Bitter & Sweetness -前編 –


 

 
「以上を持ちまして、第五六回消化器外科及び循環器外科合同学会を終了させて頂きます。本日はお忙しい中、ご出席下さった先生方、医療関係者の皆様、本当に有難うございました」 
 
 閉会の挨拶を耳にしながら、佐伯は胸ポケットでしつこく振動している携帯の電源を手探りで切った。 
 
 二月の初めに予定されていた学会が延期になり、今日になった事を一番喜んでいたのは晶だった。一週ずれた事で、丁度バレンタインの二日前になったのだ。大阪からこちらへ戻ってくる間にも駅で、街で、いやというほど目にしてきたハートマークの乱舞。甘い物が苦手な上に、こうした行事にも全く興味の無い佐伯には、ただのお祭り騒ぎにしか過ぎない。 
 しかし、晶は佐伯とは真逆だった。 
 学会の延期で日程が変わった事を伝えた際の第一声はこうだ。 
 
「マジで!? よっしゃ!!! バレンタインデートできるじゃん!!」 
 
 バレンタインデートと通常のデートと何が違うのかわかりかねるが、その喜びようは尋常じゃない。それからというもの、数日おきに送って寄こすメールには、ハートマークが必ずついておりラスト五日からはカウントダウンまで始める始末だった。 
 
 確かに、転勤してから会う回数は激減した。それは、佐伯が忙しいからというだけでもなく、晶も忙しい日々を送っていたからだ。メールや電話はしているが、明らかに疲れ切った声の時も数回あり、流石に少し心配になった佐伯が「あまり無理するなよ」と言ってしまったぐらいである。 
 
 学会の会場を出ると、始まった際には降っていなかった雪がパラパラと舞っていた。佐伯は一度空を見上げ、懐かしいような気分になっていた。大阪へ転勤してからは、病院と自宅の行き来以外でゆっくり街へ出ることもない。 
 吐く息は真っ白く、佐伯の目の前を何度も煙らす。先程電源を落とした携帯を取り出して再度電源を入れると、メールが四件も入っていた。どうりで振動がやまないはずである。充電器をホテルのロビーに預けてある荷物の中へいれたままだったので充電も出来ず、結構古い機種なのですぐに減ってしまう。振動が続けばそれが加速するのがわかっていたので電源を落としたのだ。 
 
 メールは案の定晶からで、「今どこにいるのか」「今日の店どこにする?」「俺の着ていく服はこれです(写真付き」「寒いから気をつけてこい」の四件だ。初めて会う相手でもないのに、わかりやすいように着ていく服まで教えてくる晶の考えも理解不能である。そもそも、何を着ていても晶をみつける自信がある。 
 佐伯はメールを読み終えて暫く考えたが、もうすでに待ち合わせの場所へ向かっているのであえて連絡する必要も無いと判断し、返事は返さずにそのまま携帯を胸ポケットにしまいこんだ。 
 
 
 待ち合わせは八時だが、七時半には待ち合わせ場所へと到着してしまった。遅刻の多い晶の事なので、まだしばらくは姿を見せないだろう。改札付近で柱に凭れて腕を組んでいると、結構着込んでいるのに背中からは容赦の無い冷たさが伝わってくる。 
 降りだした雪が、歩行者の少ない通りにはうっすら積もり始めているくらいなので、気温が相当低いのだろう。 
 こんなことなら、どこかの店内で待ち合わせをすれば良かったのかも知れない。後悔先に立たずで、佐伯は長く息を吐いて、外気がコートの中に入り込まぬよう肩を竦めた。 
 地下鉄から地上に出て、漸く雪が降り始めていることに気付いた乗客が、改札を出ては立ち止まって一度は空を見上げている。折りたたみの傘を取り出す者。気にせず外へ出て行く者。タクシー乗り場まで走り出す者。 
 そんな人々の様子を見るともなしに眺めていると、視界に見慣れた派手な髪色が入り込んできた。 
 
「よっ!! ひっさしぶり。待った?」 
 
 待ち合わせの十五分も前だというのに、驚く事に息を切らした晶が目の前に立っていた。相変わらずの薄着で、コートは着ている物の胸元全開の晶に思わず小言を言いたくなる。が、それを我慢して佐伯は柱から背を離した。 
 
「珍しく随分早いな。どうりで雪が降ってきたわけだ」 
「天気予報通りだっつーの、俺のせいじゃねぇし。久し振りに会ったのに、要もマジ変わんねーな」 
 
 晶が苦笑したあと、俯いてさりげなく佐伯の手を掴む。 
「やっぱりな、すげぇ冷てぇ……」そう言って、少しだけ暖めるようにさする晶が一瞬だけ切なげな表情を浮かべるのを佐伯は見た。何か理由をつけてでも触れたかった、多分そうなのだとわかる。 
 
「お前の手は、相変わらず温かいな」 
「だろ? 気持ちいいっしょ?」 
「まぁな。ガキは総じて体温が高いもんだ。お前の場合は精神年齢だが」 
「はい~、本日の最初の直球いただきました!」 
 
 晶は笑いながらわざとパシッと佐伯の手をはたくと、そのまま手を離した。まさか街中で手を繋いで歩くわけにもいかない。その後、晶は距離を少し離し、行こうぜと合図する。 
 
 並んで歩いていると、傘を差していないので互いの肩を雪が白く染める。時々それをはたきながら二人で向かったのは佐伯が予約を入れていた日本料理の店だった。 
 どこの店にするか、晶には伝えていなかったので予め決めていたことに晶は驚いているようだ。 
 
「日本料理?? 珍しくね?」 
「たまにはいいだろう。残念ながらドリンクバーはないがな」 
 
 からかうようにそう言う佐伯を睨むと、晶は佐伯の足にわざと雪をかけた。 
 
 
 駅からほど近いこの店には以前にも同じ時期に一度来た事がある。にがりから拘った自家製の豆腐で作る湯豆腐は絶品であり、もう一度来たいと丁度思っていたのだ。 
 外にある門をくぐると、見た目より中は広く、細長く奥へと続く庭園があってやっと店へ辿り着くといった感じである。砂利に敷かれた石畳を歩きながら晶が店の門を振り返りつつ小声で呟く。 
 
「なぁ……。俺こんな格好だけどいーの? やばくない?」 
 
 若干威圧感のある店構えに晶が心配そうに呟く。出す料理が和風懐石だというだけで、ドレスコードがあるような敷居の高い店では無いはずだ。佐伯は一度立ち止まって晶をまじまじと見ると、手を伸ばして開ききった胸元のボタンを一つだけしめてやり、額を指で弾いた。 
 
「痛ってぇ、何すんだよ」 
 
 大袈裟に痛がって額をガードする晶は第二弾に備えているようだが、佐伯は手をポケットにしまうとそのまま店へと再び歩き出した。 
 
「別に構わんだろう。個室だしな」 
「あ、個室なんだ? じゃぁ平気かな」 
 
 晶が一応、佐伯のかけたボタンの更に上二つを急いでかけつつ辺りを見渡す。自分だってNo1ホストであり、それこそ客とはドレスコードがあるような店へも行っているはずなのに、こういう所でソワソワしてしまうところが晶らしい。佐伯は、落ち着かない様子の晶の背中を軽く叩いた。 
 
「何か文句を言われたら、店を変えればいいだけだ」 
「え? でも、折角予約してんのに……」 
「お前と飯が食えないっていうなら、別にここじゃなくても構わん」 
「何それ、俺って愛されすぎじゃね? やばい! 恋に落ちそう~」 
 
 さらっとそんな事を口にする佐伯に意表を突かれ、晶はわざと冗談めかした返事をしつつドキドキする胸の内を只管宥めていた。 
 佐伯はその言葉に対して、「勝手に落ちていろ」と鼻で笑っただけで、そこはいつも通りの佐伯だった。寧ろ有り難い。佐伯から甘い台詞を連続で聞くなんて、――俺、今日死ぬのかな……。と思ってしまいそうだから。 
 
 誰ともすれ違わないまま店内に入ると、中には客が結構いるようで、廊下を忙しなく配膳する店員があちこちにいた。全席個室なので客の姿は見えないが、話し声が漏れているのでどの部屋にも先客がいるのだろう。 
 一足先に中へ入った佐伯が予約していた旨を伝え、個室へ案内される。佐伯の言うとおり、晶の心配は徒労に終わったようで、服装については特に何も言われなかった。 
 
 個室内は掘りごたつになっており、庭を囲んでいるほうの壁は硝子張りで反対側の客室が少し遠くに見えた。暑いほどの設定温度は外が冬である事を一瞬忘れそうになるくらいだ。コートをぬいでコートかけへと掛けると、佐伯は長く息を吐いて腰を下ろした。 
 真夏の猛暑の野外から冷房の効いた室内へ入るのも相当に気持ちが良いが、雪の降る野外から暖かな室内に入るのも格別の物がある。温かさに緩むのは体の緊張だけでなく、気持ちもそれは比例していた。 
 晶は大きく伸びをするように片手で鴨居を掴んで庭園の奥を覗き込む。完全に真っ白とまではいかない雪化粧の庭園が、淡い灯籠の光だけでキラキラと光って見える。 
 
「雪、止まねぇな……」 
「明日の帰りの電車が止まらなければ、問題ない」 
「……明日、三時の電車だっけ」 
「ああ」 
「それまでには、止むんじゃねぇかな」 
 
 晶はそう言った後、何かを口にしようとしたが、結局口を噤んだ。ごまかすように細く窓を開け外へ手を翳してみると、晶の掌に小さな雪が載っては解けていく。窓から入り込む冷たい空気が頬にあたる。感傷的になりそうな今夜の自分の熱を冷まして欲しいと思った。 
 電車が止まる事によって明日も佐伯がこっちにいられるというなら、いっそ止まってしまえばいいのに……。心の中でそんな事を考えているのを知ったら佐伯はどう思うだろうか。まるで安っぽい恋愛ドラマの主人公にでもなった気分だった。 
 
 丁度店員が入ってきたので、晶は窓を静かに閉めて佐伯の向かい側へと腰を下ろす。まずはビールを先に頼んで、後はコースなので特に注文も無いらしく、店員はすぐに部屋を出て行った。 
 
「ビールの後は日本酒にするか。お前も飲めるだろう?」 
「勿論、酒は何でもいけるけど。日本酒は、あんま詳しくないんだよな」 
「別に問題ないだろう。うまい酒を飲むのに、知識は必要ない」 
「まぁね」 
 
 佐伯が鞄から煙草を取り出しテーブルへと置く。見慣れた佐伯の煙草の横には、クリスマスに晶がプレゼントしたオイルライターが揃えて置かれている。『使ってくれているんだ』そう思うと、何だか胸の内がくすぐったいような気持ちになった。 
 
「晶、どうして俺がこの店にしたかわかるか?」 
 突然佐伯は、何だか愉快そうに質問してくる。 
「んー? 飯がうまいからじゃねぇの?」 
「それもあるが、もうひとつある」 
「何??」 
「これだ」 
 
 佐伯が煙草を咥えて指さす。改めて言われてみれば、確かに。この手の店で喫煙できるのは珍しい。最近じゃ、ファミレスでさえ時間帯によっては全面禁煙で肩身が狭い思いを強いられているのだから。こんな立派な店が喫煙可なのは貴重な事だとすぐにわかる。 
 
「確かに、あんまないよな。店の主人がヘビースモーカーだったりして」 
「勘が良いな。本当にそうらしいぞ」 
「マジで?」 
 
 前回来た時、灰皿を出された際に店員が教えてくれたらしい。しかし、徹底して換気や空気清浄をしているのか煙草の匂いはほとんど感じなかった。非喫煙者にも気を遣っているのがよくわかる。 
 部屋の暖かさと、煙草がゆっくり吸える空間と、そして一番素が出せる佐伯と一緒にいることで、晶の気が緩む。煙草を咥えて徐に火を点けると溜め息交じりの紫煙をのろのろと吐き出した。 
 
「やっと生き返った気がするわ。今日、マジ疲れたし」 
 
 珍しく疲労感を口にする晶に、佐伯は煙草を咥えて口元を歪めた。 
 
「電池切れか?」 
「人の事、ロボットみたいに言うなっつーの」 
「じゃぁ、なんだ。今日は休みだったんじゃ無いのか」 
「いや、店は休みだったんだけどさ……」 
 
 昨夜急に連絡があって、日中は客に付き合って外出していたので早起きしたのだと晶が説明する。 
 
「ほう、いいじゃないか。街はバレンタイン一色でお前の好きそうな菓子があちこちに売ってるし、楽しかっただろう」 
「街ならね……。今日行ったの病院だぜ? しかも、そこのおばぁちゃん先生に長々と説教されるしさー」 
「……病院?」 
「ああ……。まぁ、ちょっと訳ありでさ。俺が彼氏役で付き添いしたんだよ。待合室で俺めっちゃ浮いてたし」 
 
 ホストの店以外での営業は、パーティーのエスコート等の華やかな物だけではない。引っ越しの手伝いやら、荷物持ち、最近は彼氏のふりをして様々な用事をこなす回数も多い。今回みたいな件はまれだが、しかし初めてというわけでも無かった。 
 佐伯に詳しく愚痴った所で、その客を知るわけでもないので問題はないだろうが、彼女の気持ちを考えると他言するのも憚られ、晶は詳細は一切告げず二度溜め息をつくに留めた。 
 察しの良い佐伯も、あえて詳細を聞いてくることも無いのが助かる。 
 
「お疲れさん、ホストも色々大変だな」 
「まぁね~。……でも。よし! もう復活した。折角会ってるのにつまんねぇ事考えたくないし、忘れることにするわ」 
「――流石だな」 
「だろ? 俺ってばマジ大人だよな~」 
「すぐに忘れる事が出来る脳の回路を褒めただけだ」 
「……遠回しに馬鹿にしていると思いきや、めっちゃストレートに馬鹿にしてね?」 
「すまんな。根が素直なんでな」 
「どこがだよっ!!」 
 
 相変わらずのやりとりに気付き、思わず二人で苦笑いする。付き合ってから相当経って環境だって変わっているというのに、佐伯と自分はなにひとつ変わらないままだった。否、変えないようにしているのかも知れない。 
 運ばれてきたビールで乾杯をし、続けて出された食事に舌鼓を打つ。繊細な味の和食もたまにはいいものである。 
 佐伯が絶賛する湯豆腐は出汁のきいた上品なつゆにシンプルに豆腐が入っているだけだったが、ゆず胡椒と特製のタレにつけて食べるそれも体が温まって悪くなかった。 
 
「美味い。豆腐なんて味ねーし、自分じゃ買わないけど、たまにはこういうのもいいかも」 
「日本酒とも合うしな」 
 
 最初はビールで乾杯したが、今はもう日本酒へときりかえて飲んでいた。佐伯が好きだという黒龍という銘柄を扱っているのは都内でも数件で、この店ではそれを飲むことが出来る。晶も名前だけは知っていたが、飲むのは初めてだった。キレのある飲みやすい甘さについつい酌が進む。小鉢の白子のおろし和えや、抹茶塩を添えて食べる天ぷらなど、どれもが日本酒が進む要因だ。 
 
 会っていない時間を埋めるように互いの近況を報告しながら飲む酒は、いつのまにか相当な量になっていた。いつもよりピッチが速いせいもあり、最後に、生姜を効かせた牡蠣の炊き込みご飯が出される頃には、晶はかなり酔っていた。 
 普段飲んでいる洋酒とは酔いの種類も違うし、佐伯と一緒に味わう楽しい酒はそれだけで酔いが倍増する。自分でも酔っているのがわかる程度に顔が火照り、晶は手で顔を扇いだ。 
 
「顔が赤いぞ、お前酔ったんじゃないのか」 
 
 そういう佐伯は晶と同じか、寧ろそれ以上の量を飲んでいるはずなのに一切顔には出ていない。晶はぼんやりと変わらない佐伯の姿を眺め、佐伯は酔ったらどうなるのか想像していた。多分今まで一度も見たことが無いはずだ。 
 
「なぁ、要はさー。酔ったらどうなんの? つか、酔っ払った事あんの? 超見てぇんだけど」 
「俺は酔っても顔には出ないだけだ。今もそれなりに酔っていると思うがな」 
「ふぅ~ん……。要が酔って泣き上戸だったりしたら面白ぇのにな」 
「泣くぐらいならいいが、絡み酒かもしれんぞ?」 
「げ、それはマジやばいって」 
 
 少し呂律の回らない調子の晶も、こんなに酔っているのは珍しい。いや、初めてかも知れない。晶も職業柄酒には相当強いからである。 
 少し飲ませすぎたかと様子を窺う佐伯に、晶は料理の鉢を脇へ避けると、テーブルに腕を乗せ急に掌をさしだした。 
 
「――ん? 急に何だ」 
「明後日ばれんたいんだろ~? 俺にもプレゼントよこせよ」 
「俺が、そんなものを用意していると思うか?」 
「チョコじゃねぇよ……あのさ、おれは~」 
 
 明らかに酔っている晶は話の要領を得ない。佐伯は思わず苦笑いをしつつ、晶の指先を指でつまんだ。 
 
「チョコレートじゃなければ、何が欲しいんだ。物によっては考えてやるぞ」 
「えっとー、んじゃ……、ハンカチ!」 
「……?? ハンカチだと? ……本当にそんなものが欲しいのか?」 
「欲しいんだけど、そうじゃなくてぇ……。買うんじゃねぇの。今、要が、持ってんだろ~。それを俺にくれって言ってんのー」 
 
 流石に意味が分からない。佐伯が呆れたように煙草を咥えて火を点け「何だそれは」と鼻で笑う。しかし、晶の次の言葉で、佐伯は吸っている煙草を落としそうになった。 
 
「――だめ? ……要のさ……、匂いがする物が欲しぃんだよ。中々会えなくて……寂しいからさ、いいだろ……ハンカチぐらい、くれたって……」 
 
 手を差し出したまま、切なげな表情でお願いしてくる晶に胸を鋭い刃物で突かれた気分だった。酔っているからこそ出た本音だ。普段なら絶対口にしない気持ち。晶の言った言葉が重い塊となって痛いほど胸に沈んでくる。 
 佐伯は返す言葉を失って、何度も煙草を吸った。ジリジリと灰に変わる赤い火種があっというまに口元に上ってくる。返事をしない佐伯に晶は自嘲するように小さく笑い、腕を戻すと、酔って危うい手つきで自分も煙草を咥えて火を灯した。 
 
「悪ぃ……。今の無しな……忘れていーから」 
「……晶」 
「はは……酔っ払うとか久々だし! ジョークよ、ジョーク。真に受けんなよ?」 
 
 佐伯はポケットに入っている自分のハンカチを確かめるように手を入れ、そのままぎゅっとそれを握り込んだ。欲しいというならハンカチぐらい何枚でもやってもいいが、晶の言っている意味はそういう事ではない。 
 
「……そろそろ、ホテルへ戻るか。お前も今日は泊まっていけるんだろう?」 
「あーうん。……だな」 
 
 佐伯のマンションは解約せずにそのまま残してあるが、今回は移動に時間のかからない近場のホテルをとったのだ。明日の夜までは晶も休みなので一緒に泊まることに最初から決めてあった。腰を上げた佐伯が、晶の分のコートを取って手渡す。多少まごつきながらも袖を通した晶は、入り口の段差でよろけて佐伯に抱き留められた。 
 
「ほら、しっかり立て。転んだらどうする」 
「ごめんごめん、怒んなって、ちょっとつまづいただけ~」 
 
 したたかに酔った晶は、潤んだ瞳を佐伯へと向けて、何が可笑しいのかくすりと笑った。晶を支えるようにして入り口へ向かい、会計を済ませて店を出る。途端に下がった周囲の気温に、晶は肩を小さく震わせた。 
 
「うわっ、真っ白じゃん。白銀の世界! ってやつ~」 
 
 降ってくる雪を掌に載せて、晶はそびえ立つビルの隙間に覗く夜空を見上げた。白銀の世界と言うには足りない白さだが、普段とは違った都会の雪景色はどことなく哀愁が漂っている。喧噪も、何もかもを吸い込んだように音を消した世界。足下で踏みしめるとキュッと音を立てる雪は、降ったばかりでまだ柔らかい。 
 少ない足跡に、佐伯と晶はそれぞれ足跡を追加しながら店の門までを歩いた。行きに通ってきた石畳は降り積もった雪のせいでもうその境界線も見えない。 
 ただ真っ白な道が伸びているだけに見えた。