かべて、「謝ったりして欲しくないな……」と一言呟いた。 
 その後すぐに笑みを浮かべると、澪の腰に手を回したまま背伸びをし、頬へ恥ずかしそうに一瞬だけ触れるようなキスをした。柔らかな椎堂の唇が頬に触れた瞬間、小さな幸福感が胸の中に一粒転がった。 
 
「僕は喜んでるんだよ? 「食べてみようかな」って思ってくれただけで嬉しい。一切減っていなかったとしてもね」 
 
 気を遣っているわけでもなく、本当にそう思ってくれているのだろう。いつものように椎堂の髪にくしゃっと指を入れて撫でながら澪は小さく息を吐いた。 
 
「…………そういうもん?」 
「うん、そういうもん」 
 
 椎堂はにっこり笑い「さて!」と話題を終えるように呟くと、着替えてくると言って二階へあがっていく。その背中を見送った後、澪は居間のソファへ移動して深く背もたれへ腰掛け頭を預けた。 
 
 徐に腹に手を当て、溜め息をつく。 
 とりあえず、スープぐらいの軽い物なら吐かずに済みそうだが、食事の事を忘れようにも常に二日酔いのようなむかつきが居座っていて忘れることが出来ない。何かにつけて、こうして食事のことばかり考えてしまう自分にも疲れてきていた。何か美味しい物でも食べたい等と暢気に考えられる日々が失われたことは非常に辛い。 
 精神的な物もあるのかもしれないが、抗癌剤はクールを重ねる度に副作用が強くなる人もいると医者から聞いた。まだたったの三クール目なのにもうこんな状態が続くとか、冗談であって欲しいものである。 
 
 体調が悪いとどうも思考まで要らない方向へ向いてしまう。 
 澪は考えるのをやめて、テレビの電源を入れた。番組表などないので適当にチャンネルを回しているとブルースの音楽特集番組が放送中だった。そこでチャンネルを止めリモコンを脇のサイドテーブルへと置いて一息つく。 
 
 暫くして二階から下りてきた椎堂は、色々な用事を済ませながら、勝手に今日一日の事を話出した。 
 いつもそうなのだ。別に澪が聞かなくても椎堂は独り言のように話す。もう日課になっているからと言うのもあるが、そんな椎堂の話を何気なく聞くのが心地よかった。 
 【変わらない日常】という事が今一番安心できる事でもあり安らぐ時間でもある。 
 
 蛇口から流れる水道の音、何かを刻むリズミカルな音、それらに混じってキッチンにいる椎堂の声が届く。椎堂がそこにいるだけで、家の中がふんわりと温かくなる気がした。 
 
「それ、迷信だと思うけど」 
「えぇ? そんな事ないよ? 僕実験してみたし」 
「実験?」 
 
 相づちをうちながらテレビを観ていると、少し先にある大型スーパーが週末にセールを実施するというコマーシャルが流れた。一度だけ椎堂と行った事がある。あの時は、越してきたばかりで衣類の調達がメインだったが、最近になって色々と足りない物が出て来たので、近々もう一回行こうと先日話していたのだ。 
 
「えっとね。一つの植木鉢には毎朝『綺麗に咲いてね、頑張れ』って声をかけてて。もう一つには、ちょっと可哀想だけど……『今実験中だから頑張れって言ってあげれなくてごめんね』って謝ってたんだ。そしたら、綺麗に咲いてねって話しかけてた花の方が大きな花が咲いたんだよ?」 
 
 澪は椎堂の話を聞きながら、思わず小さく笑った。その実験が、最初から目的を果たしていないことに気付いていないようである。 
 
「それ、結局両方に話しかけてるけど、実験の意味成せてんの?」 
「……ぁ。うーん……確かにそう言われると……」 
 
 何かを刻んでいた音が一瞬止まる。 
 
「片方には一切話しかけない環境で比べないと意味ないだろ」 
「そう……だけど……、片方を完全に無視とか……、がっかりして枯れちゃうかもしれないよ? ……」 
「いや、でも……、そういう実験だし」 
「…………」 
 
 よくサボテンや花に声をかけると、ちゃんと伝わって綺麗な花が咲く等と言うけれど、澪は正直信じていなかった。だけど、椎堂のように心からの気持ちで声をかければ、もしかしたら……本当に通じたりするのかも? そこまで考えて、かなり自分も椎堂の影響を受けているなと気付く。 
 
 今まで過去にプライベートで交際してきた相手からは「澪って現実主義だよね」とよく言われる程冷めていたのだ。冷めていると言うよりは、あまり感情を表に出さないので余計にそう見られていたのかも知れない。自分でもそれはよく分かっていた。 
 ホストをしている時に、少々大袈裟にロマンチックなムードを演出しなくてはいけないので、その反動でプライベートではつい素っ気なくなってしまうのは仕方がない事だ。 
 
 だけど、そんな現実にはないだろうというような事柄でも、椎堂が口にすれば信じてもいい気がしてくる。それに、嬉しそうにしている椎堂が見たいというのもあった。 
 
「まぁ、両方咲いたんだから良かったんじゃないの。明日からは小さい方にも優しくしてやれば?」 
 
 そう声をかけると、椎堂は「そうだね、そうしてみる」と嬉しそうな声で返事をした。 
 
 
 話題の中心になるのはその日出会った患者の話、看護師の間で噂になっている事、今のように病院の庭で花の種を植えた話、昼食の話等など。椎堂の話の中に愚痴はひとつもない。 
 自分だったら何かしら不満や文句を言ってしまいそうだが、そういう部分は本当に椎堂の凄さに驚かされる。お人好しな性格だといっても、誰しも生活をしていたら職場や日常の愚痴は出てくる物だと思う。それはきっと椎堂も同じなはずで……。ただ、椎堂はそれを口にしないのだ。 
 
「それでね、昼に電話で言ったけど、昼食はギャレット先生とシーフードのお店に行ったんだ。海老とかお魚を焼いてくるやつを食べたよ」 
「……? バーベキューって事?」 
「そう! それ。今バーベキューって言いたかったんだけど、ド忘れしちゃって……。特製ソースにつけて食べるんだけど、それが凄く美味しくて何種類かあったから全部試してみたんだ。今日のお店なら、澪も体調が良くなったら行っても平気だと思う」 
「へぇ、じゃぁ、……今度な」 
「うん」 
 
 一通り準備を済ませたのか、椎堂は澪の隣に来ると並んで腰を下ろした。夕飯にするには時間がまだ早い。隣にいる澪の肩に寄りかかると、椎堂は置いている澪の手を悪戯に触ってフとその手を止めた。 
 
「あれ……。ねぇ、澪? 少し体温が高くない?」 
 
 朝に嘘の体温を書いた時よりは少し下がって、先ほど自分で測った時は37度1分だった。ほぼ平熱なのでわかるはずがないと思っていたが、思いのほか椎堂は鋭かった。普段の椎堂を見ているとつい医者である事を失念してしまう。対一般人ならまだしも、対医者に嘘を突き通すのは結構骨が折れる。 
 
「そんな事ないと思うけど。別に熱っぽくないし」 
「そう? ならいいけど……」 
「今水触ってきて、誠二の手が冷たいからだろ」 
「あぁ、そうかも」 
 
 澪は椎堂の手から自身の手をやんわりと離して肘掛けで頬杖をついた。これ以上体温があがると体温計を持って来られる事は予想が付く。 
 
「今日、ギャレット先生が澪の事すごく心配してくれてたよ。あの後大丈夫だったかって」 
 
 そういえば、ギャレットがどう椎堂に伝えたのかを聞いていない。自分から話題に出したくもない相手だが、椎堂の様子からすると、うまく本性を誤魔化したままなのだろう。 
 
「……そうなんだ」 
「うん、パーティーの夜、ギャレット先生が教えてくれたから僕も戻って来られたんだ」 
「何か、言ってた?」 
「え? うん。澪がいないから、知りませんか? って聞いたらね、煙草吸ってた時に澪が自宅へ帰って行くのを見たって。よくわからないけど少し様子が変だった気がするから何かあったのかもしれないって教えてくれて……」 
「……中々鋭いな」 
 
 思わず嫌味を含んだ言い方をしてしまったが、これでもかなり抑えている方だ。 
 
「ギャレット先生が教えてくれた時には丁度パーティーもお開きの時間が近かったんだよ」 
 
 澪が自宅へ戻ってきたのは、まだお開きになるような時間では無かったはずだ。気を失ってからかなり後に椎堂に知らせた事がわかる。 
 
「だから、アンナさん達に澪の分もご挨拶して少し早めに僕も帰ってきたんだ……。澪の病気の事は勿論言ってないよ? あの夜少し体調が悪かったって事にしといたけど……、それでいいよね?」 
「……ああ、うん。今度、俺からも礼を言ってたってギャレット先生に伝えておいて」 
 
 話を合わせながらも、あの夜のことを思い出すとただ不快な気分になるだけだった。あんな人間が医者だなんて、彼を主治医としている患者は大丈夫なのだろうかと余計な心配までしたくなってくる。 
 
「うん! 言っておくね。ねぇ、澪……。澪も、もっとちゃんと話すようになったらギャレット先生のこと苦手じゃなくなると思うよ? 色々相談にも乗ってくれるし、頼りになる人だから」 
 
 それはない。少なくとも自分に対しては。即座に否定したいのを堪えて、澪は自分を見て、まだギャレットの賛辞を口にしようとする椎堂の唇に人差し指をぎゅっと押しつけた。「え?」という顔で見返す椎堂に、少しだけ頬を緩める。 
 
「他の男の話は、もういいだろ」 
「あっ……、ごめん……そうだよね……」 
 
 椎堂に悪気がないのはわかっているので、別に腹を立てたわけではないが……。こんなにギャレットを信じ切っている椎堂がいつか彼の本性を知ってしまったら、どれほど傷つくのかと思うとやりきれない。 
 
「誠二」 
「……?」 
 
 椎堂の肩に触れてその先の腕を撫でる。ずっと辿っていって最後に椎堂の手に辿り着くと澪は手には触れずに自らの手を離した。 
 
「誠二のこと、鍵をかけて閉じ込められたらいいのに」 
「……澪、……急にどうしたの……?」 
 
 テレビから有名な曲が流れてくる。そんなに音楽に詳しくなくても日本にいた時にドラマで使われていたので知っている曲だ。画面に視線を移すと古い曲なのか、セピア色の映像の中で黒人がピアノを弾きながらセッションしていた。シンプルなコード進行で覚えやすく、少し哀愁の漂う曲調である。 
 澪は軽く目を伏せると、間を置いて言った。 
 
「誰かに傷つけられるのを……見たくないから」 
 
 言った側から、自分でも何でこんな事を口にしているのかわからなくなる。束縛をしたいわけじゃない。ただ、ギャレットの事を考えると不安定な感情を覚えてしまう。椎堂が少し困ったような声で返事をした。 
 
「そんな事、起きないよ。澪、……心配しすぎ」 
「……それだけ大切に思ってるって事。……今の俺には、その鍵を作る資格もないけど……」 
 
 何かを感じ取ったのか椎堂が澪の胸にそっと額を寄せる。澪の胸元のシャツを手で掴むと椎堂は小さく呟いた。 
 
「澪……、何かあった?」 
「……いや。別に……」 
「……そっか……。でも、澪がそんなに大切に思ってくれてるなんて嬉しい」 
 
 優しく微笑んで見上げる椎堂に触れれば、ずっとその手を放したくなくなる。澪はその視線から目をそらすとテレビの方へ向き直った。 
 
「それより、今日の夕飯何?」 
「え? ……ああ。今日は、おうどんにしようかなって思ってるけど、卵をとじたやつ。食べられそう?」 
「……うん。でもまだいいかな。さっき、スープ飲んだばっかだから」 
「じゃぁ、もうちょっと後にしようか」 
 
 うん、と返事をしようと頭を少し動かすと軽い目眩がし、澪はすっと眉を顰めて息を詰めた。じっとしていると目眩は数秒で治まり胸をなで下ろす。 
 
「それまで、ちょっと横になっていい? 膝かして」 
「え? いいけど……、僕の膝よりクッションの方が柔らかくて寝心地いいんじゃないかな……」 
「誠二の膝枕でいい」 
「そ、そう? じゃぁ、どうぞ」 
 
 脇によって、椎堂がぎこちなく膝の上から手を外して胸元で指を組む。そんな椎堂の膝に頭を乗せて仰向けに横になると、見下ろす椎堂と視線が合った。いつもと上下が逆の視線が新鮮だった。 
 
「何その手、お祈り?」 
 
 思わず笑ってしまいそう言うと椎堂の頬が赤くなった。 
 
「ち、違うよ……」 
 
 組んだ指を慌ててといた後、椎堂は自分の手を何処へ置こうかちょっとだけ迷った様子を見せて最終的には後ろへ回した。膝枕をしているからといって別に普通にしていればいいと思うのに椎堂は落ち着かない様子の上に謎の体勢である。 
 
「……普通にしてていいけど」 
「普通って? ……あ、その……、僕。膝枕するの初めてなんだ。えっと……する方が。あ、される方もだけど……」 
「マジで? ……もしかして、緊張してる?」 
 
 不自然な体勢の椎堂にそう言うと、椎堂は真っ赤になって「ちょっと」と小さく呟き、「なるべく動かないように頑張るから」と言い出した。膝枕は頑張るような物ではない。 
 澪は後ろに回している椎堂の手を引っ張って自分の頭の横へと置くと、俯く椎堂の鼻の頭を人差し指でトントンと軽く叩いた。 
 
「早く慣れろよ。またお願いするから」 
「うん」 
 
 はにかむ椎堂に、澪は苦笑してそう言うと横を向いて目を閉じた。 
 
 
 
 
 
 自分の膝で安心したように目を閉じている澪に視線を落とせば、襟足から首筋が見える。 
 椎堂は手をそっと伸ばして、澪の頭にふわりと触れた。 
 澪はよく自分の頭を撫でてくれるけれど、自分が澪にする事は滅多にない。 
 
 澪の髪の毛は少し冷たくて指が滑るほどになめらかだった。指先で髪を触っていると、いつも隠れている耳朶が見えて小さな穴が空いているのに気付く。 
 出会ってから澪がピアスをしているのを見た事はないけれど、前にしていたのだろうか。椎堂は澪の耳朶をちょこっとだけつついた。無意識に澪が頭を動かして、起こしてしまったかと思いドキリとしたが、起きたわけではないらしい。 
 
 時々そっと撫でながら上から見下ろす澪の横顔は何時間でも見ていられる気がする。 
 しかし、やはりまだ体調が戻らないのか、目を閉じているその横顔は顔色が良くない。 
 平気な素振りでいつもと同じように接してくれる澪が、どれくらいしんどいのかも想像でしか分からないのが歯痒かった。 
 
 
――ねぇ、澪。頭は痛くない? 吐き気はどう? どこか痛い場所は? お腹の調子はどう? 
 
――……どれくらい……、無理をして笑ってくれているの? 
 
 
 全てを聞きたいが、それが澪の負担になるのもわかっているので口には出来なかった。こうしてすぐに眠れるほど澪の身体が弱っていることにも気付いているけれど、何もしてあげられない。 
 朝に作っていった粥を食べきれなかった事を謝る澪が、一瞬見せた辛そうな顔を思い出せば、胸がちくりと痛む。 
 
 澪と同じ手術を受けたあと、ダンピングの繰り返しや抗癌剤の副作用が続き、疲弊しきって摂食障害になる患者も何人も見てきた。 
 彼らにとっては食事をするという事が何よりも苦痛で、生活の楽しみでもあるはずの『食』が恐怖でしかなくなってしまう事も知っている。だけど、やはり少しでも口から食べ物を摂取して栄養を補わないと人間は生きていけないのだ。 
 落ち着いた様子で眠っている澪の肩をそっとさすり椎堂は睫を伏せた。 
 
「澪、……しんどい時は、そう言ってくれていいんだよ……」 
 
 囁くように問いかけてもその返事は返ってこない。 
 椎堂はサイドテーブルへおいてあったリモコンを手に取るとテレビの音量を半分ほどに落とした。BGMのように静かに曲が鳴って、丁度子守歌代わりになりそうである。 
 
 
 
 眠る澪を見ながら、椎堂はパーティーの夜の事を思いだしていた。 
 
 
 
 あの日、澪と話していたら上司に声をかけられ、連れられて行った先で何人かの医師を紹介され、軽く話した後先程の場所へと戻ると澪の姿はもうそこにはなかった。 
 三十分以上経っているので、きっと、別の場所で誰かと話しているのだろうと、その時は深くは考えずにそう思っていたのだ。 
 
 喉が渇いたのでドリンクを取りに行き、スパークリングワインを手に取って少し落ち着かない気分で近場の椅子へと腰を下ろした。 
 もしかして、自分が余計な事を言ったせいで機嫌が悪くなったのかな、と。思い当たる節が無いわけではない。だからといって何処にも見当たらないことの理由にもならなくて、澪の姿が見えないだけでじわりと不安になる自身の気持ちにその依存度を知ってしまう。 
 
 何度も周囲を見渡していると背後から肩に手を置かれ、澪だと思って安心して振り向くと、後ろに立っていたのはギャレットだった。 
 落胆を隠すように咄嗟に笑みを浮かべる椎堂に、ギャレットが「隣いいかな?」と誰も座っていない椅子を指さした。 
 
「勿論、どうぞ」 
「そろそろパーティーもお開きの時間だね」 
 
 ギャレットにそう言われて改めて腕時計を見ると、あと十五分ほどで九時になる所だった。ホームパーティーの終わりは特に決められていないので、来客が自主的に区切りのいい時間にお暇するのがこちらでのルールなのだと事前に調べたので知っていた。 
 
「ホントですね。僕はこういう場は初めてだけど、素敵なパーティでした。アンナさんにもお礼を言ってから帰らなくちゃ」 
「うんうん、俺もそうするよ。今夜はシドウのプライベートの姿も見られたしね、とってもいい日だった」 
「ギャレット先生までそんな冗談を言って……。僕をからかってるんでしょう?」 
「まさか! シドウは酷いな。これは俺の本心だよ。今夜は結構アルコールが入っているからね、こういう日は人恋しくなるものさ」 
「だから、今夜はみんなを口説いてるんですか?」 
「ハハ、シドウも中々言ってくれるね。今夜はそういう事にしておこうかな」 
 
 冗談を言うギャレットに微笑み返し、椎堂はグラスを口に運ぶ。遠方からの来客はそろそろ帰り支度を始め玄関の辺りでロバート達と挨拶をしている。本当は、澪と一緒に挨拶をしてから帰ろうと思っていたが肝心の澪はやはり見当たらない。 
 トイレにでも行っていてそのうち戻るだろうと考えていたが、それにしては時間が遅すぎる。椎堂の中で徐々に心配が不安に変わってくる。 
 
「ギャレット先生、玖珂くんを見ませんでしたか? そろそろ僕も挨拶をして帰ろうと思うんだけど見つからなくて」 
「ん? クガ君なら少し前に玄関でみかけたよ? 俺が一服していた時だから、十分ぐらい前かな……。自宅へ戻る途中だったみたいだけど、少し様子がおかしかったな……。てっきりシドウには言ってあると思っていたんだけど。何も聞いてないのかい?」 
 
 ギャレットの言葉に頭の中が真っ白になる。――澪が先に帰宅した? この後急用が出来た等とは先程話した時にも一言も言っていなかったはずだ。日中ならまだしもこんな夜に何かあったのだろうか。心配そうな表情を浮かべて椎堂を見るギャレットに少し微笑むと、椎堂はゆっくりと腰を上げた。 
 
「そうですか、教えてくれて有難うございます。家に帰ったら彼に直接聞いてみますね。それじゃ、今夜は僕もそろそろ」 
「そうだね。俺もそろそろ帰ろうかな」 
 
 ギャレットも帰るというので、ロバート達の元へ行き一緒に挨拶をする。 
 
 
 
「今夜はとても楽しかったです。素晴らしいパーティーに招待してくれて有難うございました」 
「こちらこそ、共に楽しい時間が過ごせて素敵な夜だったよ。いい誕生会になった。有難う、シドウ」 
 
 ロバートとアンナに挨拶をした所で、アンナが辺りを見渡し不思議そうに首を傾げた。 
 
「ねぇ、シドウ。ミオはどこにいるのかしら」 
「ああ、……ちょっと急用が出来ちゃって先に帰ったみたいで……。挨拶出来ずに失礼して申し訳ない。彼の分も僕からお礼を言わせて貰うよ、有難う」 
「ううん、気にしないで。ミオにも伝えておいてくれるかしら? また是非一緒に遊びましょう、って」 
「勿論、言っておくよ。それじゃ、僕は帰ります」 
 
 二人に見送られて玄関を出る。タクシーで帰るというギャレットとはその場で別れ、椎堂は自宅へ足を向けた。 
 
 
 
 澪が先に戻っているはずの自宅にはひとつも灯りが点いていなかった。 
 椎堂は自宅前の芝生を少し足早に駆けだして玄関へと辿り着いた。 
 そっと玄関のドアノブに手をかけてみると、鍵があいたままになっている。やはりギャレットの言うとおり澪が先に帰宅しているのだ。椎堂は頭の中に浮かぶ嫌な予感を払うようにしてドアを思い切って開いた。 
 
「澪? ……二階にいるの?」 
 
 二階へ向けて声をかけながら、玄関の灯りを付けるように暗がりで指先を伸ばし靴を脱ぐ。カチッという音が鳴って灯った灯りが淡く周辺を照らす。その瞬間、椎堂は立ちすくんだまま玄関の鍵を床へと落とした。 
 幾つか連なっているキーケースから鈍色の鍵が飛び出て玄関の光を淡く反射する。 
 
「……澪?」 
 
 目の前で倒れている澪の姿を目にしても、頭が理解できずにいた。一歩ずつ近寄って、椎堂は澪の隣に放心したように座り込んだ。 
 
「澪、なに、……してるの? またそうやって僕を驚かせようとして……」 
 
 口にした語尾が震えている事にも気付かず、椎堂は澪の身体を揺さぶった。腹の上に置かれていた澪の腕が本人の意思とは無関係に床へとゴトリと落ちる。その音でやっと我に返った。事態が飲み込めないが、するべき事だけは驚く程冷静に頭に浮かんできた。 
 
 ジャケットを床に脱ぎ捨てて、椎堂はYシャツの腕を乱暴にまくった。澪の首筋に手を当てながら名前を呼ぶ。胸に耳を押し当て、一切の反応を示さない澪の意識レベルを確認すると、椎堂は急いで立ち上がって階段を駆け上った。 
 自室に置いてある聴診器や血糖値を図る機器がしまってあるセットを引き出しから取り出し澪の元へと急ぐ。 
 処置できる簡易的な医療器具をもしもの時のために揃えておいたのだ。 
 
「澪! しっかりして。僕の声が聞こえる?」 
 
 なるべく声をかけながら澪のYシャツのボタンを開き聴診器を当てる。聞こえてくる音に全神経を集中させ目を閉じる。研ぎ澄まされていく聴覚の中で、異質な音は聞こえなかった。 
 
 澪の手を握って指先を穿刺器具で刺し、ぷくりと浮かんできた血液に測定器をかざして血液を吸引させてすぐにでる結果を確認した。三十ギリギリまで下がった数値に慌てる気持ちを抑えて血圧を測る。出来る限りの診察をした結果、後期ダンピング症候群による低血糖での意識消失だとわかった。倒れてからどれくらいの時間が経過しているかわからないが、迅速に処置をしないと危険な事だけはわかる。 
 
 椎堂はもつれる足で居間にある飾り棚の引き出しから、澪の薬を探す。焦っているせいで指先が震えて引き出しの中の薬が幾つか袋ごと床へと落ちたが、それを拾う余裕も無かった。 
 漸くみつけた錠剤の袋を取り出し、適量を計算して澪の側へ戻った。 
 
 意識さえ有れば、口移しで水と一緒に飲ませられるが、今の状態で水を飲ませると誤嚥する可能性があるのでそれは出来ない。指先で何錠かを掴んで澪の唇の内側へと薬を入れて早く溶けるように指先でこすりつける。 
 
「――澪」 
 
 全部の錠剤を投与して暫く様子を見てみたが澪の意識は中々戻らなかった。十五分ほど待ってもう一度血糖値を測り、あがっていなかったら救急車を呼ぼう。そう決めて時計の針をじっとみつめる。永遠に続くかのように思えた十五分の間で、何度澪の名前を呼んだか分からない。 
 
 秒針が十二の数字に重なった瞬間、椎堂はもう一度血糖値を測った。飴やジュースより吸収の早い錠剤なのでその効き目はもう現れているはずである。恐る恐る数値を見ると先程より十上がっていた。このまま順調に上がってくれれば……。 
 椎堂は緊張で乾ききった喉に唾を飲みこみ、床に強ばった両手を突いて息を吐いた。いつのまにか流れていた汗がこめかみを伝ってポタリと床へ落ちる。 
 
 三十を下回った状態が続くと、脳に障害が起きることもあるし、昏睡状態のまま死に至るケースもあるのだ。 
 ギャレットが見かけたというのが二十分ほど前だとすると、澪が倒れたのはその後。自分が処置するまでにかかった時間が十分。計算してみてもそんなに時間が経っていないはずなのに、澪の意識が戻らないことが椎堂の不安を掻き立てた。 
 
 フと硬い床へそのまま寝かせているという事に気付いたが、どうにか抱えられたとしても二階へ運ぶのは自分の力だけでは不可能だ。せめて、痛くないようにしてあげないと……。 
 
 椎堂は立ち上がって、二階へ向かい寝具とクッションを手にして戻ると澪を抱きかかえて枕を差し込み上掛けを掛けてやった。ぐったりとした澪の重みが腕にかかった瞬間、入院していた時に澪が病院を抜け出したあの夜の事がフラッシュバックした。 
 
 吐血が止まらない澪を腕に抱きかかえて救急車を待っていた時、震えが止まらなくなって生きた心地がしないほどの恐怖に押し潰されそうだった。 
 自分の無力さに嘆く事も出来ず、携帯で救急車を呼んだのは自分だが今でもどうやって救急隊員と会話をしたのかさえ思い出せない。 
 
 気持ちを落ち着かせるように何度も深く息を吸って、椎堂は不安感を振り払うようにぎゅっと澪の手を握った。今はあの時とは違う。適切な処置もしたし、もう心配は無いはずだから……。 
 言い聞かせながら冷たい澪の手に縋る。 
 
「澪……、起きて。……一人に、しないで……」 
 
 音のない部屋に自分の声が響く。思わず声にした言葉は、自分が思っていたより弱々しくて驚いて口を噤んだ。 
 意識を失うまでの間、どれだけ苦しかったか、どれだけ不安だったか、誰にも告げずに薬を取りに戻ったであろう澪に気付いてあげられなかった自分に後悔しかない……。 
 
 もっとしっかりしなくてはと思い、浮かんでくる涙を堪えて椎堂はもう一度澪の名を呼び、その唇に自身の唇をそっと重ねた。澪の唇は、薬剤の甘い味がした。 
 
 それから三十分後、最後に測った血糖値は通常より低いくらいまであがっていて、澪の顔にもうっすらと赤みが戻ってきていた。張り詰めていた糸が安心で緩み、椎堂は澪の向かい側に背を預けたまま目を閉じた。酔いはとうに覚めているが、パーティーでそれなりにアルコールを飲んだので今頃になって少しフラフラする。 
 その後、暫くして澪の声で起こされ、自分がうとうととしていた事に初めて気付いた。 
 
 
 
 
 
 膝の上で眠る澪は穏やかな寝顔で眠っている。付けっぱなしにしていたテレビに視線を移すと、先程の音楽番組はいつのまにか終わっていてニュース番組になっていた。 
 見知らぬ場所で起きている殺人事件、隣の州であった交通事故、その後ウェザーニュースになって明日の天気が読み上げられた。 
 
 動く気配がして、膝を見ると澪が目を覚ましていた。眠る前より少しだけ顔色が良くなった気がする。前髪をかきあげながら澪が口を開く。 
 
「膝、痛くなかった?」 
 
 椎堂が「全然平気だよ」と言って微笑むと、椎堂の頬を撫でて澪も笑みを浮かべた。 
 
「なんか、久々に気持ちよく眠れたかも」 
「そう? 良かった……また、いつでもしてあげるから」 
「ああ、期待しとく」 
 
 身体を起こした後、澪はまだ少し眠そうに額に手を当てている。 
 
「そろそろ、夕飯にする?」 
「そうだな……。俺も手伝うよ」 
「澪はいいよ。後はおうどん茹でるだけだし、ゆっくりしてて」 
「寝たら少し元気になったし、平気だって」 
「うーん。じゃぁ、わかった。こっちきて」 
「ん?」 
 
 椎堂がソファから腰を上げて、澪の手を掴む。澪を引っ張ってキッチンに入ると、踏み台を持ってきた椎堂が「どうぞ」と澪を座らせた。 
 
「僕が夕飯作りをさぼらないように、澪は現場監督役ね」 
「俺、見てるだけなの?」 
「そう、見てるだけ」 
 
 低い踏み台は澪が腰掛けるにはとても小さい。澪は苦笑して窮屈そうに足を投げ出すと後ろの食器棚へと寄りかかった。 
 
「さぼってたら後で罰ゲームな」 
 
 冗談を言う澪に、椎堂は「厳しい監督だね」と言って笑った。 
 
 
 沸騰したつゆの中にかきいれられた卵がフワフワと羽衣のように浮かびあがる。その横の鍋では、少しでも消化に負担がかからないように、椎堂がお湯の中で茹でたうどんを箸で短く切っていた。 
 揃いの器にそれを移して、卵入りのつゆをかけ、最後に細かく刻んで茹でた小松菜を散らす。 
 
 出来上がったうどんから立ち上る湯気が眼鏡を曇らせると、椎堂は慌てて顔の前を手で扇いだ。 
 
「危ないから俺が運ぶよ」 
「う、うん。お願い」 
 
 食卓に並べられた今夜のメニューは優しい色合いで、見ているとどことなく、椎堂を想像させた。