GAME -18-


 

 
 
 完全に元通り動けるようになるまで一ヶ月。 
 佐伯との約束を守り、朝になって行った病院で言い渡された結果である。信二はその言葉を聞いてがっくりと肩を落とした。 
 
 正直体力にも自信があったので一週間ぐらいで治る……はずだったのだ。初見で佐伯が言っていたとおり、臓器や重大な血管や神経への損傷はなかったものの、傷の範囲が広かった事と出血量が多かった事に加え、止血までの時間がかかった事も問題だったらしい。しかも、昨夜は痛み止めが効いていたせいでさほどでもなかった痛みは、現在少しでも腰を動かすと激痛である。 
 結局検査も含めて一週間の入院までついてきてしまい、人生初の入院ライフを強制される事になった。 
 
 病室は四人部屋だが、整形外科病棟の中でも軽度の患者のみの病室なので患者も元気な者が多く、必要な時以外はベッドにいない。絶対安静を言い渡されている三日が過ぎれば、もう少し自由になるのでしばらくの辛抱……。 
 と、わかっているが、一日が四十八時間になってしまったのではないかと思うほど暇で、退屈に殺されそうだった。 
 
 信二は店の開店祝い時に撮った全員が集合している写真の楠原の部分を思いっきり拡大して想いを馳せていた。拡大しすぎているので画像の荒れが悲しいが、持っている写真がこれしかない。 
 
――蒼先輩……今頃、どうしてるかな。 
 
 あの夜の事を思い出しながら、楠原を思い浮かべる。 
 そういえば、佐伯が書いてくれたメモにどうかかれていたのか、何故かどういう状況で負った傷かについての質問は、ほとんどされずに済んだ。 
 メモには処置をした責任の所在を明らかにする為、佐伯のサインと連絡先も書かれていたそうだ。 
 
 診察をした医師に「君を診たのは、あの佐伯先生ですか!?」と驚かれて逆にこちらが驚いたぐらいだ。 
 縫合の素晴らしさを褒め称えられたが、返事のしようが無い。あの佐伯先生がどの佐伯先生なのか、他にも佐伯先生がいるのか。よくわからないが、外科医の界隈では名が知れているらしい。 
 そんな有名な外科医を恋人に持つ晶は、何処で知り合ったのか……、聞きたいけれど聞けない……。 
 
 信二は腰を押さえてベッドをリモコン操作し身体を起こすと首を回す。寝過ぎて体中が凝っているような状態である。何か時間を潰せる物がないか辺りを見渡し、すぐ横の視界に入った紙袋を何気なく覗き込んだ。 
 紙コップに紙の皿、パジャマに下着、タオル、そして大量の電池。携帯の充電を心配して持ってきてくれたらしいが、単三電池だけ渡されても充電できないという事まではわかっていないようだ。 
 これらは全て、先程まで実家から来ていた母親が持ってきてくれた物だ。 
 
 知らせずに済むならそれで良かったのだが、入院するに当たり手続きの関係で連絡せざるを得なくなってしまい、仕方なく怪我に適当な理由をつけ、入院する事を伝えたのだ。 
 
 最近実家にも顔を出していなかったのに、久々の再会が病室というのは少し気まずい。びっくりして飛んできた母親が毎日見舞いにきそうな勢いだったので、遠回しにもう来なくて大丈夫と伝えるのに一苦労した。 
 今日は午後から一番下の弟の保護者会があるとかで、すんなり帰ってくれたのが幸いだった。 
 
 
 それが一時間前。 
 信二は紙袋から、書店の袋を取り出してベッドへと置いた。 
 
「ああ、そうそう。これね、孝弘と陸から。お母さん、中に何が入ってるか知らないんだけど、お兄ちゃんにお見舞いですって」 
「見舞い!? あいつらが?」 
「そうよ。あれでも、結構お兄ちゃんの事心配してるのよ。ほら、素直になれない年頃だから。後で御礼のメールでもしてあげたら? 孝弘も陸も喜ぶと思うわよ」 
「あー。まぁ、しとくよ。颯は? 元気にやってんの?」 
「最近はねぇ、もう二年生から受験勉強しなきゃいけないんですって。だから、頑張って勉強してるみたい。お兄ちゃんが使ってた部屋に今いるのよ。ほら、孝弘達と一緒だと楽器の練習で煩いでしょ」 
「え? あいつら家で練習してんの? バン練はスタジオでやれって言っとけよ」 
「別にいいのよ。うち隣畑だもの。誰にも迷惑かからないから。颯も、息抜きに一緒に遊んでることもあるし」 
「ならいいけど、……ああ、でも、もう颯も高二なんだ……受験とかアッという間だな。頑張るように言っておいて」 
「はいはい。また時間作って、たまには顔見せてやりなさいよ」 
「あー、うん。そのうち……」 
 
 母親とそんな会話をしたのを思いだしたからだ。まだ子供だと思っていたが、こうして入院した兄を気遣えるくらいは成長したのかと思うと、少し嬉しい。 
 それにしても月日が流れるのは早い物である。一番下の弟なんて、兄三人を見て育ったので一番大人しく。この前までは、大きなカブトムシを捕った写真をはしゃいで送ってくるような、どちらかというと今時珍しい幼さの残る子供だったのだ。それがもう受験とは……。 
 苦笑しつつ孝弘と陸を思い浮かべ「どれどれ」と袋から中身を取り出す。 
 
――…………。 
 
 出した瞬間、信二は速攻で袋に戻した。 
 周囲に誰も居ないのを確認して、溜め息をつく。数十秒前に『成長した』と思ったのはただの勘違いだったらしい。確かに一般的に、見舞いには雑誌や小説などが好ましいとされてはいる。だがしかし……。 
 
――いくらなんでも、エロ本はない……。 
 
「しかも、何だよこのマニアックなやつ……」 
 
 袋から出さずに、覗き込んでタイトルを見てみる。 
『ナースのお仕事★夜の淫乱病棟・vol3』 
 何故三巻なのか。どうせなら一巻だろ……。ってそんな事はどうでもいいが、今病室でこんな雑誌を渡されても、どうしろというのか。動くことも制限されている今、その気になったらなったで処理できる状態でもない。 
 その前に、万が一頻繁に病室に来る看護師にみつかりでもしたら『変態』だと認識されてしまう。よりによって病院でナースコスのエロ本とか、ありえない……。 
 
「……どうしろって言うんだよ……」 
 
 捨てるにしても、このままゴミ箱にも入れられない。エロ本の置き場所に困り果て、いい案が浮かぶまで仕方がないのでさきほどの紙袋に戻しておくことにした。 
 
 フと脳裏をナースコスをした楠原がよぎる。 
『信二君……、身体を拭きましょうか? 恥ずかしがらないで、下も脱いで全てを僕に見せて下さい……』 
『蒼先輩、そこはちょっと……』 
『どうしてですか? ……おやおや、こんなに大きくして……、いけない患者さんですね……。僕も、もう……我慢が出来ません……』 
 
――いやいやいやいや、それはない! いいけど、ないっ! 
 
 よくある感じのAVを思い浮かべて信二は首を振った。 
 見舞品なんてなかった。 
 そう、見なかった事にすればいいのだ。楠原のナースコスにドキドキしてしまったのは認めるけれど、それはそれ、これはこれ。 
 そう思うことにし、信二は、気を取り直して枕元の携帯を手に取った。 
 
 最近の病院は音さえ出さなければ、メール等はしてもいいという。なので営業も兼ねて客とメッセージのやりとりをしたりもしていた。一通り営業メールを送信して、プライベートの携帯へと持ち変える。物はいただけないが、一応見舞品を気遣った事は事実なので、弟にも仕方なくメッセージで礼を送る。礼の半分は説教になってしまったが。 
 
 その後、すぐに開いてみたのは、楠原とのメッセージ画面である。 
 やっと恋人になったというのに、四日前、朝に楠原の自宅で別れて以来声も聞けていない。いきなりのお預けを食らった気分である。 
 今までの精神的疲労と、体力的にも相当無理をしていたのだろう。楠原は暫く店を休んで自宅で療養する事になった。 
 今すぐ看病に行きたいが、自分も入院中なのでそれもできず、メッセージ画面を見ながら、会いたい気持ちがつのっていく。 
 信二はメッセージの画面に文字を打ち込んだ。 
 
『蒼先輩、起きてますか?』 
 
 送信すると、五分程して返信が来た。手元に置いていたのか返事が早い。 
 
『こんにちは。もちろん起きています。信二君、怪我の具合はいかがですか? 心配です。』 
 
 脳内で文字を楠原の声で再生した後、すぐに返事をする。 
 
『痛いけど、めちゃくちゃ元気です。すごく暇なんで早く退院したいっす。蒼先輩は、体調はどうですか? 今すぐ看病しに行けたらいいのに。早く会いたい。』 
 
 こんな事を送ってしまえる関係になれるなんて……。 
 信二は送信ボタンを押して一人幸せを噛みしめていた。メッセージ画面の背景をピンクに設定している自分は確実に浮かれていると思う。 
 
――あれ……? 
 
 いつもなら、最初にやりとりが始まるまでに気付かれず時間がかかる事はあるが、こうして話している途中で楠原の返事が途絶えることは無かった。だけど、いっこうに返事が送られてこない。既読にはなっているので、読んではくれたようだが……。 
 僕も会いたいです。と返してくれる期待をしつつ送ったが、そういえば、昨夜も同じような内容を送ったので、うざいと思われているのかも。そう思うと失敗したかなと若干焦る気持ちが湧く。 
 
 いや、それとも、あまり具合がよくなくて寝ちゃったとか? 
 一回の往復で終了してしまった会話に、信二は一抹の寂しさを覚えた。 
――どうしたんだろう……? 
 
「信二君」 
 
 画面から聞こえたのかと思い、慌てて携帯を見ると、当然そんな事は無く。驚いて顔を上げると、楠原が笑みを浮かべて病室へ入ってくる所だった。 
 
「蒼先輩!?!?」 
「こんにちは。僕も会いたかったので、会いに来ました」 
 
 ニッコリ笑ってそう言った楠原は、コートを脱いで手荷物を置き、信二のベッド脇の椅子へと腰を下ろした。 
 
「……ぁ…、」 
 
 今日は髪の毛下ろしてるんっすね! 
 今日の私服も最高に素敵です! 
 今日も美しすぎて眩しいっ! 
 ――俺の蒼先輩! 
 
 心の中で、テンション高くそんな事が一気に溢れ、思わず黙って見惚れている信二の顔を、楠原は心配気に覗き込んだ。 
 
「信二君……? どうかしましたか? 大丈夫ですか?」 
 
 間近に迫った楠原の視線に信二は慌てて心の声世界を封じ込めた。 
 
「いや、何でも無いっす! まさか、来てくれるって思ってなかったんで、ちょっと驚いたって言うか。来るなら、さっき言ってくれれば良かったのに」 
「そうですね、すみません。ここへ向かいながらメッセージをうっていたのですが、急に来た方が、驚いてくれるかなと思って」 
「あ、サプライズってやつっすね。嬉しいっす」 
 
 嬉しそうに目を細めた信二は、ハッと思いだしたように手ぐしで髪型を整えた。楠原が来るとは思っていなかったので、朝から一度も櫛を入れていない。 
「……フフッ」 
 その様子をみて楠原が笑っているのをみて、信二は少し慌てた。 
「もしかして、俺、変な寝癖とかついてたりします? 今日、鏡見て無くて」 
 
 楠原がそっと腕を伸ばして、信二の耳元の髪をゆっくりと撫でる。耳の端を指で辿ったあと、楠原は信二を愛しげな眼差しでじっと見つめた。 
 
――えーっと……やっぱり寝癖? 
 
 楠原の行動の真意はわからないが、伸ばしてきた楠原の腕からいつものいい匂いがしてクラクラする。 
 
「あ、直してくれて有難うございますっ」 
「いえ、別に寝癖がついていたわけでは……」 
「え?」 
 
――じゃぁ、今のは一体……。 
 
「……どうしました?」 
「いや、今。直してくれたのかなって」 
「……、……いえ」 
 
 楠原は目を伏せ少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた後、長い睫をあげて信二に再び視線を合わせた。 
 
「……貴方に、触れたかっただけです。……いけませんか?」 
「…………」 
 
――何・そ・れ……! 
 
 いけなくないです。 
 というか、寧ろ有難うございます。というか。楠原に口説き落とされる女性客の気分である。そんな些細な事でドキドキしている自分も中学生かよと思うし、直球で色気を見せてくる楠原もさすがホストだなとか、色々な感情があちこちから湧いてきて頭の中が混乱する。 
 
「蒼先輩、……流石ホストっすね」 
 
 信二が苦笑する。 
 
「急に何ですか? 信二君も、ホストでしょう。おかしな事を言いますね」 
「はは……」 
 
 楠原に言われるまで、自分がホストである事を忘れていた。 
 「今日は、天気がいいので、陽射しがきついですね」と目を細め、後ろの窓を振り返る楠原の横顔が陽に照らされる。 
 黒髪と白い肌のコントラストが実に綺麗で、出会った日に『生活感の欠如した人形のような造形』と思った事を思いだした。 
 あの時は、そこに冷たさを感じたものだが今は違う。柔らかな唇の感触も覚えている、涙の滲んだ赤く染まる目元も……。情熱的なあの日の口付けは、甘くて……想い出すだけで身体が疼く。 
 信二はその横顔を見ながら、改めて惚れ直していた。 
 
「蒼先輩、まだ、あまり調子よくないでしょ。出歩いて平気なんっすか?」 
「ええ。だいぶ落ち着いたので。今日はリハビリがてらに外にでようと思って……。それに……、部屋で一人、横になっているのも気が滅入りますから」 
「……確かに、それはありますけど」 
 
 あの何もない部屋で、体調も悪いまま一人で休んでいる楠原を思うと、胸がチクリと痛む。うまく言えないが、あの部屋に置いておきたくないと、この前から強く思うようになった。 
 
「午前中は不動産屋に行っていたんですよ」 
 
 あ、と思いだしたように口すると、楠原は「そこの近くのお店で果物を買ってきました。信二君、苺は食べられますか?」と続けた。 
「苺?? あ、持ってきてくれたんっすか?」 
 
「はい、何が好きなのかわからないので、無難な果物にしておきました。最初は林檎にしようかと思ったのですが、剥くのにナイフが必要でしょう?」 
「苺大好きなんで嬉しいっす! ……そういえば。よくテレビとかで林檎を病室で剥いてるの見ますけど、あのナイフってどっから借りるんっすかね?」 
「さぁ、どうなんでしょう? 基本的に、刃物は院内で借りることは出来ないと聞きますが」 
「ですよね? 危ないっすもんね。まぁ、林檎ならそのまま囓るとかも出来ますけど」 
「まるごとですか? それは、豪快ですね」 
 
 楠原がおかしそうに笑って、手持ちの荷物から苺を取り出す。見舞い用なのだろうか、粒の揃った物が綺麗な化粧箱に入っていてリボンがかかっていた。 
 真っ赤なリボンを楠原の細い指先が紐解いていく。するりと抜かれたサテンのリボンが苺の上に音もなく落ちた。 
 
「蒼先輩、不動産屋って。何かあったんっすか?」 
「ああ……。今のアパートが、夏に取り壊されるんですよ」 
「え……? マジっすか? 急に決まったとか?」 
「いえ、入居時から知っていました。大家さんがご高齢なんですよ。息子さんと夏から同居するそうで、それを機に、アパートももう古いので更地にして、駐車場にすると伺っています」 
「そうだったんっすね」 
 
 最初からそれを知っていた上で入居したのは、夏にはもう住居の必要が無くなると思っていたからだろう。それをあえて互いに口にしないけれど、その事はあまり今は触れたくなかった。 
 
「どうでした? いい物件、みつかりそうっすか……?」 
 
 楠原は少し困ったように眉を寄せ、小さく溜め息をついた。 
 
「店から近い場所となると、中々難しいですね。新宿の辺りは、空いてもすぐ埋まってしまうそうで……」 
 
 一度腰を上げ、病室にある洗面台で苺を洗ってくると楠原はそれを手に戻ってきた。 
 
「あ、丁度皿があります。えっと、そこの紙袋に入ってるんで、それ使って下さい」 
「これですね、じゃぁ、遠慮なく」 
 
 ファンシーな柄の入っている紙皿を取り出すと、楠原はその上に真っ赤な苺を並べ、その中の一粒を指でつまんだ。 
 
「はい、どうぞ」 
「え?」 
「食べないのですか?」 
「あ、いや……」 
 
 目の前に差し出された苺の位置からして、どうやら食べさせてくれようとしているらしい。病室に他の患者がいないとはいえ、これは恥ずかしい。 
 恥ずかしいけれど、楠原に食べさせて貰うなんて多分今後ないような気もするので、ここは素直に甘えることにした。 
 
「えぇっと、じゃぁ、いただきます」 
 
 幸せ過ぎる……。 
 入院もいいものだな、なんて途端に現金な事を考えながら口に入れて貰う苺は、さすが高級そうなだけあって、甘くて美味しかった。 
 
「美味しいっすね、甘いし。蒼先輩も食べてみて下さい」 
「いいんですか? では、僕もひとつ戴きます」 
 
 楠原にも食べさせてあげたかったが、手が届かないのが無念である。「久し振りに苺を食べました。美味しいですね」といって微笑むのを見て、楠原のこんな柔らかな表情を久し振りに見たなと思う。先ほどの安っぽい自分の想像の遙か上を行く本物の楠原は、本当に綺麗だ。その笑顔をずっと自分が守ってあげられたらと思わずにはいられない。 
 
「蒼先輩」 
「はい……?」 
「さっきの話ですけど。もし……、いい所見つからなかったら。見つかるまでの間、俺の所に来ませんか……?」 
「……え? 信二君の自宅にですか?」 
「そうです。あ、店からはちょっと離れてますけど、荷物置いてるだけの部屋があって、片付ければそこ使えるし……それに……、」 
「…………?」 
「蒼先輩を一人にするの、……俺が、まだちょっと不安なんです……。近くにいてくれたら、何かあってもすぐ助けられるし……」 
 
 楠原を信じていないわけでは無いけれど、楠原があの日あのまま自分が見つけられなかったら、自死を選んでいたかも知れないという事がトラウマになっていた。 
 たった十分ずれていたら、楠原とはもうこうして話す事さえ出来なくなっていたのだ。もしも、万が一……0.1%でも楠原を失う可能性があると思うと、今でも怖くて仕方がない。 
 
「あ、でも。……無理にってわけじゃないっすけど」 
「心配ですか? ……僕が、危ない行動をするんじゃないかって……」 
「いや……。そういうわけじゃないんですけど……。すみません。……変な事思い出させちゃって」 
 
 楠原が切なげに視線を落とす。 
 
「いえ、いいんです。……当然ですよね。信二君を、不安にさせるような行動をしてきたのは、僕ですから……。今度は僕が、時間を掛けて、信二君の不安を取り除かないとと思って……」 
「……蒼先輩」 
「大丈夫ですよ。……今は、理由が出来たんです」 
「……理由、ですか?」 
「ええ」 
 
 楠原はそう言うと、優しい笑みを浮かべた。 
 
「……信二君の存在が……。今の僕の、生きていく理由です」 
 
――蒼先輩……。 
 
 今すぐにでも抱き締めたい。陽射しの中に消えてしまいそうな楠原を、腕の中で確認したい。「好きです」と、楠原が呆れるくらい繰り返し囁きたい。怪我をしていることが、こんなにももどかしいなんて……。 
 信二は近くにある楠原の手を取ると、その甲へと静かに唇を寄せ、口付けを落とす。楠原が小さく息を呑んだのがわかった。 
 
「今、動けないんで……。本当はギュッてしたいけど……退院するまで、待ってて下さい……」 
「――はい……」 
 
 信二が少しだけ腕を伸ばして楠原の頬を撫でる。 
 
「いい子にして、待ってて下さいね」 
 
 信二が笑ってそう言うと、楠原も笑みを浮かべて目を細めた。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
「あー、信二。次それ俺にもかして」 
「了解っす」 
 
 
 あの夜から一ヶ月が経った。 
 退院する前日、晶と康生が見舞いに訪れた際に聞いた話によると、楠原が晶の元をたずね、今回の件の全容を話したらしい。 
 後輩の件も含め、全てを隠さず晶に話したという事だ。 
 
 晶は、自分と重ねたのか……、楠原の後輩の件に関して酷く心を痛めていて、病室で信二へとそれを聞かせるときに何度か声を詰まらせていた。 
 楠原は、全てを打ち明けることでけじめをつけようとしたのだろう。 
 今後、自分からは二度と、危険な真似はしないと誓ったらしい。 
 
 楠原は、今はまだアパートに住んでいるが、来月になったら信二のマンションへと越してくる事が決まっている。 
 
 悪夢にうなされることも、楠原を苛む発作も、すぐにはやはり治らないけれど、それでも、その回数は激減しだいぶ快方へ向かっている。 
 退院してから何度か楠原のアパートに泊まったが、一緒にいると安心してくれるのか睡眠薬を服用せず眠ってくれるようにもなった。 
 信二はというと、先週からもう店へと復帰していた。あまり激しく動くのはむりでも、もう傷もかなり癒えてきている。 
 そして、今日は、楠原が店へ復帰してくる初日なのだ。 
 またこうして全員が揃った状態に戻れたことが、本当に嬉しかった。 
 
 
「蒼先輩、遅いっすね……」 
 
 隣に座っている晶と爪を削りながら、信二は時計をチラッとみた。 
 
「ソワソワしすぎっしょ。しょっちゅう会ってんじゃねぇのかよ」 
「昨日も一昨日も会いましたけど」 
「会いすぎだっつーの。毎日とか。俺なんか酷いときは月に一回とかだぜ?」 
「あー、大阪ですもんね……。遠距離って寂しいっすよね……」 
「そうそ……。って、え?」 
 
 晶の手が止まり、ぎこちなく信二へと振り向く。 
 
「だって、佐伯さんと付き合ってるんっすよね?」 
「…………く、腐れ縁だって言ったろ? あいつはただの……友達、で……」 
「へぇ、三連休とって、あんな時間まで一緒にいるのに友達なんっすね?」 
 
 晶が少し頬を紅潮させて信二の耳をぎゅっとつねって睨む。 
 
「痛い痛いっ、もう~、ほんっと素直じゃないっすね」 
「お前な、いつからそんなに生意気になったんだよ。傷に肘鉄くらわすぞ、こら」 
「それは、勘弁して下さい。確実に死ぬんで。ってか、俺は別に変わってないでしょ」 
 
 晶とこうしてくだらない言い合いをするのも何だか久々な気がする。前は普通だったこんな事でさえ、今は大切に感じる事が出来る。 
 廊下から足音が聞こえ、期待をしつつ振り向くと期待は当たり、楠原が部屋へと入ってきた。 
 
「おはようございます。オーナー、信二君」 
 
 だいぶ顔色も良くなり、楠原は以前の姿に戻っていた。以前より眩しく感じるのは、自分が楠原をそう言う目でみているからなのだろう。勿論、公私混同するつもりはないが……。信二は気を抜くとニヤニヤしてしまいそうな顔を引き締めた。 
 
「蒼先輩、おはようございます」 
「お、やっと来たか。蒼ちゃんいなくて、もう店大変だったんだぜ~」 
「すみません。ご迷惑をおかけしました。でも、オーナーがいれば、問題なかったのでは?」 
「んな事ねぇって。まぁ、おかげで? 一気に俺、現役まっしぐらだったけど」 
 
 楠原がそれを聞いて小さく笑う。 
 
「ねね、晶先輩。俺もいなくて大変だったんじゃないっすか?」 
「いや? 信二はいなくても、別に平気だったぞ?」 
「ひどっ!!! 俺、マジいじけますよ? そんな事言うと」 
「うそうそ、冗談だって。お前いないと店の雰囲気変わるからな。ムードメーカーの信二君は大切だよ、マジで」 
「だったら、最初からそう言ってくれてもいいでしょ!?」 
「わかったわかった」 
 
 晶が信二の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。晶が皆が揃った事を心底喜んでいるのがわかる。これからも、何があるかはわからないけれど、きっと大丈夫。信二はそう思って楠原と晶をみると笑みを浮かべた。 
 
 「蒼先輩も、爪やりますか?」とやすりを渡そうとすると、楠原は「僕は、全て整えてきていますので」とそれを断る。磨かれた靴、細身のスリーピースのスーツは皺一つ無い。綺麗に束ねられた髪は蛍光灯の光を受けて艶を浮かべる。頭のてっぺんからつま先まで、完璧な状態で隙の無いその様子は、楠原が現場復帰したことを証明する。 
 
 晶は、楠原が腰を下ろそうとした所で徐に声をかけた。 
 
「あ、楠原。ちょっといいか、オーナー室に来てくれ」 
「……? はい。わかりました」 
 
 何か話があるのだろうか……。連れだって出て行く二人を視線で見送って、信二は胸元から煙草を取り出した。丁度一本を吸い終わる頃、騒がしい話し声が廊下から聞こえて、康生と後輩達が部屋へ入ってきた。 
 
「あ! 信二先輩! おはようございます!」 
「よっ、信二はえーな」 
「はよーっす」 
 
 そう、先週、信二がひさびさに店に復帰した日の事。 
 暫く留守にしていた間、康生に鍛え上げられたのか、後輩が揃って「信二先輩」と呼んでくれるようになっていたのだ。憧れていたものの、いざ「信二先輩」と呼ばれると何だか少し恥ずかしくもあり、まだ慣れない気分である。 
 
「そろそろ怪我も治ったろ? 酒ガンガンいけるようになったか?」 
 康生がロッカーで着替えながら声をかける。 
「まぁ、一応な。でも激しい運動とかまだできないし、酒は飲めるけどさ」 
 信二が苦笑してそう返すと後輩が振り向いて、得意げに腕を組んだ。 
「信二先輩、気合いですよ! 気合い入れればすぐ治ります!」 
「よく言った!!」 
 
 体育会系のノリが伝染している……。まるで康生が二人に増えたようである。でも、後輩が楽しそうなので、これはこれで……。 
 
「……康生に感化されすぎだろ、お前」 
「んなことないですよ~」 
「まっ、俺も気合い入れてがんばりますか。――さて、フロア準備しに行くかな。お前達も早く来いよ」 
「了解です!」 
 
 信二が腰を上げて部屋の出口へ向かう。康生の横を通り過ぎる瞬間、信二はその肩を軽く叩いた。 
 
「康生、今回は色々、マジ有難う。感謝してる」 
 
 珍しく照れたような康生が、通り過ぎた信二の背中に「今度なんか飯奢れよな」と返すのに、信二は「了解」と手をあげ部屋を出て行った。 
 
 
 
 その頃、オーナー室では晶と楠原がソファに向かい合っていた。 
 
「体調良くなったみてぇだな。安心したわ」 
「お陰様で、ゆっくり休養できましたので。今回の件ではオーナーには本当にお世話になりました」 
「うん、まぁ。こうして、お前も信二も店に戻ってきたわけだし、結果オーライってやつじゃね。あ、それとさ。あんま無茶すんじゃねーぞ? この前話してくれた、病気の事とか。ちゃんと通院して、しっかり治せ。いいな?」 
「はい、わかりました」 
「んじゃ、これな」 
 
 晶が、マチの広い封筒に収められた多額の札束を机に置くと楠原の方へと渡す。 
 
「……これは……?」 
「給料だろ」 
「……どういう事でしょうか」 
「試用期間の三ヶ月は、もう終わりだからな」 
「いえ……。そんな、僕は受け取れません。僕が最初に申し出たのは、その三ヶ月の分は基本給以外は受け取らないという意味です。それに、こんなにご迷惑をおかけしたのに……」 
「お前が言ってる意味はわかってたよ。だけど、お前が三ヶ月で店に貢献した額は、これ以上だ。今回の件と、この金は、まったく別の話だからな。お前が受け取ってしかるべき報酬だ。いいから受け取っとけって」 
「……ですが、こんな額……」 
「楠原、自分の価値が、この額に見合わないと思うなら、そのぶんこれから店に貢献してくれればいい。俺はさ、十分、お前にはこの額以上の価値があるって思ってるけどな」 
「……オーナー」 
 
 晶が腰を上げて、伸びをする。 
 
「俺、今日今から外に出る用事あんだわ。面倒くせーなー。あぁ~あ、俺も女の子と接客だけしたい」 
 
 楠原は、目の前の封筒を手にすると晶を見上げ「有難うございます」と頭を下げる。 
 
「オーナー」 
「んー?」 
「僕の提出した辞表ですが……。処分しておいて頂けますか」 
 
 晶が怪訝な顔をして楠原に振り向く。 
 
「そうそう、それなんだけどさ。辞表とかどこにもねぇんだよ。お前どこにおいた??」 
「え? ……オーナーの机の上に……」 
「マジで? おっかしいなぁ……。書類にも混ざってなかったし、どこいったんだろ。まぁ、見つかったら処分しとくけどさ」 
「お願いします」 
 
 あの日、晶のデスクに置かれた雨に濡れた楠原の辞表。 
 それを信二が持ち去ったことは二人とも知らないのだ。行方のわからなくなった辞表。だけど今はもう、それも必要なかった。