note22


 

 
 車内から最後の荷物を取り出して玄関に運び、「これで全部?」と澪が聞くと、椎堂は「そうだね」と言って並べてある荷物を指で数え頷いた。元からそれなりに荷物はあったのに、プラスして土産物が増えたのだから当然ではあるが、まるで長旅から帰宅したような有様である。 
 後ろ手で玄関の鍵を閉め、澪は靴を脱ぐとホッとしたように息を吐いた。何事もなく無事に帰宅できて良かった、と気が抜けたというのが正直なところだ。 
 
 帰りのドライブインで軽く昼食を済ませたので、取り急ぎ今はする事も無い。玄関脇へと座り込み、早速鞄を開けて片付けを始めた椎堂は、汚れ物をとりだすと両手に抱えて立ち上がった。 
 
「まずは、っと……。これ仕掛けてくるね」 
 
 仕掛けるというのは洗濯機のことである。二人分の極僅かな洗濯物は、三十分もあれば良い匂いを纏って洗い上がる。 
 衣類を洗濯機へと放り込んだ後すぐに戻ってきた椎堂は、澪の側へ来るとえへへと笑みを浮かべて澪の手を両手でぎゅっと握った。眼鏡のレンズ越しに細められた優しげな瞳が澪へと向けられれば、つい頬が緩んでしまいそうになる。 
 
 昔は別に眼鏡の子が好みというわけでは無かったし、そもそも年上の男に【可愛い】等と思うことすら無かったわけで……。いつも若干ずれて落ち気味の椎堂の眼鏡姿を見るだけで、抱き締めたくなる自分が今でも信じがたい。そんな気持ちを悟られまいとして、澪は一度咳払いをしてごまかした。幸いさほど顔に出ない性質なので、邪な気持ちがあってもまずバレることは無かった。 
 
「……何?」 
 
 澪が顔を覗き込むようにして訊ねると、背伸びした椎堂は澪の頬に啄むような口付けを落とす。離れる唇を視線の端で追いつつ感じるのは椎堂の優しい匂い。 
 
「えーっと、楽しかったね! 旅行」 
 
 ちょっとはしゃいだ感じの椎堂は、まだ旅行気分の余韻が残っているようだ。目の前に迫る椎堂の笑顔に釘付けになっていて返事が遅れ、澪は慌てて口を開いた。 
 
「ああ、うん。そうだな」 
 
 椎堂はホテルをチェックアウトする際にも名残惜しそうだったので、本当に心から楽しかったのだろう。行き当たりばったりだったので、計画性のない観光しか出来なかったが、それでも二人で旅行へ行ったという事にこれほど喜んで貰えると、提案した甲斐があるというものだ。 
 椎堂はホテルから持ち帰ったパンフレットを広げてもう一度眺めた後、大事そうに引き出しにしまい、澪へと振り向いた。 
 
「ねぇ、澪、疲れたんじゃない?」 
「いや、大丈夫だけど」 
「でも、旅行から帰ったばかりだし、少し休んだ方が良いよ。片付けは僕がするから」 
 
 そう言って椎堂は、置いてあった鞄の一つに手を伸ばした。 
「帰ったばっかって、誠二も同じだろ。俺も手伝うよ」 
 その隣の荷物を同じく手に取ろうとすると、椎堂に阻止された。 
「だーめ。明日からお兄さんが来て、澪、また無理しそうだから。今のうちに体を休める事、いいかい?」 
 
 ずっと一緒に暮らしているのだ。澪が椎堂の性格や行動がわかっているのと同じく、椎堂だって澪の性格がわかっているのは当然だった。図星をさされて反論する言葉を失い、冗談でそれに返す。 
 
「……急に主治医モード入ってる?」 
「もう、澪っ。茶化さないの。ほら、片付けは良いから休んでて」 
 
 どんな時でも澪の体調が第一の椎堂は、澪本人よりもずっとその些細な変化に敏感である。もしかしたら、どこか疲れた様子が顔に出ていたのかも知れない。心配気なその表情をこれ以上困らせるのは本意では無い。澪は一度頷くと渋々手にしていた鞄を床へと置いた。 
 
「……わかったよ。じゃぁ、少し休んでからにする」 
「うん。あ! 僕、暗くならないうちにロバートさんの所にお土産持っていってくるね。澪は安静にしてて」 
 了解、と仕方なく呟けば、椎堂は安心したように微笑んで「素直で宜しい」とふざけて返した。 
 
 椎堂は職業柄よく使うのかも知れないが、通常なら使われないだろう『安静』という言葉に苦笑いが浮かんでいる事には気付いていないらしい。土産は近所の分と、椎堂の職場の分、そしてお菓子大好きなクロエの分がある。その中からロバートへ渡す物を取り出すと、椎堂は「行ってきます」と元気よく玄関を出て行った。 
 
 とりあえず玄関に積まれたままの他の土産が邪魔なので食卓のテーブルへと移動させ、結局一度も開かなかった鞄の前で澪はしゃがみ込んだ。結構重いそれの中を開いてみると、予備のタオルの他に部屋着が入っていた。部屋に用意されていたルームウェアのまま二人とも寝てしまったので部屋着は必要なかったし、タオルもホテルの物を使用した。この鞄は、自分達と一緒に旅先へ行ってただ帰って来ただけである。 
 
 全部を取り出した奥にまだ何か袋のような物が入っているのを見つけ、澪は鞄を覗き込み、手を差し入れた。 
――……ん? 
 重さの正体でもあるその袋をあけ、澪は「……あ」と小さく声を漏らす。袋の中身は、先日澪が倒れた際にも使った、緊急時の医療セットだったのだ。簡易的な応急処置を行えるそれらは、金属製の物や電子機器も多く、重いはずである。 
 
「……、……」 
 
 何となく、見てはいけない物を見てしまった気がする。 
 澪はそっと手を伸ばし、椎堂が使っている聴診器に触れた後、指をぎゅっと握り込んだ。――こんなものを用意していたとは……。椎堂は旅行中、水を差すのが嫌だったのか一切この事について触れず今まで知らなかった。だけど、いつだってこうして万が一のための準備をしてくれているのだ。 
 有難いと感謝する気持ちの中で起こる、数%の陰りにほんの少し胸が痛くなる。 
 袋を閉じて元に戻すと、澪は横に置いていたタオルや部屋着を再び手に取って腰を上げた。 
 
 自分の鞄も一緒に部屋へ運ぼうと肩へとかけ、二階への階段を上がる。途中、鞄のファスナーがあいていたようで前のポケットに入れてあった薬の容器が派手な音をたてて転がった。今は両手が塞がっているので一度部屋へ行き荷物をおいてから再び戻る。 転がっている容器を拾おうと階段の下までくると、ロバートと玄関で話しているのか、椎堂の声が耳に微かに届く。あの調子だとすぐには戻ってこなそうである。薬の容器に手を伸ばすと一瞬ズキリと頭が痛んだ。 
 
 椎堂に「大丈夫」と言ったのは嘘ではないが、やはり旅先では気が張っていたのかも知れない。僅かな疲労感と、もう慣れてしまった鈍い頭痛に澪は一瞬眉を顰め、拾い上げた薬をポケットへと押し込んで再び階段を上った。 
 
 自室へ戻り、ベッドへ腰掛けて薬の容器をポケットから取り出す。 
 余分に持っていったので、中にはまだ五錠ほど入っている。振ると容器の中でカラカラと音を立てる小さな薬は、今の澪の生活の中で、なくてはならない物である。 
 澪は一度溜め息をつくと、鞄から全ての薬を取り出してベッドサイドへと並べた。後でまとめて階下へもっていけばいい。 
 
 ベッドへ仰向けに転がると、見慣れた天井がそこには広がっていて、その視界に『帰って来たんだな』と改めて感じていた。ホテルのベッドと違い自室のベッドはかなり狭いが、慣れた場所というのはそれだけで安心感がある。 
 横を向いて、目の前に並ぶ薬のラベル越しに窓の外をぼんやりと眺める。ここ最近はずっと快晴だ。流れる雲に目をこらしているとその動きがわかる。雲の流れが速いところを見ると、上空は風が強いのかも知れない。窓から差し込む陽射しが薬の容器に反射して窓枠に虹色の縞模様を作っている。眩しさに澪が手を翳すと、虹色は澪の腕にもその色を乗せた。 
 寝返りを打ち、頭の中でフと明後日のことを考えた瞬間、現実へ一気に引き戻る。 
 
 明後日の通院で、治療を続ける旨を高木へと話す予定なのだ。 
 そして、その日からまた抗癌剤の投薬が始まる。前回、自分の体に合う制吐剤に変えて貰ったので少しは以前よりマシなのかもしれないが、前回は抗癌剤を一時休止してからの治療だったので、治療を継続したままでも効果があるのかはわからない。覚悟は決めた物の、楽観的になれる要素は一つも見つけられなかった。 
 
――投薬が始まるまでに、やれることはやっておかないとな……。 
 
 澪は、わざとその不安を頭から追い出すように長く息を吐いた。考えても仕方がない事だと言い聞かせ、気分を紛らわすように自分の持参した鞄を引き寄せる。 
 深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせ、中から一つの小さな包みを取り出した。 
 チョコレートブラウンの不織布で包装されているそれは、澪が断ったのでリボンはかかっておらず代わりに小ぶりな金色のシールが貼ってある。 
 掌にそれを載せてみると、自然に穏やかな笑みが浮かぶ。そのまま包みをそっとベッド脇のサイドチェストの奥へとしまい込んだ。目を閉じて休んでいると、暫くして玄関が開く音が聞こえ同時に椎堂の声が届いた。 
 
「ただいまー」 
 
 澪はベッドからゆっくり体を起こすと、側に並べて置いた薬の瓶を全て手に持って、階下へと向かった。 
 
「おかえり、随分話し込んでたみたいだな」 
 
 声をかけながら薬を元あった場所へとしまい、そのまま喉が渇いたのでキッチンへ向かうと、椎堂は澪の後を話ながらついてまわった。パタパタとスリッパの音を立ててついてくる椎堂はちょっと興奮気味でいつもより早口である。 
 
「あのね。今話してきたんだけど、ロバートさんも同じホテルに泊まった事があるんだって!」 
「俺達が昨日泊まったとこ?」 
「そう! 凄い偶然だと思わないかい? 話が盛り上がっちゃったよ」 
「マジで?」 
 
 確かにそれは凄い偶然である。「そりゃ、凄いな」と澪が付け加えると、椎堂は、澪も一緒に驚いてくれた事に満足そうに頷いた。 
 
「うんうん。僕たちはあの場で適当に選んだけど、あそこのホテルって有名な所らしいよ。ハリウッドスターもお忍びで泊まったりするんだって、ロバートさんが言ってたんだ」 
「へぇ、例えば?」 
「えーっと……。それは、聞かなかった……。今度聞いてみる」 
 
 肝心な所を聞かなかった事に、椎堂はちょっぴり悔しそうである。そんなに凄いホテルだったことは知らなかったが、言われてみれば確かに客層も良かった気がするし、一泊の宿泊料金も結構高めだった。それに何よりサービスが行き届いており、従業員に至っては、都内の一流ホテルに匹敵する接客だった。 
 澪が納得している横で、椎堂は「僕たち、凄いところに泊まったんだね……また行けたら良いなぁ……」と思いを馳せるように宙を見つめた。 
 
「行けるんじゃない。またそのうち」 
 
 飲み終えたコップを濯いで伏せ、手を拭く澪に、椎堂は「そうだね」と嬉しそうに目を細めた。 
 
 
 食卓へ置いてあった土産を仕分けし、旅の後片付けが一段落したところで、椎堂は突然「よし!」と気合いを入れて腕をまくりだした。帰りの車内でも言っていたが、明日の玖珂の来訪に備えて、今から掃除をするらしい。 
 元々、日帰りのつもりで、前日に用意をするという予定だったのが、一泊してしまった為に予定が詰まってしまったのだ。 
 まだ帰宅して数時間しか経っていないが、帰ってすぐにしかけた洗濯は終わっており、出来上がった洗濯を抱えて裏の乾燥室へ行く椎堂は、いくら澪が手伝うと言っても耳を貸してくれなかった。 
 
 「休んでいて」と言われても、ソファでダラダラとしている以外無く、忙しなく動き回る椎堂の前で自分だけ休んでいるのも落ち着かない。それに、椎堂も知っているとは言え、来客は自分の身内なので余計に椎堂だけ働かせるのが申し訳ない気がしてくる。 
 こうなったら、椎堂が一階を掃除している間に客間を掃除するしかない。澪はそっと足音を忍ばせて二階へとあがった。 
 暫くは椎堂も乾燥室へいるだろうし、気付かないはずである。 
 
 元々家族向けの戸建てなので、本来なら子供部屋か、書斎にでも使う部屋なのだろう。澪と椎堂のそれぞれの個室より一回り大きい客間は、淡い若草色の壁で、木製の家具が最初から備え付けてあった。ライティングビューローとベッド、そしてその脇にある小さなチェストだけなので広く感じる。 
 
 閉めきっていた窓を開けて空気を通し、廊下にある収納から掃除機を取り出して持ってくる。コンセントを差し込んでスイッチをいれると驚く程の轟音がモーターを唸らせた。掃除機は、隣のロバートから引越祝いにと貰ったもので、ロバート曰く吸引力はどこのメーカーにも負けないという事だ。そのせいもあってか、音も凄い。一階で何が起きても多分全く聞こえないレベルである。 
 重い本体を片手で持って、窓枠のサッシやベッドの下をくまなくブラシで掃除し、最後に部屋全体をかける。使用していない部屋はさほど汚れてもおらず、ほんの少し埃がたまっている程度であった。 
 全部をかけ終えスイッチを消して振り向くと、いつのまにか客用の寝具一式を抱えた椎堂が入り口に立っていた。 
 
「やっぱり掃除してる! 休んでてって言ったのに」 
「さっきまで休んでたろ。それに、もう終わったし」 
「……そうだけど」 
 
 別段散らかっているわけでもないので、客間の掃除が終われば他には掃除する場所はあまりない。風呂場や洗面の掃除は夜に使った後で椎堂がするというのでそこは任せる事にした。明日にはもう玖珂が来るという実感が湧かないのは、ゆっくりしている暇がなかったからなのかもしれない。椎堂が持ってきた客用の寝具を見ながら、そんな事を考えた。 
 
「誠二」 
「うん?」 
「何か、悪いな、バタバタさせて。兄貴がきたら誠二も気疲れするだろうけど……、たまにだから許してやって」 
「……え? 僕、そんな事思ってないよ」 
 
 椎堂は考えてもいなかったというようにぽかんとして、すぐに笑みを浮かべた。 
 
「僕ね、むしろ、すごく楽しみにしてるんだ。一ヶ月ぐらい滞在してくれたらいいなって思ってる」 
「それは、勘弁して欲しいけど」 
 
 澪が苦笑してそう言うと、椎堂は「こら」と言いながら、ふざけて澪の胸に拳をあてた。 
 
「……でも、本当に嬉しいんだ。だって、大切な人の家族にもちゃんと受け入れて貰えるなんて……こんな幸せな事ない。これって、僕達みたいな同性愛者には普通の事じゃないよ? 澪も、お兄さんに感謝しなくちゃ」 
「……そうだな」 
 
 椎堂の言う言葉が心の中にじわりと沁みこんでくる。行動は時々子供っぽくても、椎堂の考え方はやはり自分より大人で。こういう時にハッとさせられる。 
 
「……えっと、じゃぁ、ちょっと休憩してお茶でも淹れようか」 
「ああ」 
 
 椎堂は、どうやら買ってきたばかりのマグカップを使いたいようである。階下へおり、食卓のテーブルに頬杖をついて眺めていると、椎堂が嬉しそうに包みから二つのマグカップを取り出し、キッチンへと入っていった。少しして、湯気をのぼらせたカップが目の前にコトリと置かれる。ディスプレイの照明のせいか、店で見た時より色合いが淡く感じた。 
 両手でマグカップを包み、冷ますように息を吹きかける椎堂は「お揃い、……だね」と、少し照れたように言って澪へ笑いかけると眉を下げた。 
 
 中の茶葉は特別いい物なわけでもなく、いつも通りのティーパック。だけど、旅先での想い出を話ながら飲むお茶は、いつもより、ほんの少し甘い味がした。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 連休最後の日は昨日の晴天が嘘のように大雨で、玖珂を迎えに行くために乗り込んだ車のフロントガラスでは、ワイパーがフル回転している。案の定車も渋滞しており、空港へ到着したのは飛行機の到着時間を少し過ぎていた。 
 しかし、時刻通りに到着したとしても、手荷物の受け取りや入国審査等もあるのでゲートから出てくるのは時間がかかる。助手席から先に下りていた椎堂が「澪、早く!」と慌てているのを「大丈夫だから」と宥めつつゲートへ到着したのが三十分前。 
 玖珂は未だに姿を見せなかった。 
 
 それもそのはず、どうやら悪天候のため乗っている飛行機が大幅に遅れているらしいのだ。気にせず雑誌を眺めて待っている澪とは裏腹に、椎堂は先ほどからどうにも落ち着かない様子だ。腕時計と空港内の時計を交互に見ては立ったり座ったりしている。そのうち痺れを切らして椎堂は腰を上げ、ベンチに座っている澪へと振り返った。 
 
「僕、もう一回聞いてくるね」 
「また?」 
 
 少し呆れたような澪の声に、椎堂は言い訳をするように小さく呟く。 
 
「だって……。こんなに遅れてるの心配だよ」 
「大丈夫だって、まだ三十分程度だろ? 気流が悪くて空路変えてるってさっき放送あったばっかだし」 
「でも……」 
「――あのな……」 
 
 澪は溜め息交じりにそう言って、椎堂の腕を引っ張る。玖珂が乗ってくるはずの飛行機が予定よりだいぶ遅れているのは事実だが、こういう事はよくある事だし、椎堂の心配ぶりは少し異常である。 
 それには理由があって、椎堂は飛行機が大の苦手で、その信頼はかなり薄いのだ。 
 こっちへ来る際に「日本からLAまで電車で来れたらいいのに」と真顔で言うほどの不信感を持っている。澪は強引に座らせた椎堂の肩を宥めるように抱き寄せ、ポンポンと叩いた。 
 
「何もないから、そんなに心配するなって」 
「わかんないよ。飛行機の墜落事故とかあるよね……」 
「100パーないとは言い切れないけど。一日に何便飛んでると思ってんの? 雨ぐらいで墜落するわけないだろ」 
「そう……かもしれないけど……」 
「そのうちまたアナウンスあるから、座ってろって」 
「……うん」 
 
 説得された椎堂が、はぁ……と肩を落とす。それから間もなくして、空港内にアナウンスが流れた。 
 
『到着便のご案内を致します。悪天候のため到着が遅れていた成田国際空港発JL7012便は、ただいま到着致しました』 
 
「ほら、平気だっただろ?」 
 隣に居る椎堂に振り向くと、椎堂は長く息を吐いて本当に安心したとばかりに強張っていた体から緊張を解いた。 
「良かった……、ホントに。何だか僕、緊張しすぎてお腹が痛くなっちゃったよ」 
 
 困ったように眉を下げて、自身の掌を腹にあてて幾度か摩る椎堂は、少し恥ずかしそうに照れ笑いをした。実際、若干白さを増した椎堂の顔色に流石に澪も心配になった。 
 
「大丈夫かよ。俺だけ行ってくるから、ここで休んでるか?」 
 椎堂の顔を覗き込んで様子を窺う澪に、椎堂は首を振った。 
「ううん。今はもう平気。無事がわかったら治ったし」 
「そっか。じゃぁ、行ける?」 
「うん!」 
 
 二人でゆっくりとゲートへ向かうと、アナウンスを聞いて待っていた迎えの人々が一気に集まってかなり混雑していた。旅行で来る場合が多いようで、それぞれの旅行会社の現地ツアーコンダクターが目立つプラカードを手で掲げ客を誘導している。一際派手なハートのプラカードは新婚旅行客の迎えらしく造花でゴテゴテと飾り付けられている。さすがにこれは恥ずかしいなと、横目でそれをみつつ澪が心の中で苦笑いする。 
 
 混雑から少し脇に逸れた場所で、次々に出てくる乗客をチェックしていると、隣に並んで背伸びをした椎堂が次第に顔を曇らせ、心配げな声を漏らした。 
 
「お兄さん、出てこないね……。どうしちゃったんだろう」 
 
 最初は一斉に下りてきていた乗客も、すっかり四方に散らばって目的の場所へと去り、今はポツポツと数人が出てくるだけである。確かに、椎堂の言うように少し不思議に思い、澪は入り口の方をもう一度目をこらして確認した。と、その時。 
 
――あ……。 
「あっ」 
 
 澪の心の中の声と、椎堂の声がぴったりと重なる。まだ遠いが、歩いてくるのは間違いなく玖珂だった。 
 ようやく姿を見せた玖珂は、全然変わっておらず元気そうだ。しかし、その事にほっとする余裕が消し飛ぶほどの光景がそこには繰り広げられていた。片手で荷物をのせたカートを引き、もう片方の手では小さな男の子を抱っこしていたのだ。その傍らにはモデルのような派手な女性も一緒にいて何やら楽しげに話している。端から見たら家族旅行そのものであった。 
 
「…………ねぇ、澪」 
「うん」 
「お兄さんって、結婚……してないよね?」 
「…………多分」 
 
 多分としか言えなかった。サプライズで妻と子供を連れての来訪という普通ではありえない事も、玖珂なら絶対無いといいきれない部分もある。見れば見るほど違和感のない様子がその証拠だ。そう思って見て見ると、抱いている子供も何処か玖珂に似ているような気さえしてくる始末だ。 
 
「兄貴の……隠し子、とか……」 
 
 思わず漏れた澪の言葉に、椎堂は驚いて「えぇ!?」と隣の澪に振り向く。 
 呆然としている二人に気付いた玖珂が、小さく手を振ってきて、椎堂は無意識に手を振り返す。我に返って玖珂の元へと歩いて行くと、玖珂は二人の様子を意に介さず、抱き上げた男の子を下ろすと澪達へと爽やかな笑顔を向けた。