GAME -16-


 

 
 
 
 鼓動が不規則に乱れ打ち、喉が締まる。 
 楠原は信二の傷へと恐る恐る手を伸ばし、信二の血塗れの手の上へと重ねた。 
 
 一瞬にして、先程のことを思い返す。ナイフを手にした自分を信二が止めた際、鈍い衝撃があったのを。それは、信二の手に強く遮られたせいだとばかり思っていたが、その時、ナイフは信二を傷つけていた。 
 
――…………僕の手で、……。 
 
 楠原は合わさらない歯を震わせて、先程まで皮膚越しに感じられた、体温よりもっと直接的な温度へと触れた。ねっとりとしていて絡みつく濃厚な血の匂い。本来ならば信二の体内を流れていなければならないはずの物に、今、直接触れているのだ。 
 
 小刻みに揺れる光の消えた楠原の瞳が、信二の流した深紅で埋められていく。 
 信二はぐっと息を詰め、腰を押さえたまま、無理をして笑みを浮かべた。 
 
「……マジ俺、かっこ悪いっすよね……、颯爽と助けたつもり、だった、のに……。詰めが甘いっていうか。あ、ここ笑うとこです」 
 深刻な空気を払拭するようにそう言った信二の声にも、楠原は反応しなかった。 
「蒼先輩? ……。……やだな、そんな心配そうな顔、しないで下さいよ」 
 
 楠原は信二の声が聞こえていないかのように、血で濡れた指先を凝視したまま、吐くことを忘れ短く息を吸い続けた。噎せ返る血の匂いに引きずられ、窒息しそうになる。 
 
「僕の……、ナイフが……」 
 
 小さく呟く楠原の目は焦点が合っておらず明らかに様子がおかしかった。 
 それに気付いた信二は、楠原の肩を掴むと「違います!」と一度強く否定した。腰に伸ばされた楠原の手を血で染まった手で強く掴む。「蒼先輩!」信二が名を呼ぶと、楠原は我に返ったように身体をビクリとさせて、息を吐いた。 
 
「で、でも……こ、こんなに血が」 
 
 信二は必死で「大丈夫だから」と繰り返し、うつろな目をしている楠原の間近で視線を合わせ、その冷え切った頬に手を添えた。 
「蒼先輩、ちゃんと俺を見て下さい。本当に、違います。俺が、……蒼先輩から、ナイフを取り上げる時に、ヘマしただけで。蒼先輩のせいじゃない」 
 楠原は動揺したまま何度も首を振る。 
 自分が信二を傷つけたのだと、そう思った瞬間心臓が止まりそうになった。自分を逃がすために走ったことで、余計に傷が広がった事は明白で……。目に飛び込み焼き付く深紅の色が楠原をジリジリと追い詰めた。 
 
――オマエガヤッタ。 
――ユキオヲミゴロシニシタオマエガ。 
――コンドハ――シンジヲコロス。 
 
 自分と同じ声で脳内に響くその台詞が、二重にも三重にも重なって反響する。楠原は信二の血で濡れた手を地面につくと目を閉じて深く息を吐いた。 
 
「す、……すぐに病院へ……。救急車を……、呼びます」 
 
 全てを解約していなくて良かった、これだけが残された希望になる。唯一繋がっている携帯を取り出す楠原の手を、信二は右手で掴むと、痛みに顔を顰め「ダメだ」というように首を振った。 
 
「信二君? 手を離して」 
「嫌、です。……今日、土曜日っすよ。……しかも、もうこんな時間で、診療時間終わってます」 
「そんな事は、わかっています。だから救急病院へ」 
「――俺は行かないっすよ……」 
「何を言って、」 
「二人してこんな状態で、ナイフで負った傷なんかで受診したら、蒼先輩が、変に疑われるに決まってます。それに、今行ったら、さっきの奴に見つかります。そんな危険な目に遭わせるわけに、いかない。……俺なら、……っ、大丈夫です。大した、傷じゃない」 
「そんな……っ、僕なら疑われても平気です。今、そんな事を言っている場合ではないでしょう!?」 
 
 信二の言葉を無視して救急車を呼ぼうとする楠原の手から、信二は乱暴に携帯を取り上げると、楠原のコートへと入れて懇願するように頭を下げた。 
 
「行かないって言ってるでしょ。蒼先輩の言う事でも、これだけはきけないっす……お願いです。俺の言うこと、聞いて下さい」 
 
 信二が腰を押さえたまま、右手で柱に手をつきゆっくりと立ち上がる。何ともないという体を保つのに、どれほどの精神力が必要なのか。信二の底知れない強さを目の当たりにして、知らなかった信二の一面を知る。 
 
「マジで、……平気です。ほら、こうして動けるし。……だから、……」 
 
 信二の言葉とは裏腹に、左の脇腹から流れ出る血が、動いたことでブワッと溢れ、信二の指を伝ってポタポタと落ちた。 
 どうしても病院へ行かないと言ってきかない信二をもう一度しつこく説得してみたが、信二は頑として全く譲らない。こうしている間にも、信二の傷口からは血が流れ出て事態は悪化していくばかりだ。 
 
 とにかくこんな場所ではなく、安全な場所で止血をしなければ……。 
 頭は冷静さを取り戻しているはずなのに、身体が動かない。 
 
 先程から信二の真っ赤に染まる手が視界に入るだけで、酷い目眩がし、こんな時に発作が起きそうな前兆が繰り返し身体を蝕む。 
 幸大の死に様で刻まれた真っ赤な記憶が何度も戻ってくる。立ち上がって信二を支えようと思うのに、ぬかるんだ泥に指が埋まり、そのまま沈んでいきそうだった。 
 
――もう二度と、目の前で大切な人間を失うわけにはいかないというのに……。 
「…………くっ」 
 
 楠原は、悔しげに息を吐いて震える手をポケットへと突っ込んだ。 
 中から残っていた二錠の薬を汚れた手で取り出し、躊躇うことなく二錠まとめて口に入れると奥歯でかみ砕いて飲みこんだ。信二の血が付いた錠剤は、口の中で鉄錆の味と苦い薬剤の味を広げる。 
 一錠の容量は、普段服用できないというのもあり、一日に服用していい最大量が処方されている。数時間前に飲んだ一錠と今飲んだ二錠。薬が効きやすい体質の自分が、どうなるかはわからない。それでも、こうする他に方法が無かった。 
 
「っ、……蒼先輩!? そんな一気に薬のんで……、何してるんっすか!」 
「……これでいいんです」 
 
 自分の方が余程酷い状態であるにもかかわらず、信二は楠原に慌てたように手を伸ばした。その手をパシッと払いのけると、楠原は柱に手を突き、荒い息を吐きながら何とか立ち上がって顔を上げた。まだ動ける今のうちに……。ずれた眼鏡を押し上げると平静を装う。 
 
「僕は平気です。……規定量ですよ。何も心配要りません」 
「嘘……、蒼先輩どうしてそんな、」 
 
 信二が楠原の肩を掴んだ瞬間、今まで一度も声を荒らげたことのない楠原の声が辺りを震わせた。 
 
「僕はどうなったっていいんです……っ!! 貴方だけは、絶対死なせない……っ!」 
 
「……あ、蒼、先輩……」 
 楠原の声に気圧され、信二は言葉を詰まらせた。 
 
「……っ、……とにかく、ここを離れて、傷の手当てを」 
 
 辺りを見渡すと、電柱がありそこに今いる住所が記されている。楠原はブレて見えるその文字に目を細め、ハッと気付いた。落ち着いて見渡してみると、通ったことのある店の看板が視界に入る。ここは自宅のすぐそばだ。 
 幸運な偶然に感謝し、信二へと振り向くとその身体を支えるように腕を回す。 
 
「僕の自宅の側です。そこまで行きましょう。僕が支えます。歩けますか……?」 
「はい……。俺一人でも、平気っすけど」 
 
 信二が心配させぬよういつも通りの口調で返してくる。だけど、その顔色は段々悪くなっていて……。楠原は黙って信二の脇へ腕を差し込むと、速度を合わせて自宅へと向かった。 
 高架線沿いに数メートル歩き、もう自宅が見えてきた。驚く程近所だったらしい。住んでいるといっても、近所を散策した事も無いので最初は気付かなかったのだ。 
 
 
 何度か立ち止まりながらも、そう時間もかからず楠原の自宅へと辿り着いた。戻ってくる予定の無かった部屋には、わざと出るときに鍵を掛けておらず楠原がドアノブを回すとすんなりとドアが開いた。 
 座卓の上には自分が書いた手紙と家賃の入った封筒がそのまま置いてあった。 
 靴を脱ぎ足を引きずって部屋の奥へと向かう信二の後を、点々と血痕が追いかける。引きずられて伸びる血の跡が否応なしに現実を叩き付けてくる。 
 
「手を離しますよ? どの体勢が楽ですか?」 
「……座ってるのが、痛くない、かも」 
「じゃぁ、このまま寄りかかって座っていて下さい。動かないで。タオルを持ってきます」 
 
 言われたとおりに信二が壁により掛かっていると、手を洗ったあと、タオルと水を持った楠原はすぐに戻ってきて信二の隣へと座り込んだ。 
 自身のレインコートを脱ぐことも忘れたまま、信二のベルトを緩め、シャツをめくって傷口を見て見ると、そこには鋭い刃先でスパッと切られたような傷が広い範囲に渡って伸びていた。 
 ナイフはどうやら刺さったわけではないようである。 
 
「傷口を、……洗います。少し我慢して」 
 
 タオルをその下に置いて、楠原がまだ封を切っていない飲料水を腰にかけ少しずつ血を洗い流す。 
 
「……、……ッ」 
 
 信二が声を殺して息をのむ。 
 しかし傷口は、流してもすぐに溢れてくる血で再び赤く染まるだけだった。 
 腕や足でもないので、根元をきつく縛るなどの止血方法もとれない。 
 新しいタオルを信二の傷口へと強く押し当てると、楠原は何も出来ない自分を責めて唇を噛んだ。どうにかして傷を塞がないといけないとわかるが、その方法は一つも思いつかなかった。 
 
「信二君、やはり、ちゃんと病院で診てもらいましょう。僕では、どうする事も出来ません。貴方に何かあったら、僕は……」 
 
 懇願するように信二に視線を向ける楠原のポケットで、携帯が振動した。 
 
――…………。 
 
 楠原はその場所に手を当て、取り出して携帯の時刻を確認する。 
 そろそろ晶が連絡してきてから四時間が経つ。 
 入店の際に約束した事。何があっても、必ず連絡できる手段を確保しておくこと。そのタイムリミットは四時間だった。辞表を出して、店とは関係を絶つつもりでいたが、今頼れるような相手が自分には一人もいない。 
 楠原は覚悟を決めたように、腰を上げた。 
 
「……信二君、このタオルを、少し自分で押さえていられますか?」 
「……、わかりました。蒼先輩?」 
「オーナーに、全て事情を話します」 
「……え」 
 
 楠原が携帯を手に部屋の外へ出る。誰も頼れる人間がいない今、自分勝手だとわかっていても晶を頼るしか無かった。顔の広い晶なら、誰か医療関係者の知り合いがいるかも知れない。 
 楠原は自分から、二度と使わないはずだった番号を押し、晶の携帯へと折り返した。着信音が鳴るか鳴らないかの際で素早く電話が繋がったのは、晶がそれだけ心配していると言う証拠でもある。 
 
『楠原!? 楠原なのか?』 
 
 耳元で慌てたような晶の声が届く。 
 
「楠原です。……すみません。電話に出なくて……」 
『おま、……今、どこにいんだよ。すげぇ心配したんだぞ。信二も、今お前の事探してる。……、何があった……?』 
「オーナー……。し、信二君が……」 
 
 恐怖により喉が閉まり、言葉が途切れる。 
 
『信二……? ……え? ……お前、今、信二と一緒にいるのか?』 
「はい……。ですが……信二君が酷い怪我で、」 
 
 晶が息を呑む音が聞こえ、直後聞いた事も無い酷く動揺したような晶の上ずった声がだされる。 
 
『どういう……、事だよ。なんで信二が、そんな怪我してる……。病院とか』 
「それが……。僕のせいで、信二君がどうしても病院へは行かないってきいてくれないんです。オーナー、自分勝手なお願いだとわかっています……。だけど……。お願いします。どなたか、診て下さるお医者様を知りませんか。信二君を助けて欲しいんです」 
 
 晶はすぐに返事せず、沈黙が流れる。やはり、顔が広いといえど、そんな都合良く行くわけがないのだ。信二が嫌がっても、勝手に救急車を呼ぶしかないのかもしれない。 
 そう考えていた楠原の耳に、聞き覚えのない声が聞こえた。晶と話している相手のようである。その後、幾らか落ち着きを取り戻した晶が受話口に戻ってきた。 
 
『楠原……今、どこにいる? あと、信二の怪我を写真で撮って、俺の携帯に送ってくれ』 
「わかりました……今は僕の自宅です。場所と写真はこの電話が終わったらすぐに送ります。どなたか……心当たりが?」 
『……ああ。今、外科医の知り合いといる。話は付けたから。ただ、ちょっと準備あるみたいで……。なるべく早く行くから待ってろ……。理由とか聞いてる場合じゃねぇから、今は聞かないけど。……楠原』 
「……はい」 
『信二の様子がおかしかったら、俺の到着を待たずに、信二を殴って気絶させてでも救急車を呼べ。約束しろ。いいな』 
「わかりました」 
 
 楠原はすぐに電話をきり、急いで部屋へと戻った。 
 信二が押さえているタオルはすっかり赤く染まっていて、未だに血が止まっていないことを裏付ける。タオルをそっと剥がして傷口の写真を撮り、自宅住所と共に晶へと送る。 
 
「手を離して、僕が代わりに押さえます」 
 
 普通ならこれだけの傷と出血があれば、いつ気を失ってもおかしくない。だけど、信二は時々苦痛に顔を歪ませるものの、心配そうに信二をみつめる楠原と目が合うと、安心させるように薄い笑みを浮かべた。 
 
「オーナーがもうすぐ来ます。外科医のお知り合いがいるようなので診て下さるそうです。もう少し我慢して下さい……」 
「晶先輩が……ここに、来るんっすか……?」 
「……はい」 
「やばいっすね……」 
「どうしてですか……?」 
 
 信二はちょっと困ったように苦笑した。 
 
「俺、今日、店さぼりなんっすよ……。晶先輩に、怒られるかも」 
「まさか」 
 
 わざと冗談を言う信二はこんな時でも変わらず自分に気を遣っている。その姿は余計に楠原の胸を痛めた。ハァハァと息を繰り返しながら、蒼白になっていく信二の顔色に不安が募る。 
 
「信二君、少し、休んで……。オーナーがきたら教えますから」 
 
 信二の額に浮かぶ汗を、濡らしてきたタオルで拭ってやり、楠原は一時も目を離さずその様子を見続けた。信二の体力が徐々に奪われ、耐える痛みの限界もすぐそこまで来ているように見える。やはり、晶を待たずに病院へ……。 
 何度か迷いながら一時間が経過しようとした頃、アパートの階段を駆け上がる足音が聞こえた。直後、玄関のドアが開かれ、そこには息を切らした晶とその後ろに不機嫌そうな髪の長い長身の男が立っていた。 
 
 楠原が立ち上がり玄関へ向かうと、晶は「信二は?」と短くそれだけを問いかけ、奥にいると伝えるとそのまま部屋へと上がり込んだ。 
 晶の連れてきた男に洗面所の場所を教えてくれと言われ案内すると、男は石鹸で念入りに手を洗い出した。晶の言っていた外科医というのが彼なのだろう。 
 
「暫くかかる、向こうへ行ってろ」 
「あ、はい」 
 
 楠原が信二と晶の元へ向かうと、血に濡れたタオルを腰にあて、俯いて壁により掛かっている信二の元へ晶が駆けよっていた。 
 
「信二……、おい、しっかりしろよ! 何だよこれ……! お前、どうしたんだよ、なんでこんな事になってる!!」 
 
 悲痛な晶の声が部屋へ響く。 
 大切な後輩が傷つけられた痛みは、楠原にも痛いほどわかる。晶の気持ちを考えると、どう声をかけていいかもわからなかった。 
 
「……晶先輩。いや……ちょっとドジ踏んじゃって……」 
 
 信二の怪我は自分のせいだ。 
 仮に信二が本当の事を言っていたとしても、自分が巻き込まなければ、信二がこんな怪我を負うこともなかった。それは絶対にだ。 
 
「オーナー、」 
 
 楠原が、自分のせいだと口を開こうとすると、信二は楠原に視線を合わせ何も言うなと首を振った。 
 晶がゆらりと立ち上がると、すぐ後ろに立っていた楠原の前で一度静かに息を吐く。真っ直ぐに見つめてくる晶から、静かな怒りを感じ取ることが出来る。譫言のように小さく「冗談じゃねぇぞ……」と呟いた晶は、剣呑な雰囲気を纏い一度小さく笑った。 
 直後、ありったけの力で側にいた楠原の胸ぐらを掴んで柱へと押しつけた。 
 ガンという激しい音がし、楠原の頭が勢いよく打ち付けられ、建て付けの悪い襖がガタリと音を立てた。 
 
「……、……っ」 
 
 その瞬間、激しい目眩がしたが楠原は抵抗しなかった。怒気を含んだ晶の瞳が楠原を捉える。 
 
「楠原、……お前。信二に、何をした……」 
「……っ、……、」 
「答えろよっ……!!」 
 
 晶に強く掴まれた胸元のせいで息が出来ない。だけど、晶の怒りは当然自分が受けるべき物だ。締め付けられる楠原の喉からヒュッと音が漏れた。 
 
「晶先輩……! 止めて下さい! 蒼先輩は、なにもしてないっす。本当です」 
 
 様子を見ていた信二が、声を絞り出すのと、晶と共に来ていた男が晶の腕を掴むのは同時だった。 
 
「晶、落ち着け。お前が感情的になってどうする。大事な事を見失うぞ」 
 
 男の咎めるような低い声に我に返った晶は、ハッとして楠原の胸元を締め上げていた手を離した。 
 
「……っ、あ、……俺、……」 
 
 自分がしたことに驚いたように晶は言葉を飲みこむ。冷静さを取り戻すように、何度か深呼吸をし、髪をかき混ぜる。激しく咳き込んで膝を折っている楠原の背中へ手を置くと心配気に顔を覗き込んだ。 
 
「……悪ぃ、楠原、大丈夫か……? どっか怪我とか、」 
 
 楠原が「いえ、平気です」と返す横で、晶が自身の額に手を当てる。こんなに晶が我を忘れた行動に出るのは、それだけ信二が大切な存在だからだ。信二が心配そうに「……晶先輩」と口にし、視線を送っているのに気付いた晶は、気まずそうに背を向けた。 
 
「ごめん。……ちょっと、頭冷やしてくる……」 
 
 晶が胸元から煙草を取り出し口に咥えながら部屋を出て行く。やれやれと溜め息をつきながら、入れ替わるように、先程の男が信二の隣へと腰を下ろした。肘までまくり上げられた袖が落ちてこないように折り込みながら口を開く。 
 
「まさか、こんな闇医者まがいの事をさせられるとはな。人生、何があるかわからんもんだ」 
 
 男はふぅと息を吐き、信二の全身状態を鋭い目で一通り眺めた後、出血してからの時間と、施した処置を聞きながら、徐に持ってきていたアタッシュケースを開いた。 
 中にはよく手術で使うような器具や薬品、注射器が並べてある。 
 
「信二君といったか?」 
「あ、……はい」 
 
 信二が男を見て、一瞬何かを思い出したように目を瞠る。 
 
「俺は佐伯だ。安心しろ、ちゃんと医師免許を持っている外科医だ」 
「……宜しく……、お願いします」 
「どれ、傷を見せてみろ。ああそれと、血液型と今までかかった事のある病気、アレルギーの既往などがあれば今のうちに教えろ」 
 
 佐伯に指示されたようにタオルを敷いた上に信二が腰を上にして横になる。問診の内容に答えるのを佐伯は聞いているのかいないのか、返事はしなかった。真っ赤に染まったタオルを取り去ると、傷口から血が溢れ出る。佐伯は持ってきた原菌済みのゴム製手袋を開封して手にはめ、傷の断面を指で触った。その後、傷へそっと指を入れて内部を肉眼で観察する。 
 震えるほどの痛みに、信二の口からうめき声が漏れる。すぐに指を抜くと、佐伯は信二の血で染まったままの手袋で両手の指を絡ませ、眼鏡の奥の目をすっと細めた。 
 
「見事な切創だな。ナイフか何かか」 
「……、……はい」 
「傷の範囲は広いが、そんなに深くない。組織の挫滅もなさそうだ。ただ、縫合しない限り止血は無理だな」 
 
 その言葉を聞いて、楠原が心配そうに顔を歪める。すぐに処置をしてくれると思っていたが、佐伯は大きな手で器用に圧迫止血をしたまま、信二へと真剣な表情で視線を向けた。 
 
「いいか。明日、ちゃんと病院へ行くと約束しろ。検査の出来ない現状では細菌感染の可能性を否定できない。今してやれるのは止血の為の一次縫合だけだ」 
「…………」 
 
 信二がためらっているのを遮るように楠原が声を掛けた。 
「僕が、必ず連れて行きます」 
 しかし、佐伯は振り向きもしないで「君には聞いていない」と切り捨てた。 
 
「俺は、本人に聞いている。約束できないなら、俺は今すぐこの手を離して、帰らせてもらう。この出血量だと、朝までには手遅れになるかもしれないがな」 
「そんな……!? このまま患者を見捨てるという事ですか!?」 
 
 驚いた楠原が失礼を承知で責めるような台詞を吐くと、佐伯は静かに息を吐いた。見捨てるつもりなら、最初からこんな場所まで足を運んでいない。ただ、それだけの『覚悟』を聞いておきたかった。 
 
「治そうという意思のない患者を診るほど、俺はお人好しじゃないんでな」 
 
 戻ってきた晶は、佐伯の言葉の意味をわかった上で静かに佐伯の肩へと手を置いた。 
 
「要、頼むよ……。信二は、俺の大切な後輩で、……」 
 
 佐伯が晶を横目でチラリとみると、小さく溜め息をついた。 
 
「……些細な傷でも、人は簡単に命を落とす事もある。どんな事情があるのかは知らないが、死んだらそこで終いだ。出来る事をしないというのは、命の放棄と同等。甘く見るな」 
 
 
 言葉は厳しいが、誰一人として佐伯の言葉に反論する者はいなかった。信二が佐伯を見上げ、「約束します。明日、必ず病院へ行きます」と言い切る。佐伯はその言葉を聞いて満足げに頷いた。 
 
「いいだろう。じゃぁ、始めるぞ」 
 
 晶と楠原に、信二を押さえるように指示を出すと、佐伯は信二の創部に直接麻酔を注射した。時計の針で十分をはかり、麻酔が効いている事を確認すると、佐伯は一度精神を集中するように目を閉じた。 
 そっと目を開けた佐伯が器具を手に取って創を観察し、生理食塩水を細かくかけて外側に向けて消毒する。器用な手つきで4-0の糸を取り出し持針器に絡めると、躊躇うことなく信二の腰へと糸を通した。 
 
 麻酔が効いているので信二に痛みはないとはいえ、思わず目を覆いたくなる光景に、晶と楠原は息を呑んだ。 
 慎重に、かつ迅速なスピードで傷口が縫合されていく。あっという間に最後の一針が終わり、信二の傷からはうっすら血が滲む程度になっていた。 
 神経質なほどの完璧な縫合は、素人目に見てもその綺麗さがわかる。 
 
 佐伯がそこに拘る理由は、その縫合の結果で患者の痛みが左右されるからだ。組織がぴたりと合わさる位置で綺麗に縫えば、それだけ痛みも軽減され、術後の回復も早くなる。 
 
 最後に痛み止めの筋肉注射を打って傷口をガーゼで覆い、全ての処置を終えると佐伯は膿盆に器具を置き手袋を外した。何やら走り書きのようなメモを書くと、楠原へと手渡す。 
 
「これで、とりあえず出血は止まるはずだ。痛み止めも打っておいたから暫くしたら効くだろう。後は朝まで安静にしている事だな。そのメモは明日病院へ受診したさいに医師に渡せ」 
「要、有難う……マジ助かった」 
「わかりました。有難うございます」 
 
 その後、着替えさせた信二を布団へ移動させ暫くすると、信二は眠くなると言う痛み止めが効いてきたのか目を閉じたまま眠っていた。そっと布団を掛けて、隣の部屋へと移動する。 
 
「悪ぃな、あいつ腕は確かなんだけど。口が悪くてさ」 
 
 晶が佐伯を擁護するように小さな声でそんな事を言う。その言葉や、晶が佐伯を見る目で、深い信頼関係がそこにしっかりあるのを楠原は感じていた。 
 
「いえ、佐伯さんのおかげで信二君が助かったのですから、何度御礼を言っても足りないぐらいです」 
 楠原は晶へも頭を下げ、その後佐伯へも謝罪した。 
「佐伯さん。先程は、失礼な事を言って、申し訳ありませんでした。有難うございました」 
 
 佐伯は気にも留めていないようで、「そうだったか?」と少しだけ笑って、片付けを始めた。洗面所で器具を洗っている佐伯に、晶が「ちょっと楠原と話あるから」と言い残し、楠原の方へ戻ってくる。 
 
「ちょっと、いいか」 
「……はい」 
 
 玄関を出て外へ出ると、深夜の冷たさが一気に体温を下げる。「……寒いな」と晶が肩を震わせ、楠原へ向き直ると頭を下げた。 
 
「さっきは、マジで悪かった。その……、俺、頭に血のぼっちゃって……。首、痛くねぇか?」 
「いえ……。大丈夫です。気にしないで下さい。信二君のあんな姿を見たら、普通でいられないのは当然です……」 
「……ああ、うん。マジで、ちょっとびびっちまって……。……あいつ、俺が知ってる限り、一度も店とか休んだことなくてさ。風邪とかも滅多に引かねーし……、だから、初めてだったんだよ。信二が、あんな弱ってる所見るの……」 
「……そうだったんですね……。僕も、……オーナーのお気持ちはわかります。でも、本当に助かりました……。オーナーにお医者様の知り合いがいて……」 
「……そうだな。佐伯は、本当は大阪で医者やってるんだけどさ。たまたま、こっち来てて……。新宿で開業してる知り合いがいるっていうんで、そこ行って、無理言って往診のセット借りてきたんだよ」 
「そうだったんですか……。色々な方に迷惑を掛けて、申し訳ありません……」 
「まぁ、事が事だからな。俺からも佐伯にちゃんと礼言っとくし」 
「はい、宜しくお願いします……」 
 
 晶は煙草を一本取り出して、火を点ける。まだ止まないしとしとと降り続く雨の中へと煙を吐き出し、睫を伏せると少し寂しそうに切り出した。 
 
「……。お前さ、信二に見つからなかったら、うちの店辞めるつもりだったのか?」 
 
 楠原は視線を宙に彷徨わせた後、足下へ落とした。 
 
「…………すみません。迷惑を、掛けたくなかったので……」 
「……そっか。……なぁ、楠原。お前、うちの面接受けた時にした約束、全部覚えてるか?」 
「……はい」 
 
 晶が一つずつ確認するように指を折る。 
 何か問題が起きたら、玖珂か晶に相談する事。必ず連絡が付く手段を確保しておく事。店の仲間を裏切るような行為はしない事。 
 最初の三ヶ月は試用期間で、その間の給料は基本給以外受け取らないという事は楠原から申し出た。置いて貰えるだけでも十分有難いと思っていたからだ。 
 
「信二から聞いたよ。他の携帯は繋がらなかったらしいな……」 
「…………、すみません」 
「楠原」 
 
 晶が楠原の肩を掴むと、真っ直ぐに向き合う。 
 
「お前は約束を守って、連絡手段の携帯を切らなかった。――何で……、約束を守った?」 
「……、……」 
「本当は、店を辞めたくないって思ってたからじゃないのか。そうじゃなかったら、たとえ俺との約束があっても全てを切り捨てたはずだ。違うか?」 
「……それ、は……」 
 
 最後の連絡手段を断ち切れなかった理由。それは、晶が言っている通りなのだ。辞表を出して店とは関係を切ったはずなのに、どこかで繋がっている証拠を残しておきたかった。未練よりもっと本能に近い場所で、自身がそうさせていたように思う。 
 
「お前には悪いけど、玖珂先輩に頼んで、ここに来るまでに過去の事は大体調べさせて貰った」 
「……そう、ですか」 
「でも、……俺はさ。そんな事を知らなくても、お前を信じてたんだよ。信二や店の仲間達とも仲良くしてたみたいだし、このまま、うちの店がお前の居場所になれたらいいって、思ってた」 
「…………オーナー……、」 
 
 自分を信じてくれていたという晶の思いに胸が苦しくなる。綺麗事の言い訳を並べても、実際自分がしたことは全て裏切り以外の何物でも無い。どんな代償を求められてもそれに応じる事でしか償えないと思った。 
 
「……申し訳ありません。……まったく申し開きのできないことです。オーナーの仰る通り、店の皆を裏切る行動をした事は事実ですから」 
「……そうじゃねぇだろ。お前が裏切ったのは、店や、店の仲間じゃない」 
 
 「……え?」という顔を向ける楠原の頭を、晶は信二にするのと同じように愛情を込めてくしゃっと撫でた。晶にそんな事をされたのも初めてで戸惑う楠原に、晶が切なげな笑みを浮かべる。 
 
「店の仲間、その中には、もうお前もとっくに含まれてんだよ。だから、お前は自分自身で自分を裏切った事になる。それって、一番しちゃいけねぇ事だろ」 
「……ッ……」 
 
 こんな自分を今も尚『店の仲間』として見てくれているという晶の優しさに返す言葉が見つからなかった。 
 
「楠原、過去に捕らわれるな。今の自分を、もっと大切にしろよ。お前が傷ついたら悲しむ人間が沢山いる。信二も、俺も……。たった今から、店との契約はその一つだけだ。いいな?」 
「……え。今から、……というのは……」 
「んー? 辞めさせねーよ? お前が本当に辞めたいって言うなら、いつでも辞めていーけどさ。そう簡単にNo1を店が手放すわけねーだろ」 
 
 晶がふざけて楠原の胸に拳を当てる。 
 
「…………」 
「……今度、落ち着いたら、お前自身の口から今回の件の詳細を聞かせてくれ。俺からは、もう聞かねーからさ……。お前、今にもぶっ倒れそうだし、暫く休んで、また店に戻ってこい。待ってるぜ」 
 
 楠原は深々と下げた頭を上げることが出来なかった。 
 到底許されぬ行為をしたにも関わらず、店にこのまま居ても良いという晶。 
 自分も長年ホストをしてきて、年齢的にも年下の後輩達が多い。上に立つ者としての自覚は、それなりにあるつもりだったが、晶をみているとそんな自分の未熟さが恥ずかしかった。この一年間の、自分のしてきた事の無意味さ、復讐は自己満足でしか無かった事を痛いほど思い知る。 
 
「オーナー。本当に、有難うございます……」 
「あー、そういうのはいいって、照れっから。よし! 信二の様子を見てくるかな」 
 
 晶が部屋へ戻った後、楠原はゆっくり頭を上げる。出会いより別ればかりに捕らわれ、その別れに怯えて生きてきた。刹那的にしか生きられなかった自分に、信二や晶が、その中で出会いの大切さ、巡り合わせの温かさを教えてくれたのだ。 
 部屋の中に、晶の背中が見える。雨の音を耳にしながらその背中を見ていると、視界が突然揺れ、楠原は手摺りに掴まると膝を折った。 
 
「……っ、う」 
 
 目をこらしても滲む視界は、薬を飲み過ぎたせいだ。 
 自業自得ではあるが、あと少し持ってくれないと困る。数分そのまま動かず目眩が治まるのを待っていると、結んでいる髪から、前髪が乱れてはらりと落ちる。 
 
 フと気配を感じて、アパートの廊下へ振り向くと、暗闇の中、遠くに幸大の姿が見えた。 
 
「……、……幸大……」 
 
 出会った頃のままの幸大が安心したように笑みを浮かべ、自分の名を一度だけ呼び、その姿を楠原の視界から消した。 
 楠原はゆっくりと視線を上げると、空を見上げた。一年前の今日は、雪が降っていた。真っ白な雪景色は、一年掛けて雨に変わったのかも知れない。 
 
 多分今のは幻で……。 
 
 だけどもう、――幸大の声が、楠原に聞こえることは無かった。