GAME -8-


 

 
 信二とは逆方に足を向けて、楠原は通りを歩いた。 
 振り向いたら、もしかして信二がまだこちらを見ているのではないか……。僅かに期待しては、そんな事を考えているらしくない自分に胸の内で苦笑いが浮かぶ。 
 
 歌舞伎町の大通りは今夜も人が多くて、瞬きをした次の瞬間にはもう見える景色が変わっているような目まぐるしさがある。点滅する数え切れない程の電飾看板が、鳴り止まぬ頭痛を酷くする。 
 楠原はポケットから手を出すと、痛みを抑えるように指を押し当てた。脈打つこめかみに流れる血流が指先に微かに伝わる。 
 
 薬をきらしてからという物、持っていないという不安感からなのか以前より頻発する発作が楠原の体力を徐々に奪っていた。病院へ出向く時間もなく、仕方なく薬なしでやり過ごしてはいるが、回復までに要する時間も回数を重ねる度に長くなっている。もう、限界が近い。 
 
 そのせいかここ最近まともに睡眠もとれていないのだ。 
 こんな事では仕事に支障をきたすとわかってはいるが、寝所に入っても訪れるのは浅い眠りばかりで……。ウトウトとすると決まってあの夜の出来事が悪夢となって再現され、目が覚めてしまう。その繰り返しだった。 
 
 出来るだけいつも通りに振る舞っては居るが、晶や信二には様子がおかしいことに気付かれているようで気持ちが余計に焦る。今日だって、何度も心配そうに様子を窺ってくる信二に平静を装うのに苦労したのだ。 
 気の良い店の仲間達と共に過ごしていると、一瞬だけでも現実から解放された気分になって、その温かさにほだされそうになる。警察沙汰になった店のホストなんて、本来ならどの店でも煙たがられる存在。なのに、晶はそんな自分にも偏見なく、他のホスト達と同じように扱ってくれる。 
 
 こんな自分を先輩と呼び、慕ってくれている信二もそうだ。 
 楠原は歩きながら、信二との会話を反芻する。 
 
――店、……やめたり、しないっすよね……? 
 
 そう言った信二の表情は真剣で、酷く不安そうな視線で捕らえられれば咄嗟に返す言葉を飲み込むしかなかった。多分それは、信二の辞めて欲しくないという気持ちと、自分の辞めたくないという気持ちが重なってしまったからだ。最初に出会った日から、こんな自分を「蒼先輩」と呼び、姿を見つけるといつも声をかけてくれる。後輩思いで店のムードメーカーでもある信二は、本人が思っているよりもっとずっと人を惹きつける力がある。 
 
 そんな信二の真っ直ぐな気持ちは、いつだって自分の一番弱い部分に刺さってきた。 
 それを跳ね返すだけの力も無いまま、幾つもの言葉や彼の想いが今も尚胸に刺さったままだった。否、あえて刺さったままにしておいているのだ。 
 何処か一カ所でも繋がっていたくて、それが、……ただの他愛もない記憶の一つだったとしても。 
 楠原にとってはたったひとつの、光だった。 
 
 
 
 楠原は路地を曲がった所で足を止めた。 
 一度深く息を吸って顔を上げる。 
 今は何も店舗の入っていない廃ビルは、入り口をテープで封鎖されたまま無残な姿でただそこにある。残された側面にある看板にはCUBEという文字が、電気の流れを失ったネオン管として残っていた。 
 煤で汚れたような真っ黒なそれは、もう二度と輝くことはなくて、そのうち取り壊されるビルと共に、この世に存在しなかった物となる。 
 
 楠原が到着して暫くすると、隣のビルからスーツ姿の男が二人出て来た。路上喫煙が許されていない事を気にも留めず、二人とも咥え煙草である。一人の男が厚みのある茶封筒をもう一人へと渡し、受け取った男はそこから何枚か札を抜き出すと、隣の男のポケットへとねじ込んだ。 
 一言も会話をしないまま、二人が顔を見合わせて下卑た笑みに口元を歪める。 
 
 楠原は静かに逆を向き、背中で気配だけを追いながら路地の角に身を隠した。息を潜めて通り過ぎるのを待ち、携帯を取り出す。 
 男がビルから出て来て通り過ぎるまで、わずか四分。楠原は、鍵のかかったフォルダ内のスケジュールに時刻を記載する。念の為に五分程そのまま待機し、遠くで二人が乗り込む車が発車したのを確認してから、再び元の路地へと戻った。 
 
 誰も居なくなったそこには、再び静寂が充ちている。 
 楠原は数歩後ずさって、背後にあるコンクリートの壁に、疲れ切ったように背を預けた。 
 そっと目を閉じれば、昔の想い出が溢れるように流れ込んでくる。 
 
 
 
 
 ダウンライトで照らされた壁に、CUBEという店名が掘られている。店内の照明は足下だけに紫のライトが使われていて……。白い大理石の床は上品なアラベスク模様。白が基調の床はどうしても汚れが目立つので、常に新人が磨かされていた。 
 
「蒼センパイ! 見て下さい、俺一人でフロア全部磨いたんっすよ!」 
 
 店が開く二時間も前に来て一人でフロアを磨いた事を自慢げに報告してくる。その笑顔に「偉いですね」と褒めてやれば……、嬉しそうな顔を向けてくる後輩に楠原も目を細めた。 
 
 想い出で片付けるには新しすぎる、ほんの数年前の出来事だ。 
 テレビドラマでよく特集されているホスト密着のようなドキュメンタリーや、ホストが主人公のドラマなど、そんなメディアでの華やかな印象だけを見て憧れ、田舎からホストを目指して上京してくる若者は少なくない。 
 彼もそんな一人だった。 
 
 初めて会った時は背中にリュックを背負っていて、両親がくれたというお守りがそのリュックで揺れていたのを思い出す。服のセンスも華美ではなくごく普通で、ホストを目指したい若者には全く見えなかった。 
 
 しかし、身長も高く顔立ちは愛らしくて、磨けば女性受けしそうなルックスだったので、体験入店として店側が合格させたのだ。 
 面倒見の良いホストがいなかったので、新人を育てる係として強制的に教育係を任命するという形が店では取られていた。当時、前の店から引き抜かれてCUBEに移転してきて間もない楠原が、その教育係に任命されていた。 
 正直面倒を押しつけられた気分だったし、早く音を上げて田舎へ帰れば良いと思っていた。自分の売り上げを伸ばすことしか頭に無かったからだ。 
 
 『幸大(ゆきお)』という名前は、大きな幸せが訪れるようにと祖母がつけてくれたのだと、聞いてもいないのに教えてきた彼は、まだ先月二十歳になったばかりで、つい最近初めてビールを飲んでみたと言う。 
 そんな幸大に真面目に指導するのは馬鹿馬鹿しいと思っていた。半ば呆れた気分で、マニュアル通りの説明と指示だけを出してほとんど面倒を見ていなかった。 
 
 あと少しの売り上げでNo1に追いつける位置にいた楠原は、客を一人でも多くとって売り上げを伸ばしたかったので、そんな新人に構っていられる余裕もなかったのだ。 
 
 連日同伴とアフターを繰り返し、甘い言葉で誘って高価なボトルを入れさせる。太客の要望があれば、どんな女でも抱いた。今までだってそうやってやってきたのだから、今更そのスタイルを変えるつもりもなかった。楠原がそんな日々を送っている間。 
 幸大は楠原に言われたとおり、毎日トイレの掃除を真面目にやり、グラスを磨き、先輩ホストの使いっ走りで煙草や客へのプレゼントを買いに行かされる日々。それでも幸大は文句も言わず、自分もいつか立派なホストになると信じて疑っていなかった。 
 
 そんなある日、丁度指名が全員同時に重なり、楠原の卓へつけるヘルプがいなかった時があったのだ。 
 まだヘルプに入るにはテーブルマナーも完璧ではなかったが、誰も付けないわけにもいかず、幸大がヘルプにつく事になった。 
 客は楠原のエースの客で、一番金払いの良い客だった。しかし、彼女は少し神経質な女性であり、楠原でさえ、細心の注意を払っての接客を強いられるような客だった。 
 最初からそんな卓でのヘルプが幸大に務まるはずもなく……。 
 
「初めまして! 本日ヘルプにつかせていただく幸大と言います!」 
 
 如何にも素人っぽいその雰囲気に客が少し怪訝な顔をする。 
 
「ねぇ、蒼。何? この子……。ほかに居ないの?」 
 
 幸大にも聞こえるようにわざとそんな事を言う客も大概だが、別に幸大が可哀想だとも感じなかった。 
 
「申し訳ありません。今、他のホストは指名が入っていて……、彼も失礼の無いように気をつけますので、今日だけはヘルプにつかせてやって下さい」 
「あの……。頑張ります。宜しくお願いします!」 
 
 幸大のためのフォローではなく、客の機嫌を損なわせないための楠原の言葉を、幸大は自分を庇ってくれているのだと勝手に解釈したようで、まだ幼いその顔に笑みを浮かべた。 
 
「……まぁ、仕方がないわね。次からは他のヘルプにして頂戴」 
「かしこまりました。お許し頂き有難うございます」 
 
 何とか客を宥めて接客が始めたが、やはり最初の予感通り、次々に問題が起こった。 
 一度目はグラスを倒し、テーブルが水浸し。女性客の服にかからなかったのがせめてもの救いだが、テーブルを片付けて床を掃除するために席移動をお願いする羽目になった。 
 
 そして次には、灰皿の交換をするために持ってきた被せる用の新しい灰皿がうまく噛み合っておらず、女性客の靴の上に灰をまき散らしたのだ。それには流石に女性客も怒り、オーナーも出て来て謝罪したが「もうこの店には来ないわ」と捨て台詞を吐いて、帰ってしまったのだ。 
 
 気紛れな女性客の指名を維持するのに、どれだけ気を遣っているか。ここまでの積み上げてきた苦労、幸大の行動がその全てを台無しにする。何でこんな彼を店にいれたのだろうと、上を恨みたくなる。 
 店が終わった後も何度も謝ってくる幸大に腹が立っていた楠原は、耳を貸さず、代わりに辛辣な言葉を投げかけた。 
 
「……。さっきからなんなんですか。何度も謝らないで下さい。僕に謝ったって、もうあのお客様は戻ってこない事がわからないんですか?」 
「……で、でも」 
「いいですか、今日失ったお客様は、貴方が半年働いても稼げない額を一日で落としてくれる方だったんですよ。貴方はホストには向いていない。それでもここでホストを続けたいなら、明日の店が開くまでに、店にある全てのお酒の銘柄と値段、味を覚えるくらいの覚悟を見せて下さい」 
 
 涙目になって「ごめんなさい」と繰り返す幸大を無視してその晩は自宅へ帰った。 
 
 店に置いてある酒を全部など、新人が一晩で覚えられるわけがないのだ。その数も相当ではあるし、第一酒をほとんど飲めない幸大が、それぞれの味をテイスティングできるわけもない。これで、諦めて店を辞めてくれるだろうと思っていた。 
 
 
 そして次の日、店に早めに出た楠原はトイレで倒れている幸大を発見した。 
 厨房には試飲用に店にある全ての酒が少しずつ入ったグラスとメモ帳が残されていた。メモ帳には、酒の正式名称と略称、色や匂い「苦い」や「辛い」等の感想がびっしり書き込まれている。 
 幸大は楠原の言葉を真に受けて、夜中中必死で酒の名前と味を覚えるために店に残っていたのだ。 
 
 トイレでは、流されていない嘔吐物がそのまま残っていて、幸大は真っ青な顔で酔い潰れていた。トイレを流し、幸大の肩を掴む手が震える。もしかして、死んでしまったのではないかと思ったからだ。 
 何度も幸大の名を呼ぶと、うっすら目を開けた幸大は、視界に楠原がうつると大きな目にぶわっと涙を浮かべた。 
 縋るように腕を掴まれ、楠原は思わず後ずさった。 
 
「あ、蒼センパイ……、すみません……、俺、頑張ったんっすけど、やっぱり全部覚えきれなくて……。吐いてたら、味もわかんなくなっちゃって……俺……。ごめんなさい」 
 
 こんな状態になっても、必死で謝り自分を先輩と呼んでいる幸大を見て、楠原の中で音を立てて壊れていく物があった。それは真っ黒に染まって何も写さなくなっていた硝子のようで……。 
 自分が言い放った酷い言葉も、彼に対して取った行動も、思い返して鳥肌が立つ。 
 
――自分は何てことをしたのだろうと。 
 
 少しでも多くの客を取り、金を落とさせてNo1になること。意地になってそればかり考えていた自分の行動が、幸大という一人の青年を追い詰めた。一歩間違えれば急性アルコール中毒で殺していたかも知れない。 
 
 一つもまともに指導してこなかったのだから、彼が失敗するのは当然だった。教育を任されていた自分の責任であり、彼は何も悪くない。 
 腕を掴む彼の手にそっと自分の手を重ねれば、幸大の体温が感じられる。体温の低い自分の中に混ざり込んでくる幸大の体温、そして思い。それが、金では買え無い物なのだと何故今まで気がつかなかったのだろう……。 
 
 この温かさを、失わせる前に気付けて本当に良かったと思った。 
 
「……こんな、馬鹿なことして……死んでしまったら、どうするつもりですか」 
「……でも、どうしても俺……、蒼センパイに憧れてて……、頑張ってセンパイみたいにかっこいいホストになりたくて、だからっ」 
 
 許しを請うような瞳を直視できず、楠原は汚れた彼のスーツの上に自分のジャケットを羽織らせて視線をそらした。なにひとつかっこよくなんかない。金のあるなしで客を選ぶような、薄汚いホストの自分を――初めて恥ずかしいと思った。 
 
「汚れたジャケットは脱いで、僕のを着て帰って下さい。……胃薬を飲んで、今日はもう休むこと。店には僕から伝えておきます。いいですね」 
「……蒼センパイ……、やっぱり俺もう……」 
「……貴方のおかした失敗は、全て僕のせいです。本当に、すみません……。だから、もう無理はしないと約束して下さい」 
「……え、……」 
 
 幸大を立たせて、スーツをはらってやり、楠原は優しい笑みを浮かべた。その笑みを見て幸大が心から安心したのが分かる。 
 
「体調が良くなったら、一から僕が指導し直します」 
「えっ!! 俺、……まだこの店にいていいんですか」 
「……当然でしょう。僕が指導するからには、完璧なホストを目指していただきます。続けるかどうかは、自分で決めて下さい」 
 
 嬉しそうに笑顔を向けた幸大は、まだ具合の悪そうなまま、それでも凄く幸せそうだったのを覚えている。 
 それからは、何もわかっていない幸大にマッチやライターの扱い方から始まり、テーブルマナーや、お辞儀の角度、言葉遣いや酒の飲み方、客によって変える接客スタイル、ありとあらゆる事を丁寧に教え込んだ。 
 
「グラスがお客様より上になっています、やり直し」 
「あっ、つい……すみません!! ――これぐらい下げればいいですか?」 
「そうですね、それぐらいで。よく出来ました。これで、乾杯までの流れはもう大丈夫でしょう」 
「やったー!」 
 
 幸大は飲み込みが良い方でもなかったので、長い時間がかかったが。指導の甲斐があっていつのまにかすっかり立派なホストになっていた。一人前になっても人なつこくつきまとってくる幸大を、弟のように可愛がるようになり、たまには二人で酒を飲みに行くこともあった。 
 
 指名も入り、その頃既にNo1になっていた楠原に続き、No3まで上り詰めた幸大は一番大切な後輩だった。彼が気付かせてくれたおかげで、自分も変わることが出来たのだ。ある意味、救われたのは、そう、自分だったのかも知れない。 
 
 
『蒼センパイ!! 俺いつかNo1になりますから、見てて下さい!』 
 
 
 
 
 幸大の声が何重にも重なってひずみ、耳の中で反響する。 
 消えない声に追い立てられるように、楠原は、そっと目を開けた。 
 
 
 目の前の寂れた店の傷跡に、走馬灯のように想い出が映し出される。痛む頭を堪えて目を眇める。点滅する映像の流れが遅くなって、プツリと途切れた。 
 
 同じ呼び方で自分を呼び、慕ってくれる信二。彼は幸大とは全く似ていないはずなのに、信二といると昔の自分に戻れるような気がしてしまうのだ。多分自分は、信二に惹かれている。 
 幸大に対する可愛い後輩というのとは違った別の感情。 
 
 一緒に居ると眩しくて、目を細めてしまいそうなその存在に憧れ、欲してしまう。彼の側にいられるような人間だったらどんなにいいだろうと……願ってしまう。 
 だからこそ、彼をこれ以上受け入れられなかった。 
 自分に関わって不幸になる信二を見たくない。自分の贖罪に巻き込むわけにはいかないのだ。 
 
 
 
 ガンガンと痛んでくる頭に眉を顰め、帰路につくために楠原は逃げるように路地から大通りに出た。 
 溢れる人波が視界の中で、歪んで見える。 
 何人かと肩がぶつかる度に一瞬元に戻るが、すぐに目に映る景色から色が失われていく。モノクロームの世界はいつだってすぐそこにあって、自分の存在を待ち構えている。いつもの発作の前兆なのがわかり、楠原は人を避けるようにしてビルとビルの暗い隙間に移動した。 
 
「……、……」 
 
 饐えたゴミの臭いに横を見てみると、ブルーのプラスチックのゴミ箱がある。蓋が閉まりきらないほどに詰め込まれたゴミは、いつから回収されていないのか小バエがたかっていて、地面には何かの食品の残りが散らばっている。奥に視線を向けると、その闇はどこまでも続いているようにみえた。 
 
 すぐそこの通りでは、賑やかな笑い声と活気づいた世界が広がっている……。こんなに近い場所なのに、自分が居る場所は真っ暗で、見るに堪えないほどに薄汚い。 
 
 人目に付かぬよう少しだけ奥へ進む。立っていることも出来なくて、楠原は、側にある剥き出しの配管に縋るとそのままズルズルとしゃがみ込んだ。換気扇の吐き出し口から油臭い匂いが吐き出され、生暖かく周囲を流れる。 
 
 薬は一つも残っていない。 
 
 そして、誰も自分には気付かない。 
 
――独りだ。 
 
 そう思った途端、吐き気が込み上げた。 
 噎せながら口元を押さえ、奥の方へと顔を向ける。喉を侵食してくる不快感に責め立てられるように嘔吐した。苦しさに浮かぶ涙が吐瀉物の上にぽたりと落下する。 
 
 ハァハァと荒い呼吸を繰り返していると、胸ポケットで携帯が振動しているのに気付いた。暗がりで取り出してみると、相手は信二だった。楠原はそのまま携帯を元のポケットにしまう。とても電話に出られる状態ではないし、うまく取り繕える自信が無い。何か用事があったとしても明日店で聞けば良いだけだから……。 
 
 そう思っているのに、信二からの電話は二度三度と間隔を開けて繰り返しかかってきた。こんなに電話をしていて出ないというのは流石におかしく思われるのではと思い、四度目にかかってきた電話に恐る恐る出る。 
 滲む視界に目をこらし、震える指先で画面を触ると、すぐに信二の声が聞こえた。 
 
『あ、やっと繋がった! 蒼先輩、何度もすみません。今もう家っすか?』 
 
 周りの雑音が入らないように手で覆うと、楠原は小さく口を開いた。 
 
「……そうです。電話に、……出られなくて、すみません。……何かありましたか?」 
『いや、今日具合悪そうだったんで、……無事に家に帰れたか、心配になっちゃって。もう家に居るならいいんですけど』 
「……心配してくれて、有難う。……大丈夫ですか、ら」 
 
 返事しおえる前に咳き込んでしまい、信二の声が途切れる。少しだけ間が開いて、携帯を持ち替えているのかガサガサと音がする。 
 
『…………蒼先輩、本当に自宅、ですか?』 
 
 信二の勘の良さに焦り、慌てて「本当です」と返す。その言葉と重なるように、大通りにあるパチンコ屋から大音量で宣伝が流れ出した。 
 
「……、……」 
 
 何て間が悪いのだろうと、楠原は眉を顰める。十分置きぐらいに流れるその宣伝の存在は先程から気付いていたのに、電話に出てしまった自分を恨む。何故か先ほどよりもその音が大きく聞こえた。 
 案の定、信二がその音を聞き逃すわけもなかった。 
 
『……自宅なんて、嘘でしょ……何で、……嘘つくんっすか』 
 
 何も言葉が出てこないまま、楠原は目を閉じる。荒い息遣いを繰り返す楠原の様子に気付いた信二から焦ったような声がかかる。 
 
『蒼先輩……? もしかして、具合悪い? ……っ、今、どこですか! ……教えて下さい!』 
 
 耳を澄ますと、信二の携帯からも同じ宣伝が流れている。だから音が重なって余計に大きく聞こえているのだ。別れてから結構時間が経っている。あの後、駅ではない方へ向かって行ったので、どこかで買い物でもしていたのかも知れない。 
 
 信二もこの近くに居るのだとわかり、ツゥとこめかみから汗が流れた。 
 
 もっと早く別の場所へ行っていればと後悔が押し寄せるが、今はまだ動けそうにない。 
 もうつける嘘も思いつかなかった。手から力が抜け、汗で滑る携帯が派手な音を立てて地面に落ちる。 
 
 画面にヒビが入ったのを横目でみつつ、再び込み上げる吐き気に何度も咳き込んで嘔吐した。吐く物はすぐになくなって、胃液が喉を焼く。苦しさに喘いでみても、一向に不快感は去らなくて、只管耐えながら時間が過ぎるのを待った。 
 
 いつのまにか電話は切れていて、信二の名前もディスプレイから消えている。 
 暫くし、吐き気が治まったところで、気分の悪さを振り払って落ちている携帯を拾いポケットへとしまう。 
 
――とにかく、早くここから動かないと……。 
 
 何とか立ち上がって移動しようと、酷い目眩で足下が揺れるのを我慢し通りへ向かう。眩しい光が差すその側まで進んだ所で、空しくも意識が遠のいた。まずい……倒れる、そう思った瞬間、目の前が大きな胸で一気に塞がれた。回された長くて頼もしい腕にがっちりと支えられ、無様にくずおれるのを回避する。 
 
「……やっと、見つけた」 
 
 走ってきた事で忙しなく弾む信二の呼吸音。信二は唾を飲みこみ何度か息を吸うと、抱き留めた腕に力を込めた。 
 
「……何してるんっすか……。こんな所で……」 
 
 少し責めるような口調で、でもどうしようもなく優しい声で。見つけないで欲しかったのに、今こうして信二の体温を感じていることに震えるほどの安堵を感じた。 
 
「ここ来る前に、タクシー呼びました。……すぐそこに停まって貰ってるんで、送っていきます」 
 
 信二は静かにそう言って体を離すと、楠原の前にしゃがんだ。自分を背中におぶって連れて行こうとしているらしい。こんな大勢の人が居る街で、そんな恥ずかしい真似を信二にさせるわけにはいかない。 
 楠原は信二の肩に触れ、振り向く信二に首を振る。自分の汚れた膝を払って一度呼吸を整え顔を上げた。 
 
「……歩けます」 
 
 信二が黙ったまま立ち上がって体を支える。そのまま歩行者天国の大通りに出て、すぐ側の道を脇へ入ると信二の言っていた通り、タクシーが一台停車していた。 
 先に楠原を乗せて信二が乗り込む。 
 
「自宅の住所、知らないんで。言って下さい」 
 
 信二にそう言われ、タクシーの運転手に住所を告げると、面倒くさそうに一度欠伸をした運転手がタクシーを急発進させた。 
 徐々に感覚が戻ってきて、発作が収束していくのを感じる。しかし、元々体調も悪いので、発作が治ったところで気分が優れないことには変わらなかった。タクシーに乗り込んでから、信二は一言も口を開かず、重苦しい空気が車内に張り詰めている。 
 
 新宿からはさほど距離のない自宅には、間もなくして到着した。信二が料金を支払った後先に降りて、楠原の体を支えるように腕を伸ばす。 
 煌びやかなタワーマンションが目の前にそびえ立っており、中にいるコンシェルジュと目が合う。信二は一度上を見上げるとやっと口を開いた。 
 
「このマンションっすか? 流石、蒼先輩っすね。芸能人とか住んでそう」 
 
 出来るだけいつも通りにしようとしている信二の気持ちが痛いほどに伝わってくる。楠原は小さく笑うと、マンションのエントランスを素通りした。 
 
「その、隣です……」 
「え? ……、隣って……えっ!!」 
 
 ビックリしたような信二が、慌てて楠原へと並ぶ。そびえ立つタワーマンションの横に隠れるように古いアパートがあった。今まで立ち退きにあわなかったのが不思議なくらいの貧相なアパートである。 
 タクシーから降りてタワーマンションを見上げた時、楠原らしいと違和感なく思ったが、その隣のアパートは全くもって楠原とは釣り合っていないように思えた。あまりに驚いているのも失礼に当たるので、信二はだまって楠原の後に続いた。 
 
「驚きましたか? ……こんなアパートで……」 
「あ、いや……。ちょっと……」 
 
 アパートは、全部屋がうまっていないのか薄暗く、上る階段は錆びついていて、楠原と信二の鉄板を踏む足音が響く。信二が手摺りを掴むと、ざらりとした感触とともに塗装が剥がれ落ちた。楠原レベルのホストならば、それこそ余裕で隣のタワーマンションの上層階に住めるはずなのに……。他人の金の使い方を問うつもりもないが、さすがに驚くしかない。 
 奥から二番目の部屋の前で立ち止まると、楠原は鍵を取り出して差し込んだ。軋む蝶番がギシッと音を立ててドアが開かれる。 
 
「両隣は、誰も住んでいないので……」 
 
 暗いことの言い訳なのか、楠原がそう言いながら玄関で電気を付け、靴を脱いであがった。 
 
「……お邪魔します」 
 
 玄関へ入ったところで、信二は再び驚きに足を止めた。部屋の間取りは六畳二間の部屋が縦に繋がっていて玄関脇にキッチンがある昔ながらの普通の造りだった。 
 
 だけど、何もない。 
 
 奥に布団が一式たたんであるだけで、家具もテレビもひとつもなかった。壁に付いている備え付けの暖房器具、簡易的な座卓の上にノートPCが一台、後は冷蔵庫があるだけだ。キッチンで口を漱いでいた楠原が、信二の方を見ずに自嘲するように口を開く。 
 
「何もないですが、上がって下さい」 
「……あ……、はい」 
 靴を揃えて部屋に上がると、天井も結構低い事に気付く。 
「蒼先輩、俺、すぐ帰りますから。休んで下さい」 
「お茶ぐらい淹れます。座ってて下さい」 
「あ、いいっすよ。具合悪いんだし、あの、じゃぁ、俺がやるんで」 
 
 立ち上がって楠原の居るキッチンへ行くと、やかんを火に掛けて楠原が振り向いた。背後に見える食器類も、最低限のものしかなくて、生活が想像できない。引っ越してきて荷物が届いていない状態のようでもあるが、楠原から引っ越したばかりという話は聞いていない。 
 まるですぐいなくなるのが決まっているかのような部屋に不安になる。 
 
「聞かないんですか……? どうして、こんな所に住んでいるのか」 
「聞いて、欲しいっすか?」 
 楠原がゆっくり首を振る。 
「じゃぁ、聞かないっす。それより、具合どうですか? まだ、すげぇ顔色悪いっすよ……」 
「だいぶ落ち着きました。もう、平気です……。信二君には、二度も助けて貰って……何と御礼を言ったら良いか……」 
「別に、俺がしたくておせっかい焼いてるだけなんで、そういうのは気にしないで下さい。あ! そうだ……。蒼先輩、薬は? ……あの、前飲んでた薬、ちゃんと飲みました?」 
「……今、きらしてて。手元にないんです」 
「え……、それって、……。大丈夫なんっすか?」 
「……どうでしょう。死ぬ事はないと思いますが」 
 
 曖昧な返事をする楠原の躯を、信二は切なげな表情を浮かべて腕を回し引き寄せた。抱き締めると言うほどには強くない力で回された腕。やりきれないとでもいうように信二が呟く。 
 
「やめましょうよ……。冗談でも、死ぬとか、そう言う言葉は聞きたくないです。……ちゃんと薬、貰って来て下さい」 
「そうですね。すみません……。あ、お湯が沸いたので」 
 
 こうして抱くような事をしたらもっと拒絶されるかと思ったのに、楠原は全く嫌がらなかった。慣れているからなのか、拒むほど気力が無いのか、それとも……。楠原の考えている事はいつだって自分にはわからなくてもどかしい。 
 座卓の前に戻り腰を下ろすと、お茶を淹れた湯飲みを持って楠原も近くに腰を下ろす。 
 
「いただきます」 
 
 淹れて貰ったお茶を口にして驚く。この場には場違いなほどの高級な玉露だった。 
 母方の実家が茶農園なので、子供の頃から緑茶だけは最高級の物を飲まされていたので多少は味が分かるのだ。 
 フと部屋の中を視線で探れば、家具はないが服を掛けているハンガーラックにはかなりの数のブランドスーツが揃っているし、入る時に見たが、靴もブランドの箱が積まれていた。本来ならば、それが楠原のあるべき姿なのだ。 
 
 頭が痛むのか、楠原がこめかみにそっと指をあてる。あまり長居しても気を遣わせるので、信二は貰ったお茶を一気に飲み干すと、腰を上げた。 
 
「そろそろ帰ります。お茶、美味しかったっす。ご馳走様でした」 
「信二君」 
 
 顔を上げないまま呼び止められて、信二は足を止める。 
 
「……はい」 
「今日は、有難うございました……。でも、本当に、僕にはこれ以上関わらない方が良いですよ」 
「…………どうしてですか」 
「同じ店の同僚として、これ以上親しくなる必要がないからです」 
 
 楠原の言っていることは理解できる。店で普通に会話できる程度の仲であれば、それで十分である。だけど、それ以上の気持ちを求めている場合は? ……信二は少し躊躇った後、静かな口調で返した。 
 
「同僚としてじゃなく、蒼先輩のことが……好きだって言ったら、どうしますか……」 
「…………」 
 
 信二がゆっくりと楠原の前に再び腰を下ろして、その手を重ねる。楠原の手はやっぱり冷たくて、顔を上げた楠原の眼鏡ごしにうつる瞳は、何も映していなかった。怖いぐらいに感情の見えないその瞳が視線を逸らすように伏せられる。 
 
「気持ちは嬉しいですが。信二君は多分、勘違いをしています。貴方は優しすぎる。その感情は『好き』ではなく『同情』って言うんですよ」 
「違います! 俺は、……」 
「でしたら、……信二君は、男性とお付き合いをした事があるんですか?」 
「それは……、ないっすけど。……でも! だからって勘違いとは限らないでしょ」 
「僕は男ですよ。貴方と、同じ体です」 
「俺だって、そんな事わかってますよ」 
「本当に、わかってますか?」 
 
 俯く信二の前で、楠原は上着を脱ぐと、シャツのボタンに手を掛けた。一つずつ外されていくボタンから、初めて見る楠原の素肌が視界に入ってくる。 
 
「蒼、先輩……」 
「僕を好きだというなら、抱いてみて下さい。それとも、僕が抱きましょうか? その気持ちが、勘違いじゃないと証明できますよ」 
「ちょっと、……待って下さい。……何、言って……」 
 
 最後のボタンに手がかかり、楠原の前が全て開く。楠原の鎖骨の下には、昔怪我をしたのか、うっすらと残る傷跡があった。 
 
「どうしました? やっぱり男の躯じゃ、欲情しませんか?」 
 
 楠原が信二の手を取って自分の胸に押し当てる。 
 
「あ、あの……」 
 
 はだけた楠原の素肌は、本当に真っ白でその色気に酔いそうになる。誘うような瞳で見つめられ、掌から伝わる楠原の鼓動。現実感を失ったまま、信二は自身の指先でその素肌をなぞると、その躯を畳にそっと押し倒した。 
 頭の中で、自分が何をしているのかも分からなくなる。楠原の言うとおり本当にこれが同情で、勘違いなのだとしたら……。無抵抗の楠原の首筋に唇を寄せると、いつもの楠原の香水が香る。結びつく甘い香りに、躯が疼くほどの欲情が一気に駆け上がった。 
 
 ほどけた黒髪に指を絡ませ、くっきり浮き出た鎖骨を愛撫する。傷跡にも口付け、強く吸いあげると傷が浮き出たように紅く染まる。同じ男の躯とは思えない滑らかな肌を指で確かめるように撫で上げると、自身の物が硬く勃ちあがるのがわかった。 
 一切声をあげない楠原に視線を向けると、閉じた睫が小さく震えていた。酷く虚しくて、どうしようもなく切なかった。触れている楠原の躯はこんなにも艶やかなのに、その中には何もない。 
 
 勘違いじゃなく、本当に楠原が好きなのだ。そう思った瞬間、手が震えた。 
 
 信二の奥歯がギリッと音を立てる。 
 
「…………出来ません……、……」 
 
 押し殺したような言葉が、空虚な部屋に響く。 
 噛みしめる口元から、悔しげな息が漏れる。 
 
「何なんっすか、コレ……。こんなの、おかしいでしょ。間違ってますよ……。俺を試してるんっすか……。どうして」 
「…………信二君」 
「……そんなに俺が嫌いですか……。だったら、はっきりそう言って下さい。その方が全然マシっすよ……」 
 
 これ以上、信二が自分に近づかないように。どう罵られても、構わないと思った。 
 酷い人間だと思って、離れてくれればそれだけで良かった。 
 
 そう覚悟していたはずなのに、思わず叫びたくなるほどに、引き裂かれた胸が痛んだ。いっそこのまま乱暴に抱くような相手だったら、最後まで演じきることが出来たのに。冷たく突き放せる自信は消えて、楠原は必死で返す言葉を探した。信二を傷つける度に、鋭い刃物で刺されるような痛みが襲う。 
 信二が髪をかき上げて、一度落ち着かせるように息を吐く。 
 
「俺……、帰ります。ゆっくり休んで下さい……」 
 
 こんなに酷い仕打ちをした楠原に対しても、信二は最後まで優しくて、楠原のはだけたシャツをそっと合わせて白い肌を隠すようにすると「風邪引いちゃいますよ……」と泣きそうな顔で笑い立ち上がった。 
 最後に用意していた言葉を、信二に告げるため、楠原は半身を起こすと壁へ寄りかかった。息苦しくて、目眩がする……。だけど。 
 
――これで、終わる。 
 
 もう二度と、信二が自分に優しい視線を向けてくることもなくなるだろう。温かい手で、冷えた躯を温めてくれることも、――その明るさで、救ってくれることも……。 
 
「信二君、……ひとつ教えてあげます」 
「……、……」 
 
 立ったまま振り向かない信二に構わず、楠原はその先を口にした。 
 
「CUBEを……、店の仲間を、警察に売ったのは、僕ですよ」 
 
 信二がまるでスローモーションのようにゆっくりと楠原へ振り向く。長く続く沈黙の後、震えた信二の声が小さく届いた。 
 
「嘘……ですよね……?」 
「あんな時期に、抜き打ちで捜査が入るのはおかしい。そうは、思いませんでしたか?」 
「…………」 
「……僕が証拠と共に、情報を流したんです。店を、潰すために。玖珂さんや、オーナーは知っています。これでわかったでしょう? ……僕は、そういう男なんですよ。……貴方に、好きになって貰えるような人間じゃない。――信二君、貴方の立っている場所には、僕は行けないんです」  
 
 信二は酷くショックを受けた様子で、黙ったまま部屋を出て行った。 
 信二が出て行ったドアがしまる。二人の間を繋げていた空間事、バッサリと切り捨てるように音を立てて。 
 疲れ切った体が悲鳴を上げるように軋む。楠原は目を手で覆うと、声を押し殺して泣いた。