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 折角宿をとったので、一度チェックインだけしておこうという事になり。駐車場を移動する為に、海に向かっていた足を逆方向へむけて、歩き始める。 
 咄嗟に一番目立っていた豪華なホテルを予約してしまったが、落ち着いて通りを歩いているとざっと数えるだけでもホテルは五軒以上あった。これならば、一軒が満室でも全部を当たれば一室ぐらいは余裕で予約できただろう。しかし、一番立地の良いホテルが空いていたというのはラッキーとしかいいようがない。 
 
 駐車場を移動し、ホテルのカウンターでチェックインを済ませ椎堂の荷物を半分持つ。ゆるやかにカーブしている木製の螺旋階段を上り、廊下を進むと鍵と同じルームナンバーの部屋に辿り着いた。 
 
――ここだな……。 
 
 念の為もう一度番号を確認してカードキーをドアへと翳すと、ランプが小さな音を立ててグリーンに変わりロックが外れた。 
 椎堂を先に部屋へ通し後から澪が入ると、椎堂はまっ先にバルコニーへ向かって行き、その景色に驚嘆の声を上げた。 
 
「澪! 見て見て。さっき歩いた通りも海も一望できるよ」 
 
 部屋は選べなかったのでダブルベッドであり、角部屋なので窓が多い。アイボリーのカーテンが開かれていた窓から入る風に揺れていて、真っ白な寝具を陽射しが照らす。全体的に白で統一された内装は清潔感があり、部屋をより明るく見せていた。 
 
「ほんとだ、よく見えるな」 
 
 椎堂の側へ行き、バルコニーにある少し退色したモザイクタイルをあしらった椅子に腰掛けると、椎堂は澪の向かいに腰を下ろしてテーブルに頬杖をつき部屋を眺めた。 
 
「この部屋、新婚さん用なのかな?」 
 何故か内緒話でもするような声で椎堂がそう聞いてくる。 
「どうして?」 
「だって、女性が好きそうな内装だし。それに、その……ダブルベッドだったよ」 
「ああ……、まぁ、そういう用途も多いって事なんじゃない」 
「こんな素敵なホテルに泊まるの初めてだよ、僕」 
「良かったな」 
 
 自分はそんなに部屋にはこだわらない方なので、ある程度綺麗であればそれでいい。それより、椎堂が嬉しそうな事の方が重要である。夕方が近づいてきて気温が少しずつ下がり、強い陽射しも和らいでくる。 
 一通り外を眺めた後、二人で部屋へ戻って柔らかなソファに腰を沈ませると、若干疲れからか眠くなってきた。体調は悪くないが、普段と比べて長い時間の運転、それと遠出は久々だというのもある。以前は二日ぐらい徹夜のまま店に出ても平気だった体力は、今ではすっかり落ちてしまった。これぐらいで疲労感に苛まれるのがその証拠だ。 
 
「こんなに気持ちいいと、眠くなって来ちゃうね」 
 
 椎堂がまるで澪の代弁をするようにそう言って、澪の肩に寄りかかる。多分、椎堂は別に眠くなんかなくて……、澪の体調を考慮して言っているのかも知れない。 
 澪は椎堂の肩に手を回して、寄りかかってくる頭を撫でながらそっと肩の力を抜く。 
 
「少し、休んでもいい?」 
 
 少し前の自分なら言えなかったであろう言葉を口にして、澪は椎堂の耳元に軽く触れるようなキスをした。 
 椎堂の前で無理をしてでも元気な姿を見せようとしていた自分は今はもういない。結局その無駄な努力は何も生み出さないどころか、互いの気持ちをすれ違わせただけなのがわかったからだ。くすぐったそうに肩を竦める椎堂の顔を覗き込んで、その頬にもう一度口付けを落とせば、椎堂は照れたようにはにかんで眼鏡の奥の長い睫を伏せた。 
 
「……今日、僕。三回も澪にキスされてるね」 
「そうだっけ? 嫌なら、やめるけど」 
「嫌じゃないって、僕が言ったら……。もっと沢山、キス……してくれるの?」 
「誠二がして欲しいなら、するよ? 今じゃないけどな」 
「うん。……嫌じゃないよ、……嬉しい」 
 
 椎堂が優しい笑みを浮かべて、「じゃぁ、楽しみにしちゃおうかな」と小さく呟き、自身の膝をとんとんと軽く叩く。 
 
「膝枕、してあげる。少ししたらちゃんと起こすから、安心して休んでいいよ」 
「有難う……。じゃぁ、少しだけ」 
 
 自宅と違って、澪が横になってもだいぶ余裕のあるソファに靴を脱いで足を乗せる。横になって目を閉じると様々な音が耳に届く。 
「窓開けてるからかな……、波の音がする……」 
「うん、……そうだね」 
 
 椎堂の手が自身の頭を静かに撫でるのを感じながら深く息を吐く。酷く心地よい安心感に包まれ、澪は静かに浅い眠りについた。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 それから一時間後、椎堂が起こす前に、澪は目を覚ました。「ちゃんと起こすから安心して」と言っていた椎堂が膝枕をしたまま一緒に寝ているのに気付き、思わず苦笑する。 
 このまま二人で寝入ってしまったら、念願の夕日の景色を見損ねる所だった。澪が目を覚ました事にもまだ気付いていないらしく、無防備に寝顔を見せる椎堂に澪はそっと手を伸ばす。起こすのが可哀想な気がするほどその寝顔は穏やかで、もう少し見ていたい気もするが……、今は時間が無い。 
 たまにコクリと揺れる頭が下がってきた瞬間、椎堂の額を指でつつくと椎堂は一瞬停止して「ん……」と小さく声を漏らした。 
 
「――誠二」 
 澪に小声で名を呼ばれ、椎堂が寝ぼけたまま目を開ける。 
「……う、ん……、あっ!」 
 
 自分が眠ってしまっていた事に漸く気付いたようで、椎堂は何度か瞬きをするとパッと顔を上げた。その瞬間、椎堂のポケットに入っていた携帯がアラームを鳴らす。椎堂はずれた眼鏡をクイと押し上げながらそれを取り出す。 
 
「良かった~、よしよし。ちゃんと起きれた」 
 
 一人でそう言いながら取り出した携帯のアラームをOFFにする。椎堂曰く、もしも自分が寝てしまった場合に寝過ごさぬよう、予め目覚ましアラームをかけておいたとの事。とりあえず、澪が起きなくても寝過ごす事態にはならなかったようである。 
 
「用意周到だな」 
 
 澪が笑ってそう言いながら体を起こす。一時間程休んだだけでも、ちゃんと疲労感は抜けていてすっきりしている。手櫛で髪を整えながら「膝重かった?」と澪が聞けば、椎堂は「ううん、平気だよ」と笑顔を見せた。 
 
「ねぇ、澪」 
 椎堂が立ち上がろうとする澪の手を両手で掴んで、顔を見上げる。 
「ん?」 
「僕、前より膝枕上手になったでしょ?」 
 
 そう言えば、以前一度膝枕をして貰った時に、するのが初めてだと言っていたのを思い出す。膝枕に上手も何もないとは思うが、澪の答えにちょっと心配そうな椎堂にそんな事を言えるはずもなく。澪はそっと椎堂の柔らかな髪の上に手を置いた。 
 
「だいぶ良い感じだった」 
「良かった! じゃぁ、もうベテランだね」 
「そうだな」 
 
 膝枕のベテラン称号を認めて貰って椎堂は少し得意げである。 
 
「澪が気持ちよさそうに寝てるから、僕もつい眠くなっちゃったんだよね」 
 
 言い訳っぽくそう言いながら椎堂も立ち上がり、部屋をうろうろ歩いては備品などを眺めている。洗面と一体になっているバスルームは中でガラスの仕切りがついていてバスタブの他にシャワーブースのような物もある。ひんやりとした足下の床は大理石で、まだ濡れても居ないのに照明を反射するほど輝いていた。 
 
「そろそろ日も暮れるし、浜辺の方へ行ってみる?」 
 
 澪が声をかけると、少し離れた場所から椎堂が「そうだね」と言いつつ戻ってくる。 
 荷物はそのまま部屋へ置いて、鞄一つに二人の所持品だけを入れて再びホテルの部屋を後にする。 
 
 ロビーから続くホテルについているレストランには、早めの夕飯を始めている家族連れ等が見える。中々に洒落たレストランのようなので夕飯は戻ってきてからここで済ませてもいいかな、澪はそう思いながらロビーの先の階段を下りた。 
 
 ラグーナビーチは入り江が細かくわかれており、その浜辺によって見える景色が違うという。澪達が足を伸ばしたのはホテルから降りてすぐの浜辺で、プライベートビーチではないにせよ一般の観光客は少ないようだった。 
 時刻は六時半、太陽が徐々に遠くの地平線に近づき、もうすぐその姿を隠すだろう時間である。 
 昼間の太陽の熱を孕んだ砂浜が心地よいので、靴を脱いで裸足になりその地面を肌で感じる。ちょっとだけ波打ち際に入ってみたいという椎堂の希望で、澪も椎堂の後を着いて静かに打ち寄せる波の近くに歩み寄った。 
 
 裸足でこうして海辺を歩くのなんていつぶりだろう。ずっと遠くにある記憶を辿りつつ足裏の感触に懐かしさを感じる。指の間に入り込む細かな砂が少しくすぐったく独特の感触である。 
 見る限り海は凪いでいて、波の高さもそう高くはない。左右から時間差で押し寄せる波が、浅い所で交わって白い泡を立てる。パシャリと音がして椎堂の方へ視線を向けると、少し先で椎堂は足下を海水に浸していた。 
 
「水、結構冷たいね、でもちょっと気持ちいいかも」 
 ズボンの裾を少し捲って、海へ浸かる椎堂の背中に澪は声をかける。 
「あんまり先まで行くなよ? 濡れて風邪引くから」 
「大丈夫だよ~。ちゃんと気をつけてるし」 
 
 椎堂の大丈夫はあまりあてにならない。随分静かだなと思い辺りを見渡すと、二組ほどいた周りの恋人達はいつのまにかホテルへ戻ったのかいなくなっており、小さな入り江に椎堂と澪二人だけになっていた。貸し切りのビーチというのも悪くない。 
 大きな波が来たときだけ足下を水が流れる位置に澪は立っていて、少し先に椎堂が居る。沈んでいく太陽は視界の全てを鮮やかな橙に染め上げて、その力強さは別の世界へ迷い込んだ景色のようだった。 
 
 足下に力を入れると、濡れて不安定になっている砂に指が埋まる。歩きづらいその場から足を引きあげ、澪はまだ波打ち際で浸かっている椎堂に一度振り向いた。 
 
「こっちに座ってるから、ほどほどにして戻ってこいよ」 
「うん!」 
 
 澪は、波が届かない場所まで戻って、砂浜へと腰を下ろす。濡れた足先の砂は、乾いた砂と混ざればすぐにパラパラと落ちていく。裸足のまま少し砂浜へ足を潜らせると温もりが残っていた。 
 砂浜には貝殻も特になく滑らかな状態で、自分が今つけた足跡と椎堂の足跡だけがくっきり残っている。二人の足跡は波で消される所で終わっているが、それがずっと遠く、海の中を越えて続いているように思えて、澪はその足跡を目で静かに辿っていた。 
 椎堂と出会ってから、色々な事があって今こうして二人でいる事の意味を考える。 
 夕陽に照らされた椎堂の姿は、その夕陽以上に眩しくて……。かけがえのない未来への扉と重なって見えた。 
 
 澪は砂を握りしめて、目の前でそっと掌を開いてみる。 
 指の間からこぼれ落ちていく真っ白な砂は、ざらついた僅かな感触だけを残してあっという間に掌から消えていく。誰もそれを止められないし、いくら握りしめてもきっとそれは永遠には残ってくれない。まるで時間のようでもあり、失った日常のようでもあるとふと思う。 
 
「――澪」 
 
 椎堂の声で我に返った澪が顔を上げると、椎堂が傍へきており、座る澪を見下ろして笑みを浮かべていた。考え込んでいるところを、もしかしたら見られたかも知れないと思い、咄嗟に澪も笑みを浮かべる。 
 
「もう、満足したの?」 
「うん」 
 
 「子供の時以来だよ、海になんて入ったの」そう言いながら椎堂も澪の隣に腰を下ろす。並べた素足は、こうして改めて見ると大きさがだいぶ違う。 
 
「夕陽、ロマンチックだね……。沈んでいくあの地平線の辺りも、僕たちが今見てる色と、同じなのかな……」 
「どうかな……」 
 
 日が沈むのはあっという間である。目が痛いほどの鮮やかな橙は、夜の闇と混ざりつつあって少しずつその彩度を下げていくのがわかる。 
 澪が砂浜へついている手に、椎堂はそっと自分の片手を重ねて幾度かその細い指を動かした。 
 
「一緒に来れて良かった。ひとつ夢が叶っちゃった」 
 椎堂が嬉しそうにそう言って隣の澪を見る。 
「うん、そうだな」 
 
 澪が視線を合わせると、椎堂の瞳は何故か少し潤んでいるように見えた。その理由はわからないし、気のせいなのかも知れないが。元々淡い色の瞳が夕日を受けて染まっている。映り込むその色に吸い込まれるように目が離せなくなる。 
 
「誠二……」 
「うん、なに?」 
「今……。俺と居て、幸せ?」 
「……え」 
 
 澪がそう聞いた瞬間、重ねた椎堂の指先がぴくりと動く。 
 
「勿論、凄く幸せだよ。澪は? ……澪は、そう思ってくれないの?」 
「俺も、そう思ってるよ……」 
 
 そう言った後、澪は続く言葉を言いかけるようにして口を噤んだ。澪が何か考えたいことがあると言っていたのを思いだして、椎堂は先の言葉を待つように澪の肩へ頬を寄せた。 
 押しては引いていく波の音だけが辺りをつつみ、寄りかかった先の澪の肩から体温が伝わってくる。澪は一度視線を自身の足先へ落とすと、小さく息を吐いて二回ほど空咳をした。体が冷えたのではないかと咄嗟に心配になって顔を覗き込むと、その意味に気付いた澪は、「大丈夫」とでもいうように少し微笑むと首を振った。 
 
 暫く二人で海を眺める。その間も、波は休むことなく、砂浜を撫でて二人の足跡を少しずつ消し去っていく。もうほとんど沈んでしまった太陽が、最後の灯りを消し去るのと同時に澪が徐に話出した。 
 
「この前……。高木さんに言われた……。抗癌剤治療を続けるかどうか、選択できるって」 
「……え……。……この前って、いつ?」 
「先週、だったかな……」 
「そう、なんだ……もう、返事はしたの?」 
「いや……。まだ、してない。ずっと考えてたけど、簡単に決められないし」 
「……うん……」 
「冷静に考えてるつもりだけど、どうしても自分の事だと思うと、決断が鈍るって言うか……」 
 
 澪は普段ならばかなり決断力があり、迷うことの多い椎堂はその性格を羨ましく思っているくらいだ。そんな澪が、迷って出した言葉。それにどう答えれば良いのか椎堂は躊躇って口を引き結んだ。恋人だからと言って口出ししていいような問題でも無いし、自分が意見することで澪の答えを惑わせる事もしたくないからだ。 
 澪は自嘲するように少し笑うと、視線を落とし静かに続ける。 
 
「正直……本当はやめたい。こうして、一緒に出かけたり食事したり、前は普通だった事が出来る今が、凄く嬉しいし、楽しいから……」 
「……、……」 
「再発するか。まぁ、転移かも知れないけど、……そういう「かもしれない」不確かな事のために、生活を犠牲にして……生きていく意味はあるのか、わからなくなってた」 
「……澪」 
「なぁ、誠二」 
 
 澪が横に居る椎堂へと振り向いて、頬にそっと手を添える。椎堂は切なげに眉を寄せると、何も言わずに澪の手に自分の手を重ねた。 
――頑張って。 
――大丈夫だよ。 
 幾つもの言葉が浮かんできても、それが口を出ることはなかった。重ねた掌にひたすら想いを乗せる事で精一杯だった。 
 
「……さっき、俺が誠二に「幸せか」って聞いただろ?」 
「……うん」 
「あの時、思ったんだ。俺も今、幸せだって感じてるけど、この幸せは期限付きなんじゃないかって」 
「……期限。……って……」 
「言い方は良くないけど、俺がこの先、治療を止めて生きていられる期限の事。それが何十年も後なのか、数ヶ月もないのかは誰にもわからないけど。少なくとも、今治療を止めたら、その期限が来る可能性が高まるだろ」 
「そ、それは、……」 
 
 椎堂の中で、否定の言葉が喉元まで出掛かった。「そんな事ない! 治療をやめたって大丈夫だよ」と。だけど、その言葉は『そうであって欲しい』という希望なだけであり、医者としても恋人としてもそんな上辺だけの慰めを言えるはずがなかった。 
 澪の言っていることは真実で。真実だからこそ認めてしまうのも怖い。人が死んでいくのには職業柄慣れているはずなのに、隣に居る澪がいなくなる事を想像しただけで正気では居られそうもない自分が容易く想像できる。背筋がぞくりとし、椎堂は思わず澪のシャツをぎゅっと握りしめた。 
 
「俺は、……期限付きの仮初めの幸せが欲しいわけじゃないんだって……あの瞬間、そう思った」 
「……」 
「この先も、ずっと二人でこうして、一緒に過ごせるようにしたい。……それしか答えはないはずなのに、目先の幸せに抗えない自分がいて……。情けないよな」 
「……澪、ううん。そんな事ない。僕が澪と同じ状況だったら、もっともっと迷って、答えだって出せないままだと思う」 
「……そうかな」 
「絶対そうなるよ」 
 
 澪は一度髪をかき上げて、砂浜で重ねている方の手をそっと離した。 
 
「俺は……」 
「……」 
「……治療を続けようと思う。未来が欲しいんだ……。誠二と、俺の……」 
 
 少しだけ困ったように微笑んでそう告げた澪の選択が、どれだけ重い物なのかが痛いほどに伝わって、椎堂の胸はぎゅっと苦しくなった。ようやく今副作用の苦しみから一時期解放されているのに、また逆戻りになるかも知れない不安は、どんなに椎堂が想像をしても本人には到底及ばない。 
 
 治療を続けるか止めるか、二択しか無いはずなのにそのどちらを選んでも乗り越えて行かねばならない時間の中には、残酷な現実がある。 
 すっかり暗くなった砂浜には、いつのまにか外灯が灯っていて、二人の影を浜辺に長く映し出している。 
 
「――誠二、……」 
 
 澪が一度椎堂の名前を呼び、何かをぐっと堪えるように俯いた。 
 
 外灯の明かりも、澪の俯いた表情を照らすまでは届かず、その表情はわからないままだ。サラサラと前にこぼれ落ちる澪の前髪が、海から吹き付ける風で揺れて乱れる。澪は離していた手を再び椎堂の指と絡めると、確かにそこに居るのを何度も確認するように強く握りしめた。 
 
「また暫く、こういう事出来なくなるけど……。ごめん……。いっぱい迷惑も掛けると思うし、辛い思いもさせるかもしれない……。本当に、ごめんな」 
「――澪」 
 
 澪の握った手は僅かに震えていて、その不安や覚悟が突き刺さる。椎堂は思わず澪の体に腕を伸ばし抱き締めた。澪の気持ちを思うと溢れそうになる涙を堪えて、必死で抱く腕に力を込めた。 
 
「……誠二が居れば、俺、頑張れるから、……傍に居て、支えて欲しい……」 
「そんなの……澪が嫌だって言っても、僕はずっと傍にいるよ」 
 
 もっと沢山励ましたいのに、こんな時に限ってまるで言葉を忘れたように次の言葉が出てこない。うまい言葉が見つからないまま、もどかしいぐらいに『好き』を伝えたくて……。 
 椎堂は、澪を抱き締める腕をそっと解くと、そのまま澪の唇に自分の唇を重ねた。 
 
「澪、……僕は、澪にお願いされたから傍に居るんじゃないよ。僕の意思で……今、ここに居るんだ」 
「……、……」 
 
 椎堂が優しい笑みを浮かべて、澪の胸元に頭を寄せ目を閉じる。澪の長い腕が背中を撫でるのを感じながら、小さく呟く言葉は、波の音に混ざって澪の中へと浸透していった。 
 
「ねぇ、澪。僕ね、澪と一緒に暮らすようになってからずっと思ってたことがあるんだ」 
「……なに?」 
「どうして、僕は……神様じゃないんだろうって……」 
「……え?」 
「僕が神様で、澪を助けてあげられたらいいのにって、ずっと思ってた。でも、……どう頑張っても、僕はやっぱりただの人間だから……。でもね、それでも、澪の言う辛い事とか悲しい事とか、澪と一緒に感じて生きていけるなら、それは辛い事なんかじゃなくて、僕にとっては幸せでもあるんだって。……気付いたんだ。神様じゃなくていい……。澪と一緒に生きていける人間で良かったって今は思ってる」 
「…………」 
「何が幸せで、何が幸せじゃないかなんて。過ぎ去ったずーっと先にしか本当の事は分からない物なんだと僕は思う。だからね、澪の言う仮初めの幸せも、本当の幸せなんだよ。それがわかる頃には、もっと楽しい事や嬉しい事があって、その時もまた幸せなの。澪のこれから先の人生で、僕が傍に居られること。僕はそれ以上は何も要らない。澪が一番大切……」 
「誠二……」 
「……あっ……。えっと。ごめん、重いよね……、こんな事言ったら……」 
 
 椎堂は慌てたように澪の胸から頭を離し、「失敗した」とでもいうように視線を泳がせ頬を掻いた。 
 
「ちゃんと嬉しいよ。……有難う」 
 
 澪は椎堂の腕を掴んで、その唇を塞ぐ。夜の闇が静かに二人の姿を見守って、時間が停止したかのようだった。 
 気温も下がり、元々日中との寒暖差が激しい地域というのも相まって肌寒いくらいである。半袖で露出した椎堂の腕は冷たくて、澪は口付けながらその腕をさする。砂浜に視線を移せば、二人が付けた足跡はもうすっかり全部消えていた。 
 
「そろそろ、戻るか。冷えてきたし」 
「う、うん……」 
 
 澪の口付けでぼーっとしている椎堂を、先に腰を上げた澪が手を伸ばして起こす。互いにズボンについた砂を手で払って、そのまま何も話さずに手を繋いでホテルへと来た道を戻る。階段を上る先から、楽しげな声が聞こえ、先程の夕日とは又別の温かな明るさが周囲に充ちていた。ゆっくり動き出した時計の針が時を刻むように。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 来た時に予定していたホテル付きのレストランで夕食を食べ、部屋に戻った頃には10時を回っていた。昼と違い、一人ずつメニューをとる事はせず、幾つかのメニューを頼んで二人で取り分けて食べた。どれも味が良くて、ここ最近で一番量を食べられたかもしれない。 
 
「お腹いっぱいだね~。美味しかった!」 
 
 椎堂が満足そうにそういって、広いベッドに仰向けに転がる。サイズの広いダブルベッドの上では、椎堂が後二回転ほど寝返りを打っても大丈夫そうな余裕がある。徐に天井へ向かって手を上げ、じっと指先を見ている椎堂を不思議に思い、澪は傍によると同じように椎堂の指先へ視線を向けた。 
 
「何してんの?」 
「んー。僕の指は五本だなって思って、見てる」 
「当たり前だろ」 
「うん、そうなんだけどね。後一本多かったら、今出来ない事も出来るのかなって思って」 
 
 自分はまだ酒は飲めないが、それに合わせて椎堂にも我慢させるのは嫌なので、先程夕食時には何杯か椎堂は酒を飲んでいる。だからといって突然そんな事を言い出す椎堂は、別に酔っているわけではない。真面目な顔でじっと指先を見る椎堂のこういう発言はいつもの事なのだ。 
 
「出来ない事って? 具体的に何かしたいわけ?」 
 椎堂は澪のその問いに、少し考えた後ベッドへバタンと腕を下ろした。 
「シェフ顔負けの料理が作れちゃうとか」 
「それだけかよ」 
「後は……。PCにカルテ入力するとき、目にもとまらぬ早業でタイピングできるとか」 
「まぁ……。それはいけそうだな」 
「でしょ?」 
「でも、料理の腕は数こなせば極められるかもだし、タイピングも練習すれば早くなると思うけど。勿論、五本のままで」 
「うぅ……確かに、そうだね……。じゃぁ、澪は?」 
 
 指が多かった場合の可能性についてなんて生まれてから一度も考えた事が無いし、急に質問されても困ってしまう。「うーん」と呟いたまま考えている澪に、椎堂は寝返りを打ち、横になって頬杖をつく澪の傍に寄って悪戯に澪にちょっかいを出してくる。 
 ふざけて首筋にキスする椎堂が油断している隙に、澪は椎堂の腕を素早く掴むとベッドへと押しつけた。形勢を逆転され、再び仰向けにされた椎堂が、少しびっくりしたように目をパチパチさせる。 
 
「何かしたいわけじゃないけど、指が多かったら……」 
 
 椎堂の耳元に近づいて囁く澪の声に、椎堂は顔を赤らめた。 
 
「もっと愛撫がうまくなれるかも」 
「そ、それは……えっと……」 
「冗談。俺は、五本で十分だな」 
「そう、ですか」 
 
 動揺して急に丁寧語になった椎堂に思わず吹き出し、押さえつけていた手首から手を離す。椎堂はガバッとベッドから起き上がると、「僕、先にシャワーを浴びてくるね」と言い残して背を向けたまま鞄からバスタオルや着替えを取り出すとシャワールームへ入っていった。 
 
 本当にからかい甲斐がある。真っ赤になって慌てている椎堂を思いだして、澪は再び口元を緩め、自身もベッドから起き上がってそのままバルコニーへ向かった。 
 
 大きな外開きのガラスドアをあけて外へ出てみると、通りは外灯のせいで明るいが、その光も浜辺までは届かず海の方はもう真っ暗だった。目をこらすと、波がうっすらと見えはするが、細かい動きまではよく見えない。昼間に見た時とは全く違った景色だった。 
 時々強く吹き付ける海風は冷たくて、長袖のシャツを羽織っているにも関わらず寒いくらいだ。潮の匂いのする冷たい空気を、深く吸い込んで、澪は手摺りに腕を置いて顎を乗せ、長く息を吐いた。 
 
 目を閉じると、夕方に見た鮮やかな橙色が瞼の裏に浮かんできて、自分の言った言葉や椎堂の言葉が再生される。楽しそうに笑って、自分に振り向く椎堂はとても綺麗で……。そんな記憶に刻まれた新しい想い出。 
 一つ増えたそれが澪の胸の中で、今までの想い出の上に静かに重なる。 
 目を開けてフと遠くの空を見上げれば、東京に居た頃と何も変わらない月がくっきりと浮かんでいるのが見えた。 
 
 どこに居ても、自分の立っている場所の隣には椎堂が居る今。共に歩む事が出来る、その事の大切さが身に染みる。一日一日が終わっていく事より、終わりの続きに明日がある事を信じたいと今は思う。 
 
 暫くそうした後、椎堂が中々あがってこないと思い部屋の方を確認すると、丁度椎堂がシャワールームから出て来た所だった。 
 バルコニーにいつまでもいたら風邪を引きそうなので、澪も部屋へと戻ることにした。 
 
「お先に使わせて貰ったよ。足の指の間にね、砂がまだいっぱいついてたんだ。洗うの大変だったよ」 
 
 だから長風呂だったとの言い訳なのか、椎堂がそんな事を言う。 
 
「澪もシャワー浴びるでしょ」 
「ああ、うん、俺も浴びてくる」 
 
 頭に真っ白なタオルを被った椎堂が、部屋に用意されていたバスローブを手に取り。肩に羽織って呟く。 
 
「あれ……。僕には……結構大きいかも……」 
 
 肩から大分ずり落ちているバスローブの首元をぎゅっと掴んで椎堂が困ったように眉を寄せる。男二人で予約しているのだから、バスローブも当然男物だ。ぶかぶかのそれに椎堂が不満そうなのをみて、澪は笑うとそのままシャワールームへと入っていた。 
 先に椎堂が浴びているので、鏡はすでに曇っていて何も映さない。 
 痛いほどの水圧のシャワーを出しつつ、壁のフックに掛けて澪は頭からそれを被った。後ろに流していた前髪が、濡れて前へと落ちてくる。掻き上げながらシャンプーを手に取り泡立てると、自宅の物とはまた違った柑橘系の香りがした。 
 
 
 
 全身を洗い終え、澪がバスルームを出ると椎堂はベッドに転がって雑誌を読んでいた。宿泊客用に用意されている現地の観光案内を兼ねているそれは、先ほど時間のあるときにパラパラと少し捲ってみたが、ほぼ店の宣伝だった。 
 喉が渇いたので、そのまま冷蔵庫にいれてあったミネラルウォーターを手に取って澪がベッドの脇へと腰掛けると、椎堂が雑誌を閉じて澪へと振り向く。 
 
「昼に見たお店が何軒か載ってたよ。あとね、行ってみたいお店を発見したから、明日寄ってから帰ろう?」 
「いいけど、場所わかんの?」 
「うん、何となくだけど。マグカップを買ったお店があったよね。その並びだと思う」 
「へぇ、それなら近いな」 
「うんうん」 
 
 よく髪の毛を拭いてから、洗面所でドライヤーをかけようと立ち上がった所で椎堂へ振り向くと、案の定椎堂の髪はまだ濡れたままだった。「僕は、自然乾燥派なんだ」とは本人の弁だが、多分乾かすのが面倒なだけだと思う。 
 予備にあった乾いたタオルを手に取って、澪は再びベッドへ戻ると此方に背を向けている椎堂の頭にそれをばさりと被せた。 
 
「うわっ、澪!?」 
 
 視界を塞がれて椎堂が慌てて首を振る。そのまま乱暴に椎堂の頭をガシガシと拭いてタオルを外すと、半乾きの柔らかな髪はパーマをかけたような状態になっていた。 
 
「髪の毛、クルクルだな」 
 澪が笑いを堪えていると、椎堂は「もう!」と口を尖らせて澪からタオルを奪って隠すようにそれをかぶった。 
「何で隠すんだよ」 
 タオルで隠された椎堂の顔を覗き込むと、椎堂に睨まれた。 
 
「だって澪、僕の癖毛のこと面白がってるでしょ……僕だってね、澪みたいにサラサラが良かったんだ……」 
「ごめんごめん、別にからかったわけじゃないって」 
 椎堂がタオルをするりと外して澪を見上げる。 
「いいじゃん、癖毛でも。俺は好きだけど」 
「そ、そんな事言って……ごまかそうとして……」 
「本当だって」 
 
 澪が宥めるようにキスをすると、椎堂が握っていたタオルをぎゅっと掴んだのが視界の隅にうつった。 
 サイズの合っていないバスローブは、澪が手を掛けてずらせばすぐにはだけて、椎堂の白い躯を露出させる。ゆっくりとキスをしながらベッドへと押し倒すと、椎堂の髪がその反動で軽やかに舞う。同じシャンプーの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。 
 
「誠二の髪も……、声も、躯も……。全部、好きだよ」 
 
 左右にすっと伸びた鎖骨のラインを指でなぞり、椎堂の肌の感触を確かめるように掌をあてながらそう言って見つめると、椎堂はみるみるうちに赤くなって、消え入りそうな声で澪の名を呼んだ。優しく撫でる指先とは裏腹に、今すぐ椎堂の事を抱きたくなる。いつも途中でもやめられるように、理性の箍を外さないよう抑えているのに、今夜はそう出来るのか自信が無い……。 
 
 今すぐ躯を離せば……まだ間に合う。そう思っているのに、止められなかった。乾いた躯と、それ以上に渇いた心が水を求めるように。触れたくて伸ばした指先が椎堂へ辿り着けばもうそれは、引き戻せない。 
 
「澪……、えっと、髪が、まだ濡れてるよ……?」 
「知ってる……。俺も、自然乾燥派なんだ」 
 
 そんな冗談ともつかない事を言って、口付けを続ける。「嘘ばっかり……」少し笑ってそう漏らす椎堂の薄い唇を舌でなぞって開かせ言葉を止める。僅かに開いたその中で互いの舌を絡め合う。 
 
「……んっ」 
 
 呼吸を奪うように深く繰り返す口付けに、椎堂は鼻から抜けるような吐息を吐いて、ゆっくりと瞼を閉じた。澪は、その瞼へも軽くキスをし、寸分なく縁取られた長い睫を悪戯に唇で食んだ。 
 
「んっ、……くすぐったいよ、澪……」 
 
 瞬きをして揺れる睫から唇を外し、澪は椎堂の項を指でなで上げて首筋に噛みつくようにきつく口付ける。全身から力が抜けていくような感覚が椎堂を襲い、そのまま澪の愛撫に身を委ね快感を受け入れていた。 
 甘くて疼く胸の内が、まだ口付けしかしていないにも関わらず熱くなっていく。口付けが徐々に移動し、浮き出た椎堂の喉仏に辿り着く。片手で器用に抜き取られたバスローブの紐をベッドの脇へと放って、澪は椎堂の裸体を眺めた後一度長く息を吐いた。 
 感じて小さく尖る椎堂の乳首を口に含み、澪の熱い口内でねぶられれば熟れた感覚が駆け上がり呼吸が弾んで乱れていく。 
 
「ぁッ、澪、……待っ、」 
 
 ふと部屋の明るさに気付き、急に恥ずかしくなって椎堂は枕元のスイッチに手を伸ばすと明かりを絞った。それでも、ベッド周辺以外はそのままなので真っ暗ではない。――間接照明の淡い光が枕元だけを優しく照らす。 
 
「何で消すんだよ」 
 
 囁くようにそう問えば、澪が予想していた答えが返ってくる。 
 
「……明るいと……恥ずかしいから」 
「折角、綺麗な躯なのに」 
「……そんな事言うの、澪だけだよ……」 
「当たり前だろ? 他の奴にこんな事言わせるつもりないけど」 
 
 澪はそう言って、からかうように椎堂の鼻先にチュッと音を立てて口付ける。普段あまり焼きもちをやくほうではない澪のそんな言葉を聞けば、それだけで嬉しくなる。愛されている実感なんて、いくらでも日常で感じる事が出来ているのに、もっと澪を独占したくなって、そんな自分が少し怖い。椎堂は、感じるままに熱い吐息を漏らすと、腰の辺りで愛撫を続ける澪の髪の毛に指を絡ませた。 
 
「……澪の髪、……ちょっと、冷たいね……」 
「…………まだ、濡れてるからじゃない」 
 
 澪の言葉通り、少し湿っている澪の髪が、椎堂の指につるりと滑ってこぼれ落ちる。澪が腰骨を舌で辿った後、足を開かせて柔らかな内腿を吸い上げる。日にも晒されないその皮膚は透き通るように白く敏感で、唇が触れる度に痺れるような感覚が椎堂を襲う。少し同じ箇所に口付けるだけでも、肌にはその跡がうっすらと残った。 
 
「ぁっ……、……っ」 
 
 咄嗟に漏れてしまった声に、椎堂は慌てて自身の手の甲で口を塞ぐと、堪えるように細く震える息を吐き出した。時間を掛けた丁寧な澪の愛撫に翻弄されれば、眠っていた躯中の感覚が目覚めていく。 
 
「――誠二」 
「ん、っ……うん、」 
 
 足を開かされたまま、澪の方に視線を落とすと、淫らな自らの肢体の傍で、澪が辛そうに眉を顰めその動きを止めているのが見えた。澪の押し殺した息遣いが微かに耳に届き、椎堂ははっとして声をかける。 
 
「……っ、み、お?」 
「……悪い、何でも無い……」 
 
 澪は吐き出せない性欲から少しでも気を紛らわそうと何度か深く息を吸っては吐き出す。 
――大丈夫、いつもしてる事だろ。 
 暗示のように何度も自分に言い聞かせ、漸く少し落ち着いて顔を上げると、いつのまにか起き上がっていた椎堂が、澪の首筋に手を添えて唇を重ねた。そのまま澪の勃ちあがって硬くなっているそれに手を伸ばし、優しく掌で包む。 
 
「誠二、……今は、マジでまずいって……」 
「いいから。僕の好きにさせて……」 
 
 椎堂は口付けながらも澪の言葉を聞き入れず、その手を上下に動かす。 
 
「……、おい、だめだって」 
 
 口付けを一度外した椎堂が、澪を見つめ口を開く。 
 
「ダメじゃないよ。何にでも、ね。特別があるんだ。今日だけはその特別、……お願い、澪。僕にもさせて」 
「……、……」 
 
 今夜の椎堂は強引で。返事を待たずして、澪のペニスを指で支えて口に含むと舌で竿を濡らしていく。元々我慢をしているだけで、嫌なわけではないのだ。「お願い」とねだられ迫られれば、強く拒絶する方が難しい。最近自慰をする回数も減って堪っていた欲望は、久々のそれに容易く反応する。椎堂の熱い口内に迎えられ、柔らかな唇で扱かれれば、やはりそれは自慰とは比べものにならない快感で。 
 
 自分の物を口に含む椎堂の姿が澪の欲情を煽った。少し乱れる呼吸で息を詰める澪が、ふと椎堂の躯へ視線を落とす。 
 咥える口元、伏せた目元、添える指先は椎堂の濡らした唾液で濡れていて、頬は上気してうっすらと染まっていた。椎堂の誘うようなその姿を見ているだけで硬さが増していく。 
 
 のぼってくる射精感に息を呑んだ瞬間、澪は、いつもと違う椎堂の変化に気付いた。 
 
――…………!? 
 
 椎堂のペニスがすっかり勃起していたからだ。いくら感じても機能しなかった椎堂のそれが自分と同じように勃ちあがっている。見た瞬間、例えようのない嬉しさと、安堵がないまぜになって澪の胸の内をあっという間に満たした。驚きにより一瞬冷えた欲望が冷静さを取り戻させる。澪はほっとしたように息を吐き、優しい笑みを浮かべて椎堂の頭に手を置いた。 
 
「誠二、もう……十分だよ。凄く、気持ち良かった……」 
「……澪、でもまだ……」 
 
 澪の下腹部に顔を埋める椎堂を起こして、視線を椎堂のペニスへ向ける。夢中になって口淫をしていた椎堂もそれに気付いて、短く息を吐いた。 
 
「あっ、……っ、み、澪、……僕、……、」 
 
 焦って何かを言いかける椎堂に、澪は「しーっ」っと秘密の合図のように人差し指を立て、椎堂に腕を回してぎゅっと抱き締め「……良かった」と一言だけ呟いた。突然訪れた体の変化に戸惑う椎堂の唇を塞ぎ、見上げる濡れた瞳を安心させるように頬を撫でて囁く。 
 
「いいから、あまり意識するな。……いつも通りで」 
「……うん」 
「誠二……愛してる……」 
 
 愛しそうに目を細め、優しい声で安心させてくれる澪の口付けを受けながら、まだ信じられない思いで椎堂はもう一度それを確認するように手探りで触れてみる。本当に自らのペニスが勃っている。これで、もう澪に辛い我慢を強いる事もなくなるのだというのが最初に感じた事だった。その事が嬉しくて涙が急に溢れだす。 
 
「……みお、……み、お」 
 
 涙声で澪の名を口にすると、あやすよう抱き締めてその背中をポンポンと澪が撫でてくれる。少し汗ばんだ互いの躯が、密着するほどに近くて、何かから解放されたかのように言葉にしない思いを伝え合う。 
 辛抱強く何度も何度も最後まで出来ないセックスを繰り返し、澪は一度だって嫌な顔をしなかったし諦めたりもしなかった。 
 
 行為の後、澪が一人で処理をしている事に途中から気付いた時には、罪悪感で押し潰されそうになった。だけど、その事を澪からは一回も告げられたことは無い。行為の後、澪はその罪悪感までをも受け止めるように優しく何度も口づけて強く抱き締めてくれた。行動で示す澪の愛情がずっと自分を支えてきたのだ。 
 椎堂の双眸から溢れ出る涙は中々止まらず、滑らかな頬に次々と流れては嗚咽が漏れる。 
 
「……み、お」 
「ほら……、そんなに泣くなって」 
 
 澪が椎堂の涙を指の腹で拭う。涙で濡れた少し塩辛い唇を舌でなぞって、重ねた唇。いつもと同じ口付けのはずなのに、それは全然別の物に感じた。より深く、より熱く、蕩けるような口付けが互いの体内の熱をどんどん上げる。 
 
「っ、ふ、……ぁ、澪、」 
 
 椎堂のペニスの先からは先走りが溢れ、澪の口付けだけで達してしまいそうになっていた。燻っていた今までの快感とは次元の違う感覚。ダイレクトに反映される愉悦は、苦しいほどに強くてくらりと目眩がした。 
 
「キスだけで、……イきそう……僕、……」 
 
 こんなに早く達してしまうことの恥ずかしさから、曖昧な笑みを浮かべてそう告げる椎堂を追い立てるように、澪は大きな掌で椎堂のペニスを包んだ。緩急を付けたその動きが堪らず思わず腰を引いて逃げそうになってしまう。 
 
「ァッ、だ、ダメ、……みぉ、イく、……ホントに、イっちゃう、から」 
「イっていいよ。一回、予行練習ってことで……。このままだと、苦しいだろ」 
 
 澪は手を止めることもなく、指先で軽く扱く。親指の腹で先走りの滲む鈴口を弄られ、痛さのギリギリ手前の刺激を与えられる。堪えきれない欲望が昂ぶって小さく震えた。追い詰められるような苦しさと、それ以上の快感が一気に訪れる。 
 
「んっ、ん、……っっ、っう、ぁッッ!」 
 
 椎堂の躯が一瞬硬直し、白い喉が僅かに反る。澪の手の中でペニスが膨張する。鈴口から一気に放たれた白濁が澪の指を濡らして、こぼれ落ちた。ハァハァと酸素を求め喘ぐ椎堂の、ぬるぬるとした精液を絡めたまま、搾り取るようにカリの部分を押し上げれば、残滓がどっと溢れ、動かす澪の指がくちゅくちゅとという卑猥な音を部屋に響かせた。 
 
「少し、楽になった?」 
「っ、は、ぁ。……、……、う、ん、」 
 
 澪が軽く手を拭きながら、いつも椎堂が使っているハンドクリームの場所を聞く。前に、手が荒れるからワセリンのクリームを塗っていると話した事があったのを覚えていたのだろう。ローションを持ち歩いているわけもないので、それは適切な選択肢とも言える。 
 澪がベッド脇へと置いてある鞄から目的の物を取り出して持ってくる。一度ラベルを見て蓋を外すとチューブから絞り出してたっぷりと指に絡めた。 
 
「大丈夫? 後ろ、触るよ?」 
「う、うん」 
 
 澪が緊張をほぐすように何度か口付けをし、左手の長い指で優しく髪を幾度か梳く。 
 椎堂の膝を抱え、少し腰を浮かせると後ろまでよく見えるようになる。その体勢に羞恥し、「……やっ、」と短く喘いだ椎堂と目が合うと、その目元もうっすらと赤く染まっていて、扇情的なその様子がより一層澪の欲望を焚きつけて誘う。 
 何本かの指で固まったワセリンを溶かすと、窄まりへそっと指を伸ばした。椎堂は勿論初めてではないが、使われていないそこはやはり硬く締まっていて澪の指でさえすぐには受け入れそうに無かった。 
 
「痛かったら言って……」 
 
 時間を掛けて襞を開くように揉んでいく澪の指先に、次第に強ばりが取れて椎堂の中が蠢く。その動きだけでゾクゾクする愉悦が背筋を通って駆け上がった。 
 
「っ平、気……」 
 
 痛いかどうかに関しては言葉通り。だけど、これ以上の悦さに耐えられるかどうかに関してはわからなかった。気持ちが通じ合って、愛する人とするセックスが初めてである事。経験の無いそれは、知ることの出来なかった先を甘く想像させる。 
 
 滑るように伸ばしたワセリンがいやらしく光ってすべりを良くする頃、澪の指がつぷりと差し込まれ、中をゆっくりとかき混ぜながら広げていく。澪の指が自分に入っているというだけで興奮するのを知られたくなくて、椎堂は自身を咎めるように声を殺して唇を閉じた。 
 目を閉じると、全神経が澪の指に集中する。徐々に増やされた指が内壁をこする度に声が上がりそうになる。 
 
「澪、っぅ……、ん、っ……、」 
 
 只管控えめに声を落とす椎堂の限界を崩すように、澪の指は快楽の在り処を探り当てると指の腹で幾度かその部分を撫でた。思わず腰が跳ねそうになり突き抜ける快感が一瞬にして躯を支配する。 
 
「ァっ! ……ッッ、……」 
 
 前で揺れる椎堂のペニスは、抑えている声を代返するかのように淫らに再び蜜を溢れさせる。 
 すっと抜かれた指先の代わりに、澪が熱い先端を窄まりへとあてがう。先程口でした際に、その硬さと大きさに圧倒されたが、それが中へ挿入ってくるのだと思うと例えようのない気持ちが膨れあがった。 
 
「……いい?」 
 
 短く一言だけ確認を取る澪も、余裕が削られているのがわかる。その返事に一度頷くと、グイと押し込むように澪が中へと入ってくる。念入りにほぐされた窄まりは、先さえ入りさえすれば、後はするりと呑み込むように澪へ絡みつきながら奥へといざなった。 
 
「……、……。……誠二」 
 
 全てがおさまると、澪が詰めていた息を吐き出す。担がれている椎堂の両足は、その圧迫感に指先をピクリと痙攣させた。 
 
「みお、……澪、っ、……」 
 
 ずっとこうして抱かれる日を夢見ていて、今それが現実の物となった事。嬉しくて嬉しくて、心が喜びに震えた。澪も同じように感じてくれているのがその表情からも伝わってくる。 
 
「動く、ぞ……」 
 
 最初はゆっくりと、感覚を確かめるように浅い場所で抽挿され、徐々に澪が突き上げる深さが奥まっていく。角度を変え、椎堂の快楽のありかを擦り上げるようにして奥へまっすぐ届くそれに、苦しさを越えた愉悦が絶え間なく訪れる。 
 
「んっ……、っ、……ぁっ……、」 
 
 少し荒々しいそのセックスが互いの隅にかろうじて残る理性を押し出していく。引き抜く寸前で最奥へ一気に収められる。二人を支えるベッドのスプリングが激しく軋み、絶え間ない荒い息遣いと重なって生々しい性の世界を否応なしに突きつける。貪欲な躯は、澪を受け入れた喜びだけでは満足せず、もっと奥まで揺さぶられたいと求めてくる。 
 
「……誠二、声。我慢してる?」 
「ッ、……んっ、だ、だって……、変な声、でちゃ、……ッら」 
「変じゃないって……、誠二の声、もっときかせて。……。すげぇ、興奮する……」 
 
 澪が上半身を屈めて、椎堂のペニスを手で握る。後ろを突かれながら、前も刺激されれば。はしたないと抑えていた声も、もう澪に言われなくても我慢するのは難しくなってくる。 
 口元から濡れた熱い吐息とともに漏れ出す快楽の色を滲ませた自身の声は、自分でもこんな声が出るのかと思うほど卑猥で耳を塞ぎたくなる。 
 
「ァッ、……あぁっ、……ぅ、……っく、……んん、」 
 
 眼鏡がないのでぼやける視界の中でも、視線を上げれば澪が眉を寄せて苦悶の表情で快楽を享受しているのがわかった。普段は見られない、自分だけが見ることが出来る澪のその表情。 
 首筋に細く光る汗も、若さ故の張りのある躯も、整った鼻梁や意志の強そうな瞳も。全て今は自分が独占しているのだ。男の色気を放つ澪の魅力に酔わされて、じわじわと浸食してくる酩酊感。心音がめちゃくちゃに早鐘を打ち、もう限界が近い。澪に握られている椎堂のペニスは、今にも爆ぜそうに脈打って張り詰めていた。 
 時々回されるように揺さぶられ、宙に浮く腰が、澪を捉えて追従する。 
 
「もう、イく、……。イっちゃ、う、澪ッ、……ぁ、ァッ、ぅッ、っ……」 
「俺も、……イきそう」 
 
 澪が椎堂のペニスを握る手に少し力を込めて上下に扱く。 
 
「ぁッ、ああっ、……ハ、ァ、……っん、み、お……っ!!!」 
 
 目の前がチカチカして一瞬暗くなる。限界を超えた愉悦に震え、勢いよく射精した飛沫が椎堂の首筋にまで飛んだ。椎堂がイった瞬間、内壁がぎゅっと締まり澪が低く呻く。 
 
「……っう、…………」 
 
 きつく眉根を寄せ息を詰めると澪もその中で欲望の跡を刻んだ。 
 
 射精した後も、澪のペニスが中でビクビクと痙攣して動くのが感じられる。ズルリと抜かれ、澪はシーツに手を突くと、乱れた呼吸を整えるために忙しなく息を吐き出した。こめかみから流れた汗が、俯いた澪の顎を伝ってシーツへとポタリと落ちる。 
 
 直後ドサッとベッドへうつ伏せに倒れ込んだ澪が、まだ治まらず激しく上下する椎堂の胸に頭を乗せた。 
 力を抜いたその澪の重みが愛しくて、椎堂は汗ばんだ澪の髪を撫でた。ちょっとだけ甘えたような澪の行動が珍しくて、思わず抱き締めたくなる。愛しくて大好きで、――大切な人。 
 
 暫く落ち着くまでの間、部屋には二人の息遣いだけが響いていた。 
 
「……澪」 
 
 澪は目を閉じたまま気だるそうに「んー?」とだけ返事をして、椎堂の躯のうえに腕も乗せた。 
 
「大丈夫?」 
 
 問いかけながら、乗せられた腕の先で指を絡ませる。澪がぎゅっと握り返してきたのが嬉しくて、もう一度力を入れると澪に小さく笑われた。 
 
「俺は大丈夫だけど。っていうか、それ、俺の台詞。からだ、辛くない?」 
「……うん、大丈夫だよ。……凄く嬉しかった……その……、澪と繋がれたから」 
「そっか……。良かった、……安心した」 
「……澪、」 
「ん?」 
「あのね……、有難う。一緒に治してくれて……。澪は、僕の主治医だね」 
「……じゃぁ、治療は継続するけど、いい?」 
「うん……もちろん……」 
 
 澪は苦笑すると、軽く椎堂に口付けてベッドから起き上がった。澪の体調を思うと少し心配になったが、それは杞憂で終わりそうである。セックスが終わって、一時の快楽とは違う穏やかな幸福感が椎堂を包む。好きな人に抱かれることの喜びが満たしたのは、躯だけではないのだと身をもって実感する。セックスが気持ちいい物なのだと初めて知った瞬間だった。 
 
 「汗掻いたしシャワー浴びてくる」と離れていく澪に急に寂しくなって、椎堂は行こうとする澪の腕を、咄嗟に掴んだ。 
 
「待って、澪。……僕も……、一緒に入っちゃだめ?」 
 澪はちょっとだけ困ったような表情をし、だけれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。 
「二人はどう考えても狭いと思うけど、まぁ……いっか。……んじゃ、入るぞ」 
「うん!」 
 
 椎堂は、澪の腕に甘えて体重を掛けると、顔を見上げて幸せそうに微笑んだ。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 狭いバスルームで体を洗いあって、浴室から出た頃にはすっかり火照った体も落ち着いていた。 
 今、椎堂の髪は完全に乾いている。何故かというと、澪にドライヤーで髪を乾かされたからである。その後どうでもいいテレビ番組を見て二人で笑い合う。結構時刻も遅かったので、少ししてテレビも消して大きなベッドへ潜り込んだ。 
 自宅では一人用のベッドに二人で寝ているので、その癖もあってか少し落ち着かない気分である。 
 向かい合って横になっていると、澪が目の前にある椎堂の手首を掴んで引き寄せた。薬指に視線をとめて、先をちょっとだけ触る。 
 
「ここ、まだ少し赤くなってる」 
「ああ、うん……。昼食べた時に火傷した所だね」 
「痛い?」 
「ううん、そんなには。たいしたことないよ」 
 
 言われるまで気付かないほどだから、本当にたいした事ではない。だけど、触られるとほんの少しズキリとした。 
 
「すぐ冷やせば良かったな……」 
 
 澪はちょっと心配そうにそう言うと、突然椎堂の指先を口に含んだ。 
 
「っ!?」 
 
 舌先で何度か舐められ、椎堂がびっくりしてそれを見ていると、澪が「なに?」と不思議そうに指を離す。 
 
「舐めたら、早く治るかもしれないだろ?」 
「えっ? あ、うん。そ、そうだね」 
 
 自然にそんな事が出来てしまう澪は、やはり凄いと思ってしまう。舐められた指先がまたジンジンするのは火傷のせいではなくて、それは多分澪のせい……。 
 
「誠二」 
 
 ドキドキしていると体ごと引き寄せられ、澪の腕の中に抱かれた。 
 
「怪我とか、気をつけろよ?」 
「……うん」 
「ちょっとでも、誠二が傷つくのが嫌なんだ……、心配……だから……」 
 
 そう言って、すぐに澪は寝てしまったようで微かな寝息が椎堂の耳に届く。今日は朝から運転をしたり、街を散策したり、海へ行ったりと、いつもよりかなり動いたので澪も相当疲れたのだと思う。 
 
 椎堂は、澪の腕に抱かれてその心音を聞きながら目を閉じる。暫くまたこういう事が出来なくなると言って謝る澪の姿を、夕陽の景色と共に思いだしていた。自分が何気なく言った希望を叶えてくれて、こんな素敵な想い出を作ってくれた事。例えこの先何年も遠出が出来なくなったとしても、満足だった。 
 
 今日のことは、何年経っても、何十年経ってもきっと忘れないと思う。 
 治療を続ける選択をした澪の覚悟。傍に居て支えていけることの喜び。 
 椎堂は目を閉じたまま、澪の胸にそっと掌を押し当てた。 
 
――澪に出会えて、僕は本当に幸せだよ……。 
 
 掌に温もりを感じたまま、椎堂もゆっくりと眠りに落ちた。