note14


 

 
 
 部屋にあがるとキッチンの換気扇が回っていて、夕飯の良い匂いが漂っていた。 
 時間が遅いので澪が先に用意してくれていたらしい。椎堂はキッチンへ入り、ことことと煮込まれているその鍋の蓋をあけて澪へと振り向いた。 
 
「美味しそうだね、澪が作ってくれたの?」 
「ああ、夕方から時間あったし」 
 
 澪が作ったというそれは、野菜やベーコンをコンソメで煮たポトフのようなものだった。本人が、それを作るつもりで作ったのか、ただ色々入れて煮込んだらポトフになったのかはわからないが、自分が食べられそうな物を作ったのだろうという事は想像できる。ワゴンの上の炊飯器は保温になっていて、ご飯も炊けているのがわかった。 
 
「今日いつもより遅いよな。仕事?」 
「そうだよ。ちょっとやることが多くて残って片付けてたんだ」 
 
 クロエと会っていたとは言えないので、そう答えたが、元々澪は深く追求してくる性格ではない。特に疑っているという事もなくそのまま食卓の椅子へと戻っていった。 
 
 
 いつものように自室で着替えを済ませ下りていくと、澪は携帯を弄っていた。詳しくは知らないが色を合わせるパズルのようなゲームをしているのを何度か見た事がある。携帯でゲームをするその姿は、よくみる若者そのもので。澪が、自分より五つも歳が下である事を急に思い出させた。早くに社会に出ていたせいか、他の同年代より落ち着いて見える澪ではあるが、こんな時はやはり年相応に見える。 
 
「澪」 
「――ん?」 
「今日は、どうだった?」 
「何が?」 
「色々。スクールで何かあったとか。お昼に何を食べたかとか。……体調はどうだったのかとか」 
 
 試すような思いで、椎堂は返事のわかっている質問をした。携帯を弄っていた澪が、少し面倒くさそうに顔を上げ「何でそんな事聞くの?」と椎堂をじっと見つめた。その双眸には少し構えるような色が見え隠れする。 
 いつもと違った質問に、澪も違和感を抱いたのだろう。 
 
「澪の事、色々知りたいなって思って」 
 
 澪と視線を合わせたままそう言うと、澪は小さく溜め息をついて「いつも通り」と一言だけ言って視線を流した。 
 望んだ答えはやはり得られなかった。何かを言おうとして薄く唇を開く椎堂は、結局何も言わないまま口を閉じる。その様子を見ていた澪は、そのまま携帯を置いて立ち上がり、キッチンへと入っていった。 
 
 澪の方からたち切った話題はそれ以上続くこともなく、澪は夕飯の準備を始めだす。第一弾のきっかけを失敗して椎堂は少し肩を落とした。 
 今日は戻ったらちゃんと話してみようと思っていたのに、切り出し方がわからない。 
 
 箸と取り皿を棚から取り出して、カウンターへと乗せる澪を横目でみて、――食事が終わったら話そう。と心に決める。澪が食卓へ置いていった携帯が、音もなくその点灯をすっと落とす。食卓を簡単に片付けて雑誌などを隅に寄せると、椎堂は澪の携帯をその上にポンと重ねた。 
 
 
 切り取られたオープンカウンターの天井は、上が収納になっているので少し低い。 
「もう、飯食うだろ?」と、声をかける澪の姿は、肩の辺りまでしか椎堂からは見えなかった。 
 
「うん」 
 
 カウンターに次々と置かれる食器を受け取って食卓へ順番に並べ、澪が作ったポトフと、炊飯器からよそわれたご飯、昨夜作りすぎてしまって残ったマカロニサラダを並べる。椎堂の分が渡され、そのまま澪の茶碗を待っていると、澪は手ぶらで食卓へと戻ってきた。 
 
「あれ? 澪、ご飯は少しも食べないの?」 
「俺は……、おかずだけでいい」 
「そっか……」 
 
 席へ着いて向かい側のテーブルを見るとスープ皿と、コップに半分くらい注がれた水だけが置かれている。皿の中にあるポトフの量も、本当に少ししかよそっておらず、ご飯もない。無理に食べるのは良くないにしても、どうみても澪の食事量は成人男性の必要最低限を満たす物ではなかった。――昨夜は、少しだけど、ご飯も食べていたのに……。 
 
 クロエの話では、昼もまともに食べていないようだし、少し口に出来ても嘔吐してしまうようだと、もうほとんど食事をしていないのと変わらない。普通の健康体であっても、そんな日が何日も続けば栄養状態の著しい低下で体力が持たないのは当然なのだから、澪はもういつ倒れてもおかしくない状態なのだ……。 
 そう思うと、澪がご飯を作ってくれた事も。目の前で平然としている姿も、今自分が見ている澪は、本当の澪ではないのではないかとさえ思ってしまう。 
 
「誠二?」 
 
 澪が向かいから窺うように声をかけ、椎堂は澪の食事に向けていた視線を外して笑みを向けた。 
 
「あ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしちゃった。……えっと、いただきます」 
「……? うん、いただきます」 
 
 透き通るコンソメスープに沈む具材はどれもよく染みているようで、半透明になった大きめのタマネギを口に入れれば、野菜の甘さが優しく広がる。熱々のそれらはよく冷ましてから口にしないと火傷しそうである。 
 
 澪はあまり料理が得意ではないと自分では言っているけれど、今まで食べてきた物で美味しくない物はなかった。 
 高校を卒業してからホストになるまでの間、クラブでボーイをしていたと前に言っていたことがある。その時に、ちょっとだけ軽食の調理場もやっていたと聞いたのはいつの事だったか……。 
 
 大きく切られたジャガイモは箸で挟むとほろほろと崩れるほどに煮込まれていて、椎堂は崩れたそれをスープと一緒にすくって口に運んだ。 
 
「美味しく出来てるね。味もよく染みてるし、体がポカポカしてくるよ」 
「そう?」 
「うん。……あ、前から聞こうと思ってたんだけど。澪って本当は何が得意料理なの?」 
 
 食べながら椎堂がそう聞くと、澪は一瞬考えるように頬杖をつき、逆の手で自身の下唇に人差し指を置いてスッと一度撫でた。澪が何かを考えたりしている時によくみせるその仕草は、妙に色気があって、見てしまうとその度にドキドキしてしまう。 
 
「なんだろうな? 特にないと思うけど」 
「そうなの?」 
「まぁ……。得意って言っていいかわからないけど、作った回数で言えば、クリームシチューかな」 
「え? ……クリームシチュー? こっちに越してから、澪が作った事あったっけ?」 
「ないんじゃない」 
「澪、変なの。得意なら、普通それまっ先に作るよね」 
 
 澪の返事がおかしくて思わず笑ってしまう。澪の得意料理がクリームシチューなのも初めて聞いた。 
 
「今聞かれるまで、忘れてたんだよ。今度作る」 
「うん! でも、なんでクリームシチューが得意なの? 秘密のレシピでも知ってるとか?」 
「いや……、」 
 
 澪は何かを思い出したのか、食事中の箸をふと止め、懐かしむように小さく呟いた。 
 
「ガキの頃好きで、……作り方を教わったんだ。初めて作った料理だった」 
 優しい表情でそう告げる澪に、椎堂は思わず目を細めた。 
「そうなんだね……。お母さんに教わったの?」 
 椎堂がそう返すと、澪は照れ隠しのように「多分な」とぶっきらぼうに返し、また食事を再開した。 
 
「じゃぁ、お袋の味ってやつだね」 
「……クリームシチューなんて、誰が作っても一緒だろ」 
 
 口ではそう言いながらも、澪にとっては思い入れのある料理なのだろう。澪が母親のことに触れた話をするのは初めてだった。そんな思い出の得意料理を忘れている所が、澪らしいと言えばそうなるけれど……。 
 普段見せない澪の照れている姿が珍しくて、椎堂がふっと笑みをこぼすと、澪は少し不機嫌そうにむすっとして椎堂へと話を切り替えてきた。 
 
「誠二はどうなんだよ? 得意料理はなんなの?」 
「僕は……。何だろう。うーん……、猫ご飯かな」 
「は……?」 
「えっ?」 
 
 澪が「何それ」とでも言うように唖然としている。何かおかしな事を言ったわけではないと思うのに……。 
 
「猫ご飯って、人間の食い物?」 
「えぇ!?」 
 
 澪のその発言は椎堂を驚かせた。皆が知っている普通の物だという認識があったが、どうやら間違っているらしい。椎堂が猫ご飯について説明すると、澪は「……食べた事ないな」と苦笑した。澪と一緒で、子供の頃好きでよく食べていたもので、炊きたてのご飯に醤油と鰹節をかけて、マーガリンを乗せて混ぜるだけが基本。それにアレンジを加える料理である。 
 ただ、栄養素的には問題がありそうなので、ここで作った事は無かった。 
 
「それ、美味いの?」 
「うん、凄く美味しいんだよ? でも澪が知らないとか……ビックリだよ」 
「知らない人多いと思うけど……。で、何でそれが得意なの?」 
「えっとね、大学一年の頃、一人暮らしでお金が無くて厳しい時期があったんだ。バイトはしてたけど足りなくて……。そんな時に、猫ご飯だとおかずは要らないし、美味しいし簡単で、食費はかからないし重宝したんだよね。でも、ずっと同じじゃ飽きるでしょ? だから、バリエーションを色々考えて日々試してたら……」 
「……試してたら?」 
「いつのまにか何種類も作れるようになっちゃったんだよ。もう僕、猫ご飯博士に近いと思う!」 
 
 猫ご飯という料理自体の認知度が低いのに、博士も何もない気がする……。澪は突然そんな事を言ってくる椎堂に思わず小さく吹き出した。 
 
「……博士って……。でも、それ、料理って言えんのかよ」 
「何言ってるの!? 猫ご飯はアレンジ次第で無限大の可能性がある立派な料理だよ?」 
「へぇ……。まぁ、誠二がそこまで力説するならそうなんじゃない」 
「あ! 澪、疑ってる? 今度僕が作って証明するから、期待してて」 
 
 澪は小さな声で「醤油と鰹節かけるだけなのに」と言って再び苦笑いを浮かべる。確かに反論できないほど簡単な物なので、椎堂も自分で言っていておかしくなって一緒に笑った。 
 
 こうして、何気ない話をして互いにひとつずつ相手の事を知っていく。それはとても幸せな事で、澪が自然に見せる笑顔を見ていると、一瞬、澪が病気である事は夢で、これが現実なのではないかと錯覚しそうになる。 
 しかし、実際引き戻ってみれば、残酷にもすぐ間近で、目をそらすことを許さない程の現実が静かに此方を見ていた。 
 
 最初から椎堂の半分にも満たない量の澪の食事は、それでも進んでおらず、躊躇うように延ばした箸は口元へ辿り着くのに相当な時間がかかっている。 
 先に食べ終えて焦らせないように、椎堂もペースを落として食事を続け、その間に澪の様子を窺っていた。 
 
 途中途中少量の水で無理に流し込むようにして澪がやっと食べ終えた頃には、椎堂の残っているポトフもすっかり冷たくなっていた。澪は食事が終わると、明らかにホッとしたように小さな溜め息をついている。 
 冷めたスープの残りを一気に食べ終え、椎堂は何も気付いていないフリで「ご馳走様」と手を合わせて立ち上がった。 
 
「後片付けは僕がするから、澪は少し休んでて」 
「俺も手伝うよ」 
 腰を上げかけた澪をそっと制止させ椎堂は首を振った。 
「ううん、いいから。食器洗うだけだし、ね。すぐ終わるよ」 
「じゃぁ……任せる」 
 再び腰を下ろした澪に微笑み、空いた皿を重ねて運び、シンクで食器を洗う。 
 
 
 二組しかない食器はすぐに洗い終えた。乾燥機などの便利な家電は揃えていないので、食器は布巾で拭いてしまう事になっている。カウンター越しに食卓で雑誌を広げる澪に視線を向けると、澪が俯いたまま腹をさすっているのが見えた。その顔からは先程までの笑みはすっかり消え、耐えるように目を瞑っている。 
 
 たったあれだけの量の食事を消化できないとなると、抗癌剤の副作用だけでなく消化管の狭窄があるのかもしれない。頻繁に嘔吐があることにより益々消化機能が低下し、食欲は無くなる一方で悪循環そのものである。 
 澪の処方されている消化器系の薬を思い浮かべて、椎堂は考え込むように手を止めた。もし自分が今も主治医で処方するとしても同じ薬を出すだろうから、経口での投薬だけではこれが多分今の限界に近い……。 
 
 片付けを済ませ、キッチンから椎堂が顔を出すと、澪は何事も無かったかのように雑誌を読んでいた。 
――澪……。 
 椎堂は食卓で雑誌を読んでいる澪の隣の椅子に静かに腰を下ろした。 
 
「ねぇ、澪」 
 
 声をかけると、雑誌に視線を落としたまま澪が「んー?」と返事をする。 
 
「食後の薬、もう飲んだ?」 
「うん、今飲んだけど」 
 
 水の入ったグラスと薬の空がまだ食卓へと置かれたままになっていた。 
 七種類の錠剤と粉薬。その中には抗癌剤も含まれている。ある症状を抑えるために飲む薬が、他の臓器には悪影響を与える事はよくある話で、その最たる代表が抗癌剤である。癌細胞を殺す代わりに、必要な細胞にも攻撃を加えて殺してしまう。出来れば飲まないに越したことはない薬だ。 
 少し痩せた澪の横顔に、椎堂は思いきって話を切り出した。 
 
「……澪に、話があるんだ。いいかな?」 
 
 改まって自分を見つめる椎堂に先程までとは違う空気を感じ、澪は雑誌を閉じて、隣に座る椎堂へと顔を向けた。 
 
「話って?」 
「……うん。あのね」 
 
 言い出さない椎堂の顔をみて澪が訝しげに首を傾げる。自分でも顔が強ばっているのがわかった。 
 
「あの……。澪が、僕に本当の事を言ってくれないのは、何でなのかなって……」 
「――え?」 
「僕が心配するから、気を遣って言わないようにしてくれてるのはわかってるよ? 澪は優しいから、そうしてくれているんだよね……。でも、わかってるけど、僕には教えて欲しいんだ……」 
 
 澪の視線がためらうように揺れて机の上の一点で止まる。 
 
「何のこと」 
「澪の、身体のこと」 
「……別に、特別に言うような事は無いし。ここ最近、ちょっと調子悪いけど、そんなの改めて言わなくてもいつもの事だろ。今更……、何だよ」 
「ちょっと? そうかな……。僕には、そうは見えないよ。本当は今、こうして普通にしているだけでも相当無理してるんじゃない?」 
「そんな事、ないって」 
 
 澪は即座に否定して少し苛立ったように卓上に置いた手を握りしめた。 
 
「僕は医者だけど、見ただけで全てがわかるわけじゃないんだ。ちゃんと教えてくれないと、澪の事、何も気付いてあげられないんだよ? 何処か痛くても、気持ち悪くても、澪が我慢して平気な顔をしてたらわからないままだよ」 
「だから……っ、何もないって。言ってるだろ」 
 
 明らかな嘘を見抜かれていることを澪自身も多分わかっている。だけど、探られるのが嫌で否定の言葉を口にするしか出来ないのだろう。椎堂は困ったような、そしてそれ以上に悲しげな表情を浮かべ澪を真っ直ぐに見つめた。目を見たまま心配そうに口を開く。 
 
「お腹は痛くない? 頭痛は? ……吐き気はどれくらいあるの? ちゃんと、眠れてる? 抗癌剤を飲んでから、体調の変化はあった? 口内炎は……治ったの?」 
「……っ、……」 
「目眩はどうかな? 体重の増減は? 寝ている時に動悸があったり、起きた時に、寝汗を掻いたりとかはない?」 
 
 椎堂がゆっくりと質問を羅列すると、澪は辛そうに眉根を寄せて自身の目を片手で覆って口を閉ざした。 
 こんなに詳細に聞かれたらどんな人間だって煩わしくて苛立つだろう。わかっていて椎堂はあえて質問を投げかけたのだ。 
 
「急に、どういうつもり……」 
「澪、今、僕の事面倒臭いって思ったでしょ? でも、……僕は、そう思われても良いから知りたい。澪が心配なんだ」 
 
 澪は黙ったまま、否定の言葉を口にすることも無かった。 
静まりかえった部屋の中で、澪が二、三度咳をする。重い空気が充溢し、覚悟を決めて話出したはずの心が窒息しそうになる。幾ら喘いでみても無駄なばかりか、一分一秒ごとにその重さは増していった。 
 
 そんな時間に耐える中、澪は浅く息を吐き、抑え気味に低い声で呟く。 
 
「……言って、どうなんの」 
「どういう、意味?」 
「俺が……、いちいち、吐きそうとか、目眩がするとか、頭が痛いとか……、誠二に教えたとして。誠二が俺の事、余計に心配する他に、何かいい事でもあんの」 
「……澪、……」 
「会話の全部が、そういう話になるんだぞ。その意味、わかってんのかよ……」 
「で、でも、知らないと僕は澪に何もしてあげられない。一緒にいて澪が辛い時でも、僕は見ているだけしかしちゃいけないの?」 
「…………」 
 
 お互いの言い分はそれぞれ平行線で、どこかで相手に寄らなければ交わることはない。感情的にならないように話しているつもりでも、いつのまにか『どうして自分の気持ちを分かってくれないんだろう』とその思いが先行してしまう。相手の気持ちが痛いほど分かるから、互いに折れることもできない。 
 
 本当に言いたいことはこんな事じゃ無いはずなのに……。椎堂が一度深呼吸をして気持ちを宥めていると、澪は伏せていた顔を上げた。 
 視線を合わせないまま、はっきりした口調で口を開く澪の声は、椎堂ではない誰かへ投げかけられているようでもあった。 
 
「俺は絶対に嫌だ……。そんな恋人なら、いないほうがマシだろ。――普通じゃない。何も……、してくれなくていいよ。俺は、……そんな事、望んでない」 
 
 ちゃんと話し合えるつもりでいたのに、澪の強い口調に怯んでしまう。椎堂は貼り付く喉に一度唾を飲みこんだ。 
 
「澪、それは違うよ。どうして、そんな悲しい事言うの? いない方がマシだなんて思うわけない。澪が体調が悪くて仮に無理が出来なくても、僕は傍にいられるだけで、」 
「それがもう! 普通じゃないって、……言ってんだよ」 
「……澪?」 
 
 澪が悔しげに奥歯を噛んで、拳をきつく握りしめる。 
 
「俺が先週倒れた時、誠二も、よくわかっただろ……。常に俺の身体のこと心配して、毎日体調を窺って……。たった一回あぁなっただけで、いつもの日常が簡単に崩れるって事。……この一週間どんな気持ちで過ごしてた? 俺がまた倒れたらどうしようって、怯えて過ごしてた。そうなんじゃないの?」 
「それ、は……、でも! 僕は澪が心配で、だからっ、」 
 
 椎堂の言葉を遮って澪は声を荒らげた。 
 
「嫌なんだよ。……俺の事で、誠二にそんな思いばかりさせんのが……。一緒にいる時ぐらいは誠二の笑った顔を見ていたい。せめて、二人でいる時だけは普通の恋人でいたいって、それぐらい思ったっていいいだろ!」 
 
――澪……、……。 
 
 滅多に声を荒らげたりしない澪の低い声が空気を震わせ、辿り着けない答えを隠していく。澪の気持ちを考えればそれが痛いほどに伝わってきて、椎堂の胸の中を引き裂いた。 
 
「澪、……普通って、……何なのかな? ……」 
 
 椎堂が横に居る澪の方へ振り向いて切なげに睫を伏せ、唇をやっと開く。 
 
「……僕はね。澪と付き合ってから、普通に恋人として過ごしているつもりだよ? 大切な人が具合が悪かったら心配するのだって、当然の事でしょ? 普通にしてくれないのは、……澪の方だよ……。不安な気持ちとか、辛い気持ちとか、そういうの無理して、全部我慢して一人で背負ってる。普通の恋人でいたいって言うなら、そういうのも分かち合って手を差し伸べあうものだよね。違う? 澪、僕に言ってくれたよね? 逃げてたら何も変わらないって……。今の澪は、逃げてないって言える? 病気からじゃ無くて、僕に対して。真っ直ぐ向き合えてるって言えるのかな?」 
「……、……」 
 
 暫く黙っていた澪の手が机の縁を咄嗟に強く掴むのが伏せている視界を掠め、椎堂はすぐに顔を上げた。 
 澪はぐらりと揺れる身体をその手で支え、苦しげに眉を顰めると咳き込んで「はぁッ」と短く浅い息を繰り返した。 
 
「澪!?」 
 
 真っ青になっている澪に驚き、慌てて手を伸ばし支えようとすると、その手は澪によって強く払いのけられた。手がぶつかるパシッと言う音が響き、澪が小さく呟く。 
 
「……平気だから、ほっといて……」 
 
 一瞬触れたその体温に明らかな熱を感じて、椎堂は澪を呆然と見つめる。いつから……。椎堂の中で、帰宅した時、さりげなく手を引いて、触れさせないようにしていた澪の行動が思い出された。もうあの時……。 
――最初から……? 
 心臓がぎゅっと痛くなった。 
 
「澪……? 今、……熱が……あるの……?」 
「……、……」 
 
 澪は否定しない代わりに、目眩を逃がすように何度も震えた息を吐いた。体調が悪いことはわかっていたのだから、こんな話を今するべきではなかった……。苦しげに息をついて尚も隠そうとする澪を見て、自分勝手な行動を悔いてみても、もうどうにもならなくて……。 
 
「澪、お願い。測って僕に見せて」 
 
 受け取ろうとしない体温計をやや強引に押しつけると、澪は諦めたように無言で体温計を手に取り口に咥えた。すぐに音が鳴り、澪は体温計をはずすと椎堂の目の前に乱暴に置いた。 
 カタンという大きな音がして、コロコロと何度か転がった体温計に椎堂が恐る恐る手を伸ばす。デジタルの数字は38度を越えていた。朝は熱は無かったはずなのに、夜になってからの熱発? それとも……。 
 椎堂は体温計を握りしめて、そのまま唇を噛みしめた。 
 
 澪が疲れ切ったように吐き捨てる声を聞いて――息が止まる。 
 
「――朝と、変わらないよ」 
「どういう……、……事……?」 
 
 椎堂は毎朝見慣れている体温を記載したノートを引き寄せた。 
 ページをめくる指先が震えてノートがぱたぱたと音を立てる。――36度5分。今朝の欄には、確かにそう書いてあった。澪が嘘の体温を記載していた。その事実がわかって、声が出なかった。 
 
 ノートに書いてある文字が、徐々に涙で滲んでぼやける。椎堂は必死でそれを堪えた。 
 澪は、何とか治まった目眩を振り払い身体を立て直すと、冷笑する。 
 
「それ、嘘だから」 
「…………」 
「月曜から、ずっと微熱が続いてる。今が最高に高いみたいだけどな」 
「……、……っどうして、……どう……てそんな、嘘……」 
「――俺も最初は、月曜だけ誤魔化すつもりだった。一日だけのつもりで書いたけど、火曜日も、……水曜日も、今日も。結局下がらなかった。昨日からはずっと8度近くある……。抗癌剤を飲み始めてから、ほとんど飯も食えてないし、昼にも何度も吐いてる。今だって、…………すげぇしんどいよ」 
「……み、お」 
 
 震える声で自分の名前を呼ぶ椎堂を見て、澪はゆっくりと立ち上がった。 
 顔を上げられない椎堂を一度だけ振り向いて見た後、静かに階段へ向かう。一段目に足をかける前に、澪は手摺りにつかまり、背を向けたまま感情の籠もらない声で呟いた。 
 
 
「これで、満足しただろ……。今日は、別々に寝よう……おやすみ」 
 
――待って!……。 
 
 
 階段を上がっていく澪を引き留めたいのに、身体が動かなかった。そんな言葉が聞きたかったわけでは無い。冷たく言い放たれた澪の声で、自分が澪を追い詰めてしまった事を痛感する。 
 
――じゃぁ、どうすれば良かったんだろう。 
 
 今まで通り、気付かないふりをして……。澪が倒れるのをただ見ていれば良かったのか。そんなわけがあるはずはないと椎堂は黙って首を振った。一人残された食卓で、ただ時間が過ぎていく。傍にいて欲しいと願ってくれていた澪に、もう必要ないと言われたようで自分が存在している意味がわからなくなった。 
 だけど、今どんなに苦しくても、澪は比べものにならないほどの苦しさの中にいるのだと思うと泣く事さえ傲慢な気がした。 
 
 椎堂は眼鏡を外すと、机についた両手で顔を覆う。ただただ心配で、無理をして欲しくなくて、傍にいたくて、それだけなのに、どんな言葉を並べても伝えられない。 
 
 何もする気になれなかった。 
 独りでいた時よりずっと強い孤独感に苛まれ、全身に鳥肌が立つ。椎堂は自分を抱くように腕を回して目を閉じた。 
 まだシャワーも浴びていないし、明日の準備もしていない。 
 明日は先日の検査の結果が分かる日で、澪は朝早くから検診に出かける。だから、夜のうちに明日の朝食を作ろうと思っていたのだ。 
 
 こんなに近くにいたのに、澪が熱がある事にも気付いてあげられなかった。 
 昨日の夜寝る時に、澪が「掛け布団一枚に二人で寝るのは寝づらいから」と言って、もう一組の別の掛け布団を持ってきて寝ていたのも、今思い返せば熱があるのを自分に気付かせないためだったのだろう。 
 
 もう、指一本動かす気力さえどこかへ行ってしまって、椅子から立つことも出来なかった。 
 眼鏡を外しているので、視界がぼやけている。見える範囲は酷く狭くて、少し遠くに視線を移せばそこには曖昧な世界が広がっていた。 
 
 
 
 暫く呆然としている間に、時計の針は何度もぐるぐると回り、気付くと澪が二階へ上がってしまってから一時間が経っていた。椎堂は、何とか腰を上げ重い足を引きずってキッチンへ向かう。 
 とりあえずやることを済ませる間だけは忘れよう……。そう決めて冷蔵庫から食材を出す。 
 澪が少しでも口に出来るように、最近はなるべく好きな物だけで作るようにしている朝食。タマネギを刻んでいるわけでもないのに、涙が溢れてきて止まらなくなる。頬を伝うそれは次々とまな板に落ちてくる。それを無視して、椎堂は調理を続けた。 
 
 出来上がった朝食を温められる状態にして冷蔵庫に入れ、使った調理器具を無心で片付ける。 
 一階を回って戸締まりをし、最後に思い立って冷凍庫から氷枕を取り出した。熱があるから、頭を冷やした方が少しでも気持ちよく眠れるだろう。浴室から洗い立てのタオルを取り出してそれに巻いて二階へと上がった。 
 
 澪の部屋の前で足を止めてみたが、中からは物音一つしなかった。 
 もう休んでいるのかも知れないが、ドアからはまだ細く明かりが漏れている。そのドアをあける勇気が無くて、椎堂は小さくノックしてドア越しに声をかけた。 
 
「澪、大丈夫? ……熱があるから、氷枕を持ってきたんだ。ここに置いておくから使って……。後、朝も熱があったら僕が病院まで車で送っていくから、ちゃんと教えてね……」 
 
 返事はやはり返ってこなかったが、耳を澄ますと少しだけ人の動く気配を感じた。 
 ドアの横にそっと氷枕を置いて、向かい側の自室へ戻る。 
 
 
 ベッドに腰掛けて何度も同じ事を考えていると、混乱して段々頭が痛くなってくる。精神的な物だから問題は無いが、一カ所こうして不調があるだけでも不快だった。 
 抗癌剤の副作用だから命に別状はないとわかっていても、本人にとっての苦しさは病気のそれと何一つ変わらない。だからこそ近くにいる人間の介抱が必要なのだ。 
 ぐったりとベッドにそのまま転がると、澪の部屋のドアが開かれる音がして、椎堂は息を呑んだ。 
 
 すぐに階段を下りていったのでシャワーを浴びに行ったのだろう。熱があるのにシャワーを浴びるのは心配だが今は注意してもきっと聞いてくれない……。 
 椎堂はベッドから起き上がると、澪があがってくるまで自室のドアをあけ、何かあったら気付けるように様子を窺う事にした。ドアにもたれかかっていると、二十分ほどしてバスルームが開く音がしてひとまず安心する。気付かれぬようにまたドアを閉めると、澪が戻ってくる足音が聞こえ、それっきり物音は一切しなくなった。 
 
 椎堂が着替えを手にし、自室のドアをあけてみると澪の部屋はもう明かりが消されていて、ドアの横には、先程置いたままの氷枕が放置されていた。 
 片付けようかとも思ったが、後でもしかして受け取ってくれるかも知れないと思い直し、そのままにしておくことにする。 
 
 シャワールームはまだ湯気が残っていて、シャンプーの甘い香りがする。簡単にシャワーを済ませ、濡れた髪のまま椎堂は部屋へと戻った。襟足から水滴がぽたりと落ちて椎堂の首筋を伝う。 
 タオルでそれを拭きながらも思い浮かべることは澪の事ばかりだった。 
 
 「濡れたままでいたら風邪引くだろ」そう言って、子供にするようにタオルで髪をくしゃくしゃと拭いてくれる澪の声がまるで幻聴のように聞こえてくる。 
 一緒に寝ている時も、寝返りを打って肩を出す自分に気付くと、そっと上掛けを掛け直してくれて……。背中から抱き締めるようにして腕を回してくる澪の中で眠るのがとても幸せだった。 
 温かくて安心できて、自分だけの物だと思えたから。 
 
 耳元で悪戯に囁く澪の声も、頬を撫でてくれる大きな手も、言葉は少なくても、澪が優しい笑顔を向けてくれるだけで苦しいくらいに愛しくて、こんなに誰かを好きになったのははじめてだった。 
 椎堂はベッドへ横になって目を閉じる。 
 
 一緒に寝るようにしたのは最近なのに、隣に澪がいない事が今はこんなに寂しい。どうやって一人で寝ていたんだっけ……。ぽっかりと空いている隣に手を置いて冷たいシーツを掴む。 
 
「……澪」 
 
 暗い部屋でいくら目を閉じていても全く眠くならなかった。 
 
 
 
 
 
 金曜日の朝、目覚ましが鳴る音で椎堂は目を覚ました。 
 最後に時計を見たのが明け方の五時前だったので、それから眠っていたらしい。いつもは目覚ましが鳴る前に自然に目が覚めて音を聞くことも無く止めるが、今朝は何度その音を聞いたかわからない。 
 七時を指す時計を見ながら、椎堂は重い身体を起こした。完全な寝不足と精神的疲労が色濃く体に残ったままである。 
 
 着替えを済ませ、出勤用の鞄を持って部屋のドアを開けると、昨夜置いたままの氷枕はそのままの場所にあった。ぬるくなったそれを手に取ってみると、溶けた水滴を吸ってタオルが湿っている。 
 
「澪、起きてる?」 
 
 声をかけてみたが中から返事はない。もしかして具合が悪くて起きられないのではないかと思うと心音が不安に跳ね上がる。昨夜躊躇ったのが嘘のように手が自然に伸びて、ドアをそっとあけた。 
 
「澪?」 
 
 思いきって広く開けたドアから見える部屋にはもう澪の姿はなかった。ベッドは綺麗に整えられていて、澪がいつも持っていく鞄も見当たらない。 
 急いで一階へ下りてみても、やはり澪の姿はなく、玄関を見ると靴も無い。椎堂は玄関に立ったまま愕然とした。 
 
――こんな早くに……。 
 
 今朝は八時半の予約だから早く出るとは前から言っていたが、この時間に家を出ることはないはずだ。顔を合わせたくないから、こんなに早くに家を出たのは間違いないだろう。鞄から携帯を取りだして、何度か電話をかけてみたが、その電話は人為的に切られ、澪が電話に出ることは無かった。 
 
 椎堂は俯いたまま携帯を鞄へとしまい、手にした氷枕を冷凍庫へ戻し、冷蔵庫を開く。 
 淡い光が灯る庫内の一番下、昨夜澪のために作っておいた朝食も、そのまま残っていた。 
 
 椎堂はそっと冷蔵庫を閉じて、インスタントのコーヒーを淹れる。自分も今朝は朝食を食べる気になれない。一言も喋らないまま、マグカップを食卓へ持っていく。一人の自宅は、怖いくらいに静寂に包まれていた。 
 
 ふと、もう澪は帰ってこないのではないかと不吉なことを考えてしまう。 
 このまま澪がいなくなったら、この家で一人で暮らすのかな……。一度も今まで考えたことがなかった事まで浮かんでくる。椎堂は自分で淹れたコーヒーの入ったマグカップを両手で包むようにして溜め息をついた。熱は下がったのか、病院まで一人で行けたのか……。何一つ知る術がない。 
 
――ノート……。 
 
 テーブルに置いてある澪の体温を記載しているノートが視界に入る。 
 それを手に取って開いてみると、今日の日付の所は空欄になっていた……。 
 
「澪……、澪の声が聞きたいよ……」 
 
 月曜からの嘘の体温を書いていた澪の気持ちを考えると、鼻の奥がツンとなる。椎堂は側に置いてある鞄から再び携帯と名刺入れを取り出した。 
 どうしようかと逡巡した後、目的の名刺を探し出してテーブルへと置いた。見慣れた名前の下には本人が記載したプライベートの番号が書いてある。 
 椎堂は思いきってその番号に電話をかけ、携帯を耳に押し当てた。 
 二回のコール音で相手が電話口へと出てくれた。 
 
「あ、椎堂です。おはようございます。こんな朝早くに、すみません……。……はい。――いえ、そういう訳じゃないんですけど。ちょっとお願いしたいことがあって……」 
 
 電話の相手は椎堂の疲れ切った声に驚いたように返事をした。