note18


 

 
 
 最初から用意していた説得材料を総動員して話し合った結果、椎堂は木曜の今日からスクールへの復帰を条件付きで渋々認めてくれた。 
 
 一緒に家を出てそれぞれ別れる場所に着く間にも、椎堂が約束は絶対守ってねと何度も念を押す。 
 約束と言っても、総合すれば「無理をしない」という一言に纏める事が出来るような内容である。しかも今日は昼の弁当まで渡され、至れり尽くせりだった。椎堂は元々体調に関しての事には厳しいので当然ではあるが、以前より心配性になった気がする。 
 来週来ると言っていた玖珂と、椎堂が二人で心配してくるのを想像して澪は少し苦笑いを浮かべた。 
 
「それじゃ、行って来るね。今日はそんなに遅くならないと思うから。澪は?」 
「俺も、夕方ぐらいだと思うけど」 
「そっか、わかった。じゃぁまたおうちで……」 
 
 まるでデートの約束をするみたいにそう言い残すと、椎堂は照れた顔を見せないようにするためか素早く背中を向けて逆方向へと歩いて行った。一度歩き出した後、もう一度椎堂の方へ振り返ると何もない平坦な道で躓いているのを丁度見てしまい、澪は思わず小さく吹き出した。注意力散漫というか、ドジというか……。 
 
 曲がり角を曲がって椎堂が見えなくなるまで見送り、澪もスクールへと足早に歩を進めた。 
 久々の通院以外の外出にどことなく緊張しているのを紛らわすように、澪は外していたヘッドフォンを再び耳にさし、流れる音楽のボリュームをあげる。 
 街の雑踏も、行き交う車の音も、途端に消え失せ軽快な音楽にすり替わる。 
 
 ポケットには飴も幾つかいれてきたし、鎮痛剤や低血糖に陥った場合の摂取用のブドウ糖の錠剤も鞄に入れてある。一瞬で気を失うような状況にでもならない限り、自分で対処できるはずである。 
 ポケットに忍ばせた指先で飴の数を確認しながら目の前の信号を渡りきると、スクールが見えてきた。いつもと同じ景色だと言うだけで何処かホッとするのは、自分が『今もその中の存在の一部でいられる』という事実を実感出来るからなのかもしれない。 
 
 澪も結構早くに到着しているというのに、一体いつから来ているのかすでに建物前のベンチでは本を読み耽っている者がいたり、ちょっとした広場になっている横の公園ではバスケットをしている者までいる。澪はフェンス越しに視線を向けて、その様子を見るためにフェンスに近寄った。 
 
 高校の頃にはもうすでに今の身長だったので、他の生徒よりだいぶ背が高いと言うだけで、少しの間人員の足りないバスケ部へ入っていた事がある。当時、そんな事もあって練習も兼ねて友人と1on1をよくやっていたのだ。 
 
 チームでは協力プレイが必須であり、一人の能力で勝敗が決まることはまずないが、1対1であるならば、それは個人の技量や体格が深く関係してくる。運動神経が元から良いのもあって、1on1で負けた事はほとんどなかった。人員が揃った後もバスケ部へ残留してくれるように何度もお願いされたが、部活に入るとバイトができないので断り正式に入部はしなかった。何せ、高校時代はバイトに明け暮れていたのでそんな余裕は一つもなかったのだ。 
 
 そんな学生の頃を思いだして懐かしくなり、それと同時にあのままバスケ部に残って練習していたなら、もしかしたら今もまだやっていたりするのかな等と別の未来を思い浮かべた。 
 
 澪が止めていた足をゆっくり動かし、再び校舎へむかっていると背後からいきなり腕を強く掴まれた。驚いて振り向くと、クロエが立っていて、頬を膨らませて何かを言っている。 
 ヘッドフォンのボリュームが大きすぎて何を言っているのか聞こえないので、澪は耳からそれを外して音楽を止めると「おはよう」とクロエに向かって言った。 
 
「もう~! 何度も声掛けたんだよ? ミオ全然気がついてくれないんだもん」 
「ごめん、音でかくしてたから聞こえなかった」 
 
 クロエは、二、三続けて小言を言った後、心配そうに顔を歪めて澪の前へと回り込んだ。 
 
「ねぇ、体の具合は平気なの? メールは見たけど……」 
「一応……。あ、レポートありがとな。助かった」 
「一応って……。風邪とかじゃないんだよね……」 
 
 マスクをしているミオを見上げて、クロエが隣に移動して並んで歩く。何と返して良いかわからないので、澪はそれには答えず話題を変えた。講義のある教室へ向かって席に着き、クロエと共に近くに居た仲間と他愛もない会話をしながら、澪はギャレットの事を考えていた。 
 
 実習前の説明がグループ事にあり、それが終わって実習へ向かうためにまずは椎堂の勤務する病院のチームと合流する。狭い入り口を身を屈めて抜けてマイクロバスに乗る。 
 クロエともう一人のお喋り好きの友人に挟まれる形で後部座席に腰掛けたので、両側からしきりに話しかけられ、移動中は余計な事を考える事もないままに病院へ到着した。 
 
「んじゃ、オレはあっちだから。またな!」 
「うん! また明日ね~」 
 
 手を振りながら、別のチームとの合流へ向かう友人に、澪も軽く手を振る。クロエと共に病院の集合場所へ向かうと、先に待機していたギャレットと一瞬目が合った。相変わらず見た目だけは爽やかで、冷酷な仮面が垣間見える部分は勿論無く完璧な医者の姿である。 
 裏表があるのは、人間誰しもそうなのかも知れないが、あそこまで人格が変わる人間はそうそういない。というよりは、澪に見せたあの顔の方が多分本来の彼の姿であり、爽やかで人気者の目の前のギャレットが偽りなのだろう。 
 
 側によって足を止めたクロエが元気よくギャレットに挨拶をすると、ギャレットは真っ白な歯を見せて笑顔を見せ挨拶を返すと澪へと顔を向けた。 
 
「やぁ、クガ君。久し振りだね! アンナさんのパーティー以来かな!?」 
「……そうですね」 
「おや? マスクなんかしてどっか具合でも悪いのかい? ちゃんとシドウに診てもらったかい??」 
 
 言葉を返すのも億劫なほど嫌悪感のある人物に出会ったのは初めてである。しかし、クロエも隣に居るので無視することも出来ず、澪は視線を合わさないままそっけなく答えた。 
 
「気にしてもらわなくても平気です。今日は宜しく……」 
 
 ぐっと堪えてそう返した瞬間、ギャレットは澪にしかわからないように僅かに口元を歪めて笑った。気まずい空気を感じているのは澪だけのようで、クロエは相変わらずお気に入りのギャレットとチームが一緒になった事を喜んでいるようだ。 
 逆にクロエが一緒で助かったとも言える。 
 
 余計な事を言うつもりは毛頭無いが、二人きりになればつい要らない事まで言ってしまいそうである。なるべく話さなくて言いように離れた場所を確保しつつ、出発のマイクロバスへと乗り込む。 
 運良くバスの中では席が遠かったので声をかけられることもなく、目的地へと到着した。 
 
 マイクロバスを下りてからも少し遠いので階段を上り、患者の自宅へとやっと到着した。古めかしいが豪華な門構え。鳥こそ止まっていなかったが、あの日見たのと同じそれを横目で見ながら屋敷へと辿り着き、チームリーダーの後に続く。 
 
 玄関の呼び鈴を押すと、今回はすぐに扉が開かれた。 
 
「いらっしゃい、どうぞ」 
「こんにちは、彼の調子はどう?」 
 
 声をかけながら中へと入っていくその様子に違和感を抱いたのは、出迎えた人物が彼では無かったからだ。以前訪問した際には車椅子に乗った彼自身が出迎えてくれた。 
 澪の心臓が嫌なざわめきを起こす。一番後に部屋の中へと足を踏み入れた澪は、その様子を前に愕然としていた。 
 
 ここへ来る前に、彼の体調が以前より悪化しているので必要なケアが変更された説明は受けてきた。だが、紙面でみて説明された時は、ここまでの状況は想像していなかったのだ。 
 庭で花に水をやる澪の横で、澪が息子に似ているという話や花の話を聞かせてくれた彼は、ベッドに寝たままで澪達が部屋に入っても、一切の反応を示さなかった。 
 
 屋敷自体は相当古いので家具のどれもがアンティーク調そのものなのに、彼の側にはどの家具とも調和しない最先端の医療機器が機械音を鳴らしている。 
 同じ部屋にある猫足の大きなボードの上に飾ってある家族の写真立てが、機械が振動する度に小さくカタカタという音を立てていた。 
 
――…………。 
 
 思わずベッドに歩み寄り顔を見ると、たった数週間しか経っていないとは思えないほどに痩せこけていて、まるで蝋で出来た皮膚のような顔色が、すぐそこに『死』がある事を濃厚に匂わせていた。言葉を失った澪の背中に、声がかかる。 
 
「時々は目を覚ますこともあるのよ。今は眠っているみたいだけど、……残念ね」 
 
 チームリーダーが毅然とした態度で穏やかに笑みを浮かべて言ったその台詞で、澪は垂れていた頭をあげた。隣に居るクロエもまだこういう事に慣れていないせいかその表情は沈んでいて辛そうである。 
 澪は黙ってベッドから離れ、気持ちを切り替えるために幾度か深呼吸をした。肺に入り込んでくる部屋の空気さえも死の匂いがする。 
 ギャレット達が淡々と医療絡みの処置を施す間に、説明を受けたとおりクロエと共にケアの内容をこなしていく。 
 ケアの中には、もう『花の水やり』は含まれていなかった……。 
 患者からの希望がない場合、家族やそれに近しい人間がどうして欲しいかと、その精神的ケアがメインになる。 
 
 感傷的にならぬように、仕事のことだけに集中して全てを終える。 
 出迎えた遠い親戚だという女性と話し込んでいるチームリーダーとギャレット達はペインスケール(患者の痛みの度合い)に基づき今後の方針について話しているようだった。今は穏やかに眠っているようだが、それは痛みを麻痺させる薬剤を使っているせいもある。 
 相当量のモルヒネ等を投与する場合、痛みは麻痺しても意識が曖昧な状態が続き眠り続けているような状態になる事も多いのだ。澪は、彼の姿を見ながら会話が途切れるのを待って、静かに声をかけた。 
 
「……ちょっといいですか?」 
「ええ、いいわよ。どうかしたかしら?」 
「ケアメニューには含まれていないですが……。すぐ済ませるんで、庭の花に、水をやってきてもいいですか?」 
 
 先程庭先をみてみると、彼の自慢の咲き誇る花たちは元気がなく、手入れが長い事されていない様子だったのだ。本来はボランティアの仕事は余計な事を勝手にしないというのが規則だが、それをわかった上でのお願いでもあった。 
 チームリーダーが、少しだけ間を開け。その後全てを汲み取ったように優しい笑みを浮かべて隣の女性を見ると、女性も嬉しそうに頷いた。 
 
「そうね、じゃぁお願いできるかしら? ミオ」 
「……有難うございます」 
「私も……。私も一緒にお水あげてきます!」 
「わかったわ。クロエもお願いね」 
 
 小さな中庭へ出てホースを用意している澪に続いてクロエも庭へと降り立った。 
 この前来た時と同じように左側の花壇から順番に水をやっていると、クロエが側にきて「……ミオ」と悲しげな顔で澪を見上げた。そういえば、以前ここへ来た際、彼が自分の祖父と同じ病気なので重ねてしまうとクロエが言っていたのを思いだした。 
 
 澪は一度ホースの水を手元で止めると、クロエの肩をそっと撫でた。こんな時でもやはり陽射しは変わらず暖かくて、肩に乗せて幾度かさする澪の手の甲を温める。 
 
「余計な事はしなくていいって言われるかと思ったけど、許して貰えて良かったよ」 
「……うん。そうね……。ねぇ、ミオ」 
「ん?」 
「もう……長くないのかな……」 
 
 クロエもわかっていてそう聞いているのだ。何か言葉にしないといられない気持ちなのだろう。目の前の花で羽を休めていた蝶が音もなくひらりと舞ながら次々と場所を移動する。澪は少し手を伸ばして濡れないように蝶を移動させてやると再び水を放出する。 
 続きから水やりを続け、少しの間を開ける。シャワーヘッドから細く放たれる水しぶきがさわさわと音を立てた。 
 
――そんな事ないだろ。大丈夫だよきっと。 
 
 気持ちとは全く逆のその台詞を言うのは違う気がして、澪は現実を短く口にした。 
 
「多分、そうなんじゃない」 
「……、……」 
 
 全ての水をやり終えると、花びらの上で弾かれた水の滴が太陽に反射し花壇全体がきらきらと輝いて見えた。彼がもしこの様子を見たら、「随分元気になったみたいだな。花たちもきっと喜んでいるよ」と言ってくれるだろうか。 
 
 ホースを片付けて部屋へ戻る前に、澪はクロエの寂しそうな背中を呼び止めた。 
 
「多分みんな、やれることはやったんだ。彼自身も、医者も、家族も、……俺達も。だから、後は受け入れるしかないだろ……」 
「うん。わかってる……。そうだよね……」 
「……。元気出せよ」 
 
 そういって困ったように笑みを浮かべる澪に、クロエは泣きそうな笑みを向けて「ありがと」と肩を竦めた。 
 
 澪達が部屋へ戻ると、チームリーダーが明るい声で澪達を呼ぶ。何かあったのかと側へ寄ると、先ほどまで目を閉じていた彼が目を開けていた。視線だけを澪達へ向けて、瞬きをする。 
 
「丁度今、目を覚ましたみたいなの。私達の声が煩かったのかしらね」 
 
 冗談を言って笑うチームリーダーがベッドから一歩引いて、澪に場所を譲る。澪は彼の向けている視線の先へ顔を出して、全く動かないその手を握った。彼の手はほとんど骨と皮と言った状態で、ひんやりしたそれに胸が詰まる。 
 最初に会った時に、自分に父親がいたらこんな感じなのかなとほんの少し考えた記憶が蘇り握る手に自然に力がこもった。 
 
「…………」 
 
 彼は澪に手を握られたまま、何故か声にならない呼吸にも似た音を喉から発した。何かを伝えようとしているそれに気付いて、付き添いの女性が「どうしたの?」とゆっくり声をかける。彼は必死に視線をベッド脇のスツールへ向けてほんの僅かに頷く仕草を見せた。 
 
 女性がスツールの引き出しを開けてみると、中にはメモが一枚綺麗に折り畳んで入っていた。そのメモを開いた女性が中に書いてある文字を声に出して読むと、彼は満足そうにゆっくり瞬きをして再び静かに目を閉じた。 
 
「あら? 何だったのかしらね? また眠ってしまったみたい」 
 
 不思議そうにそう呟く女性の横で、澪だけはその意味がわかっていた。不思議な感覚が襲い、皮膚を撫でる。それが治まると同時に、自分が無意識に呼吸を止めていたことに気付いて慌てて震える息を吐いた。 
 
 クロエに「受け入れるしかない」と言った自分の方がよっぽど動揺していたのだと思い知る。 
 言葉も喋れない状態の彼が、まだ動ける間に残したであろうそのメモには、たった一言――花の名前が書かれていた。 
 
――「君が次にここに来た時に、僕は君に、あの花の名前を教えよう。だからまた会いに来て欲しい」 
――「わかりました。じゃぁ、次の機会に……。楽しみにしています」 
 
 澪との約束を覚えていて守ってくれた事。彼がくれた優しさや温かさが澪の中で悲しみの感情を凌駕する。澪は握っていた手をそっとさすって彼の眠る耳元にそっと囁いた。 
 
「教えてくれて……、有難うございます」 
 
 手を放しベッドから離れると、帰り支度を進めていたチームのメンバーの元へ向かう。片付けを終え、部屋を出る前、澪は心の中でもう一度彼に礼を言って目礼をした。 
 
 何故か、ここへ来た時のショックはなくなっており、穏やかな気持ちになっていた。『死』は悲観するだけのものではない。彼が選んだ選択に後悔がない以上、それを尊重するのが一番大切なことなのだ。言葉や参考書だけではなくこうして体で感じていくことの意味が少し理解できた気がする。それと同時に、自分が生きている事を強く感じた。 
 
 帰りのマイクロバスへ向かう際、クロエも少し元気になったようで、澪に得意の噂話を披露してはちょっとだけ笑みを浮かべた。澪は、少し無理をしているようなクロエの笑顔に優しい笑みを向ける。 
 医師とボランティアという関係以外を考えないようにしていたギャレットも、必要以上に声をかけてこないので何事もなく昼食を摂り、その後次の訪問先へむかい、仕事をこなして本日の研修は終了となって出発地点の病院へと戻った。 
 
「ミオ、クロエも、お疲れ様。また明日ね」 
 
 借りているカンファレンスルームで訪問ケアのアフターレポートを作成し、チームリーダーに渡すとにっこり微笑まれる。 
 
「お疲れ様でした。お先に失礼します」 
 
 軽く頭を下げて挨拶をし部屋を出ると、廊下の先に椎堂の姿がチラリと見えた。椎堂は患者に寄り添って何やら楽しげに笑い合っている。さりげなく支えるように腰に回した手、患者の歩行を妨げないようにゆっくりと歩く椎堂の白衣の姿。久々に医師の姿の椎堂が見られた事にちょっとだけ嬉しくなる。 
 声をかけれる程の距離ではないので目で追うに留め暫く見ていると、レポートを終えたクロエが部屋から出て来て、一緒に途中まで帰ろうと声をかけてきた。この後特別な用事も無いのでOKし、話ながらロビーへと向かう。 
 
「ミオってレポート纏めるのいつも早いよね。私こういうのすっごく苦手~」 
「あれもこれもって欲張って書くからじゃない?」 
「えー! だって、忘れないように色々細かく書いておきたくなるんだもん」 
「頭で覚えておけばいいだろ」 
「無理だよ~! 女はね、お洒落のこととか恋のこととか。いっぱい覚えておきたいことがあるのっ」 
「へぇ。そりゃ、大変だ」 
 
 澪が苦笑すると、クロエは帰りに新しいネイルを見に行こうかなと言って、数秒の内にやっぱりやめて、この近くのジェラート屋の新しいフレーバーのジェラートを食べる事にすると言い。少しして、昨日発売の好きなバンドの新譜が出たのを思いだしたから、そのお店にも行かなくちゃと付け加える。 
 確かに、色々と覚えることが多そうである。そんな話を聞きながらロビーに着くと、自動ドアの側の長椅子でギャレットが座っているのがみえた。 
 
 無視して通り過ぎることも考えたが、いつまでもこうして気まずい状態でいるのも考え物かもしれない。ギャレットが遠くへ転勤にでもならない限り、椎堂の側にいる事実は変えられないのだから。 
 
――だとしたら、今が話すチャンスなのかもしれない。 
 
 澪が足をゆっくり止めると、クロエがそれに気付いて不思議そうに澪を見上げた。 
 
「クロエ、悪い……やっぱり、今日は一緒に帰れない」 
「何か用事? すぐ終わるなら、私待ってるけど?」 
「いや、多分……、ちょっと時間かかるから」 
「そうなんだ。あ! もしかして誰かとのデートを思いだしたとかなの!?」 
「まさか。そんないいもんじゃないって」 
「そっか、うん。わかった! じゃぁ、先に帰るね。ミオ、まだ具合あまり良くなさそうだし、遅くまで遊んでちゃだめだよ?」 
「はいはい」 
「じゃー、バイバイ!」 
「ああ、またな」 
 
 遊びだったらこんなに重い気持ちなわけがない。クロエが何度も手を振るのに返して病院から遠ざかったのを確認しながら、既に頭の中はギャレットにどう話そうかという事で一杯になっていた。元々話し合いなどには大凡向いていない性格である事は自分でも重々承知している。 
 感情的にならないように言葉を選べば選ぶほど何を言葉にして良いかわからなくなる。しかし、饒舌で言葉巧みなギャレットを相手にするにはそれでは埒があかない事も理解していた。 
 
 澪はギャレットの元へとゆっくり足を進め、彼の目の前でその足を停止させた。休憩中なのか、コーラの缶を手にしたギャレットが、澪に気付いて笑みを顔に貼り付けて振り向く。 
 
「お疲れさま、クガ君。ん?? 何か俺に用事かい?」 
「ちょっと……時間いいですか」 
「おや、本当に用事なのかい!? ビックリだよ。君から誘いを受けるなんてね。どこで話す? 外に出た方がいいかな」 
 
 急な誘いを面白がるようにテンション高くそう言ったギャレットが立ち上がる。澪は声を落として一言だけ口を開く。 
 
「あまり、人目につかない所で。その方が、あんたのためだと思うけど」 
「ふーん……。穏やかじゃないね」 
 
 ギャレットの顔からスッと笑みが消え、まるで感情の読み取れない表情だけが残る。自動ドアをぬけて職員しか入れない病院の裏手へ回れば、建物と高いフェンスのみの薄暗い場所に辿り着く。ほとんど人が来る事が無いので手入れをあまりしていないのか、フェンスは錆び付いていて、手で触れると簡単に皮膚を切り裂きそうな程度には荒れていた。 
 
 陰鬱な影に紛れ、微妙な空気を一度吸い込むと、澪は顔を上げた。