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 翌朝、一番遅く家を出る予定の澪が起き出して階下へ行くと、すでに準備を済ませた玖珂と椎堂が、食卓で地図を片手に楽しそうに話していた。 
 
「――おはよう」 
 
 声をかけて顔を洗った後キッチンへむかうと、澪の背を追うように椎堂に声をかけられる。 
 
「おはよう、澪。朝ご飯はそこに置いてあるからね」 
「あー、うん」 
 
 欠伸をしながら返事をし、ラップのかけてある朝食と特製野菜ジュースをトレイに乗せる。ロールパンをひとつだけトースターへ放り込んで、その間に食前の薬を水で一気に飲み込んで一息ついた。 
 今日は午前中と午後一番の講義があり、三時から通院の予定だった。三連休の間、旅行へ行ったり玖珂が来たりで、日常生活に戻った初日の今日はどことなくけだるい。今はもう治まっているが、起き抜けの頭痛は疲れが溜まっている証拠でもある。 
 少し焼き目がついたロールパンを皿に載せて食卓へ行くと、澪は玖珂の隣に腰掛けた。 
 
「おはよう。何だお前、まだ眠そうだな」 
「ちょっとね……。それ、何見てんの?」 
 
 観光案内の最初のページに付属している地図を広げている玖珂にそう聞くと、代わりに椎堂が返事をした。 
「今日は時間があるから、近場を観光するんだって。一緒に行って案内出来れば良かったんだけど……」 
 残念そうにしている椎堂に、玖珂がとんでもないという風に首を振る。 
「いや、急に押し掛けてそこまで迷惑を掛けるわけにはいかないからね。こうして色々教えて貰えるだけで助かります」 
 
 澪が地図を覗き込んで眺めると、行く予定の箇所に付箋が貼ってあった。住んでいる自分にとっては特に用のない場所でも、観光客には人気のスポットもいくつかある。かなり遠くまで貼ってあるところを見ると、玖珂の帰宅も遅くなりそうだなと思う。 
 
 そんな中、パンを口にくわえながら、澪が一点を指した。指す先にあるのは、ここから二十分程でいける楽器屋だが、二階がCDショップになっているのだ。観光地図には勿論そんな地元の楽器店などの記載はないので空欄である。 
 
「ここ、地図に書いてない、この角。俺もたまに行くけど、兄貴が好きだったバンドのCDかなり揃ってた」 
「本当か? それは珍しいな。バンドっていうと、……」 
 
 玖珂がその後口にしたバンド名はあまりメジャーじゃない物で、かつ昔のバンドだ。幾つか廃盤になっているそのバンドのCDは都内の大手CDチェーン店でも扱いが少ない。ネットで検索して出てくるのはオークションか、さもなくば希少な事で足下を見た破格の値段がつけられている通販のどちらかだ。澪はたまたま一度スクールの帰りに寄った際にそれを見つけ、それからたまに顔を出しては他のCDも漁っている。所謂行きつけのCDショップなのである。 
 
「廃盤のもあったし、他にも結構珍しい物あったと思う。店主がバンドマンで詳しいみたいだから、聞いてみれば?」 
「そうだな。じゃぁ、帰りにでも寄ってみるとするか。ん? ……ここは、お前が通ってるスクールか?」 
 
 先程椎堂から教えて貰ったのか、数ブロック手前にある場所を指して玖珂が質問する。その言葉を聞いた後で、澪は多少の後悔を滲ませた。なぜならば、玖珂の答えが容易に想像がつくからだ。 
 
「そうだけど……なに、……案内しろとかやめろよ? 授業参観じゃないんだから……」 
 
 先手を打つ、つれない態度の澪へ返されるのは「そう言われると思ったよ」と言う玖珂の笑顔。澪の返事ぐらい玖珂の方だってお見通しである。 
 
「澪、そんな事言わないで、折角だから案内してあげたら良いのに」 
 
 椎堂が少し非難の色を滲ませて澪を見る。二対一だと分が悪い。嫌なわけではないのだ。ただ、案内している間に友人に会ったら当然紹介する流れになるだろうし、そういう事を考えると面倒に思えてしまう。しかし、確かにこんな機会も滅多にない上に、今こうして学べているのは快く送り出してくれた玖珂のおかげなのもある、そう思うとすげなくするのも大人げない気がして澪は少しだけ考えるふりをして、視線を逸らした。 
 
「お前が学んでいる場所を、見て見たかったんだが……」と少し残念そうに言う玖珂は、多分この先の展開だって読んでいる。澪は、その予想通りになるのをわかった上で、意見を変えた。 
 残りの野菜ジュースを飲みきった後、「まぁ、いいけど」と呟くと、玖珂は嬉しそうに微笑んだ。 
 
「昼休みは何時からなんだ? 合わせてそっちへ向かうから、一緒に軽く飯でも食ってその後、少しだけ案内してくれ」 
「……わかったよ。じゃぁ、一応十二時で」 
「了解。予定が変わったら連絡をいれるから」 
「うん」 
 
 あれこれ話しているとあっという間に時間が過ぎて、椎堂と玖珂ははそろそろ家を出る時間になっていた。あらかじめ用意してあった通勤の鞄を持って、椎堂が「じゃぁ澪、行ってきます」とニッコリ笑う。途中の駅まで玖珂を見送って、それから病院へ向かうという椎堂はいつもより少し早めだ。 
 まだパジャマのまま二人を送り出し、澪は自分も用意をするために二階へと上がった。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 午前中の講義が終わり、教室を出た澪は足早に廊下を歩いて玖珂との待ち合わせ場所へと向かっていた。 
 誰にも呼び止められず場所に到着出来たことにホッとし、ヘッドフォンを外して顔を上げると、丁度通りの向こうから玖珂が歩いてくるのが見えた。信号が青になり、横断歩道を渡ってきた玖珂が、「待ったか?」と右手を挙げる。 
 
「いや、俺も今、来たばっか」 
「そうか」 
「あのさ、飯食うの案内した後の方がいいと思う。今丁度、時間的に混んでるし、ほら」 
 
 そういって通りの向こうに見える飲食店街を指す澪の指の先へ視線を向けると、賑わったそれぞれの店内に人だかりが出来ていた。昼休みに入ったばかりの時間は、近隣のカフェテリアなどは一斉に混雑するのがいつもの光景なのだ。三十分もずらせば、一気に人がはける事はわかっている。 
 
 玖珂が別にそれでも構わないと言うので、先にスクールの中を案内する事になった。……のはいいが、朝の予想通り十分もしないうちにクロエに発見されてしまった。狭い舎内でさすがに教室まで案内していれば誰かの目には留まる。とはいえ、この情報アンテナの鋭さはゴシップ記者にでもなった方がいいのではないかと思うくらいだ。 
 
 クロエも別の友人から「ミオが誰か知らない人を案内している」と噂を聞いて探し回ったというのだから、見つからない方が難しい。案の定クロエは澪を発見すると待ってましたとばかりに近寄って来て玖珂への質問攻めが始まり、案内をする間中一緒について回った。クロエがてきぱきと案内をしてくれるので、楽をさせて貰ったという点では感謝しかないが……。只管盛り上がるクロエと玖珂の会話にはついていけそうもない。 
 
 ウィットに富んだ会話に続き、「こんなに可愛いらしいお嬢さんが、澪の友達なんて驚いたな」なんて言う物だから、クロエのテンションはマックスになるのは当然で……。暫くして一通り案内が終わってしまった事をひどく残念がっていた。 
 
「今度またこっちへ来ることがあったら、その時は、街の案内でもお願いしようかな」と玖珂が微笑んだ途端クロエはキラキラとした目で「是非! 待ってますね」と玖珂の両手を握って満面の笑みを浮かべていた。 
 最後に記念写真を撮るというクロエに付き合い、門まで送られて、背後で手を振るクロエに玖珂も振り返す。 
 二人きりになった途端、比喩ではなく、本当に嵐が去ったように静かになり思わず澪は苦笑した。 
 
 店に向かって歩く道すがら、「ここ、ホストクラブじゃないんだからさ」と澪が苦言を施すと、玖珂は、別にそんなつもりはなかったが。と少し反省したように頷く。自覚がなく、素であんな台詞をさらっと言う方がもっと凄い事には全く気付いていない。 
 この分だと、明日から暫くは会う度にクロエから玖珂の事を聞かれそうである。 
 
 信号を渡った先にある軽食も出すカフェテリアのドアをあけると、広い店内は予想通り幾つか空席があった。セルフなのでレジで注文した物をトレイにのせ、二人で窓際の席へと腰を下ろした。 
 
「お前、それしか食わないのか?」 
 
 澪のトレイを見て、玖珂が眉を寄せる。澪のトレイにのっているのは、飲み物とサラダ、そしてシリアルだけである。 
 
「いつも、だいたいこれだから」 
「……そうなのか。まぁ、自分の体調の事は自分しかわからないからな。無理して食べろと言うつもりもないが」 
 
 そう言いつつも少し心配そうな玖珂の視線にいたたまれなくなり、澪はスプーンを手に取るとザクッと皿へ一気に差し入れた。 
 
「俺の事は良いから、早く食おうぜ。あんまり時間ないし」 
「ああ、そうだな」 
 
 玖珂は店にある時計を見上げて「時間が過ぎるのが早いな」と驚いたように言い、自分が頼んだ食事に手を付けた。玖珂のトレイにのっているのはランチセットAである。マッシュポテトとナポリタンのようなトマト味のパスタ、それに目玉焼きが豪快に載せられている。AはいつもこのメニューでBは日替わりだ。見た目は繊細さに欠けるが、前にクロエの食べていた物を味見させて貰った際には美味しかったので、味は悪くないはずだ。 
 
「さっきの女性はクロエさんだったか、明るくて楽しい子じゃないか」 
「うん、一番仲良くしてる女友達だから」 
「そうか。お前、昔は、大学に行くのを嫌がってたが、こうして友人と過ごしながら勉強できる生活も悪くないだろう?」 
「まぁね……。結構楽しくやってるよ。かなり年配の人もいて色々為になる話も聞かせてくれたりするし……。ついていくのは大変だけど、興味があって進んだ道だから、そういう意味でも満足してる」 
「……そうか。やりたい事が見つかって、本当に良かったな」 
 
 以前の澪からは聞けそうにないその台詞に、玖珂は心底嬉しそうに何度も頷く。帰る場所があって、金銭の心配も無く、学べる環境がある。そんな場所を作ってやれなかった昔を今でもたまに後悔するが、澪は自分で今、その場所を見つけている。ずっと前から澪は独り立ちしているのに、いつまでも弟離れが出来ていないのはきっと自分の方なのだろうと玖珂は思った。 
 
「それにしても、こういう雰囲気は懐かしい物を感じるな……」 
 
 玖珂はそう言って食事の手を止め、道路を挟んだ向こうの校舎をみて眩しそうに目を眇める。 
 
「懐かしいって、兄貴が大学行ってた頃思い出すとか?」 
「……ああ、そうだな。別に風景が似ているわけじゃないが……。あの頃は、勉強とサークルとバイトで、暇な時間なんて少しも無かった。それでも、友人達とくだらない事で笑い合ったり、レポートの提出があると、誰かの家で徹夜でやったりしてな……。今は、徹夜なんかしたら数日疲れが抜けなくて、大変な目に遭うけどな。若い頃はそういう無茶もまた楽しかった物だよ」 
 
 玖珂がそういって苦笑する。玖珂にとって大学時代はそういう楽しい想い出が沢山詰まっているのだろう。 
 だけど、そんな楽しい想い出が長く続かなかった事を澪は知っている。玖珂は大学を中退しているからだ。本人がそう言ったわけではないが、母親が急逝して身寄りもないまま二人きりになってしまい、玖珂は澪を養うために働く事を選んだ。自分の楽しかった生活を犠牲にして……。 
 今まで何度も考えた事がある。自分がいない方が、兄は幸せだったのではないかと。 
 
 ガラスに映り込む信号が点滅して、色を変える。ミルクを吸ったシリアルから、鮮やかな色が滲み出して、まるで目の前の信号が溶け込んだようになっていた。澪はスプーンでそれをかき混ぜて、視線を落としたまま口を開いた。 
 
「兄貴が大学辞めたのって……俺が……いたから……だよな」 
「……澪?」 
「何で、こんなに歳が離れてんだろう。一歳違いぐらいだったら、兄貴が働かなくても、俺も一人でやっていけたのに……」 
「澪、急にどうしたんだ。俺が大学の話をしたからか?」 
「ずっと思ってた事だよ。今まで、言わなかっただけ……。スクールで楽しい時間を過ごしてると、時々思うんだ。兄貴のこういう時間を、奪ったのは俺だって、」 
 
 澪の言葉を遮るようにして、玖珂は澪の手をぎゅっと握って「馬鹿なことを言うな」と悲しそうに呟いた。 
 
「俺が大学を辞めたのは、俺がそうしたかったからだ。あのまま卒業する方法だって探せばきっとあったしな。だけど、楽しかった時間より、お前の方がずっと大切だった。それだけの話だろ? 澪、お前が気にするような事はひとつもないぞ。そんな言い方をするな」 
「……、……別に今もどうこうってわけじゃない。時々そう思うってだけ。ごめん。変な話して……」 
 
 玖珂は少し切なげに息をついて澪を見る。今までずっとその事を気にしていて、負い目を感じていたのかと思うと、胸が痛くなった。澪の優しさが罪悪感を覚えやすい性格であるのを知っていたはずなのに、今に至るまでちゃんと話をしてこなかった自分のせいでもある。兄弟でも恋人でも、言葉にしない限り伝わらないことが多い事も十分わかっていたはずだった……。 
 
「澪、……そんな事を考えるより、自分の体の事を考えてくれ。あとは、椎堂先生と仲良く楽しい時間を過ごしてくれたら、俺はもうそれだけで、凄く幸せだから」 
「……うん、わかってる」 
 
 時間を気にして、止めていた手を動かす澪は、すっかりミルクのなくなったシリアルを何度も口に運んだ。見た目は派手だが、味はそんなに濃くも無く、ほんのりした甘さが残る程度である。時々残っているコーティングシュガーの塊が口の中でジャリッと小さな音を立てた。 
 
 当たり障りない話を少しだけして、いつも通りに戻っている澪に玖珂は少し安心したように自分も食事の残りを食べる。昼休みはそう長くはない。食事を済ませ、午後の講義が始まるからと店を出て別れた後、玖珂は澪の背中を視線で追って先程の言葉を思い出していた。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 講義を終えて、病院へ向かうバスの中。 
 澪は昼休みの事を考えていた。思わず言ってしまった言葉、それを聞いた玖珂の悲しそうな表情。あんな事を言われれば玖珂が気にするのはわかっていたのに、言ってしまったのは自分の罪悪感を減らしたいただの我が儘でしかない。やりたい道へ進んで、楽しく学んでいる生活、玖珂の出来なかったそれを自分だけがしていることに何処か後ろめたい気持ちがあった。 
 
 だからといって、言うべきではなかった。今更ながら後悔が押し寄せ、自分の幼稚さに呆れて嫌気がさす。自分は結局兄に甘えているのだ。何を言っても怒ったりしないその優しさが、いつのまにか当然だと思ってしまっている。 
 盛大に肩を落とし反省していると、バスは病院前にいつのまにか到着しており、澪はバスを下りて病院を見上げた。 
 
 診察の後、採血などの検査を終え、主治医と高木を含めた三人で抗癌剤治療の事について話す。 
 澪が決めてきた答えを告げると高木は嬉しそうに「応援している」と笑みを浮かべた。多分、どちらの選択をしても高木は澪の意見を尊重し、その答えの先の生活を出来る限り手助けをするつもりだったのだろう。 
 
 早速抗癌剤を飲んだ後、輸液と制吐剤を点滴されている間、高木から二つ受け取った物がある。一つは椎堂への書類で、帰ったら渡してくれとの事だ。そして、もう一つは、とても小さなお守りだった。 
 
 白い生地に金糸で刺繍がしてあるそれの中には、これまた小さな木彫りの地蔵のような物が入っている。可愛らしいそのお守りは、高木の実家がある九州の神社の物だそうで、わざわざ送って貰ったらしい。 
 健康祈願だろうと思い、受け取ったそれに礼を言って眺めていると高木が説明を付け加えた。 
 
「それな、恋愛成就のお守りなんだ。御利益があるって有名な所で、遠方からも訪れる人が多い神社なんだよ」 
 
 思わず「恋愛成就?」と聞き返した澪に高木が愉快そうに笑う。 
 
「さては、健康祈願だと思ったか?」と。 
 
 図星を指されて苦笑いを浮かべる澪のベッド脇へと腰掛けると、高木は腕を組んで「残念でした」と肩を竦めた。 
高木曰く、体のことに関しては神頼みではなく、今の医学で出来る限りの事をしてやれるが、恋愛はそうもいかないからという事らしい。 
 
 自信たっぷりで安心させるように「玖珂くんの体は俺が責任を持って完治させる。だから安心しろ」と言った高木の言葉が、縋る場所のない霧の中で唯一の道しるべになった気がして、幾分気持ちが楽になる。 
 医者として出来るのは何も治療だけではない。患者への励ましや生きたいと願える未来を助ける事も重要な役割なのだ。 
 
「恋愛成就っていうか、君達はもう成就しているから。その先も幸せでいられるようにって事だな。そういうお守りもあればいいのになぁ……。恋愛継続祈願みたいなものがさ」 
「ほんと、そうですね」 
 
 苦笑する澪の肩を軽く叩くと、高木は頑張れよと微笑んだ。 
 
 連休あけの病院は少し騒がしくて、いつも点滴は個室で行うのだが、高木が話し終えたと同時に別の患者が入ってきた。そう、今日は四人部屋なのだ。 
 間仕切りの役目をしている薄いカーテンが引かれているので、どんな患者が入ってきたのかは見えないが声からすると結構歳がいっている男性のようだった。 
 
「今日は初日だからあれだが、明日からは朝と晩に抗癌剤。他の薬はいつも通りだな。予定としては二週間で一クールで様子を見ようと思ってる。その後一週間は休薬週間。ただ、発熱があったり、前回みたいに不調が酷いようならまたその都度様子を見て変える事があるのは了承して欲しい。少しでも体調が優れなかったらすぐに診察に来る事、いいかい?」 
「わかりました」 
「あとは……何か言うことはあったかな」 
 
 高木が考え込むように顎に手を当てると同時に、館内放送で呼び出しがかかった。高木が担当している患者の様態が悪くなったのだろうか、些か心配になり「自分は平気だから」と安心させるように澪が言うと、高木は「有難う」と澪の肩を叩いた。 
 
「それじゃ、俺は行くけどさ。何かあったらすぐにコール押すんだぞ?」 
「わかりました。あの……お守り、有難うございました」 
「いいっていいって、その代わり今度馴れ初めでも聞かせてくれ」 
「機会があったら」 
 
 薄く笑みを浮かべる澪に笑いかけると、高木は病室を出て行った。今日の点滴はそんなに長くないので寝ている暇もなさそうである。澪は手を伸ばして鞄を取り、講義で使った参考書を取り出してベッドの上の机へと広げた。 
 付箋やらマーカーでの印やらで使い込まれている参考書。こちらへ越してきてから今日までの間に、中に載っている事の三分の一以上はもう講義が終わっている。左手を動かせないので右手だけでページをめくり、復習のためにノートを広げて要点を書き込んでいく。 
 
 まだかまだかと点滴を見る度に、そんなに減っていない事に溜め息をつき、また手を動かす。 
 暫く時間が経つにつれ、嫌な感じの倦怠感がじわじわと体を苛む。同じ体勢でいるからというのもあるが、やはりそれは抗癌剤を飲んでいるからなのだろう。以前ほど吐き気がないのでだいぶマシとはいえ、身体中が怠い。 
 
 澪はペンを置き、額を支えるようにして肘をテーブルにつく。外の景色を見ると、少しずつ暗くなってきている。緩慢な動作で参考書とノートを鞄にしまい込むと、澪はベッドへ背を預けて目を閉じた。 
 副作用は精神的な物も十分影響することが経験上分かっているので、なるべくリラックスするように深呼吸などをしてみたがあまり効果はないようだ。 
 
 それから間もなくして点滴は終わり、看護師に色々と体調の事を質問される。少しだるいと言ったら、この後暫く休んでいってもいいと言われたが、どうせ休むなら帰宅してからの方が落ち着くのでそれは断った。 
 
 
 
 病院を出て薬局で処方薬を受け取り、自宅へ向かうバスへと乗った頃にはすっかり日も暮れていた。バスに乗車している間だけ少し眠ろうとしたら危うく寝過ごしそうになり、澪は自宅最寄りのバス停で慌ててバスをおりた。 
 
 今日は椎堂の方が早く帰宅している日なので、もう帰っているかも知れない。 
 自宅前のポストから椎堂が取り忘れていたのであろうチラシを取り、玄関のチャイムを鳴らす。あがった息を整えていると、一階にいたようで、椎堂はすぐに鍵を開けてくれた。 
 
「おかえり、澪」 
「ただいま」 
 
 靴を脱ぎながら居間を覗いたが、玖珂はいない様子である。 
 
「兄貴は、まだなんだ?」 
 
 そう言った澪に、「うん、八時には帰るってさっき連絡があったよ」と返す。自分には連絡はなかったが椎堂にはしたらしい。 
 
「澪……具合はどう? 今日からもう治療入ったんだよね?」 
 
 心配そうに顔を覗き込んでくる椎堂の頭を撫でた後、澪は洗面所へ向かいながら返事をする。 
 
「受けてきたよ。高木さんにもちゃんと話したし。あ、そうだ……書類預かってる」 
「え? ……僕に?」 
 
 まだ乾いていない手をハンカチで拭きながら食卓へ戻った澪は、鞄の中から高木に渡された書類を取りだして椎堂へと渡した。 
 
「そう、これ」 
 
 椎堂は、何だろうというように首を傾げ、澪から紙袋を受け取る。中の書類に目を通していて「ああ」と一言小さく呟いた。 
 
「何だったの? それ」 
「栄養学の資格の件でね、ちょっと……」 
「資格?」 
「うん。知識を得るだけでいいかなって最初は思ってたんだけど、ちゃんとした資格をとれば、今の仕事にももっと役に立つ事もあるかもしれないし……。今すぐってわけじゃなくて、来年か再来年にね。職場でも許可が出てるから、今のチームで働きつつ大学に通って資格を取りたいなって思ってるんだ。高木さんが詳しいから前に相談したんだよ。この書類は取り寄せてくれたみたい」 
 
 今の仕事と椎堂が称した中には、澪の体調管理も含まれているのは明白だった。しかし、アメリカでの栄養学の資格は日本と違い国家資格であり、相当難しいのだ。人数も少ない上に、合格者も驚く程僅かだと聞いている。努力家の椎堂であっても、一発で合格するかはわからないが、やるだけの価値は勿論あると思う。 
 現状で満足せず、より高みを目指す椎堂のその姿勢は頼もしく、同じ終末医療に携わる人間として先を照らして導いてくれることに尊敬の念を抱いた。 
 
「そっか……。応援してる」 
「有難う。澪がそう言ってくれるなら、僕もいっぱい頑張れるよ」 
 
 そう言って椎堂は笑みを浮かべた。 
 来年か再来年、椎堂の言うその言葉に、未来の自分を思い浮かべる。自分も試験を受けて、その頃には正式なボランティアとして何処かに勤めていたい所ではあるが、今の状態では難しそうである。カリキュラムもこう休みがちでは中々進まない。 
 僅かに焦る気持ちを抑えて、澪は腕を引っ張り椎堂を抱きしめた。まずは自身の病気を完治させる事に集中しなければいけない。 
 
「澪?」 
「誠二からパワー充電中」 
 
 澪が冗談を言うと、椎堂は自分も腕を回して澪をぎゅっと抱き締めると「ピピピピ」と機械の真似をして笑った。多分充電の音のつもりなのだろう。お茶目な椎堂に十分癒やされ、澪は少し腕を緩める。 
 
「部屋で休んでるから、兄貴帰って来たら声掛けて」 
「うん、わかった。澪、大丈夫……? やっぱり、気分悪い?」 
「それは大丈夫だけど、少ししんどいから……。でも、前と比べたら全然楽だし」 
「……うん、無理しちゃだめだよ?」 
「わかってる」 
 
 椎堂はそれでも心配そうで、腕の中で澪を見上げて額へと手を伸ばした。熱がないのを確認してほんの少し安心したように眉を下げる。 
 柔らかな椎堂の前髪を幾度か後ろへと梳いて、澪は最後にぽんと頭上に手を置き椎堂から離れた。 
 
 下ろしていた鞄を手に取り自室へ戻るために階段を上ると、自宅で安心したせいかどっと疲労感が増す。自宅のこんな少ない段数でも息が上がる。壁に手を突きつつ自室のドアをあけると、鞄を入り口へと立てかけたまま澪は脱力したようにベッドへと横になった。外出したままの服でベッドへ寝るのをいつもなら気にするのだが、着替えるのが億劫だった。上着だけを脱いでそのままベッドサイドへと置き、はぁ……と長く息を吐く。 
 少しずつ眠気が訪れ、その流れに身を任せて澪は目を閉じた。 
 
 
 
 三十分ほど眠ったのだろうか。浅い眠りだったので、ドアがノックされた音ですぐに目が覚めた。 
 
「澪? 俺だ、起きてるか?」 
 
 どうやら玖珂が帰宅したらしい。「……起きてるよ」と返事をし体を起こそうとしていると、部屋のドアを開けた玖珂が慌てたように「いいから」と澪の行動を制止させる。 
 
「気にしないで、そのまま横になってろ」 
 
 急に頭を上げたせいで、目の前がくらっとする。澪はぎゅっと目を閉じると再びベッドへと横になった。目の前に迫る枕カバーの柄をみつめながら睫を伏せると、視界は半分になった。 
 
「帰ってたんだ?」 
「ああ、十分程前にな。階下で椎堂さんに話は聞いたよ。今日から抗癌剤の治療だったんだって?」 
 
 うん、と頷く澪の背中側によると、玖珂はベッドの縁へと腰を下ろした。 
 
「やっぱり、治療中は副作用があって辛いもんなんだな……。今もしんどそうだし、大丈夫か……」 
 
 玖珂が静かにそう言って澪の背中に掌をあてる、ゆっくりと摩りながら、まるで自分の体のことのように辛そうに顔を歪める玖珂の優しさが、その掌から伝わってくるようだった。 
 
「治療、続ける事を決めたのは、……自分だから」 
「…………」 
「後悔とかしてないし。今だって、兄貴が心配するほど体調悪くないから、平気」 
「『大丈夫』『平気』……ああ、あと『心配しなくていい』も入るか……。お前のそう言う言葉が、本当に言葉通りじゃない事ぐらいわかってるけどな」 
 
 苦笑する玖珂に何も返せなくなる。 
 
「俺は、お前に何もしてやれないが……、せめてこうして近くにいる時ぐらいはもっと甘えてくれていいんだぞ?」 
「――別にそんなの要らないって言ってんだろ」 
「ほんとに可愛くないなぁ、お前は」 
 
 呆れるわけでもなく、何故か玖珂は嬉しそうで……。そのいつも通りのやりとりに何処かホッとしている自分がいる。背中越しなので玖珂の様子は見えないがどんな顔をして話しているのかは、見なくても想像できた。 
 
「澪、少しだけ。俺の話を聞いてくれるか?」 
 
 体調を気遣って様子を窺う玖珂に、澪はその先の話を想像する。 
 
「……うん、何?」 
「お前が昼に言った、俺と歳が近ければ良かったって話だが……。あれな、俺は逆だ。お前とこうして歳が離れていて良かったって思ってる」 
「……何で、……」 
「今はもう必要ないって怒られそうだが……。まだ幼かったお前を、当時、守ってやれるだけの力が持てる歳だったからだ。安定して働いて稼ぐにはそれなりの年齢が必要だからな」 
「……、……」 
「それとな、澪がいたせいで俺が何かを犠牲にしたわけじゃない。その逆で、お前がいてくれたおかげで俺も頑張れたんだ……。だから、今の俺がいる。わかるか?」 
「……」 
 
 わかるともわからないとも返せず、澪は息を呑んだ。玖珂が言葉を選ぶように、少し時間を空け、続きをゆっくりと語りかける。 
 
「お前はこれからもずっと一人じゃない。今だってこれからだって、どんなに離れていてもお前が辛い時には、いつだって助けてやるつもりだ。椎堂先生もいるし、俺もいる。……澪、お前を必要としている人間が、ちゃんといるって事だけは常に忘れないでくれ」 
「……」 
 
 背中を摩る手は一度も止まらず、体だけではなく澪の心の中までも入り込んできてその冷えた部分をゆっくりと温める。何か冗談でも言わないと、込み上げる気持ちが涙へと変わりそうで、澪はわざとつっけんどんに返した。 
 
「……そういうのは、恋人とかに言えよな。俺に言って……どうすんだよ」 
「心配してくれて有難いが、恋人にもちゃんと言葉で伝えてるぞ?」 
「……あっそ」 
 
 玖珂が笑って、澪の頭を撫でる。もう、子供じゃないのに……。そう思いながらも、結局拒否できないまま澪は聞こえない程度に溜め息をついた。フと気付くと、帰宅した時より少し体が楽になった気がする。ゆっくり休んでいたせいか、それとも……玖珂のおかげなのか。 
 そろそろ夕飯の時間である。「そろそろご飯にするー?」という椎堂の声が聞こえて、澪はゆっくりと体を起こした。 
 
「大丈夫か?」 
 
 手を伸ばして支えようとする玖珂に「平気」と首を振る。昼のことをちゃんと謝りたいのに、どうしていいかわからない。 
 澪は、ドアノブに手を掛けた玖珂の見慣れた大きな背中に視線を向ける。 
 
 小さい時には、その背中に何度もおんぶしてもらった。玖珂は昔から長身だったので、おぶわれたその背中から見る景色はいつもとまるで違って見えて、それが嬉しくて嬉しくて……何度もせがんだのだ。 
 今もそのまま変わらない背中に、昔からずっと見守ってくれていたその存在に、言葉を紡ぐ唇が僅かに揺れる。 
 
 
「――兄貴、昼間はごめん。有難う……これからも、……頼りにしてるから」 
 
 
 玖珂は振り向かなかった。小さな声で「……ああ」と呟いた声はいつも通り優しくて、そして……、少し震えていたのは、多分聞き間違いではない。 
 先に階下へ降りていった玖珂がいなくなった後、澪は部屋の電気をおとし、暗くなった自室を一度眺めるとゆっくりとドアを閉めた。