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 それから三時間後、微睡みから抜け出すようにゆっくり瞼をあけると、無機質な病室の天井が視界を埋めた。 
 
「……、ん」 
 
 手をついて身体を起こし、澪がまず気付いたのは、高木の言っていたとおり背中が少し痛むこと。だけど、熱はだいぶ下がっているようで頭痛や頭の重さはなく、何より吐き気が治まっていた。身体の痛みは吐き気に比べれば、今はまだ我慢が出来る範囲なので、澪は変更した制吐剤が自分に合っていたことに心から安堵して長く息を吐いた。 
 
 病室に掛けられている時計を見ると、かなり時間が経って昼を過ぎているのが確認出来る。しかし、繋がれた点滴を見るとまだ半分程しか減っていない。詳しい時間を聞きそびれたが、長時間の拘束があるといっていた事を思い出す。 
 澪は目を擦ると、ベッドの上部の背もたれへと寄りかかって座り直した。すぐ終わるつもりでいたので時間を潰すような物も何も無く、窓の外をぼんやりと眺めるしかない。 
 
 椎堂は今、何をしているのだろうかと思う。帰ったら説明しないとな……。そんな事を考えていると、病室のドアから誰かが入ってきた気配がした。 
 澪が窓とは反対の入り口を振り返ると、様子を見に来た高木がいた。 
 
「……高木さん」 
「起きてたんだな。どうだい? ちょっとは楽になってきた?」 
「――はい、……吐き気が治まったみたいで、だいぶ楽です。身体は少し痛いけど……」 
「お! そうか。じゃ、これからは吐き気止めはこっちに変えよう。良かった良かった。身体が痛いのは、まぁ……うん、もうちょっと経ってからが本番だな」 
 
 高木の苦笑いする様子を見て、痛みはまだ序盤なのだという事を察する。帰る時に鎮痛剤を処方するから飲むように言われ、痛みの本番とやらを想像してしまう。だけど、今それを考えても仕方ないので澪は一旦考えを追いやった。 
 
「玖珂くんが暇なんじゃないかと思って来てみたんだが、眠るなら邪魔かな?」 
「いや、……もう、眠くないから……する事なくて暇してました……」 
「そうかい? んじゃぁ、暇つぶしだと思って俺の話を聞いてくれるかな」 
「はい、話って……?」 
 
 高木が「ちょっとした昔話だけど」と前置きして立ち上がった姿を目で追う。そして高木が白衣を着ていないことに気付いた。先ほどまでは白衣姿であったというのに。それに、こんな所で悠長に昔話をしていていいのかも心配である。 
 
「あの、高木さん、大丈夫なんですか? 仕事とか」 
「ああ、うん。平気だよ。というか今日は俺、午前中であがりでさ。今はプライベートってわけだ。おっさんの話し相手をしてくれる人を丁度探していたから助かったよ」 
 
 ふざけてそういう高木に、澪も少し笑い返す。多分気を遣ってそんな風に言ってくれているのだろう。滴下筒に一滴ずつ落下してくる薬剤に目を向けたまま高木の言葉を待っていると、高木は窓に寄りかかって澪の方へと振り向いた。 
 
「俺の親友の話なんだけどな。前にさ、この病院に凄い美人の患者が入院してたんだよ」 
 
 高木はそう言って懐かしそうに目を細めた。 
 
「どれくらい美人かって話をすると夜になるから、一言でまとめるとだな……。そう! ハリウッド女優ぐらいの美人だと思ってくれ」 
 
 その例えも曖昧すぎて分かりかねるが、相当な美人だったのだと言いたいのだろう。澪が頷くと高木は話を続けた。 
 
「その女性に、親友が一目惚れしたんだな、これが。あ、親友はここで働いている医師なんだけどさ」 
「一目惚れ……ですか?」 
「うんうん。まぁ……、あれだ。男なら惚れて当然だと思う美貌だったしね。でも、彼女は持病があったんだ」 
「……、……」 
「それも、入院してきた時にはもう手術が出来ない手遅れの状態でね。余命三ヶ月もないって告知されていた」 
「そう……、なんですか」 
 
 澪が言いづらそうに相槌を打つと、高木が目の前で手を振って笑った。 
 
「いや、湿っぽい話じゃないよ。それでさ、彼は勿論その事を知った上で毎日彼女を口説き続けてた。病室にしょっちゅう顔を出しては彼女を落とそうと必死でね。それで、一ヶ月くらい経った頃だったかな……。彼の熱烈アピールに呆れていた彼女も次第に彼の事が好きになったんだよ」 
 
 所々違うが、まるで自分と椎堂の出会いのようで記憶を重ねてしまう。 
 
「晴れて付き合うことになった二人なわけだが。勿論病院からは出られないだろう? だから彼女の具合が良い時には車椅子に乗せて、よく庭へ連れ出してデートしてたな……。ほら、あそこ」 
 
 高木が窓の外に広がる庭を指さす。 
 
「あそこに木陰があるだろう? あそこで二人で色々な話をしていたんだ」 
 
 高木が指す方に澪も視線を向ける。高木の言うとおり今日もその場所には木陰が出来ていて、車椅子の男の患者が家族と共にいるのが見えた。父親なのだろう。膝にはまだ年端のいかない女の子を乗せていて隣には妻らしき女性が立っている。 
 高木はその場所を見たまま再び口を開く。 
 
「彼女は強い女性でね、副作用がきつい治療を受けていたけど弱音は一切吐かなかった。自分が死ぬとわかっていても全力で生きようとしていた。その気持ちが強かったのもあって、余命三ヶ月と言われていたのに、半年後も小康状態を保っていたんだ。主治医も驚いていたぐらいだよ」 
「半年も……、凄いですね……」 
「うんうん、だろ? 人間の寿命なんてさ、医者にはわからないもんだなってその時は思ったよ。それと同時に、生命の力強さってのを凄く実感した。付き合ってまだ数ヶ月だったけど、彼はその女性を本当に愛していて、ある日、彼女にプロポーズする事を決めたんだ。彼女の好きだって言ってた花を沢山買ってきて、自分で花束を作って指輪と共に渡した」 
「……え」 
 
 残された時間が少ないのをわかっている上でのプロポーズ。その行動は理解が出来るが、実践するには相当の覚悟が必要だったはずだ。どんな気持ちで、フと自分と重ねて想像してしまう。 
 
「当然だけど、彼女はOKしてくれなかった。まぁ、そりゃそうだよな。自分が死んでいくのがはっきりわかっているんだから。それでも彼は諦めずに、デートする度に説得してさ」 
「……それで……、どうなったんですか?」 
「うん。彼女も彼を愛していたからね、本当はプロポーズを受けたかったんだ。だけど自分にはその資格が無いからって理由で断り続けたわけだけど」 
 
 澪は黙って自身の指先を見つめた。愛しているからこそ、幸せになって欲しいからプロポーズを受けるわけにはいかないと思った。彼女の方の気持ちもよくわかる。 
 
「だけど、これでプロポーズは最後にするって決めた日に、彼が言った言葉が、彼女を変えたんだよ」 
「……言葉?」 
「うん、『天国で待ち合わせをする時に、目印が欲しいから……。この指輪を受け取って下さい』ってお願いしたんだ」 
「……、……」 
 
 命が尽きる事を受け入れて、その先までをも見守る覚悟で告げたのだと、高木は付け加えた。愛する人が死ぬのは悲しい。だけど、悲しいで終わらないその先がある事を彼は彼女に教えたのだ。自分の生涯を掛けて……。 
 
「今までずっと断り続けてきた彼女が、やっと言ってくれた。『待ち合わせには、貴方の好きな水色のワンピースでいくわね』って。すっかり細くなった指に、嬉しそうに婚約指輪をはめてさ……。あの時は嬉しくて年甲斐もなくはしゃいだりしたもんだ。その次の日には、彼が病院の仲間にお願いして、簡単な結婚式を病室で挙げる事も決まってね。時間が無いから皆に色々手伝って貰って、三日後の日曜に式を挙げる事になったんだ」 
 
 高木が俯いて、長く息を吐き穏やかな笑みを浮かべた。 
 
「だけどな、……間に合わなかったんだ。彼女は式の前日に容態が急変してね……。最後にウェディングドレスが着たいって言うから、用意してあったドレスに着替えさせてあげた。ちゃんとした式は挙げられなかったけど、牧師さんを呼んで指輪の交換をして……。次の日の朝、ドレスを着たまま彼女は息を引き取ったんだ」 
 
 何という事なのだろう。高木の話を聞いていると、この世に神様なんて存在しないのではと思ってしまう。そして、澪は途中から気付いていた。 
 親友の話だと言って話し始めたこの話が、高木自身の過去の話だという事に……。 
 先日高木と昼食を食べに行った際に結婚指輪をしていることに気付き、その話題を振った時、高木が言いづらそうに間を開けた意味がようやくわかる。澪は高木に視線を向けて、静かに口を開いた。 
 
「……高木さんの話……、ですよね」 
「ああ、バレちゃったかな。そう、親友じゃなくて、俺の話だ」 
 
 高木はそう言って優しげな笑みを浮かべて澪を見た。その笑顔には悲しみの色は一切無い。 
 
「世界一美人の俺の嫁さんと、俺の話。――玖珂くん、俺はさ」 
「…………?」 
「凄く幸せだと思ってるんだ。そうは思わないか? まだまだ先になるけど、自分が天寿を全うした後、愛している人が先にいてずっと待っていてくれるんだぞ? 可愛いワンピースをきて、揃いの指輪をはめてさ。俺は彼女との待ち合わせが楽しみで仕方がないんだ。何を着て行こうかなとか、おじさんになったねって彼女に笑われるんじゃないかとかさ。そう考えるだけで今も凄く幸せだ」 
 
 強い人だな、そう思った。愛する人を失う事を乗り越えただけでなく、こうして笑って話せることも。きっと亡くなった彼女も、高木と同じ気持ちで幸せだったのだと思う。恋愛に決まった形は無いのはわかっているが、こういう形での愛し方もあるのだと知る。 
 
「ああ、長すぎたかな。これだから、おじさんはって言われそうだな!」 
「いえ……全然、そんな。……話が聞けて良かったです」 
「そうかい? そりゃ安心だ。玖珂くんは、本当に優しいな」 
 
 澪は少し笑って、視線を落とした。 
 
「俺が言うような事じゃないかもしれないけど……。高木さんの奥さんは、本当に幸せだったと思います。俺も……、相手に一緒にいて幸せだと思って貰える男でいたい……」 
 
 高木は少し照れた後、澪のベッドへと腰掛けた。 
 
「そう思っている時点で、もう、相手は幸せだと感じてくれているものだよ。そんな難しい事じゃない。俺は、そう思ってる」 
「……、だと、いいんですけど」 
 
 高木の言った言葉が胸の内へ染みこんでいく。 
――僕は、澪の傍にいられるだけで幸せだよ。 
 椎堂の言葉を疑っていたわけでは決してない。だけど、どこかでは……他の恋人達と同じ事をしてやれない自分に負い目を感じ、『幸せなはずがない』と決めつけていた。どんな想いで椎堂がその言葉を自分に言ったのか。高木が言うように、難しい事なんて最初からなかったのかもしれない。 
 
「よし! あまり長居してても玖珂くんも疲れるだろうし、俺はそろそろ帰るかな。眠れないかも知れないけど、少し目を閉じて横になってごらん。何も考えずに身体を休めるのは凄く重要な治療法の一つだからな」 
「……はい」 
「それじゃぁ、また明日ちゃんと通うんだぞ? 早く体調が落ち着くように俺も祈ってるよ。頑張ってな」 
「有難うございます。……その、また機会があったら色々話聞かせて下さい」 
「俺の話で良ければいつでもいいぞ? 今度はもっと短くまとめるから安心してくれ」 
 
 高木が豪快に笑う物だから、釣られて澪も少し笑った。高木は本当に明るくて、椎堂とはまた違った意味で尊敬できる人物だ。同じ男としても人としても……、澪はそう思っていた。 
 
 一人になった病室で再びベッドへ横になって目を閉じる。 
 瞼の裏の闇に浮かぶのは椎堂の姿ばかりで、澪は記憶の中の椎堂に腕を伸ばす。 
 
『澪、僕ね。今日凄い場所を発見しちゃったんだ』 
「どんな場所?」 
『あのね、猫がいっぱい住んでるバスがあるんだよ。もう動いてないバスで、猫達がそこを住み処にしてるみたいでね、ネコカフェみたいだったよ』 
「へぇ。……楽しそうだな」 
『そうだ! 澪が行きたいなら、今から僕が連れて行ってあげる』 
「……、……でも……俺は、」 
 
 椎堂が笑って澪の手を引っ張る。その姿を追っているうちに微睡んでくる。点滴が終わるのはまだまだ先だ。気分の悪さで中々十分な睡眠をとれていなかったのも手伝い――澪は記憶の中の椎堂の手をとって、そのまま瞼をそっと閉じた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 点滴が終わって目を覚ました頃には、すっかり夕方になっていた。 
 その後少し主治医と話をして病院を後にする。どうやら新しく変えた薬は澪にあっているようで、ここ数日のうちで一番体調が落ち着いている気がする。病院で最後に検温した結果、熱はまだ少しあったが多少だるいくらいである。そして何より、久々に空腹感を覚えていた。 
 吐き気が強くないだけでこんなに楽なのかと、その薬の効果に驚く。数日は抗癌剤を飲まなくていいので、少しの間このままでいられる。また開始したらどうなるかと思うと不安もあるが、今は出来るだけ体力を戻す事に専念しようと思う。 
 
 外灯が灯りだした街を眺めつつゆっくり歩く。薬局によって処方箋薬を貰い、ついでにマスクとのど飴も買って、指示されたとおりその場でマスクを着用した。その後タクシーを拾い自宅へ戻る。何度か携帯を取りだして連絡を入れようかとも思ったが、直接顔を見て話した方がいいと思い直し、椎堂へはまだ連絡を入れていなかった。 
 こんなに遅くなった事で心配しているかも知れない。 
 
 タクシーを降りて、自宅が見えてくる頃にはもう七時近くなっていた。 
 澪は一度自宅前で足を止め徐に辺りを見渡した。ロバートの家も、向かいの家も、それぞれの家庭で一階の電気が灯っていて、明かりが洩れている。窓越しに人影が見えると、何故かホッとする。それは多分……、変わらない日常を見せてくれるような気がするからだ。 
 自宅にも同じように明かりが灯っているので、椎堂も、もう帰宅しているのだろう。 
 
 ポーチの階段を上り、呼び鈴に指を掛ける。少し躊躇った後指を押し込むとチャイムが鳴ったのが聞こえ、直後バタバタと走ってくる足音も聞こえた。 
 
――走って躓かないといいけど……。 
 
 慌てて玄関へ走ってくる椎堂を想像していると、玄関のドアが勢いよく開かれた。 
 
「……」 
「……っ」 
 
 その勢いに押されて思わず言葉を句切る。 
 
「……ただいま」 
 
 澪がそう言いながら玄関へ入ると、椎堂は数秒澪を見上げて放心した後、そっと澪に腕を伸ばして澪の胸に手で触れた。 
 
「澪、……」 
 
 存在を確かめるように、椎堂が恐る恐る掌をすべらせ、その直後「もう……、帰って来てくれないかと思った」と言いながら抱きついてきた。 
 
「おかえり、澪……、おかえりなさい」その声は涙声で……。 
 澪は椎堂のふわりとした髪に指を入れ胸へとぎゅっと抱き込んだ。自分をこうして待ってくれている大切な人がいるという事を改めて実感する。暫くそのままいたが、まだ靴も脱いでいない。しがみついたようにして離れない椎堂の肩を優しく離し、安心させるように笑みを浮かべる。 
 
「スリッパ、片方脱げてるけど?」 
「えっ! あ、本当だ」 
 
 椎堂は自分の足下を見て初めて気付いたようである。片方のスリッパは少し先のフローリングに裏返って転がっていた。慌てて走ってきた際に脱げたのだろう。 
 
「とりあえず、着替えさせて」 
 澪が少し困ったようにそう言うと、椎堂は慌てて身を引いた。 
「ご、ごめん。ゆっくり着替えてきて……、えっと」 
 椎堂が澪の手をぎゅっと握る。 
「……?」 
「いや、後で良いんだ。ごめんね」 
 
 何かを言おうとして止めた椎堂の頭をいつもしているように撫で、澪は自室への階段を上った。自分の部屋のカーテンはすでにもう閉められていて、澪は明かりを付けて着替えを済ませると部屋を出た。――もう帰って来てくれないかと思った。椎堂にそう思わせてしまったのは自分のせいだ。 
 
 階段を下りていき、洗面で手を洗ってうがいを済ませ居間へ戻ると、椎堂がキッチンにいるのがみえた。 
 鍋をゆっくりかき混ぜている椎堂に近寄ると、気付いた椎堂は「ぁ、澪……」と小さく声を上げて照れたように俯いた。 
 
 鍋の中には真っ白なクリームシチューがコトコトと煮込まれていて、暖かな湯気をたてている。オレンジの人参とグリーンのブロッコリーが顔を覗かせているその見た目は、懐かしさを感じさせる物だった。 
 澪が、子供の頃にそれが好きだったという話をしたのは、昨日の夕食時の事だ。 
 
――「じゃぁ、お袋の味ってやつだね」  
――「……クリームシチューなんて、誰が作っても一緒だろ」 
 
「……、……」 
 
 その意味に気付いて、澪はハッとして言葉を詰まらせた。椎堂が優しげな微笑みを浮かべ、澪を見つめる。 
 
「……澪のお母さんには、全然及ばないと思うけど……、これなら澪も少し食べられるかなって……思って……」 
 
 どんな気持ちで、このクリームシチューを作って待っていてくれたのか。そう考えるだけで胸が苦しくなる。勝手に言葉が口をついた。 
 
「ごめん……」 
 
 澪が手を伸ばし、椎堂を引き寄せる。きつく抱き締めると椎堂がそっと背中に手を回す。たった一日触れていないだけなのに、椎堂の体温がこんなにも懐かしくて、腕の中にいると思うと愛しさが込み上げた。 
 
「昨日は、悪かった……。本当に、ごめんな」 
「……澪、」 
 椎堂は抱かれた腕の中で何度も首を振る。 
「僕のほうこそ、本当にごめんね……。もっと澪の体調のことも、気持ちも、考えて話せばよかったって……反省してるんだ。言いたくないことまで言わせて……ごめん」 
「……誠二は別に、悪くないだろ」 
 
 首を振ったせいでずり落ちて鼻眼鏡になっている椎堂の眼鏡を、澪は指でそっと上へと上げた。レンズ越しに椎堂が澪を見上げる。 
 
「……寂しかったよ」 
「うん……」 
「昨日からずっと、澪の事、……いっぱい考えてた」 
「……うん」 
 
 最後にもう一度「ごめん」と謝って椎堂の背中を撫でると、安心したように椎堂が静かに息を吐いた。 
 
「ねぇ……。澪」 
「ん?」 
 
 さっきも言いかけて止めた言葉を椎堂は躊躇うように飲みこんで口を閉じた。 
 
「なに? 言ってみ」 
「あの……。……聞かれるの嫌だろうけど……熱は、どう……?」 
 
 昨夜、澪が言った事を気にしているのだろう。控えめにそう聞いて、椎堂はちらっと澪の顔を窺った。 
 体調のことで、これからはなるべく嘘は言わないと決めた。たとえ、それで楽しい時間が失われるとしても……。澪は一度腕から椎堂を離し、腰を屈めて椎堂と視線を合わせて手を軽く握った。 
 
「後で説明するけど……。熱は37度5分くらいだと思う。嘘じゃないから……。測ってもいい」 
「澪、……うん」 
「吐き気も今は薬のおかげで落ち着いてる、……心配してくれて、有難う」 
 
 椎堂は甘えるように澪の首に腕を回し、頬に柔らかな唇をあてた。椎堂はずっと変わっていなくて、その優しさを素直に受け取れていなかっただけだ。こうして本当の事を話したとしても、多分椎堂は笑顔を見せてくれる。「……誠二」澪が名を呼ぶと、椎堂は「大好きだよ」と小さく呟いて澪の胸に顔をうずめた。 
 
「久し振りに、ちょっと腹が減ってるんだ。もう飯にする?」 
「ほんと!? うん!」 
「じゃぁ、用意しよう」 
 
 腕から離れた椎堂は、嬉しそうに食器を取り出し。そして、突然シチューの説明をし出した。椎堂の説明によると肉は入れていないらしい。バターも使わなかったと言って、だから、もしかしたらあまり美味しくないかもとちょっと不安そうである。それら全ては澪の身体のことを考えてそうしたのだろうと予想が付く。 
 
「もし、いまいちだったら残して良いからね?」 
「はいはい」 
 
 心配げな椎堂を軽く流し、まだ一度も使用していない青の縁取りがしてあるシチュー皿を取り出す。シチューをそれぞれよそい、食卓へと並べる。ご飯までは食べられそうにないので、ご飯は椎堂だけだ。飲み物と、一緒に作ってあった野菜のマリネと共に並べ準備はととのった。 
 
 
 席について、互いに「いただきます」といった後、椎堂はスプーンを持ったまま澪の様子をうかがっていた。澪がシチューにスプーンを差し入れ口へと運ぶと、その様子を見ていた椎堂がホッとしたように息を吐いた。 
 
「すごく、美味しいよ」 
「そう!? 良かった!」 
 
 別に椎堂に気を遣って言ったわけでもなく、シチューは実際美味しかった。昔食べた物をはっきり覚えているわけでは無いけれど、きっとそれより美味しくて、――優しい味がする。そう思うのは椎堂が作ってくれたからなのだろうか。 
 無理矢理我慢して飲みこんできた食事とは比べものにならないほどすんなり喉を通っていく。 
 苦痛でしかなかった食事の時間にこんな穏やかでいられる事に澪自身も心底ホッとしていた。 
 
「あのさ」 
「うん?」 
「誠二、……朝に、高木さんに電話しただろ?」 
「えっ……あ、えっと……」 
 
 椎堂がスプーンを止めるのを見て、澪が優しい笑みを浮かべる。 
 
「別に怒ってるわけじゃないから。ただ、もう準備されてたっていうか……、俺が言う前から知ってたっぽいからさ。体調のこと」 
「……。……うん、告げ口みたいな事するの良くないと思ったんだけど……、澪が、もし熱が続いてる事を伝えなかったら手遅れになると思って……。高木さんに、感染症の兆候があるから検査して欲しいってお願いしたんだ。主治医でもない人間が出しゃばるのは、本当はよくないんだけど……」 
「……そっか。高木さん、何か言ってた?」 
「ううん。朝は忙しいだろうし、その事だけ伝えてすぐ切ったから。あ、でも教えて貰って良かったって言ってくれたんだ。医者としてじゃなく、友人として頼ってくれた事が嬉しいって……」 
 
 何か椎堂が他にも言ったのかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼が話した過去の話は、高木が何かを感じて個人的に聞かせてくれたのだろう。 
 
「……高木さんらしいな」 
「うん……。彼は本当に優しい人だからね……。だから、僕も高木先輩のいる病院なら澪を任せても安心かなって思って最初に勧めたんだ。僕自身、彼のことは前から信頼してるから」 
 
 ゆっくりと食事をしながら、今日病院で言われた事を椎堂に説明する。受けた点滴の話や制吐剤を変えた話など、だけど抗癌剤の治療を止めるという選択肢を教えられた事はなんとなく今は言えなかった。 
 椎堂が言ったように、朝に電話をしたその内容以外は椎堂も知らなかったようで、澪の話に「なるほど」などと相槌を打っている。 
 
「じゃぁ、今は? もう背中とか痛くなってきてる?」 
「うん……。少し」 
「そっか……。夜熱が出た時のために体温計ベッドに持っていっておいたほうがいいね」 
「……うん」 
「あ……、でも……」 
 
 椎堂がもじもじと指を合わせて、澪の顔を見る。 
 
「……何?」 
「僕……、今日は一緒に寝ても……いいのかなと思って……」 
「ああ……」 
 
 確かに昨日は別々に寝ようと言ったのだったと思い出す。 
 
「でも、暫くこのまま別々がいいんじゃない? 俺が夜に熱が出たりしたら、誠二、寝られないだろ?」 
「そんな事ないよ。それに……。澪が隣にいなかったら余計に心配で五分置きに様子見にいっちゃいそうだし」 
「五分置きって……それは流石に心配しすぎだろ」 
「じゃぁ十五分置きで我慢する……それも……だめ?」 
「……」 
 
 どうやら椎堂は本気で言っているらしい。五分は論外だが、十五分置きだとしてもそれはもう眠れないのと一緒である。「一緒に寝たい」オーラを隠さない椎堂がお願いするように見つめてくるのが可愛くて、澪は小さく笑った。 
 
「わかった。じゃぁ、一緒に寝よう。その代わり、俺が大丈夫そうな時は、誠二もちゃんと寝ろよ?」 
「うん。わかってる」 
 
 一緒に寝ていいと言われて椎堂はパッと表情を明るくした。本当にわかりやすい。 
 
「熱が出たら、看病よろしく」 
 
 冗談っぽく澪がそう言うと、椎堂は「任せて!」と笑みを浮かべた。食事は無事に終わり、昨日まで感じていた食後の違和感もそんなにない。食後の薬に抗癌剤がないだけで安心できる。水で薬を飲み、少し疲れたから休むと言って澪は居間のソファに深く腰掛け目を閉じた。今日はやけに長い一日だったなと思う。 
 
 一日外に居たせいか、高木が言っていたとおり倦怠感が徐々に増してきて、痛みが段々強くなってきている。痛みで眠れない際は鎮痛剤を飲むように処方されているくらいだから、多分こんな程度では治まらないほど痛くなるのだろうと思うと少し不安がよぎる。暫く休んだら早めにシャワーを浴びたほうがいいのかもしれない。 
 澪が腰をさすっていると、片付けを終えた椎堂が居間へ来て、澪の隣に腰掛ける。黙って澪の背中や腰をさする椎堂の手に気付いて、澪は瞼を上げた。 
 
「段々痛くなってきた?」 
「ああ……、うん……」 
「今ね、澪の骨髄の中で白血球を沢山作ってる最中なんだよ。このお薬は働き者だから、きっとすっごく頑張ってるんだと思う。澪に早く良くなって欲しいから一生懸命なんだ。だから、痛くても許してあげて」 
 
 まるで子供に言い聞かせる説明のようにそういって、椎堂は手を動かした。あまり逞しくない想像力の中では、その薬とやらがよく見るバイ菌のマスコットみたいなものに槍で攻撃している図しか思い浮かばない。しかもよく考えたらそれは虫歯のポスターとかで見た光景だった気がする。 
 
 傍にいるだけで、僕は幸せだよ。 
 椎堂はそう言っていた。今は自分も同じように感じていた。二人でいる時間はどんな状況でも大切な時間で、その時間だって永遠にあるのが当然ではない。高木の過去の話を思い出してみれば、自分は恵まれた環境なのだと改めて感じる事が出来た。 
 
 
 
 暫く休んだ後、予定通り早めのシャワーを浴びて、早い時間にベッドへ入る。 
 椎堂は遅い時間に寝ることが多いので先に寝ようとしていたら、すぐにベッドへ潜り込んできた。 
 澪に続いてシャワーを浴びたのは知っていたが、まさかこんなに早く来るとは思っていなかったので少し驚いて澪は隣の椎堂を見た。 
 
「随分早くない? 俺に合わせなくて良いのに」 
「ううん。いいんだ……。昨日、澪の傍にいられなかったから今日はいっぱい一緒にいたい……いいよね」 
「……俺は、いいけど」 
 
 椎堂は布団の中へ半分もぐって、澪に身体を寄せた。よほど昨夜の事が堪えたのか今日の椎堂はやたらにくっついてくる。捨てられた子猫みたいな椎堂が澪のパジャマに鼻を寄せ甘えた仕草で匂いを嗅ぐ。 
 
「澪、いい匂いがする」 
「柔軟剤も、身体洗う石鹸も同じの使ってるんだから、誠二も同じ匂いだと思うけど?」 
「違うよ、別に僕はいい匂いじゃないし」 
「そう?」 
 
 澪が椎堂の髪を優しく梳くと、ふわりと同じシャンプーの香りがする。 
 
「誠二も、いい匂いだよ」 
 
 柔らかな髪の感覚を指で確かめるように暫く絡め、痛みをやり過ごす。少し前から、かなり痛みが強くなってきているのだ。背中や腰に続いて胸も痛い。肋骨の辺りが息をする度に痛むので大きく息が吸えない状態だった。眠ってしまえるならそうしたいが、そう都合良くもいかない。 
 
「澪、大丈夫?」 
「……うん」 
 
 元々寝付きは良い方なのだから、何とか強引に目を閉じていれば眠れるはずだと思い、強制的にぎゅっと目を閉じていると少しずつだが眠くなってくる。 
 しかし、深い眠りに陥る前に何度も痛みで目が覚めた。その度に再び眠ろうとするも、それも困難になってきていた。前もってわかっていた事とはいえ、痛い物は痛い。 
 身体の体勢を変えると、あまりの痛みに声が漏れて、慌てて口を噤む。やけに熱い身体に熱もあがってきたのがわかり、薬のせいで痛いのか熱のせいで痛いのかわからなくなっていた。日中高木が言っていた本番というのがこの事だったのだなと思い、澪は眉を寄せ息を潜める。 
 
「――っ……」 
――もう少し早めに鎮痛剤を飲みに行けば良かった……。 
 
 寝てしまえば何とかなると思っていたが、その考えが甘かったらしい。どうするかな……。痛みの強い箇所を動かさないようにして起き上がろうとした所で、隣で目を閉じている椎堂がうっすらと目を開けた。 
 
「澪?」 
「悪い……、起こした?」 
「ううん、それはいいんだけど。熱が上がってきた? ちょっと測ってみて」 
 
 椎堂が腕を取って脈を計り、予めベッドサイドへと持ってきてあった体温計を渡す。暗くてよく見えないので枕元の明かりをつけて音が鳴った体温計を見ると、朝と同じく39度近くまで上がっていた。 
 
「随分上がってきちゃったね……。身体の痛みはどう?」 
「……結構、痛い。我慢できないほどじゃない、けど」 
「んー。澪が『我慢できないほど』になったら、普通の人だったら大騒ぎするレベルだよ? 待ってて、今、鎮痛剤持ってくるね」 
 
 椎堂が部屋を出て行って、すぐに薬とコップに汲んだ水を持ってくる。それをベッドサイドに置くと、再びバタバタと一階へ下りていって、今度は氷枕を準備して戻ってきた。澪の枕を脇へ避けてそれをセットすると「よしっ」と納得し、椎堂は澪に向き直った。 
 
「身体起こすよ。ゆっくりでいいから。薬、飲める?」 
 
 椎堂が身体を支えて抱き起こすと、口元にコップを寄せて澪の顔を覗き込む。鎮痛剤は解熱作用もあるから、服用すれば暫くしたら治まるだろう。椎堂がカプセルを取り出して澪の口へとさしこみ、高熱で震える澪の手に自身の手を添えて水を飲ませる。澪の喉が上下し飲みこんだのを確認すると、椎堂はベッドの脇へコップをおいて、澪の身体を支えるようにそっと抱き締めた。 
 燃えるように熱い身体を撫でていると、澪が苦しげに浅い呼吸を繰り返す音と、時々痛みに耐えるように息を止めるのが伝わってくる。 
 
「もう少ししたら、薬が効いてくるよ。それまでこうしてるから、しんどいだろうけど僕に寄りかかって楽にしてて」 
「……、こんなんじゃ、誠二も、寝不足決定だな……」 
「平気だよ。僕、まだ若いし……澪よりは、若くないけど……」 
 
 澪が小さく笑う。どうしていても痛いが、椎堂がゆっくり手を当てると不思議と痛みが和らぐ気がした。どこかが悪化したわけではないとわかっているから、高熱でもそんなに不安は無い。 
 背中を撫でられながら――ああ、こういう事なのか、と思っていた。どんなに体調が悪くても、それを隠さないでいれば嘘はなくなる。嘘がなければ、椎堂はこんな時でも優しい笑顔を見せてくれるのだ。あまりに自身の体温が高いので、椎堂の身体のどこに触れても冷たく感じるが、体温とは別の温かさがそこにはちゃんと存在していた。 
 椎堂の肩口に頭を乗せて寄りかかる。 
 
「……誠、二」 
「……うん、どうしたの? ……どこか、さすってほしい所ある?」 
「いや……。そうじゃないけど……、名前、呼びたくなっただけ……いいだろ?」 
「……、う、うん。……」 
 
 いつも呼んでいる名前なのに、椎堂は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。途中、喉が渇いたので先程の水の残りを飲む。椎堂の掌が背中をゆっくり行き来し、暫くすると徐々に薬が効いてきて、痛みが薄れていった。痛みで力を入れていた身体が緩やかに弛緩し、それと同時に眠くなってくる。 
 
「ちょっと、マシになってきた……」 
「そう、良かった。……じゃぁ、横になってみる?」 
 
 仰向けは余計に痛いので、横向きのまま身体を横たえる。椎堂も安心したように笑みを浮かべ、隣へ同じく横になった。布団の中の椎堂の手に指を絡ませ、そっと握ったまま澪は目を閉じる。 
 
「誠二も……、ちゃんと寝ろよ……」 
「……うん」 
 
 椎堂が僅かに力を込めて澪の手を握り返してくる。身体中痛いし、熱のせいで頭も痛くて、息苦しい。だけど、椎堂の指先から優しさが浸透してくるようで、とても安心できた。多分こういうのが甘えるという事なんだろうなと、ぼんやりと考え、澪の思考は静かに夢にいざなわれる。 
 
 椎堂は澪の額にかかる前髪を後ろへと流し、優しく撫でると小さく囁く。 
 
「おやすみ、澪」 
 
 澪の額に口付けて、椎堂は手を握ったままそっと目を閉じた。