GAME -12-


 

 
 最初に異変に気がついたのは、その雪の日から二週間ほど前の事だった。 
 変わらない日常が少しずつ歪んでいる事にすら、この時はまだ気付いていなかった。背後の席で接客をする幸大の声を聞きながら、楠原もその日最後の指名客を見送るために客の手を取る。 
 
「蒼、またくるわね。……ねぇ? たまにはお店じゃないところでも会って欲しいな」 
 
 上目遣いで自分を見上げる客の肩をそっと優しく抱いて、楠原も笑みを浮かべる。 
 
「僕で良ければ、喜んで。二人だけで、美味しい物でも食べに行きますか?」 
「うん! 約束よ? お店はお任せしていいかしら?」 
「ええ、満足して頂けるようなお店を、僕の方で探しておきます。また、ご連絡差し上げますね」 
「楽しみにしてるわね」 
「はい。帰り道、お気を付けて……。今夜は、素敵な時間をご一緒出来て楽しかったです」 
「私もよ」 
 
 並んで店を出てタクシーに乗り込むまで客を見送る。よくボトルを入れてくれる客なので、店外営業のサービスをしておく事も重要だ。次のオフは休みなしか……、そんな事を考えながらネクタイを少し緩め店に戻ると、店内の様子がおかしいことに気付いた。 
 
 ざわついている入り口の客に「ちょっと、失礼します」と声をかけつつかきわけてフロアへ入ると、ガラスの砕けるような激しい音が聞こえ、楠原はビクッとして足を止めた。先程まで幸大が接客をしていた方角からの音である。奥まったその席では女性客が大層怒っていてマネージャーが出て来て謝罪をしているところだった。 
 
 慌てて側へ寄ってみると、グラスの酒を頭からかけられたらしき幸大は、びしょ濡れのまま謝りもせず、うつろな目で呆然としていた。足下に割れたグラスが散らばっている所を見ると、先程の音はこのグラスの物だったのだろう。 
 
「お客様、本当に大変申し訳ございません。幸大君、君はバックへ入って」 
 
 マネージャーの幸大を窘めるような声で楠原は我に返り、店のNo1としてすぐに頭を下げた。 
 
「お客様、幸大が失礼をしたようで、本当に申し訳ございません……」 
 
 状況がわからないが、何か怒らせるような事をしたという事だけはわかる。 
 頭を下げつつチラッと幸大に視線を向けてみると、マネージャーや楠原の言葉が聞こえていないのか、動こうともしない。ブツブツと何かを言っているように開く唇に不穏な空気を感じた。 
 
「……て……れない……ら」 
 
 先程まで呆然としていた幸大が独り言のように呟く。 
 
 何を言っているのかは聞き取れないが、その様子は客に見せていい状態ではないと楠原は判断した。 幸大の腕を強く掴んで客から引き離すと「待機室へ」と咎めるように短く放つ。 
 
 その声でやっと立ち上がり、のろのろと待機室へ向かう幸大が去った後も、マネージャーと何度も頭を下げ続けた。今夜は料金を店側が全て持つという事でなだめすかし、帰りのタクシー代という名目で多めの金を渡し何とか怒りを静めて帰って貰った。 
 他のホストが総出で見送った後、楠原はその卓の惨状を見て眉を顰めた。揉め事なんて、それこそ数え切れないほど経験している。だけど、この惨状はその中でも酷い方だ。 
 
 自分がいなかった十分程度の間に何があったのか、ボトルは倒れていて、灰皿やグラスまで転がっている。幸大に投げつけた事で割れたグラスの欠片を屈んで拾いつつ、先程の幸大の様子を思い浮かべれば、胸の内に得体の知れない不安が影をさす。 
 
「何があったんですか……?」 
 
 一緒に欠片を拾いながら掃除をしているマネージャーは疲れきったような声で返事をした……。 
 
「……どうも幸大君が、客にしつこくボトルを入れるように言ったみたいでね……。相当絡んでいたみたいで、客がご立腹でこの様だよ。……楠原君は知らないかも知れないけど、実は前にも二回ほどこういう事があったんだよね」 
 
 思ってもいなかった衝撃的な言葉に驚き、楠原は手を止めてマネージャーへと振り向いた。 
 
「幸大が……? 本当ですか……?」 
 
 マネージャーが心底困ったように頷く。自分が店に出ていない時に、その二回があったという事なのだろうが、何も知らなかった。――あの、穏やかな幸大が……? 
 最近はすっかり一人前のホストになって、手がかからなくなった幸大の独り立ちを心から喜んでいたというのに。 
 
「困るよねぇ……。幸大君、最近ちょっとイライラしてるみたいで何かあったのかねぇ」 
「すみません……」 
 
 咄嗟に謝罪の言葉が口をついた。幸大は自分が育てたという責任を感じたからだ。 
 
「僕が本人から聞いてみます。今後は、このような事が無いように言い聞かせますので、あまり、おおごとにしないでやって下さいませんか」 
「うん、それはもちろん。こっちも変な噂が立ったら困るしね。楠原君、彼、君には懐いてるみたいだし頼んだよ」 
「はい、お騒がせして、本当に申し訳ありませんでした……。ちょっと幸大の様子を見てきます」 
 
 気の弱いマネージャーは、あまり関わりたくないと思っているのか。それ以上の事は何も言わなかった。幸大のために頭を下げる楠原の肩をポンポンと叩いて、破片の入ったゴミ袋を片手に奥へと戻っていく。マネージャーは幸大がイライラしているようだと言っていたが、自分と居るときにはそんな事は一切無く、普段と変わらないように見えた。 
 
 楠原は未だ不穏な空気のままのフロアを抜けて幸大の待つ待機室へと足を向けた。 
 今日店が開く前、幸大が一人で行きたがらないキャッチに付き合って二人で駅前まで足を運んだばかりだ。その時も変わった様子は微塵もなかった。もう教育係の任を解かれているとは言え、幸大の面倒は今でもずっと見ている。何か悩みでもあるのならば、言ってくれるはずだと信じていた。 
 
 待機室へ向かう足取りが重いのは、現実を受け止め切れていないからだ。 
 幸大は、店の他のホストの誰よりも優しくて、いつも明るくて……、客に無理矢理ボトルをいれさせたり、そんな絡み方をするような事は今まで一度もなかった。そういう接客で売っていくタイプのホストもいるが、幸大にそれが向いていない事は本人も理解しているはずだ。 
 
 待機室へ戻りドアをあけると、幸大は一人で部屋の中に居た。 
 臨時で立てかけてあるパイプイスに腰を下ろして俯いている幸大は、いつもなら楠原が入ってくると「蒼センパイ」と笑顔を向けてくるのに一切反応を示さなかった。近づいてそっと肩に手を置き、側へとしゃがんで顔を覗き込む。 
 
「幸大? 一体どうしたんですか? マネージャーから聞きましたよ。お客様に無理矢理ボトルを入れさせようとしたって……どうしてそんな乱暴な真似を……」 
「だって……客が……。今月はもう、ボトル入れられないって言うから……。それじゃ、俺、金貰えないです。俺、金が欲しいんです。足りないんです」 
「……幸大?」 
 
 やはりいつもの幸大ではない。言動も喋り方でさえまるで別人で、そう――薬でもやっているかのように……楠原の中で警笛が鳴り響く。 
 
「……何を言っているんですか? 毎回ボトルを入れてもらえるわけがない事ぐらい、わかっているでしょう。マネージャーも心配していました。最近様子がおかしいって……。僕も、今の貴方を見ていてそう感じています。お金が足りないって、何かあったのですか?」 
「なにって……? 俺だってなにかぐらいあります……。蒼センパイに言えない、こと、とか」 
 
 呂律も回っていない幸大が、言い終わった後何もおかしくないのに突然笑う。会話は成立しているとは言え、このままでは埒があかない。楠原は黙ったまましゃがんでいた腰を上げて、幸大を見下ろすと静かに言い放った。 
 
「幸大、顔を上げて。……立ちなさい」 
 
 何度か鼻をすすって腰を上げた幸大は、まだヘラヘラと笑っている。楠原は顔を上げた幸大の頬を強くひっぱたいた。幸大に手をあげたのは初めてだった。 
 
「しっかりしなさい!」 
 
 幸大の頬を叩いた掌がじわりと熱くなる。頬を張られた幸大の目の色が一瞬にして変わる。我に返ったようにそろそろと楠原を見上げると、「蒼センパイ……」と酷く動揺し、壁に後ずさって身体を震わせた。酒のせいなんかじゃない、その様子は尋常ではなくて、楠原はどうにかして安心させようと震える幸大の身体をあやすように肩を何度も撫でた。 
 
「幸大、……何があったんですか? ……どこか具合でも……? 僕には、教えてくれるでしょう?」 
「な、にもないです。蒼センパイ……ごめんなさい……。もうしません。だから、これ以上聞かないで下さい……」 
「…………幸大」 
 
 幼子のように急に泣き出す幸大をこれ以上叱る気にもなれない。こんな情緒が不安定になる程何かに追い詰められている幸大を見るのは初めてだった。そろそろフロアに居る他のホスト達が戻ってくるだろう。こんな状態の幸大を見せれば、陰で幸大が何を言われるかわからない。 
 楠原は幸大のロッカーをあけるとコートを取り出し、腕にかけたまま幸大の手を引いて部屋を出て裏口へとまわった。 
 
「このまま、今日はもう帰りなさい。一人で帰れますか? 心配なら、僕が一緒に自宅まで行きましょうか」 
 
 心配そうに背中を撫でる楠原に、幸大はコートを着ながら首を振った。自分より背の高い幸大は、それでも酷く頼りなげで、不安そうな瞳を楠原へと向けた。 
 
「幸大、……大丈夫。……大丈夫ですよ。きっと疲れているんでしょう。幸大は頑張り屋ですから……」 
「……蒼センパイ」 
 
 迷子になった子供のように楠原の手を掴んだ幸大の手は、いつもの温かさはなく湿っていて冷たかった。 
 
――……幸大。 
 
 いつもとは逆の体温。楠原は幸大を見つめながら両手で幸大の手を包んでさする。誰にも言うことが出来ないまま暗闇に突き落とされた幸大がどれだけ不安を抱えていたのか、楠原にはまだわかっていなかった。 
 
「今日はゆっくり休んで……。僕は、いつでも待っていますから、一人で思い詰めずに、落ち着いたら話してくれますよね……?」 
 
 幸大は「うん」とは言わなかった。心配を掛けたことを謝り、店の外で別れるまで一度も顔を上げなかった。タクシーに乗って遠ざかっていく幸大を見送って、楠原は漠然とした不安感を抱えたまま自分も帰路についた。 
 
 
 
 それから一週間。 
 その日、幸大のシフトは休みで店にはいなかった。 
 
 珍しく指名客が途切れたので、少し休むために待機室へと向かった楠原が偶然耳にしたのは、信じられない言葉の数々だった。 
 ドアノブへと触れた手が震え、足が竦む。気配を悟られぬように壁側へよりかかり楠原は中の会話を絶句したまま聞いていた。 
 
「幸大の借金ってあと幾ら残ってんの?」 
「知らね。相当まだあるんじゃねーかな。二人も同時に客飛ぶとか、あいつも不運だよな」 
 
――借金……? 
 幸大の客が二人売り掛けをためたまま飛んだ事も知らなかった。その客にもよるが、最近は幸大の太客もかなりいるのでその額が相当になっている可能性はある。先日、幸大が金が必要だと言っていたのはこの事だったのだと腑に落ちた。 
 
「んでも、あいつもさ、蒼に払って貰うか、借りときゃこんな事になんなかったのにな。仲いいじゃんあいつら」 
「まぁ、確かにNo1様にしちゃ、はした金も同然だもんな。でもさ、幸大の奴、オーナーに蒼には借金のこと言わないでくれって泣いて頼んだって噂だぜ? 一応先輩の面子潰したくなかったんじゃねぇの? あいつにも意地があんだろーよ」 
「意地ねぇ……。でもそれで売人やらされて自分も薬づけにされてたんじゃ、蒼も泣くだろ」 
「ばか、お前。声がでけーよ」 
 
 笑い合う声を聞きながら、足下にすっと血液が下がる感覚。初めて殺意に近い怒りを感じた。自分は短気な方ではないので、今まで生きてきた中で、そう怒りの感情に支配されるような事も無かった。本気で怒りが頂点に達すると、逆に冷静になれるのかもしれない。 
 握りしめていた拳をゆっくりひらくと、楠原は一度呼吸を整えた。 
 
 断片的にではなく、真実を知る必要があると思った。 
 待機室のドアをあけると、楠原の姿に驚いた二人は、ばつが悪そうに顔を見合わせて急に会話を止め部屋を出て行こうとした。 
 静かに口を開いた楠原が薄い笑みを浮かべて呼び止める。 
 
「お二人とも、少し、よろしいですか?」 
「……、な、なんだよ」 
「聞くつもりは無かったんですが……申し訳ありません。貴方達の会話を少し聞いてしまいました。良かったら僕にも、その話を詳しく教えて頂けませんか?」 
 
 そういって椅子へと腰掛け煙草を胸ポケットから出す楠原に、渋々二人も向かい側に腰を下ろす。しきりに貧乏揺すりをして落ち着かない様子を見せる男の顔はひきつり、動揺を気取られないように睨み付けてくる。 
 
「聞いてたんならもう知ってんだろ」 
 
 男はそういって自分も煙草を咥えた。楠原が来る前にNo1を張っていた男で、一方的に楠原をライバル視している。しかし、もう一人は気弱であまり印象に残っていなかった。 
 
「んだよ、蒼。おまえ怒ってんの? あんたにとって、はした金とか言ったのは悪かったって」 
 
 煙を吐きながら、見当外れの心にもない謝罪。冗談めかしてそういう男の顔を見ているとどんどん自分の中で怒りが冷たさへ変化していくのがわかる。互いに食えない男だとわかりつつも、楠原は困惑ともとれる表情を作り、自分自身を下げた。 
 
「怒る? とんでもない……。僕はこの店では日が浅いですから。先輩である貴方達に怒ったりするわけがありません。僕の事は、どう仰って下さっても結構です」 
 
 にっこり笑ってそう言った楠原の様子に拍子抜けしたのか、二人が少しすまなそうに「……そっか、まぁ。悪かったな」と頭を掻く。 
 
「じゃ、何が知りたいんだよ。俺らもあんましらねーけど」 
「幸大のことです。……実は、ここだけの話にして欲しいのですが……」 
「……ん?」 
「最近、幸大の面倒を見るのに手を焼いていて……、店を辞めさせる口実を探していたんですよ」 
 
 驚いたように楠原を見る二人の前で、楠原は心底困っているというように眉を下げ、疲れが滲んだ苦笑を唇へ乗せた。 
 
「嘘だろ……? あんた、幸大のこと可愛がってるんじゃねぇのかよ」 
「そう見えますか? ……安心しました。僕の演技力も、捨てた物ではないですね。正直、懐かれてうっとうしいんですよ。うんざりしています」 
 
 幸大のことを嫌そうに冷たく言い放つ楠原を、まるで幽霊でも見るような目で見ていた気の弱い方の男は真っ青になって適当な口実を口にすると部屋から飛び出していった。それに構わず、楠原は言葉を続ける。 
 
「彼の弱みが知りたいんです。店を追い出す理由にしたいので。他言はしません、協力して頂けませんか?」 
 
 あくまで、幸大を嫌っているという体を通す楠原に、目の前の男が試すようにいくつか幸大の悪口を面白おかしく話し、見下す。楠原はそれらに同情し、時には共に笑い、全て同意してみせた。漸く少し信じた様子を見せた男が、納得したように話を続ける。 
 こういう騙されやすさと口の軽いところが、No1になれない所だと思いながら、楠原は神妙な顔で男の話に耳を傾けた。 
 
 幸大が二人の客から飛ばれて背負った借金の額は想像以上だった。 
 田舎の両親にも頼ることが出来ない幸大に、稼げるバイトがあるとオーナーが持ちかけた。幸大は人を疑うことをしないので、騙すのはきっと容易かっただろう。 
 最初は何を運ばされているのかもわからないまま、店が開く前に週に何度か薬の受け渡しをやらされていた事。暫くして、相手側のミスで、幸大が自分が運んでいたのは覚醒剤だったと知ってしまった事。怖くなった幸大が警察に出頭すると騒ぎ、口止めするために、嫌がる幸大に強制的に少しずつ薬を与えた事。 
 吐き気がするほどに酷い話に、この世の地獄を見せられている気にもなる。 
 
「……なるほど。幸大を騙すのは簡単だったでしょう」 
 
 静かに返す楠原の中に、先日の幸大の様子が思い浮かぶ。誰にも言えず、頼る事もせず一人で墜ちていった幸大。客に飛ばれた時点で話してくれていれば、こんな事にはならなかったはず。そう思うと同時に、幸大が自分にそれを言わずにいた気持ちも痛いほどわかった。 
 幸大も男だ。プライドもあるだろうし、楠原を失望させる自分が許せなかったのかも知れない。だけど、そう思ってもやりきれない。お人好しで、すぐに人を信じるその純粋さは危険だと前から思っていた。 
 
 思っていたけれど、それが幸大の魅力でもあるのだから、それでいいのだと……。もし何か危険な事に巻き込まれるようなことがあれば、自分が気付いて助けてやるつもりで見守ってきた。そんな己の過信が招いてしまったのが今の状態。 
 もっと早く気付いてやれていたら、後悔などと生ぬるい言葉では言い表せないほどの静かな怒りは自分自身へ向けての物だ。噛みしめた奥歯が砕けそうな程だった。 
 
「ああ、多分な。今じゃすっかりオーナーの言いなりだよ。最近は薬ほしさにバイトを増やしてくれって頼んでるってよ。――ああ、誤解するなよ? 俺は薬には手を出してない口だから」 
「……フフッ……。幸大は自業自得ですね。話はわかりました。教えて下さって有難うございます」 
「で? これを知ってあんたはどうすんの?」 
「さて、どうしましょうか。少し考えさせて下さい。勿論、店にも、貴方にも、被害が及ぶような事はしませんのでご安心下さい」 
「おー、怖。あんたがこんな奴だって知らなかったわ。結構俺と気が合うかもな」 
「そうですね……」 
 
 丁度そこで男に指名が入り、何度か「他の奴に絶対話すなよ」と念を押しながら部屋を出て行った。 
 男が話している間じゅうポケットの中で握りしめていた拳は、自身の爪が皮膚に刺さり血が流れていた。 
 その痛みも全く感じないほどに、冷え切った胸の中にどす黒い炎がゆらめく。 
 そして、何とかして幸大をこの店から遠ざけなければと思った。そうしてやれるのが自分だけだとも……。 
 
 楠原はハンカチで血を拭い、洗面所へと向かった。爪に入り込んで固まり始めた血を水道で洗えば、真っ白な陶器のボウルに赤い筋が流れ落ちる。 
 自分に何が出来るのか、何から始めればいいのか。後ろ盾もない、いちホストである自分に一体何が……。 
 先程の会話は全てが演技だったとは言え、自分の口から出たそれらの言葉を思い出すと急に吐き気が込み上げた。そばの個室へ滑り込んで鍵を閉め、先程の言葉を胃に残るアルコールと共に全て吐き出した。 
 
 
 
 
 楠原は、それから幸大と少し距離を置いて接していた。 
 時々幸大が寂しそうにこちらを見ていることにも気付いていたが仕方がない。嫌っているという事を話した手前、以前のように面倒を見ていたらその嘘もばれてしまう。男がオーナーに話すのも時間の問題だろう。お喋り好きの口の軽い男だ。それも計算済みだった。 
 
 覚醒剤が店内の何処かに存在する事実も、幸大が薬をやっている事もわかっているのに、どう調べても証拠がみつからず、楠原は少し焦っていた。二週間ほどで反応が出なくなる薬物検査は今すぐ調べない限り黒にならないだろうし、そうなると現物を隠してある場所を突き止めるしかない。だけど、物が物なので相手側も慎重になっているのだろう、中々ボロをださない。オーナー室には常に鍵がかかっていて入れないし、今の所他の隠し場所も見つかっていない。受け渡しのバイトも、楠原を警戒しているのかさせていないようだった。 
 
 
 
 何も決定的な証拠をみつけられないまま一週間。 
 その間、幸いにも幸大は問題を起こすこともなく表面上だけは何事もなく過ぎていた。 
 
 その日、まだ誰も店に来ていない時間に楠原はすでに店へと出て来ていた。天気予報では夕方から雨がみぞれに変わるという予報だったにもかかわらず、昼過ぎの今、すでに小雪がちらついていた。 
 
 ぐんと下がった気温は、数ヶ月前の真冬を思い出させ、春の兆しが見え始めていた街を一瞬して巻き戻す。 
 幸大へ連絡を入れて、話があるので早めに店へ来るように言ってある。楠原は何度も時計を見ながら、暖房も付けず待機室のソファで幸大が来るのを只管待っていた。 
 十五分程待っただろうか、走ってきたような幸大が顔を出した。幸大は酷く具合が悪そうだった。 
 
「すみません、ちょっと遅くなっちゃって」 
「構いませんよ」 
 
 楠原はゆっくり腰を上げると、必要以上の言葉を告げないまま、コートを脱ごうとしている幸大に「そのままで」と言い放ちキャッチへと誘った。幸大がキャッチが苦手なのは昔からで、これだけはいくら指導しても慣れることがなかった。「キャッチですか……」と少し困ったような顔をする幸大に外で待っているように言い、自分もコートを羽織って店を出る。 
 どこで会話を聞かれているかわからないので暫くはあまり話さない方がいいだろう。 
 
 思っていた以上に証拠を見つけるのに時間がかかっているため、幸大だけでも助けようと楠原は考えていた。その為の下準備で、自分の名義で東京から遠く離れた場所にマンションを借りてある。 
 このまま駅まで幸大と一緒に行き、マンションの鍵を渡す。幸大は店に戻らないままそのマンションで身を隠す。そういう計画だ。 
 何も知らない幸大は、寒さに肩を竦め楠原へ振り向くと笑みを浮かべた。 
 
「蒼センパイとこうしてちゃんと話すの久し振りですね」 
「……そう、ですね」 
 
 店からはだいぶ離れたし、誰かが尾行している様子もない。少し安心して楠原は歩く速度を落とした。幸大の言うとおり最近はほとんど会話らしい会話をしていない。幸大もそれには気付いていたのだろう。楠原から誘われた事に安心したような顔を見せる。 
 
「今日の雪……積もるかなぁ……」 
「さぁ、どうでしょう」 
「俺の田舎、雪滅多に降らなかったから憧れてるんです。雪景色に」 
 
 走っているわけでもないのにあがっている幸大の息遣いが痛々しい。 
 
「見られるといいですね。雪が積もったところ……」 
「……はい、そうですね」 
 
 最近は日に日に顔色も悪くなって疲れている様子を隠しきれない幸大。この日も同じで幸大は時々目眩がするのか、一緒に歩いている間なんどか足を止めた。たった数ヶ月、何度薬を使ったのかわからないがあんなに健康的で溌剌としていた若者をここまで蝕むその中毒性に背筋が寒くなる。 
 
「……っ」 
 
 電柱に片手を突いて、肩で息をする幸大の側で、楠原は足を止めた。 
 
「……幸大……、大丈夫ですか?」 
「ああ……。はい……全然だいじょうぶです」 
 
 そういって笑みを浮かべる唇でさえかさついていて血色が悪い。暫く歩いていつ切り出そうか迷っている楠原も、言葉が少なく、重い足取りを進めるだけだった。最初に、自分が全てを知っていることを話し、その上で二度と薬を使わないように言い聞かせる。その後は先程の通り鍵を渡して……。 
 
「……幸大、最近はどうですか?」 
「どうって……なにがですか?」 
「もう、ホストになってから結構経つでしょう? 何か辛い事とか、あったりしませんか?」 
 
 最後にもう一度自分から話してくれる望みを掛けて話題を振ってみる。しかし、虚しくも思っていたとおりの返事が返されただけだった。 
 
「そう、ですね……。でも……とくにないです」 
 
 幸大が心配を掛けまいと笑みを浮かべる。少し照れたようなはにかむ笑顔は今までずっと見てきた幸大だ。スーツもいつのまにか板について、顔つきも少し大人っぽくなった。出会った頃とはまるで違う。 
 
 幸大がこうなったのは、自分のせいなのかも知れないと思う。幸大と出会う前の自分がしてきた非道な行為。何人もの女性客の未来を奪ってきた自分が、今更誰かを救いたいなんて虫が良すぎる話なのだ。 
 自分と関わると、誰も幸せになれない……。幸大も……。 
 
 行き交う人波を見るともなしに眺め「立派に……なりましたね」言いながら言葉が震えていることに気付く。返事のない幸大を振り返ることも出来ず、俯いたまま歩道橋を登る。 
 
 その日も交通量が多くて、積載量をオーバーしていそうな大型トラックが足下を何台も通り過ぎるのを視界の隅でみながら歩く。ガチャガチャと音を立てる車が行き過ぎる瞬間、小さく名前を呼ばれた気がした。 
 
「……幸大?」 
 
 楠原がゆっくりと振り向くと、ほんのさっきまですぐ後ろを歩いていたはずの幸大がいなかった。ハッとして周りを見ると、すぐ近くに幸大を見つける事が出来た。 
 
 歩道橋の手摺りの向こうから幸大が呟く……。 
 
「蒼センパイ……。俺、もう疲れちゃいました。ホスト、……向いてなかったのかな……」 
 
 一瞬何が起きているのか理解できなかった。周囲から女性の悲鳴のような声が上がって我に返る。 
 
「幸大! 何をしてっ!! 危ないから早くこっちへ!!! 馬鹿な真似はやめなさい!」 
 
 楠原が幸大へ駆け寄る。 
 幸大は切なげに笑みを浮かべて泣いていた。頬を伝う見慣れた幸大の涙。泣きながら、もう何もかも遅いのだとでもいうように……幸大は一度空を仰ぐ。ふってくる粉雪が、幸大の髪や顔にパラパラと落ちた。 
 
「今まで有難うございました……蒼センパイ、ごめん、なさい、」 
 
 最後の「ごめんなさい」という台詞と重なるように、幸大は手摺りから手を離した。ほんの一瞬の出来事だった。 
 
 あと10 cm。自らも落ちそうな程に腕を伸ばす。だけど、楠原の指先は幸大のコートを掠めただけで、何も掴めなかった。時間差でふわりと香る幸大の香水の匂い。楠原が幸大の初指名が入った祝いにプレゼントをした物だった。 
 
 楠原の絶叫に近い幸大の名を呼ぶ声が周囲に響き渡り、辺りは騒然とした。 
 
 舞う粉雪、落ちていく幸大、人がボンネットに当たる鈍い音が空気を揺らす。周囲の悲鳴。混ざり合う音と、目に映る色。 
 楠原の見ている前で、幸大はまるで作り物の人形のように何度も車にはねられ、その度に足や腕が本来曲がらない方向へ曲がる。 
 漸く流れの止まった車道の真ん中。幸大が自らの血で真っ赤に染まっていくのを楠原は見続けていた。アスファルトにしみ出した真っ赤な血だまりに、真っ白な雪が吸い込まれるように落ちる。落ちた瞬間白は全てを赤に変えた。 
 
 渡そうと思っていた鍵は行き場をなくし、嘲笑うようにその存在を楠原へと伝える。鼓膜が破れそうなほどの耳鳴りに脳を揺さぶられ、譫言のように繰り返し幸大の名を呼ぶ。涙は一粒も出なかった。 
 
「……ゆき、お……。ゆき、……お……」 
 
 巻き戻らない時間、けたたましいサイレンの音が辺りを囲み駆けつけた警察官に強く肩を揺さぶられた。 
 
 
 それから先の事はあまり覚えていない。 
 気付くと事情聴取を終えて自宅へと戻っていた。幸大は覚醒剤使用による錯乱状態での衝動的な自殺という形で片付けられた。幸大は錯乱などしていなかった。ただ、どうしようもなく疲れて、休みたかっただけなのだ。あと一日早く、鍵を渡していれば……。いや、後十五分早く話を切り出せていたら……。 
 
 幸大の突然の死には、悔しさと絶望と、後悔と悲しみ、それしかない。 
 広いリビングで一人、電気も付けずに窓際に立って外を眺める。雪はあれからもやむことはなく、幸大が見たがっていた雪景色が目の前に広がっていた。 
 
 都会の珍しい雪景色。真っ白で真っ白で――何もかもを静かに覆い尽くす。 
 
 
 
 その日を境に、幸大の声が幻聴で聞こえるようになった。 
 最後に歩道橋で聞いた、幸大の「蒼センパイ」という声。届かなかった指先は未だに宙に取り残されたまま、何も掴めずにいる。真っ赤に染まる記憶がフラッシュバックで脳内で再生されれば、身体にもその時の恐怖が蘇る。 
 震えが止まらず息が出来ない、様々な身体症状が現れるようになったのもこの時からだ。 
 
 幸大を追い詰めて自殺させた店への憎しみ、それからは皮肉にもそれだけが楠原の生きている支えになった。 
 自分を押し殺し、幸大との思い出を封印する。幸大の葬儀でさえ出なかった。ただ、店の同僚が自殺しただけ。周囲にはいっさい悟られぬよう普段通りに店へも出た。 
 
 その仮面を外すときは、全てを終えた時。 
 そう決めて、店に出ている間あらゆる手段で証拠集めに躍起になっていた。金に物を言わせ裏業界の探偵を雇いオーナーの身辺も調査して貰った。出て来たのは、事件にもならなそうなせこい情報だけだったが、カタギだと思っていたオーナはどうやらこの辺を昔仕切っていた組に籍を置いていたらしい。 
 
 すでにその組はなく足を洗ったようだが、その頃のつてで薬の件に絡んでいるのは想像が付く。 
 別にやくざ相手に喧嘩を売るつもりもない。幸大を追い詰めた彼が許せないだけだ。正義感のひとかけらだって持ち合わせていない。これは自分一人の勝手な私怨だ。 
 
 幸大が他界して暫く、店はざわついていて落ち着かない日々だった。 
 覚醒剤中毒になっていた幸大が死んだ事で店の中での薬物疑惑があがり、強制的に尿検査などが行われはしたものの反応はなく、その場はうまくやり過ごしたらしい。オーナーを始め他のホスト達が、悲痛な顔持ちで週刊誌のインタビュー等を受けているのを見て、反吐が出る思いだった。 
 
 ホストの一人が死んだ事への世間の関心はすぐに薄れていく。 
 ホストで一攫千金を夢見て挫折し、あげく薬に手を出した馬鹿な若者。この街では、その程度の事件でしかないのだ。こうしている瞬間にだって、あちこちで目も当てられない悲惨な事件は起こっている。誰もが、それを知らない。知っていても知らないフリをしている。 
 当然、店も通常通りに戻るのにそう時間はかからなかった。 
 
 
 それから三週間が経った。 
 声が聞こえるようになった日から睡眠も食事もまともにとれなくなっていた。 
 何を食べても味がわからず、無理に流し込んでも全て嘔吐してしまう。そのうち食べるのも怖くなり、栄養機能食をだましだまし囓ってはやり過ごす日々。何日も眠れないまま店へ出て、週に何度か極度の疲労から倒れこみそのまま泥のようにやっと眠る。体重はみるみるうちに減り、もう気力だけでかろうじて体を動かしているような状態だった。 
 
 集めていた細かい証拠もかなり増えた頃、楠原はようやく決定的な証拠を手にしていた。 
 覚醒剤の隠し場所はオーナー室でも誰かのロッカーでもなかった。裏口に放置されていた廃棄物の山。異臭を放つその廃棄物は何故か回収されずずっとその場所にある。覚醒剤は、その中に埋もれている金庫の中だったのだ。 
 店が休みの日に近くを張っていた際、オーナーが辺りを見渡した後裏口へ消えたのを見つけた。バレないように裏路地から回り込んで尾行すると、その金庫から薬を取り出しているのを見ることが出来た。 
 
 すぐにその場は離れたが、これでやっと終わると思うと全身から込み上げるような喜びが溢れた。一人自宅へ戻った後、……声をあげて笑った。もう自分はどこか壊れていたのかもしれない。 
 
 CUBEは幸大の自殺があって以来客足が激減し、何人ものホストが次々に辞めていった。体調不良を理由にその中に紛れて店を辞めるのは容易だった。証拠さえ手に入れば、もう用はない。 
 
 すぐに住んでいたマンションを引き払い、家財も全て処分した。その後、変装をした姿で人の多い時間帯の駅構内ロッカーに集めたそれらを入れ、使い捨ての携帯電話を使用し、ロッカーの場所を匿名通報ダイヤルを通じて教えた。 
 後は警察がやってくれると思った夜、達成感と、目的を失った空虚感で思わず街中で足が動かなくなった。誰かがこの瞬間自分を殺してくれればいいのに、等ととりとめもなく考えた。家を引き払っているので帰る家もない。疲れ切った足を引きずって何とか歩き、ネットカフェで久々に十分な睡眠を取った。 
 
 しかし、身体は自分の想像以上に危険な状態だったらしく、そのまま目が覚めることがなかったのだ。 
 
 数日後、目を覚ました時には病室のベッドの上だった。 
 海外に住んでいる歳の離れた腹違いの姉とは疎遠になっていたせいで、遠い親戚に当たる身内に連絡が行ったようで入院の手続きなどをしてくれたらしい。ほとんど他人のようなその親戚も、事務的な事を終えると関わりたくないというようにさっさと帰って行った。迷惑を掛けたことは本当に申し訳なく思うが、話す事も無いのですぐに去ってくれたことには感謝しかない。 
 
――二度と、目なんて醒めなくて良かったのに……。 
 
 そう思った。暫くは、ベッドから起き上がることも出来ないほど体力が落ちていたが、怪我をしていたわけでもないので一週間もすると動けるようになり、嫌でも生きていることを実感させられた。 
 壊れた心を内包したままでも、肉体は徐々に回復していく。幸大の声を聞きながら、何もかもがどうでも良くなり希死念慮に取り憑かれていた。自分では普通にしているつもりだったが、端から見れば異様だったのだろう。 
 
 体力の回復を待って精神科へ移され、そこで、知ったのだ。 
 CUBEが思惑通りなくなっていた事は知っていたが、その時は記事を確認する気力も無かった。入院棟で軽度の患者がカウンセリングを受ける時に待機する待合室がある。そこで、数日前の事件の記事を初めて見た。 
 自分が起こした事件である事は、医者も含め誰にも言っていない。医者に伝えてあるのは、目の前で友人が自殺したのを見たという件だけ。 
 
 どこか他人事のような気持ちで記事を読んでいたが、ある部分で楠原は息を呑んだ。 
 逮捕された五名はすぐに顔も思い浮かべられる程度に知っている店のホスト達。 
 しかし、その中に幸大を追い詰めた張本人のオーナーの名前がなかった……。何度も記事を読み直し、確認する心が震える。こんな結末になっているとは……。 
 
 楠原はその記事を握りつぶすと、苦しくなってくる息に喘ぎ、冷たい笑みを浮かべた。 
 まだ仮面を脱ぐわけにはいかないと思った。 
 
 
 
 
「楠原さん?」 
 
 
 
 
 朦朧とする意識の中で、名前を呼ばれているのに気づき、楠原は顔を上げた。相当何度も呼んだのだろう、訝しげに様子を窺う医師が「大丈夫?」と声をかけてくる。 
 
「少し休んでいかれますか?」 
 
 今は診察中で問診を受けていたところなのだ。楠原は慌てて笑みを浮かべると首を振った。 
 
「すみません。大丈夫です」 
「ほんとうに? 顔色が悪いよ? 何か思い出したことでも……?」 
「いえ、……平気です。あの……、この後用事があるので、今日は時間がないのですが」 
「うーん、そうなの。仕方がないね。でもね、楠原さん。少し良くない傾向が出始めているからね? もう少しちゃんと話をしよう。受付で明日のカウンセリングの予約をしてから帰ってくれるかな」 
「……わかりました」 
 
 勿論明日来るつもりはないが、こうでも言わないと解放してくれなさそうなので仕方がない。処方箋を出して貰ったが、次に必ず通院させるためなのか三錠しか出ていない。心許ないが、とりあえず一錠でもいいと覚悟してきたのだから文句は言えなかった。 
 
 調剤薬局で薬を受け取り、歩きながら空を見上げる。はぁ、と短く息を吐けば、白いそれが眼鏡の前を少しだけ曇らす。空は厚い雲で覆われている。今にも雨が降り出しそうなどんよりとした天気にどこかホッとしていた。 
 必要な物を揃えるため自宅とは逆方向へ足を向ける。 
 何もかも覆い尽くして隠して欲しいと願った。ここまで来たらもう引き戻れないのだから。 
 
 
 昼の時間にこうしてゆっくり街を歩くのは久し振りである。自分の足音を耳にしながらゆっくり歩を進める。冷たい風が吹いて、片側で纏めてある髪の毛先を悪戯に揺らす。あの日からもう一年が過ぎようとしているのだ。 
 楠原はLISKDRUGへ入った頃を思い浮かべていた。退院してから今まで計画通りに過ごしてきたとはいうものの、やはり誤算はあった。 
 
 一つはLISKDRUGに入ってしまったことだ。どこでも構わないから、現地で自然に行動できる近場の店の求人を探していた。長く居るつもりも最初から無かった。だけど、いざ入店してみると、店にいる皆の優しさ、CUBEとも、その前に居た店ともまるで違うその温かさは、今まで知らなかった物であり、楽しいという感情がまだ自分に残っていることに気付かされた。それはとても甘い誘惑で、このまま浸かっていたらきっと振り切れなくなりそうだった。 
 
 そして最大の誤算、――それは信二に出会ってしまった事なのだろう。 
 
 店に出た初日、真っ先に自分に声をかけてきたのは信二だった。 
 昔の仲間でもなく、CUBEの件も知っていたはずの彼は、全くそんな事は関係ないというように明るい笑顔を向けてきた。 
 すらりと伸びた手足にダークな色のスーツを纏い、一見するとクールなタイプに見えたが。話すと気さくで人なつこく、明るく染めたさらりとした前髪から覗く目元はいつも優しげだった。 
 
 「蒼先輩」と呼ぶ声、幸大と違うその声に最初こそ戸惑ったが、信二と一緒に話していると、きまって自分も自然に笑みを浮かべていることに気付かされるのだ。忘れかけていた、穏やかで、居心地のいい時間。彼の話を聞いている間だけは、自分が背負っている物を忘れられた……。 
 
 彼から告白を受けたとき、どれほどその手をとりたいと望んだか。自分が普通の人生を送っているただの男だったらどんなに良かっただろうと心から思った。彼となら、別の生き方も出来るのではないかとも……。この前会った夜、信二は言った。「俺が迎えに行きます」と。その言葉だけでもう十分だった。これ以上追わないで欲しい。彼が近づく度に、自分が彼を傷つけるだけなのだから。 
 
 楠原は、もう二度と会うことのない店の仲間達、そして信二の顔を次々と思い浮かべる。 
 
「信二君……。僕も、……貴方の傍にいたかった」 
 
 柄にもない台詞を小さく口にしてみれば、胸が刺すように痛んだ。 
 
 切れ間のないどこまでも続く灰色の雲。光の差さない空。 
 だけど、そのもっと上空には晴れ渡った明るい青空があるのを知っている。まるで自分と信二のようだと思う。 
 その青空はとても高くて、焦がれても、楠原の手には届かない。 
 
 まだ残る迷いも……彼に対する想いも、この数ヶ月で変化してしまった自分が後戻りできないことも知っている。 
 
――こんなにも弱い。 
 
 楠原はそっと息を吐くと、心の中に、その弱さを隠すように……、二度とはずれないように仮面を付けた。