GAME -14-


 

 
――次の日の朝。 
 適当に閉めていたカーテンの隙間からうっすらと陽射しが差し込む。弱いそれは部屋全体を照らせる力も無い。 
 昨日から降り続く雨は、やや雨脚を強め、朝に見た天気予報では一日中雨だという事だ。信二は一睡も出来ぬままの重い体を起こした。 
 
 昨夜楠原のアパートから戻り、風呂へ入った後から今までの酷く長い時間、鳴らない携帯を枕元に置いて一晩中テレビを観ていた。ずっと観ていたはずなのに、番組内容はほとんど覚えていない。幾つもの番組が始まっては終わり、空が明るくなってくるのを待っていただけ。誰かを想って過ごす時間が、こんなにも辛いと思ったのは初めてだ。 
 
 朝に一度、昨日会った楠原のアパートの大家から連絡が入り、彼が戻っていない事を告げられた。予想はしていたので、「やっぱりな……」という気持ちしかない。忘れずに連絡してくれたのは本当に有難い事で、丁寧に礼を言ってから電話を切った。それから今に至るまで、楠原へ何度も連絡をしてみたが、やはり連絡は付かなかった。 
 
 暖房をつけっぱなしにしていたのでやけに喉が渇く。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、コップには注がずそのまま口を付けた。胃の腑に落ちて体内を冷やすそれが、全ての渇きを癒やしてくれればいいのに、そう思わずにはいられない。 
 
 
 
 沈んだ気持ちのまま店へ向かうのは何度目だろうか。 
 一年前の今日は、楠原が可愛がっていた後輩、三松幸大が自殺した日でもある。 
 昨日から忽然と姿を消した楠原がこのまま行方を眩ますか、もしくは何か行動を起こすとしたら、今日以外にないのではないかと思う。 
 
 というのも、図書館で二つの事件の詳細を調べるまで、CUBEの一連の事件は過去の出来事だと思っていたからだ。忘れられない辛い過去、それだけでも楠原を追い詰めるには十分過ぎる。 
 しかし、それすらも甘いのだと嘲笑うように突きつけられる、隠れたもう一つの事件。 知ってしまった瞬間、目の前が暗くなった。それが『過去』ではなかった事。何も終わっていなかったのだ。 
 いなくなった楠原がそれを証明している。 
 口にもしたくない数々の最悪な結末を頭に浮かべては、為す術がない事を思い知る。 
 
 楠原の中の時計は一年前のあの日彼の手で止められていた。 
 そしてその時計は、今も尚止まったままで、錆び付いた秒針は同じ数字を何度も通り過ぎ、悪夢を繰り返し楠原へと刻みつける。 
 楠原と出会うまで、自分は何も変化のない、だけどそれなりに幸せな生活を送っていたはずだ。それが幸せだと気付く事もなかったかもしれない。 
 だというのに、今はこんなにもその生活に戻りたいと願っている。そして、その生活に戻る時、隣に楠原がいなければ何の価値もない事にも気付く。――たとえこの後どんな結末になったとしても。 
 
 楠原は、何をしようとしているのか……。 
 この街にいるかどうかさえわからない。 
 
 
 
 強い雨は、半ば暴力的なほどに斜めに入り込んできて、傘を差しているにも関わらず容赦なく信二の身体を濡らしていく。革靴の底からしみ出してきた雨の冷たい感触が靴下を濡らし足先にも伝わる。これは店に着いたら、履き替えた方がいいかもしれない。 
 
 店に到着する頃にはすっかり全身ずぶ濡れになってしまった。取り出したハンカチで身体を拭きながら店へ入ると、椅子をあげてフロアの掃除をしているマネージャーが、信二の様子を見かねてタオルを持ってきてくれた。 
 
「あーあぁ。そんなに濡れて、水も滴るいい男の練習か?」 
「んなわけないじゃないっすか。外、今日凄い雨っすよね……俺、これでも傘さしてきたんですよ」 
 
 受け取ったタオルで全身を拭きながら苦笑していると、マネージャーが窓の方へ視線を向けて眉を顰めた。 
 
「流石にこの雨じゃ、今日は、お客さん少ないかもなぁ……オーナーもいないし……」 
 
 マネージャーが晶の事を付け加えたのにはちゃんと訳がある。晶は雨が降ると張り切ってキャッチへ行くからだ。客足が減らないようにというのもあるが、晶曰く、「雨の日は憂鬱だろうけど、一日の終わりに楽しい時間があればそんな気分も吹き飛ぶから」だそうだ。終わりよければ全てよし。現に雨の日に初めて店に来る新規客も少なくない。しかし、今日はそんな晶もいないのだ。 
 
「ああ、……そうっすね。この雨まだ続く感じなのかな」 
「どうだろうね、止んでくれるといいけど」 
 
 タオルでほぼ拭いたものの、濡れた衣服が肌に張り付いてやけに冷たい。いくら体が丈夫だといっても、このままでは風邪を引きそうである。信二はタオルを肩に掛けたまま待機室へ向かった。 
 入ってすぐに暖房のスイッチを入れ、ロッカーで一式を新しい物と取り替える。 
 
 濡れたスーツの上下をハンガーに掛けて、早く乾くように吹き出し口の直下に引っかけた。やはり体が冷えたのか、何度かクシャミが出て背筋がぞくりとする。 
 信二は一度肩を震わせるとソファへと深く腰掛け、まだ濡れている髪をかきあげた。 
 
 先程マネージャーが何も言ってこなかった所をみるに、楠原からは連絡が入っていないのだろう。落ち着かない気分で煙草を吸いつつ色々な事を考えていると、暫くして他のホスト達も集まってきていた。皆この悪天候の事もあり早めに家を出て来たらしく、いつもより揃うのが早い。 
 
 先程の信二と同じくずぶ濡れなので、着替えて干されているスーツが増えてゆく。そんな中、全く濡れることがないまま店へ辿りついた奴がいた。一番後に来た康生だ。 
 
 タクシーで来たとしても、店の前は歩行者天国で通行止めなので、降りてから店に着くまでに当然濡れる。ちょっとドヤ顔をしている康生に、信二は苦笑した。 
 
「康生、どうやって来たんだよ。全然濡れてないじゃん。どこでもドア?」 
「俺はドラ○モンかよ」 
 
 軽口を叩き、上辺だけでもいつも通りに振る舞う事で強引に気持ちを切り替える。 
 髪型もばっちりキメキメの康生は得意げに床へと大きな荷物をドサッと置いた。信二が中をのぞき込むと雨靴とレインコートが入っていた。しかもレインコートは黄色だ。 
 
「全身完全防水だぜ? すげぇだろ」 
 
 顔の部分と、手首から先しか露出しないというそれは、確かに濡れないだろうがホストが着てくるような代物ではない。しかもプラスして雨靴も履いてきたというのだから。怪しい事この上ない。せめてレインコートが黒だったら何とか……。 
「干しとけば? お前濡れて無くても、それ、びしょびしょじゃん」 
「あー、そうだな。んじゃそうすっか」 
 康生が皆のスーツの横に真っ黄色なレインコートをかける。それを見ていた後輩は「おぉ……」と何故か声を上げ……。 
「……こういうの着る人、リアルでいるんですね。初めて見ました。たまに売ってるのみるけど、どこ需要なんだよって不思議だったんですよ」 
 
 信二も同じ事を思ったが、康生に悪いので言わなかったというのに後輩が容赦なくズバリ言う。また康生に怒られても知らないぞと思いながら様子を見ていると、康生はそれを聞いて笑っていた。 
 
「全ては結果なんだよ。わかんねーだろうな~。現に俺は全く濡れてない、お前らはびしょ濡れ。よって俺は勝ち組ってわけだ。今度お前にも買ってきてやろうか? お揃いで」 
「要らないですよー、もう。っていうか、康生さんとは何に関しても勝負しない事にしてますから、オレ」 
「なんだよその腰抜け発言は」 
「だって、勝てないし……それに、康生さん怖いもん。腰抜けでいいです」 
 
 ガハハと笑い「いい心がけだな」と言いながら、ちょっぴり嬉しそうな康生は本当に丸くなったなと思う。これも同棲を始めたという環境の変化のおかげなのかもしれない。 
 
 先にフロアへ行って準備を始めていろ、という康生に従って後輩達がぞろぞろとフロアへ向かう。昨日は風邪で休んでいた後輩も、今日は店へ出て来ているようだ。 
 
 康生と二人きりになると、康生はレインコートを裏返しながら何かを思い出したのか優しい笑みを浮かべ小さく笑った。 
 
「ほんと、こんなだせーレインコートとか俺だって着たくなかったっての。あいつら、容赦ねぇな」 
「なんだよ、なんか訳ありだった?」 
「いや、彼女の娘がさ。雨がすげぇ嫌いなんだよ」 
「あー、この前の写真見せてくれた女の子?」 
「そうそう。で、雨降ると幼稚園行かないってきかなくてさ。今日も朝一悶着あったんだわ」 
 
 照れ隠しなのか面倒そうに言っているが、内心そうでもないのが一目でわかる。 
 
「んで、ピンクの可愛いレインコート買ってあんだけど、それを着させる時に、俺もレインコート着て行くなら自分も着るって言いだしてさ……。約束しちまったんだよ。出かける時俺もちゃんと着て行くからって」 
「なるほど。未来のパパは、それで仕方なくお揃いで着て来たってわけだ?」 
「そうそ」 
「いいんじゃないの、黄色いレインコートも、たまにはさ」 
「……だな」 
 
 康生がレインコートを掴んでひらひらとさせる。 
 夕方に康生が家を出る時、その子供が見ていたとしても、自宅を過ぎたら脱ぐなどの方法もあったはずだ。でも、たとえ子供が見ていなくても約束は守る。康生らしい誠意の見せ方は不器用だけど男らしくて、いい恋愛をしていると人間って変わるもんなんだなと思った。 
 
 
 
 フロアに先にいった後輩に続いて準備に向かう前に、楠原の事を晶に知らせようと思い、信二は携帯を取りだしてそのまま廊下へ出る。 
 すると、慌てたように康生が廊下へ追いかけてきた。 
 
「――信二」 
「お、……なに?」 
 
 一瞬空気が重くなる。康生が廊下の壁へ寄りかかって腕を組み、先ほどまでとはまるで違う真剣な表情で信二を見ると、心配気に視線を逸らした。 
 何か話があるのかと思い、信二はひとまず携帯を耳から離す。誰も周囲に居ないのをもう一度確認した康生が、真っ直ぐに顔を向けた。 
 
「まどろっこっしいのは嫌いだから、率直に聞くけどさ」 
 
 不穏な前口上に信二も息を呑んだ。 
 
「……うん?」 
「蒼先輩は、見つかったのか?」 
「え……、なんでその事……」 
 
 康生からそんな言葉が出るとは予想もしておらず、信二は言葉を失って康生の顔を見た。呆れたように康生が眉を下げ、吐き捨てる。 
 
「何年お前とダチやってると思ってんだよ」 
「……康生」 
「昨日はまだ、確信が無かったから言わなかったけど。……おかしいだろ。昨日の客、一人も蒼先輩を指名してくる客がいなかった」 
「……ああ」 
「それに、……俺も、実は電話したんだよ」 
「え? 蒼先輩に?」 
「ああ。……昨日、蒼先輩が休むって電話してきた時、一度途中で切れてさ。すぐに自分の携帯から折り返したけど、もう繋がらなかった。すぐに何かあるって思ったよ。その後、お前血相変えて飛び出していくの見たしさ……」 
「そっか……。…………どこにいるか、まだ見つけられてない。探してるけど、自宅にも戻ってないみたいで」 
「……。晶先輩には、もう連絡したのか?」 
「いや、今丁度しようと思って出て来た所」 
 
 康生が促すように一度頷く。休みを取っている晶に迷惑を掛けたくないので出来れば連絡しないで済ませたかったが、自分達では手の打ちようがない。 
 
 康生の横に並んで晶の携帯を鳴らすと、晶はすぐに電話に出た。先日話していた大阪から来た友人と一緒にいたらしく、「ちょっと待ってろ」と言われて待っている間、遠くで話し声が聞こえた。すぐに「悪い、待たせて」と戻ってきた晶に事情を話し、楠原と連絡が付かないことを告げると、晶も全く知らなかったようで驚いていた。 
 
 自宅へ様子を見に行ったことも、楠原を指名する客が一人も居なかった昨夜の状況も含め、晶は信二から話を聞いた後「うーん」と暫く考え込んでいる様子だった。 
 暫くして晶が「あ……」と思い出したように声を出して続ける。 
 
『信二、このままオーナー室へ行って俺のデスクについたら教えろ』 
「え? ……あ、はい」 
 
 信二が携帯を持ったままオーナー室へ向かい、言われた通りに晶のデスクに到着する。 
 
「今来ました」 
『OK。えーと……。窓に背を向けた状態で右向くとさ、紺色の鍵かかってるでけぇ金庫があんだろ? 今から暗証番号言うから、その中から従業員の名簿を探せ。いいな』 
「わかりました」 
 
 晶の言うとおりの場所に大きな金庫があり、その後言われた暗証番号を合わせると扉が開いた。見たこともない額の札束に驚きつつ色々な書類が入っている中から従業員名簿を取りだし、晶へとその事を告げる。楠原の連絡先を探すように言われ、名簿を捲ると、楠原の履歴書と連絡先を見つけた。そこには四つの電話番号が記載されている。 
 
「……これ」 
 
 思わず声に出すと、晶が受話口で説明した。信二も知っている三つの電話番号の他に、もうひとつ記載されている番号は、契約時の約束で四時間以内には必ず折り返すように決められている物らしい。この番号を知っているのは、玖珂と晶二人だけなのだそうだ。 
 
 その番号に掛けてみろという晶の言葉に了解する。晶からもその番号へ連絡してみるというので、連絡が取れたらお互い知らせるという事で電話を切った。 
 
 オーナー室へは入らず、入り口で様子を窺っていた康生に今晶と話したことを伝える。康生は、悔しげに一度舌打ちをした。 
 
「そうか、じゃぁ連絡待ちになっちまうか……」 
「そうだな。他に手がかりないし」 
 
 フロアへ向かいながら、何を話していいかもわからず二人とも無言になる。後輩達が準備している姿を視界に捉えつつ、信二は並んで歩いていた足を止めた。 
 
「あっ、やばい! 金庫の鍵閉め忘れたかも。先行ってて、俺ちょっと閉めてくるわ」 
「おう」 
 
 慌てていたので、鍵を閉めていないことに気づいたのだ。あっさり暗証番号を教えてくれた晶は、それだけ自分達を信用しているという事でもある。康生はそのままフロアへ向かい、信二は慌てて再びオーナー室へと戻った。 
 
 戻ってみるとやはり金庫は開けっぱなしになっている。危ないところだった。今度はちゃんと鍵を閉めて開かないことを確認する。その後、早速先程の番号へ電話をかけてみるためにその場で携帯を取り出す。 
 
 その時だった。 
 晶のデスクに積んであった書類がひらりと床へ落下する。信二は手を止めて書類を拾い上げる。そして、椅子の下に書類の他に真っ白な封筒が落ちているのに気づいた。 
 
――何だこれ……。 
 
 先ほどは気付かなかったが、書類と共に床に落ちたのなら最初からデスクの上にあったのだろう。拾い上げてみると、封筒の表には達筆な文字で『辞表』とかかれていた。差出人は見なくてもすぐにわかる。 
 
――蒼、先輩の……。 
 
 裏を返すと、楠原の名前がはっきりと書かれていた。信二は震える手でその封筒の文字を指でなぞった。 
 封筒は所々雨に濡れていてまだ乾いていない、ここへ置かれてから時間が経っていない証拠だ。 
 
――ここに楠原が来た。それも、ほんの少し前に……。 
 信二の胸が嫌な予感に跳ね上がった。 
 咄嗟に辞表を掴んで胸ポケットへ入れると、信二はオーナー室を飛び出した。 
 
 今日は後輩が店に出て来たとは言え、昨日と同じく人数が少ない。悪天候のせいで多少は客足が減るとは言え自分が抜けることで皆に迷惑がかかるのもわかっていた。店はもうそろそろ開店の時間である。だけど……。 
 信二が俯いたままフロアへ顔出す。様子がおかしい信二に気付いた康生が駆け寄り、後輩から隠すように廊下へと信二を押し出した。 
 
「何があった」 
「康生、本当に悪い……。今日が人少ないのわかってるけど……。俺、どうしても行か、」 
 
 最後まで言わないうちに、康生に思いっきり背中を叩かれた。ジンジンするような痺れが残るほどの強さだ。「え?」という顔で見返す信二に、康生は「いいから」と小さく口にし、その後、フロアにも届くような声で話し出した。 
 
「しょうがねぇな~。気合いが足りねーから風邪引くんだって言ったろ? 俺に感染す前にとっとと帰れ」 
 
 しっしっ、っと追い払うような仕草をした後、康生は優しい笑みを浮かべて背後の裏口を親指で指さした。フロアに入っていく康生の背中が閉められたドアで消えるまで信二は見続けていた。 
 
「……康生」 
 
 フロアの中では、今の声が聞こえていたのだろう。後輩と康生の話し声が聞こえていた。 
 
「え? 信二さんどうしたんですか?」 
「信二の奴、すげぇ熱あってさ。風邪感染されたらたまんねーから、帰しといた」 
「えぇ!? で、でも! それだとオレ達だけで、今日店平気なんですか!?」 
「平気なんですか? じゃなくて、平気にするんだろ、俺達で。てか、新規の客にアピールするチャンスだろ。お前らも気合い入れて指名とっていけよ」 
 
 康生が豪快に笑う声を聞きながら、心の中で感謝する。多分康生は以前一緒に店で飲んだあの日から気付いていたのだろう。楠原に対する信二の感情も全て。 
 
「康生……、有難う。店は頼んだ」 
 
 信二は楠原の携帯へ掛けながら、すぐ待機室へ戻った。 
 晶の言った通り電話は電源も切られておらずちゃんと繋がっているようだ。留守電になった所で一度電話を切る。どういった約束かは知らないが、今から四時間以内には連絡が取れるという最終手段のようなので、それに望みを掛けるしかない。 
 たとえ、自分の番号には反応がなくても、晶からも連絡がいっているので、履歴に晶の番号が残れば折り返してくれる可能性は高い。 
 
 
 ロッカーからコートを取り出し、腕を通す間も惜しむように走りながら羽織ると裏口から店を出る。雨は来た時より多少小降りになっていたが、冬の雨は冷たい。 
 傘は邪魔になるので持ってきていないため、信二はそのまま走った。 
 
 楠原は裏口からオーナー室へ向かい、辞表を置いたのだろう。皆と中で話していた数十分の間に……。だとしたら、まだそんなに遠くへは行っていないはずだ。 
 
 この街に、まだ楠原がいる。 
 店の近くを走りながら楠原を探してみるが、ほとんどの人間が傘を差しているので非常に探しづらい。同じ背格好の男を発見し、よくみると全くの別人という事を何度も繰り返しながら、歩行者天国を行き来する。 
 
――……いない。 
 
 どこにも楠原を見つけることが出来ない。 
 びしょ濡れになった髪が邪魔で乱暴に後ろへ流すと、信二はハッと思い当たり、歩道橋の方へと走り出した。駅の近くの歩道橋が視界にうつる距離に入る。歩道橋の上には、何人もの人間が歩いていたが、楠原はその中には居ないようだ。 
 あがる息の苦しさを堪えて一気に歩道橋を駆け上がる。中央に近寄る前に信二の足がゆっくりと歩みを緩めた。 
 
「蒼、先輩……」 
 
 中央の脇へ置かれている物。恐る恐る近づいてみると、それは花束だった。交通事故があった交差点などに遺族が供えているのを見た事がある。真っ白な包装紙で綺麗に包まれた花、雨に濡れて透明な滴を花弁に滴らせている。日が落ちて暗くなってきた中でも、ハッとさせられるような鮮やかな白。 
 楠原が供えたその花の意味を知る人間は、多分周りには誰も居ないだろう。 
 ただ雨に濡れてそこにあるだけ。 
 
 傘も差さずに呆然と花束を見つめる信二を、行き交う人々が避けるようにして通り過ぎる。雨の匂いに混じって、楠原の匂いが残っている気がする。 
 
 信二はゆっくりと顔を上げると、走ってきた大通りに振り向いた。 
 数分おきに発車する電車の音。 
 足の下を通り過ぎる車両の音。 
 誰かが、誰かの名前を呼ぶ声。 
 ビルの壁面に映し出されている見慣れたCM。 
 音、声、光、色、そして降りしきる雨の匂い。 
 信二の髪からは雨が雫になってポタポタと落下する。 
 
 目に飛び込む溢れるほどの情報が頭の中でひとつずつ整理され形になっていく。周りの音が一瞬にして消えるほどの集中力がぴりぴりと緊張を走らせる。 
 楠原の行動をなぞっている自分。 
 ここで花束を供え、暫く前のように街を眺めていたに違いない。その後、誰にも見つからぬように店の裏口から入り、辞表を置いて店を出る。 
 
 その後、楠原が行くとしたら……。 
 
「……CUBEが、……あった場所か」 
 
 濡れて冷たくなっていく体に反して余計な感情をそぎ落とした勘がさえていく。楠原はそこに居る。根拠はないが、第六感のようなもので、それが間違っていないことを確信している自分がいた。 
 
 信二は、晶と共に見た元CUBEがあった場所へと向かって、再び駆けだした。 
 慌ててもつれそうになる足を奮い立たせ、都会の夜を走り抜ける。水分を多く含んだコートが重さを増して足下にまとわりつく。 
 青になるのを待てずに、対抗側が赤になったのだけを見届けて信号を渡り、信二の足は激しく水を跳ね上げ続けた。 
 
 次の角を曲がればCUBEのあったビルへ入る路地が見える。 
 雨で見え辛い視界を袖で拭い、角を曲がり、信二はピタリと足を止めた。 
 
 膝に手をつき、乱れた呼吸を整える。 
 
――蒼先輩。 
 
 路地の反対側の曲がり角に、黒いレインコートのフードを深く被った男が立っているのが目に映った。男は微動だにせず、まるでこの世界と切り離された場所に立っているかのようだ。 
 どう見ても、ただ昔、店があった場所を懐かしむために訪れたわけではないのがわかる。抑えつけている隙間から、雨に溶け込む……冷たく溢れ出す悲しいほどの殺気。 
 
 ほとんど顔が見えない状態ではあるが、引き結んだ薄い唇、黒いレインコートからのぞく真っ白な首筋、肩口に零れる黒髪。それらが信二の中で結びつく。 
 叫びたくなるような熱が身体を走り抜けた。 
 
 探して、探して、会いたくて、……やっと見つけた。 
 
 
 気配を消して、夜の街に溶け込むように佇んでいる一人の男――それは、間違いなく楠原だった。