GAME -5-


 

 
 寝床に入ったら五分で就寝。 
某国民的アニメの主人公顔負けの寝付きの良さは昔からである。思い悩んで寝不足等の経験も覚えている限りない。……だというのに、昨夜は中々寝付けなかった。 
 理由は勿論、楠原と過ごした昨夜の出来事のせいである。その後楠原がどうなったのか……。こんなに気になるなら、潔く電話でも掛ければ良かったのかもしれない。 
 
 信二は、眠りについてからたったの二時間でけたたましくなり出した目覚ましを、八つ当たりするようにやや乱暴に止めた。ガコッと音を立て、その反動で目覚ましが横転する。 
 今は本当に眠い。今なら多分すぐに眠れるだろうが、店に出る日はやる事が沢山あるのだ。 
 
 信二は仕方なく布団からのろのろと起き上がると、カーテンを開けた。夜の街でやけた目には強すぎるほどの陽射しが差し込み、思わず二、三度目を瞑る。一人で気合いをいれるように「よしっ!」と呟くと体を伸ばした。 
 布団は、そのまま押し入れにはしまわずにベランダの柵へと掛ける。起床するのはこうして昼間なので、雨でもない限り出かけるまでの数時間は布団を干すことにしているのだ。 
 
 フローリングに布団というミスマッチな選択をしている理由としては、部屋がその方が広く使えるからである。 
 大きな布団ばさみできちんと止めて、掛け布団も次に干す。バッティングのように勢いを付けて布団叩きで何度か叩いていると、目の前の通りを丁度隣の家の住人が通りかかった。 
 小規模なマンションの二階に住んでいるが、全体的にファミリー向けの物件なので両隣も家族づれである。 
 
「あら、中山さん。こんにちは」 
 
 買い物帰りの袋を下げた隣人が、ベランダにいる信二の方へ顔を上げる。 
 
「こんにちは。今日も寒いっすね~」 
 
 笑ってそう返すと「ほんと、早く暖っかくなるといいのにねぇ」と、まぁ所謂一般的な挨拶が返される。 
 
 ホストをしている事は話していない。 
 いつも明け方近くに帰宅する信二を訝しく思ったのか、越してきて暫くしてから一度、何の仕事をしているのか聞かれたことがあった。咄嗟に『飲み屋で働いている』と嘘を言って以来、特に訂正もしていない。 
 ホストなんてやっていると生活が真逆になり、世間とはどんどんズレが生じてしまうし、悲しい所だが、世間一般のホストのイメージはそう良い物でも無い。なので詳細は言わないというのが無難な選択なのだ。 
 そして、些細な事で不信感を抱かれるのも嫌なので、なるべくこうして近所の住人とも話すように心がけている。 
 
 その甲斐あってか、今ではすっかり飲み屋の明るい兄ちゃんという位置を確立した。店からちょっと遠いので、もう少し近い場所へ越したいが、今のマンションの居心地が良いので中々決断出来ずにいたりする。 
 
 昼飯の用意をするために鍋に水を張って火に掛けたあと、沸くまでの間に素早くシャワーを浴びた。この頃にはもうすっかり目も覚め、多少の寝不足は吹き飛んでいた。上がった後バスタオルを肩にかけ、ボクサーパンツだけを履いて、すっかり沸騰している鍋にパスタを投入する。 
 パスタが茹であがるまでの時間、半裸でグルグルと鍋をかき混ぜながら、そろそろこの味も飽きたなと思い、見慣れたパッケージを掴んで眺めた。 
 混ぜるだけのソースが便利なので、いつも纏めて買っておくのだが、今回買った和風きのこソースは流石に買いすぎたかもしれない。まだ五回分は残っているそれに、信二は一人で苦笑した。 
 
 自宅で摂る食事はコンビニで買ってくることも多いが、自炊もそれなりにしている。食生活と部屋の掃除ぐらいは日中にきちんと済ませるという生活をしておかないと、どんどん自堕落になっていくのがわかっているからだ。 
 おかげで毎日酒を飲むホストをやっていても、体力には自信があるし、現に寝込むほど体調を崩した事もない。抵抗力があるのか、店でインフルエンザが流行った時も感染らなかったし、多少の事では熱も出ない。 
 丈夫な体に産んでくれた親に感謝したいくらいである。 
 
「お、出来たかな……」 
 
 時間を計っていないので適当であるが、頻繁に茹でているので勘でわかる。鍋からフライパンへとそれを移し、火に掛けてソースと混ぜると、フライパンごと食卓へと運んだ。雑誌を積んだ上にフライパンを置いて、昼食の出来上がりである。 
 こうすれば皿を洗う手間も省けるので楽なのである。難点はうっかり触ると火傷するので食べ方に工夫が要るところだ。 
 
 信二は十分もしないうちに全部を平らげると、そのまま使用した料理器具を洗い、一息つくために食後の煙草を咥えた。 
 唇だけで支えた煙草の煙が目に入らぬよう口端から紫煙を吐き出し、そのまま居間へと戻ると充電してあった携帯を手に取り一台ずつ電源を入れて確認した。 
 
 営業用の携帯に届いている客の女の子からのメールに一通ずつ返信した後、LISKDRUGでホスト全員に渡されている業務連絡用の携帯に来ているメールを確認する。今日は六本木店ではホストの誕生パーティーが開催されるらしい。 
 イベントは世間一般のクリスマスやバレンタインなども盛大に行うが、各ホストの誕生パーティーも欠かせないかき入れ時なのだ。 
 
 二本目の煙草を咥えて、最後にプライベートの携帯をチェックすると、不在着信が一件、グループメッセージに一件の未読があった。不在着信は実家の弟からで、ライブをするから見に来いという伝言だ。 
 
 すぐ下の弟二人は一卵性の双子で、現在十八歳。その弟達がバンドをやっているのだ。高校時代は軽音部だったので、その延長のお遊びでやっているのかと思っていたが、どうもそうではないらしく。この前一度バンド関係の雑誌にも掲載された。瓜二つのツインボーカルという形態で女子高生を中心に人気があるらしい。 
 
 身内が言うのもなんだが弟達はかなりのイケメンに成長し、今では二人とも自分より身長が高い。しかし、前に実家に帰った際に「お前達も、ホストやったら?」とふざけ半分で二人に勧めてみた時の返事は衝撃的な物だった。 
 
「そんなのやらなくても、女なんか今でも食い放題だし」 
「俺はファンの子には手は出さないけどね。やっぱ人妻が一番いいかな」 
 
――ちょっと待て。 
 
 まるでたちの悪いホストのような発言に唖然とした。中学生の頃まではあんなに純粋(に見えていた)だったのに、何処で間違ってこんな事になってしまったのか。自分の弟ながら情けなくなり、最低なその考え方に小一時間説教をした。 
 
 一番かっこつけたい年頃なので、話を盛っているのかも知れないとはいえ、そんな考えで遊んでいたらいつか本人につけが回ってくるのは目に見えている。 
 幸い未だに兄としての発言の効力はあるようで、文句を言いながらも最終的には「気をつけるよ」と言う反省の言葉を引き出せた。 
 
 フとそんな事を思いだしながらカレンダーに視線を移し、ライブの日程を見て見ると、平日の夜であり、当然だが仕事である。 
 中々都合が合わず。今までに一度しか行ったことがないが、今回も都内の小さなライブハウスでワンマンだそうだ。 
 仕事で行けない、と短くメール返信し、頑張れよ、という言葉でしめる。たまには行ってやりたいが、こればかりは仕方がない。懲りずに毎回連絡を寄こすので、そのうちいける日にあたるだろう。 
 
 そして最後にグループメッセージを確認すると、相手は楠原からだった。 
 信二は吸い終わりそうになっていた煙草を灰皿でもみ消すと、画面を食い入るように見つめた。幹事の件があったので連絡用にと二人でグループを作ったのだ。 
 何回か業務連絡的なやりとりが残っているが、今回は明らかに私用である。 
 
『おはようございます。昨夜はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。色々と有難う。決めた店の詳細は、僕の方からオーナーへと伝えておきますね。では、また店でお会いしましょう。 楠原 』 
 
 営業ではないのだから、こんな物なのかもしれないが、文章からは昨日の距離感は湧かず、信二は小さく溜め息をついた。 
 送信時刻を見ると今から四時間程前である。 
 丁度楠原も起床した時間なのだろうか。無事に帰れた様子に安堵する気持ちと、事務的な内容のみの文面にがっかりしている自分がいる。楠原の性格からして、くだけた感じの文章が送られてくるとは思っては居ないが、もう少しこう……。 
 何を期待しているというのか……。 
 信二は、まだ乾かしていない濡れた髪の毛をぐしゃっとかき混ぜて仰向けに転がり返信を打つ。 
 
『おはようございます! いい店が見つかって良かったです 晶先輩への報告、宜しくお願いします じゃぁ、また店で  信二 』 
 
 メッセージを送信し、「ああ……」と一人呟く。 
 
 一緒に夕飯を食べていた時に感じた、楠原との縮まった距離感は、自分だけの錯覚だったのだろうか。モヤモヤする気持ちの行き場を探して、信二は再び溜め息をついた。 
 繰り返し浮かんでくるのは、楠原の営業用ではない自分に向けた優しい微笑みと、最後に見た楠原の切なげな表情。震える体を掴んだ手には、今もその感触が残っていて胸の内を惑わせる。 
 
「そろそろ準備するか……」 
 
 考えていても仕方ないので、信二は起き上がると店に出る準備をするために洗面台へ行き、ドライヤーを手に取った。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 「おはようございまーす」 
 
 いつものように一番乗りではないので、誰が来ているかを予想しながら待機室のドアを開く。 
 中には楠原もいて、康生や他の後輩ホストも揃っていた。 
 康生は携帯のアプリゲームに夢中で、片手を挙げて適当な挨拶しかしないがこれはいつものことだ。ソファに座っていた楠原と後輩ホストは何か雑談をしているようだった。 
 口々に挨拶を返され、楠原と目が合うと、楠原は一度礼を言うように目線を動かした。自分も同じように視線だけで挨拶をし、ロッカーへと向かう。 
 
 ぱっと見は特に顔色も悪くないようだし、楠原からは昨夜の不調の欠片は見当たらない。コートを脱いでロッカーにかけると、ロッカーの扉の内側に付いている鏡に楠原が腰を上げたのがうつる。廊下へと向かう楠原が部屋を出て行った後、少し時間をずらして信二も廊下へと向かった。 
 
 楠原はトイレや廊下にはおらず、フロアに向かうとカウンターで一人、灰皿を磨いていた。もうすでに他のホストが磨いた後のようで、重ねてある灰皿は二つしか無い。 
 
「蒼先輩、おはようございます」 
「ああ、信二君。おはようございます」 
 
 声をかけてから隣に腰を下ろし、信二も最後の灰皿を手に取る。 
視線をカウンターの奥へ向けたまま様子を窺っていると、磨く用の布を持つ楠原の手がツと止まる。眼鏡を押し上げた後、楠原が長い前髪を後ろへと流す。艶のある黒髪からは清潔感のあるシャボンのような香りがし、信二の鼻孔を掠めていった。 
 何となく気まずい空気を払うようにして、信二は沈黙を破る。 
 
「……、身体大丈夫っすか? 店に来てるって事は平気って事かなとは思うんですけど……。昨日帰ってからも、気になってたんで……」 
「……大丈夫です。気に掛けてくれて有難う……。昨夜は、恥ずかしい姿をお見せしてしまって……。もう、信二君の前では格好を付けられないですね……」 
 
 楠原はそう言って、少し困ったように眉を下げた。 
 
「元気になったなら、良かったっす。あの……」 
「はい」 
「……よく、なるんっすか? 昨夜みたいな発作って言うか、そういうの」 
「…………」 
「今まで気付いてなかったけど、もしかして店出てる時も、何回か昨日みたいなことになってるのかなって……」 
 
 昨夜のように薬を服用すれば三十分程で治まるのならば、誰にも気付かれずにその時間だけどこかで隠れて耐えることは出来そうだなと思ったのだ。 
 店の裏口から続く非常階段、滅多に誰も使用しない場所であるが、そこで蹲る楠原を想像するだけで胸がぎゅっと苦しくなった。 
 楠原は、図星だったのかすぐに返事をしなかった。再び布を持つ手を動かしキュッという音が響く。僅かな沈黙の後、静かに答えが告げられた。 
 
「……なる。と言ったら、……オーナーに報告でもしますか?」 
 
 考えてもいなかった事を言われ、信二は少し苛立ったように灰皿をカウンターへと置いた。軽々しく告げ口をするような男だと一瞬でも思われたのかと思うと、それは酷く悲しくて。 
 
「するわけないでしょ。……しないっすよ。俺だって、言って良い事とまずい事ぐらいわかります」 
 
 こんな事を言うつもりで問いかけたわけじゃない。 
 楠原が一人で苦しんでいる時間があるのだとしたら、少しでも助けてあげたい、そう思っただけなのに口から出てしまった言葉は、自分でも驚く程、楠原の言葉を責めるような口調だった。 
 
「……そういうわけでは……。すみません」 
 
 小さくそう返す楠原の指先が視界に入り込む。装飾品を一切つけていない長い指先、綺麗に整えられた爪の先には、昨夜地面を引っ掻いた際についた傷が残っていた。真っ白な肌についた赤い小さな傷。多分今日も、その指先は冷たくて……。 
 だけど、引き寄せることも温めることも出来ないまま、それは、ただそこにあるだけだった。 
 
――自分は何をこんなに苛立っているのか。 
 
 しかも、先輩である楠原に対して。理由を言えないほどの事情を只管隠し、辛い思いをしているのは本人だというのに。 
 平然としている楠原が、今だって全然平気じゃない事を知ってしまったから。 
 
「すみません……。俺も強く言いすぎました……」 
「いえ、僕の言い方が良くなかったですね……」 
「安心して下さい。誰にも言うつもりはないっすから。ただ、さっき、蒼先輩言ったでしょ? もう俺の前では格好つけられないって」 
「はい。……?」 
「だったら……。今後、また昨日みたいな発作が起きたら、俺を呼んで下さい」 
「……信二君?」 
「もう知られてるんだから、俺になら見せられますよね……。あんな状態の時、一人でいて……何かあったらどうするんっすか」 
「大丈夫ですよ」 
「全然大丈夫じゃないでしょ……。俺、すげぇ怖かったんです」 
 
 楠原が細く息を吐いて、信二の方へと視線を向けた。 
 
「信二君は、……何故僕に、そんなに優しくしてくれるのですか? 店の先輩……だからですか……?」 
 
 信二は俯いて小さく笑う。 
 
「何でですかね……自分でも、わからないっす」 
 
 本当にわからないのだから、こう言う他に仕方がない。晶へ対しての憧れは自覚しているし、それが恋心も含んでいることには気付いている。 
 だけど、男と交際する事は想像したことがあるというだけであり、現実では今だって女の子が好きなのだ。男である楠原に対しての感情が恋愛感情と言いきれるのかは自信が無かった。曖昧な部分を決定できる程の出来事も今まで経験した事がないので、自分の気持ちが正直分からないのだ。 
 普通に今後も女の子とつきあって、そのうち結婚して……。何の疑問もなくそう思っていた。 
 
 ただ……。楠原に対しての気持ちは、また晶への淡い恋心とも別の場所にある気がした。もっと辛くて、濃くて、今だって溺れてしまいそうに息苦しい。 
 
「……わからないから、俺も知りたいんっすよ。俺、駆け引きとか、そういうややこしい事出来ない性格なんで……。言葉に裏の意味とかないです。蒼先輩が心配だから……それだけじゃ、理由にならないっすか」 
 
 楠原の目を見つめながら、正直な思いを告げる。楠原は、笑みを浮かべて頷いてくれたけれど、その真意は読めなかった。 
 
「信二君の気持ちはわかりました。そんなに心配してくれて、本当に嬉しいです。本当に……。どうしてもの時は、では、頼らせて貰います。ただ……」 
「……?」 
 
 楠原は信二から視線を外し、磨き終わった灰皿を出来あがったほうへとそっと重ねるとカウンターの椅子から足を下ろした。背中を向けたまま言った楠原の台詞が信二の胸に棘を刺す。 
 
「僕は、……そんなに弱い男では無いつもりです。どうしてもの時、多分それは、訪れないと思います」 
「蒼、……先輩……」 
「お客様を駅までお迎えに上がる予定があるので、そろそろ行きますね」 
 
 強い口調では無かったけれど、これが楠原の答えなのだ。 
 昨夜の事に感謝しているとはいえ、これ以上関わらないで欲しいという、遠巻きな拒絶である。今後も、助けは要らないと。 
 
 店が始まる前にする話では無かった。 
 
――こんな気持ちで店に出るのは初めてだな……。 
 
 信二は一人になったカウンターで突っ伏すと、自身の前髪を引っ張って、力なくその手を落とした。楠原からの拒絶に、思ったよりずっとショックを受けている自分。 
 この気持ちも、ただの勘違いで終われば良いのに……。信二は切なげに眉を寄せると磨いたばかりの灰皿に手を伸ばして煙草を咥えた。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 最後に「蒼先輩」と口にした信二の顔を見ることも出来ず、逃げるようにコートだけを手にして店を出た。 
 発作が起きているわけでもないのに苦しくて、短く何度も息を吐いては、楠原はエレベーターへと乗り込み大きな鏡へと寄りかかる。 
 
 すぐに一階へと到着したエレベーターから降り、店から駅までの道を足早に歩きながら、片手だけをコートのポケットに入れた。 
 指を差し込んで少しだけネクタイを緩め、深く息を吸う。風で翻るコートのポケットの中では、予備でもっている薬の数を、指先が無意識に数えていた。 
 
 最近は前ほど頻繁に発作が起きることも無く、順調に治まっていると思っていたのに、今月はまだ始まったばかりなのに昨夜でもう三回目の服用だった。乱用することは極力避け、自宅に居る時は薬を飲まずに治まるのを待つことも多いが、このペースだとあっという間に足りなくなりそうである。 
 薬を服用した次の日は、頭痛が酷くて、結局鎮痛剤も続けて飲む羽目になる。薬が効きすぎる体質なので、増えていく薬の体への影響が少しずつ出始めていた。 
 
 誰にも見咎められず今までやってきたというのに昨夜は本当に失敗したと思う。よりによって同じ店の後輩にあんな姿を見られてしまうとは……。気が緩んでいたわけではない。あの少女の事が引き金になったのだ。 
 
 楠原を時々苛む例の発作は、その時々によって症状も重さもまちまちだった。五分程で治まる時だってあるのだ。だけど、昨夜は違った。 
 信二には大丈夫だと言った物の、正直自分でもこのままどうにかなるのではと全身を蝕んでいく恐怖感に怯えさえした。優しい彼の手を借り、あまりの恐怖に思わず信二に頼ってしまった事。情けない自分に腹が立つと同時に、信二の言葉を思い出す。 
 
 あんなに慌てて、相当に驚いただろうし怖かったことは容易に想像が付く。それでも必死で自分を支え、寒い中自分のコートを脱いで抱き留めてくれた。 
 
 発作が治まったあともずっと心配してくれて、喫茶店で一人で話し続ける彼の言葉を聞いていたら、自分でも驚く程ふいに涙が滲んだ。こんな事は今までだって一度も無かったはずなのに。 
 惨めさと悔しさと、真っ直ぐで純粋な彼の気持ちが痛いほど入り込んできて、胸の中を乱暴にかき混ぜられる。苦しかった呼吸よりずっと苦しくて、息が止まるかと思った。 
 
 世の中には、関わっていい人間と、関わらない方が良い人間がいる。信二にとって自分は、間違いなく後者だ。 
 わかっているのに、『何もかも話して、生き方を変えられたらどんなに楽だろう』と。昨夜自宅に帰ってから一人になり、そう思ってしまった瞬間――全てが怖くなった。いつのまにか、信二といる事が心地よく感じている自分に気付く。 
 
 信二と過ごした数時間、屈託のない笑顔で「蒼先輩」と呼び、こんな自分を慕ってくれる信二と居ると、昔の自分に一瞬戻れたような気がしたのだ。今更戻れるはずのない過去の自分に、まだ未練があることを痛いほど思い知らされた。 
 
 思わず溜め息が溢れてしまう。 
 
 先程の店内で最後に見せた信二の少し思い詰めたような表情。 
 明るい彼の表情を曇らせているのが自分であるという事。自分でも酷い言い種だったとわかっている。彼がその言葉で傷つく事も知っていて突き放したのだ。 
 だけど、今一瞬傷ついたとしてもそれでいい……。一番してはいけない事は、永遠に彼の笑顔を失わせる事なのだから。 
 
 
 
 
 駅に着いたのは約束の十分前。 
 
 楠原は構内の時計をちらっとみてその時刻を確かめる。一度深呼吸をすると、優しげないつもの笑みを浮かべる。大丈夫、何も変わってはいないのだから……。 
 仮面を付ける事でしか生きていけない自分を心の中であざ笑いつつ、遠くに見える女性客の方へ軽く会釈をする。 
 
 ブランドのスーツを身に纏った女性は、ヒールを鳴らして少し足早に楠原へと近づいた。美容院でセットをしてきたばかりのようなブラウンの緩やかな巻き髪。軽やかなそれが彼女の肩で弾めば華やかな香りがふわりと舞う。 
 
「もう迎えに来てくれてたのね、待ち合わせ時間まだなのに。待たせちゃった?」 
「いえ、僕も今着いたばかりですよ。遠くからこちらへ向かってくる小百合さんに、見惚れていた所です。一分でも、貴女より早く着て、本当に良かったなって、ね」 
 
 嬉しそうにはにかむ小百合が楠原の顔を見上げる。 
 
「蒼君、今日も王子様みたいでかっこいいね」 
「それは、光栄ですね。でも……僕は、貴女に恋する一人の男の役で十分ですよ」 
「そうなの? じゃぁ、私もお姫様じゃ無くていい。そのかわり……、今夜も小百合の事、主役にしてくれる?」 
「勿論、いつでもそのつもりですが」 
「嬉しい。じゃぁ、行こ」 
「そうですね。では、荷物を僕に持たせて頂けますか? 主役が荷物を持っていたらおかしいでしょう? かして下さい」 
 
 少し照れたような彼女に優しく微笑んでみせる。女性客の手にいくつか持たれている荷物を代わりに持ち、逆の手でそのまま彼女の手をそっと取る。大きな宝石がはめられた細い指の感触は、信二とは真逆である。楠原はそんな事を一瞬考え、自分の指をそっと重ねた。 
 
「蒼君さ、……手、いつも冷たいよね?」 
 
 歩き出す楠原に、楽しげに小百合が声をかける。わざとぎゅっと握ってくる彼女の手に、楠原も少しだけ握り返した。 
 
「体質なんですよ。温めてあげられなくて、すみません。寒いですか?」 
「ううん、冷たくて気持ちいいからいいよ」 
「そうですか? それなら良かった……」 
 
 冷たくて、気持ちいい……。彼女の言葉が届いた瞬間、信二の言葉と重なる。 
――目の前に冷たい手があったら温めてあげたくなるじゃないっすか、男として! 
 体温だけでなく、自分の中の冷えた部分にまで届く信二の温かさを今も覚えている。 
 
「……手が温かい人は、心も温かいって迷信、ご存じですか?」 
「うん、聞いたことあるよ?」 
「迷信ではなく、……本当なのかも知れないですね」 
「えぇ? じゃぁ蒼君は、冷たい人間って事なの?」 
「さぁ……どうでしょう。そうじゃなければいいな、とは思いますけど」 
「蒼君はこんなに優しいんだもん。冷たい人間なわけないよ。この前だって、小百合の我が儘聞いて……朝までずっと一緒に居てくれたじゃない?」 
 
 先週、小百合と共にアフターをし、そのままホテルへ泊まった。性欲を持て余して何度もねだってくる彼女と情交に及んだ夜を思い出す。今夜だけは呼び捨てにしてという彼女の名を、朝までに幾度となく呼んだ。 
 信二との会話や、その空気感、彼の細かい表情まで記憶しているというのに、小百合との記憶はまるでサイレント映画のように音もなく、所々ノイズ混じりで色褪せて見えた。 
 
「優しくしているのは、小百合さんがお相手だからですよ。誰にでも同じ事を出来るほど、僕も余裕があるわけではないですから」 
「え、じゃぁ私って、蒼君にとって特別、……だと思っても良いの?」 
「勿論。二人だけの秘密ですよ?」 
 
 悪戯に人差し指を鼻先にのせて秘密のポーズをすると、小百合の頬が赤く染まる。 
 
「……うん。秘密ね」 
 
 他の客とは違う。貴女にだけ……。 
 半分嘘だとわかっていても、もしかして本当なのかもという淡い期待を抱かせるホストの常套手段。言う方も言われる方も、言葉遊びの域を出ないことを知っている。 
 体を繋げたって、気持ちまでを繋げることは出来ないなんて、大人なら誰だって知っている事。知らないふりを出来るのもまた、大人だけの遊び、そう。イロコイなのかも知れないが……。 
 
 楠原は繋いでいた手をそっと離し、自分へ甘えたように寄りかかる小百合の肩を引き寄せて穏やかな笑みを浮かべた。 
 今から数時間は、小百合のお望み通りの男を演じきるために。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 店が終わり、閑散としたフロアを見渡して、信二は入り口で立ち尽くしていた。偶然なのか今夜は楠原もアフターで店に残っておらず。後輩達は全員先程帰ったばかりだ。康生はいるはずだが、先ほど客を送りに出て行ったばかりなので今は居ない。 
 
 信二は俯いてつま先をぼんやりと眺め、今日の客との会話を思い出す。 
「今日の信二、元気なくない?」と客に言われたとき、晶の言葉が脳裏を巡った。そんな言葉を客に言わせたことが大問題である。すぐに切り替えて挽回したが、かなり無理をしたせいか、今こうしていつになく疲労困憊なのだ。 
 
『プライベートで何があっても、接客には一切持ち込むな』 
 
 ホストになった日から、晶に何度も言い聞かせられてきた言葉だ。今頃になってその難しさを知る。 
 客と話していても、気になって仕方ないのは離れた席でいつものように接客をする楠原の事だった。 
 同じホストを指名している場合、客同士が鉢合わせないように死角になる卓へと待たされる。楠原の指名は今夜も途切れず、楠原を待つ間、それぞれ離れた席で待機している客の相手をするのもひとつの仕事だ。 
 
 臨時であり自分の客ではないので話を聞くのが主だが、話していて気付いたことがある。楠原を指名してくる客は、明らかに自分の持つ客層とは違った。 
 それは落とす金額の大きさや職種などの違いではない。 
 それぞれが、多かれ少なかれ本気で楠原に恋をしている。そして、誰もが自分が楠原に一番近い存在だと信じて疑っていないという事だ。 
 
 現に指名客がかぶり、こうして待たされている事がわかっているのに余裕を見せているのは、それだけ確かな安心を楠原が与え続けているからなのだろう。 
 接客をしていると、いつのまにか彼女たちと自分が重なり――同じなんだ。そう思った。 
 楠原との距離が縮まって、彼の特別になれた気がしていた今朝までの自分がいい証拠である。 
 
 自分もホストだというのに、ホスト相手にすっかり手管に巻かれるなんて情けない。そして気付く。楠原は決して誰の物にもならない、そういう男なのだ。 
 
「イロコイ……か……」 
 
 思わず小声で言葉が漏れた所で、階段を二段飛ばしであがってきた康生に聞かれてしまった。ぼーっとしている信二の肩を康生が景気よくはたく。 
 
「なーに、アンニュイ気取ってんだよ。似合わねーぞ?」 
「うるっさいな……」 
 
 ムッとしてフロアへ戻ろうとすると、康生も後ろから着いてきた。ごつい体格の大男に背後から着いてこられると背中越しでも威圧感が半端ない。 
 
「何だよ、冗談だろ? お前機嫌悪いの? 珍しいじゃん」 
「別に。普通だろ?ちょっと疲れてるけど」 
「なー、今からさ。ちょっと飲みに行かね?」 
「はぁ? 今からかよ」 
「おごってやるからさ!」 
「飲み代ぐらい俺だって払えるっての」 
 
「あのさ……信二」 
 
 康生が珍しく、言葉を途中で止める。言いづらそうに視線を動かし、困ったように頭を掻いた。 
 
「……なに? 何かあったとか?」 
「いや……。ちょっと、お前に話しておきたい事があんだよ……。その……。蒼先輩のことで」 
「……え?」 
 
 まさかここで楠原の名前が出てくるとは予想もしておらず、思わず康生の顔をみる。ふざけている様子もないし、だとしたら何の話なのだろうか。 
 
「流石にここじゃ、話せないからさ、場所、変えようぜ」 
「……わかった。じゃあ、帰る準備してくるわ」 
「おう! 待ってるから」 
 
 誰にも昨夜の事は話していないし、楠原が自ら喋ったとも思えない。だとしたら康生から話される楠原の話というのは……。 
 最近二人で飲みに行くことも滅多にないので、たまには息抜きになるかもしれない。マネージャーへ挨拶をし、信二は帰り支度を整えると康生の待つフロアへ向かった。