GAME -19- epilog


 

  *     *     * 
 
 
 楠原が戻ってきたことで店への客足が多く、今夜はいつにも増して盛況だった。 
 時間で入れ替わるローテーションの合間に裏で休憩を挟む余裕もない。 
 各卓で聞こえる笑い合う声。繰り返されるコール。一時の夢を見せる場に似つかわしい華やかな雰囲気は、いつもの。そう、『いつもの』夜が戻ってきたことを感じさせる。 
 
 楠原の卓では、入れて貰ったボトルをあけたヘルプの後輩が、あまりに威勢良く「いただきます!」と声を張り上げる物だから、楠原も客も顔を見合わせて苦笑していた。 
 詳細は知らずとも、一ヶ月ほど療養していた楠原の体調を気遣っての後輩の行為、それがわかっているだけに、楠原が後輩を見守る視線もどことなく優しげだ。 
 
 水割りのグラスを音もなく目の前にさしだす楠原の横顔に、客は嬉しそうにグラスへと手を伸ばした。淡いパールの櫻色に、小さく散りばめられた雪の結晶。冬らしいネイルを施している客の細い指に触れ、楠原が「とても美しいですね、爪先に小さな冬の世界ですか……」と微笑む。「有難う」と笑みを浮かべる客も満更ではなさそうだ。 
 
 たった数時間、本命のホストに会うために全身を飾り立ててくる女性客達。誰よりも自分を見て欲しい彼女たちの、いつもとは違うアピールポイントを見抜いて褒める事で、より満足感を与える事が出来る。 
 
「蒼君、もう身体は大丈夫なの? 心配したのよ」 
「ええ、すっかり。ご心配をおかけして、申し訳ありません」 
「先週、今日から店に出るって連絡くれたじゃない? 私、何が何でも顔見に行かなくちゃって思って、今日は残業急いで片付けてきちゃった」 
「そうなんですか? それは光栄ですね……。僕も、久し振りに貴女に会えたのが嬉しくて、柄にもなく、少し緊張しているぐらいです。会いに来て下さって、有難うございます」 
「本当?」 
「もちろん。休んでいる間に、嘘が吐けない体質になってしまったんですよ」 
 
 そう冗談を言う楠原に、女性客が笑う。 
 楠原は以前の客に療養のために暫く店を休むと連絡していたらしく、復帰祝いにと来る客のほとんどがボトルを入れていった。 
 
 楠原の接客を耳にしながら、信二は苦笑する。 
 何故かというと、まるで自分の卓と会話が違うからだ。同じ休み明け、しかも、自分も一応は『療養』だったのに。 
 信二の顔を覗き込んだ女性客が悪戯な笑みを浮かべてニッとする。 
 
「ねぇねぇ、信二っ。どこ怪我したの? 見せて見せて!」 
「えぇ? いや、腰だからさ、俺ここで下着にならないといけないじゃん。何の罰ゲームだよそれ」 
「え~残念……。んじゃ、傷は諦めるから、そん時の信二の武勇伝聞かせてよ」 
「武勇伝? そんないいもんじゃないけどな。どうしても聞きたい?」 
「うん! なになに」 
「しょうがないな……。ここだけの秘密だよ?」 
 
 何が信二の口から語られるのかを期待して、女性客の目が好奇心で満ちる。信二はその様子を見て、話す前からおかしくなり、笑いを堪えつつ続きを口にした。 
 
「……俺、実は悪の組織に狙われててさ。今回の怪我も、そいつとやりあった時にやられたんだよね」 
 彼女が不満げに頬を膨らませる。期待させて申し訳ないが、本当の事を話すわけにもいかないので、ごまかすしかない。 
「…………なにその中二病設定っ。てゆーか、そいつって誰よ。もう~、真面目に聞いて損した~」 
 女性客がふざけて、隣り合う信二の腰を指でつついてちょっかいを出す。 
 
「はい、残念~! そっちじゃないんだな~」 
 逆側を指さして信二が笑うと、女性客は信二の逆側に腕を伸ばし、信二の手にそれを阻止された。 
「こら、ダメだって。まだ押したら痛いんだからさ。これ以上、怪我触ろうとしたら、このままキスしちゃうよ? いいの?」 
 
 信二が間近でそう囁くと、女性客は頬を染めて「だーめ」といって大人しく座り直すと肩を竦めた。傷を見せろとか、触ってこようとする客はもうこれで十人を超えたと思う。何故皆してそこまで触りたいのか。謎は深まるばかりだ。 
 信二は苦笑しつつ、斜め前の卓にフと視線を向ける。 
 視線の先では康生が接客中だ。康生の客層もやはり楠原や信二とはまた違った雰囲気があった。一勝負を終えた後、ドカッと偉そうにソファにふんぞり返っている康生に、客が身を乗り出している。 
 
「ちょっとー! 康生、少しは手加減しなさいよ!」 
「冗談、俺は誰相手でも手を抜かねぇ主義なんだって、悔しかったら両手で挑んできてもいいぜ」 
「んん! じゃぁ両手にするっ!!」 
「まっ、勝てないとは思うけどな? ハンデつけてやろっか」 
 
 どういう流れでそうなったのか、腕相撲をしているのが笑える。不敵な笑みを浮かべ再びテーブルへ片手を置いた康生に、どうにかして勝とうと全体重を掛けている客。真剣にやりあったら信二でも勝てないような相手に、華奢なその女性が勝てるわけはない。案の定康生の腕はピクリともしなかった。 
 諦めて溜め息をつく客の頭に康生がポンポンと優しく手を乗せる。 
 
「……、康生強すぎるよ……」 
「あったり前だろ? そうじゃなかったら、何かあった時守ってやれないじゃん」 
「えぇ? どういう事?」 
「この前、変な奴に付きまとわれてるって言ってなかったっけ?」 
「ああ……。うん、言ったけど」 
「その後、危ない目に遭ってねぇだろうな? もしそいつが何かしてきたら、ぶっ飛ばしてやるから、いつでも呼べよ」 
「……康生……。ありがとね、あ、だから鍛えてくれてるの?」 
「そうそ」 
 
 それぞれの卓で、晶の言う『疲れた日常を忘れさせてくれる空間』が繰り広げられている。あと少しで店はクローズ、久々に軽く飲んだ酒が心地良い酔いを感じさせてくれる。 
 信二は何だか幸せな気分で、目の前のグラスの酒を飲み干した。 
 
 
 
 
 最後の客を見送って、本日の営業は無事に終了になった。 
 営業時間が終わる寸前「家まで送るので待っていて下さい」とこっそり楠原へとメッセージをうっておいたので、少し早めに上がった楠原は店を出たところで待っていてくれているはずである。 
 
 待機室のソファ。 
 用事を済ませて店に戻ってきている晶は少し疲れているようで、周りで騒がしくしている後輩達の話を聞きながら若干眠そうである。アフターに行ってこの場にいない康生の代わりに仕切っている後輩は、今日も元気いっぱいである。 
 信二はロッカーを開いて着替えつつ、背後に座っている晶へと声をかけた。 
 
「晶先輩、お疲れ様です」 
「おう、信二もお疲れ~」 
「なんか疲れてます? 眠そうっすよ?」 
「ああ、ちょっとな。寝不足つーか」 
「今日はちゃんと家に帰って寝て下さいよ? オーナー室に泊まるのは禁止です」 
「それ耳タコだっつーの。わかってるって~。今日はちゃんと帰って寝るよ」 
 
 言いながら大きな欠伸をしている晶が目を擦る。相変わらず多忙な日々を送っているであろう晶の身体も少し心配だった。 
 信二はロッカーの中に手を入れ、ずらっと並ぶネクタイの中から一本を取り出す。手に取ったそれを懐かしそうに眺めて小さく息を吐いた。 
 晶からずっと借りたままになっているネクタイ……。忘れたふりをしてでも、手元に置いておきたかった物だ。だけど、今は……。 
 信二はそれを掴んだまま、笑みを浮かべた。 
 
「――晶先輩」 
「んー? どしたー?」 
「これ……。ずっと、借りたままだったんで、――有難うございました」 
 
 晶は何か気付いたように口を開きかけたが、それが言葉になる事は無かった。優しい笑みを浮かべるとそのネクタイを信二から受け取って、しばしその柄を眺める。 
 
「俺も、すっかり忘れてたわ」 
 
 一言そう言うと、ネクタイを眺め、小さく「もう必要ないもんな」と呟く。 
 信二にその声は聞こえていなかったけれど。 
 
「んじゃ、俺、お先に失礼します! 晶先輩も、もう若くないんだから無理しちゃ駄目っすよ」 
「年寄り扱いかよ、まぁ、いいや。心配してくれてサンキューな。あー、そうそう。家に着くまでがホストの仕事なんだから、お前も寄り道しないで帰れよ?」 
「わかってますよ。つか、遠足っすか」 
「そうそう、おやつは2000円までな。バナナはおやつに入りません~」 
「めっちゃゴージャスっすね。んでもその例え、もう古いっすよ」 
「うるせーな、いーの」 
 
 「帰れ帰れ」と笑いながら追い払う晶に、もう一度笑いながらお辞儀をし、皆にも挨拶をしたあと、信二は店を出た。 
 階段を下りる足が自然に駆け足になる。まるで、本当に遠足にいく子供みたいだと思う。 
 
――早く、早く……! 
 
 店を出てすぐに辺りを見渡すと、少し離れた所に、楠原が待っていた。 
 
「蒼先輩」 
 
 手を振りながら駆け寄ると、楠原が寄りかかっていたガードレールから腰を上げた。 
 
「信二君、お疲れ様です」 
「お疲れ様っす! 遅くなってすみません。暇でした?」 
「いえ、大丈夫です。街をぼんやり眺めているのも、良い物ですよ。ところで……、信二君?」 
「はい……?」 
「……一応約束したので待っていましたが、心配してくれなくても、一人で帰れますが……」 
「いーや、ダメです。てか、初日くらい、……いいでしょ。久々に酒飲んだんだし」 
「……信二君は、心配性ですね……。わかりました。では、今夜は、お言葉に甘える事にしましょう」 
「そうして下さい」 
 
 楠原と並んでタクシー乗り場まで歩く。 
 前にも一度こうして街を歩いたことがあるが、あの頃の楠原とは違う。少し離れて歩いている事で感じる不安感も今はなかった。 
 
 冷たい風が吹いてくるものの、今夜は日中天気が良かったので、空には沢山の星が浮かんでいた。 
 あの日、二人で手を繋ぎ、降りしきる雨の中をひたすら走った通りは、何事も無かったように煌びやかな世界を今夜も作り出している。 
 一つの恋がこうして実ったことも、一人の人間が生き方を変えたことも、失われた時間が再び動き出したことも。 
 全てを抱いたままで、何も語らない。何も変化しない。うるさいほどの喧噪は、ある意味とても静かだった。 
 
 
 二人でタクシーへと乗り込み、楠原の自宅前で降りる。 
 信二にとっても、もう見慣れた景色である。 
 錆びた階段を楠原の後について上がりながら感慨深げに辺りを見渡す。 
 
「もう、ここにくるのも、あとちょっとの間っすね」 
「ええ。……そうなりますね。何だか未だに信じられませんが……」 
「大家さん、可愛いおばぁちゃんですよね。実は俺も、ちょっと話したんっすよ」 
 
 「そうなんですか?」と楠原は驚いていた。 
 玄関の鍵を開ける楠原に続いて部屋へと上がりながら、説明する。この前、楠原を探しているときに大家と会って、その時に話したのだと。楠原は「知りませんでした」と目を丸くした。 
 
 コートを脱いでハンガーへとかけると、楠原が部屋の壁に掛けてくれる。信二のコートを見つめたまま、振り返らずに楠原が口を開いた。 
 
「今夜は、……泊まっていくでしょう? 先にシャワーを使って下さい」 
 
 楠原の家に来るときは、だいたい泊まっていく事が多い。楠原は、返事を待たず、当然のように信二のバスタオルを用意すると脱衣所へとそれを置いた。 
 少しでも長い時間を共にしたいから。楠原はそう思ってくれないのだろうか。信二は試すようなニュアンスを含ませて、ジャケットを脱ぎ始めた楠原の背中を見つめた。 
 
「蒼先輩が、疲れてるんなら、帰りますけど……」 
 
 楠原は信二の視線を感じながら小さく返す。 
 
「……いえ、疲れてはいません。それに、……」 
「――それに?」 
「……睡眠薬が、もう、残りが少ないので」 
 
 一緒に寝て欲しいという言葉こそないが、遠巻きなその誘いに信二は笑みを浮かべた。楠原を引き寄せて頬に一度軽くキスをしバスタオルを手に取る。試すようなこと言ったことを半分反省し、半分は言ってみて良かったとも思う。 
 
「じゃぁ、先に風呂借りますね」 
「はい、ごゆっくり」 
 
 
 
 楠原のアパートの風呂はとても狭い。 
 部屋もあの通りなので、風呂だけ広いというのもあり得ないが、大人の男だと気をつけないと肘が壁に当たったりする。なので、当然どう頑張っても二人で一緒に入るという事も無理である。 
 
 信二は冷たいタイルに足を着け浴室へ入るとすぐにシャワーを熱めに設定した。 
 壁に掛けて頭からそれをかぶる。次第に髪を濡らし顔に伝う熱いシャワー、水圧が強いという事だけは評価できる。片目を瞑ったまま水温を微調整し、信二は濡れた髪を何度かかき上げて自身の身体に視線を落とした。 
 抜糸をしてから二週間、シャワーが浸みる事は無いけれど、腰に残る傷はまだまだ目立つ。傷が完全にわからない程度になるには一年ぐらいかかるらしい。 
 
――……来年、か……。 
 
 ポツリと呟き、火傷のようなその傷へと触れる。滴る水滴と共にその跡をなぞれば、微かにちりっとした痛みがあった。 
 
 楠原を手に入れるための代償がこんな傷一つなら何も文句はない。だけど、信二の中には、誰にも言うつもりのない嘘が一つだけ残った。 
 この傷は、本当は自分がナイフを取り上げた時についた物ではない。咄嗟についた嘘。それがバレなかった事は、神様に感謝したいと思う。この事は、死ぬまで自分だけの秘密にしておくつもりだ。 
 
 こんなにも必死に誰かを助けたいと思ったのも、手に入れたいと願ったのも初めてだった。ナイフを手にした楠原を、あの雨の夜止めようとした時、怖くなかったと言いきれるほど自分は強くなんてない。 
 だけど今、また時間が巻き戻っても、自分は同じ事を繰り返すだろう。たとえ再び、傷を負うことになったとしても……。そう思えば、この傷跡でさえ愛しい。 
 
「……蒼先輩」 
 
 信二は湯気で曇った鏡に映る傷跡に向けて、優しげな笑みを浮かべた。 
 一度シャワーを止め、棚に置いてあるシャンプーに手を伸ばす。泡立てて髪を洗えば浴室に甘い香りが立ちこめた。……いつも嗅ぎ慣れている楠原の香りだ……。 
 それだけで、得も言われぬ幸せを感じる今が大切で……。 
 
 
 
 全てを洗い終えて浴室から出ると、ぶわっと脱衣所兼洗面の鏡が曇る。あらかた水分を拭き部屋へ戻ると、楠原は窓の外を眺めて煙草を吸っていた。楠原が煙草を吸っているのを見るのも久し振りである。 
 
「お先に借りました」 
 
 言いながら楠原の隣へ並び、一緒に窓の外を眺める。 
 
「珍しいっすね、自宅で煙草吸ってるなんて」 
「そうですか? ……最近は、たまに吸っていますよ」 
 
 楠原が黙って煙草の箱を信二へと向ける。一度だけ貰って吸った楠原の煙草。メンソールのそれを一本貰って口に咥えると、楠原は手をかざして火を点けてくれる。「どうも」と小さく礼を言い、一気にその煙草を吸い込む。 
 拭ききっていない信二の髪から、水滴が肩に落ちた。 
 
「……傷、きっと、跡が残りますね……」 
 
 楠原が心配げに眉を寄せ、信二の傷をそっと触る。 
――……僕のせいで。いくら信二が否定したところで、楠原の中にはその台詞が痼りとなって残り続けるだろう。 
 楠原の生きてきた過去の記憶まで消去することは誰にも出来ない。それが残り続ける限り、これからだって、何があってもおかしくないのだ。ただ、今はまだそれを口にする時期ではない。 
 信二は楠原の身体を抱き寄せて傷をみる視線を遮り、まだワイシャツのままの背中を愛しげにさすった。 
 
「何年かしたら、ただの想い出になります。そん時は、ほんとドジだったなって二人で笑いましょう。それで、いいじゃないっすか」 
「……そうですね」 
 
 沢山の言葉を含んだ「そうですね」という返事。 
 楠原の言葉は時々真逆の意味を含んでいたりする。器用そうに見えて、楠原も多分そんなに器用じゃない……。 
 咥えている煙草の煙が目に入り、信二はイテテと片目を瞑り、煙草を口から離す。その様子を見て苦笑している楠原の額へ、軽く口付けを落とす。 
 
「蒼先輩も、シャワー浴びてきて下さい」 
「……はい。じゃぁ、僕も浴びてきますね」 
「待ってます」 
 
 楠原が髪をほどきながら、浴室へと消えていく。ほどかれた髪から香るふんわりとした楠原の匂い。 
 信二は短くなった煙草を最後に大きく吸い込んだ。 
 
 
 近くの灰皿でそれをもみ消しながら部屋を見渡せば、この部屋であった様々なことが思い浮かんだ。 
 最初に来た時は、あまりに何もないこの部屋に驚いた物だ。 
 発作が起きた楠原を送ってこの部屋に来た時、初めて思いを告げたのだ。拒絶されたあと虚しさしか存在しないまま、楠原を押し倒した感触。その後、楠原自らが話した、店を手に掛けたという言葉、それを聞いた時は頭が真っ白になった。 
 
 楠原と自分の関係は、楽天的になれる要素が一つも無く、先の見え無さには不安しか無かった。終わりが、少しずつ始まっているようにも感じ、つのる焦燥感に怯えていたように思う。 
 だけど、終わりだと思っていたその先には、続きがちゃんとあったのだ。 
 今は、その続きに足を下ろしている。二人並んで。 
 
 信二は、目の前の薄いレースのカーテンをしめ、部屋の隅にたたまれている布団を引っ張ってきて綺麗に整えるとそれを敷いた。 
 今度楠原が越してきたら、二つ布団を並べて寝ることになる。いや、ベッドを買った方がいいのか……。なんて、ほんの少し先の事を考える事も楽しい。 
 そんな事を考えていると、浴室のドアがあく音がし、濡れた髪を拭きながら楠原が風呂から上がってきた。 
 
「信二君も、何か飲みますか?」 
「あー、はい」 
 
 楠原のいる台所へ向かい、ペットボトルを受け取って互いにそのまま口を付ける。コップはこの前楠原が割ってしまったので一つしか無いのだ。どうせもうすぐ引っ越すから買わないでおくことを決めたのは数日前。 
 互いにボトルのまま半分ほど飲んだところで「ちょっとお行儀が悪いですが、一気に飲めていいですね」と楠原が苦笑する。 
 
 風呂から上がったばかりなので、楠原はまだパジャマを羽織っているだけで目のやり場に困る。くっきり浮かんだ鎖骨の下の傷、前に一度見たときも気になっていたのだ。少し赤く浮かび上がっているそれに指で触れると、信二は顔を上げた。 
 
「そういえば、この傷って、どうしたんっすか? 前からちょっと気になってて……」 
「これですか? だいぶ昔の傷ですよ。……ホストになりたての頃に、お客様に刺されました」 
「えっ!? マジっすか? 刺されたって店で!?」 
「ええ、接客中に」 
 
 楠原はどうという事も無い様子でさらっと言っているが、とんでもない事である。 
 
「避けられなかったんっすか!? 一歩間違ってたら危険っすよ。こんな場所」 
「避けなかったんですよ。わざと」 
「え……。どうして……」 
 
 理解できないというように顔を曇らす信二に、楠原は当時を思い出すように呟いた。 
 
「彼女には、僕を刺す権利があった。……僕は、彼女に刺されるだけの理由があった。……それだけの事です」 
「……また、そんな事言って」 
 
 信二は楠原の傷に指で触れると眉を寄せた。 
 
「……聞かれたので答えただけです。それに、今はもう、痛くもなんともないですから」 
「……それは、そうかもしれないけど……。でも、約束して下さい。今度、もしそういう事があったら、全力で避けるって」 
「……わかりました。今度は、ちゃんと避けます」 
「絶対っすよ? 約束破ったら、針千本の刑っすからね?」 
「……それは、怖いですね。大丈夫ですよ、約束します」 
「蒼先輩って……なんか、そういう所あるから、すげぇ心配っつーか。なんかあったら、俺、マジで泣きますよ?」 
「僕のために……、泣いてくれるんですか?」 
「――当たり前でしょ」 
 
 信二が楠原の身体を引き寄せ、耳元で吐息と共に囁く。 
 
「蒼先輩……顔上げて……」 
 
 風呂上がりのしっとりとした首筋を撫で上げて楠原の顔を上げさせると、信二は名前を呼びながら何度も口付けを繰り返した。背後の流し台に背をつけ、その縁を掴む楠原の手に時々力が入ってぴくりとする。 
 信二の口付けを全て受けとれば、次第に身体に熱が籠もっていく。最初感じた、パジャマ越しの背中にあたる流し台の冷たさ、それすらもわからなくなる。信二は楠原のパジャマの中に手を滑らせ、その肌をまさぐったあと、腰に手を添えた。 
 
「……っ、……信、二君……」 
 
 湿った吐息と共に楠原も信二の腰に片手を回す。 
 傷にふれぬよう逆側に手を回した楠原の指先が、信二の下着の縁に指を掛ける。 
 
 冷たいその感触にゾクリとし、信二は一度口付けを解いた。ハァッ、と短く息を吹き返す楠原を至近距離で見つめる。開いた薄い唇は、たったいま繰り返した口付けで濡れていて、何も言葉を紡がなくとも信二を誘う。 
 
「……蒼先輩、抱きたい。……今すぐ、……ダメっすか……」 
「……ですが、……まだ、傷が……、」 
 
 心配気に腰の辺りを見る楠原の視線はわかっているけれど、既に躯の芯で燻る熱は静まるどころか、いっそう激しくなるだけだ。 
 
「平気です。俺、……我慢、出来ないから……」 
 
 切羽詰まったような信二の声に、楠原は一度息を呑んだ。「途中でも、痛みがあったら無理をしないこと、いいですか?」そんな約束が守られることはないとわかっているけれど、信二の身体を思うと言わざるを得ない。 
 
 「わかってます」と静かに返す信二の手を黙って取ると布団へと向かう。 
 一組しかない粗末な布団の上にスッと腰を下ろすと、同じく腰を下ろした信二に、楠原は自分から口づけた。 
 
 ムードのある洒落た照明も、柔らかなベッドも、気の利いた曲も何もない。 
 だけど、これから信二に抱かれるのだと思えば、そんな事はどうでも良く思えてくる。飾り等要らないから、信二の熱を躯で感じたい。 
 その声で名を呼んで、生々しい欲情を刻みつけてくれれば、それだけで……。 
 
 信二が、少々手荒な仕草で楠原の肩を掴み、押しつけるように楠原の口を塞ぎ返し、その唇を貪る。ゆっくり開いていく楠原の唇の隙間から漏れ出す、色気を滲ませた息遣い。口付けながら、楠原の羽織るパジャマに手を掛ければ、前を閉めていなかったそれはふわりと肩から落ちてシーツヘと音もなく落ちていく。 
 あの日見たのと同じ、楠原の真っ白な肌、だけど今はほんのり色付いている気さえする。信二は首筋に手を伸ばそうとし、何かに気付いたように一度身体を離した。 
 
「……どうか、しましたか?」 
「あ……、ちょっと待ってて下さい」 
「……?」 
 
 不思議そうに見守る楠原の前で信二は立ち上がり、側に置いてあったスーツの内ポケットの財布からゴムを取り出す。戻ってきた信二は、ピアスや指輪等のアクセサリーを全て順番に外し枕元へと置くと、微笑んだ。 
 
「蒼先輩、確か金属アレルギーなんっすよね? 沢山触れたいから……。 綺麗な躯に、傷、つけたくないんで……」 
「……、……。……覚えていてくれたんですか……」 
 
 楠原が嬉しそうに笑みを浮かべる。楠原が金属アレルギーだというのは、初めて交わした二人の会話だった。それが、もう随分遠い昔のように感じた。 
 信二は、楠原の眼鏡を外して、その奥に隠されていた潤んだような瞳を間近でみつめる。窓から差し込む月明かりが、瞳の半分を淡く照らした。 
 透き通るようなその瞳に語りかけるように、信二は言葉を乾いた空気に混ぜた。 
 
「蒼先輩と話した事は、全部覚えてます……。これまでの事も、これからの事も……」 
 
 瞬きをすれば、信二のキスが瞼へとそっと落ち悪戯に睫を食む。 
 
「蒼先輩の事、もっと沢山知りたいっす……。誕生日は、いつですか? ……好きな色は? ――どこが、……気持ちいいっすか? ……。俺に、いっぱい教えて下さい……」 
 
 信二はそう言って、ゆっくりと楠原を押し倒した。 
 覆い被さるようにして信二が楠原の唇に自身の唇を重ねる。信二の体温以上に熱い口付けを絶え間なく落とされ、楠原の躯にもじんわりと灯が灯る。 
 布団からはみ出た足先が、古い畳をずずっと擦る音が響く。 
 与えられる深い口付けに翻弄され、頭の芯が痺れたようになってくるのに、楠原は身を任せた。 
 我慢していたのを取り戻すかのように激しく求められれば、それに返すのが精一杯で、愉悦混じりの息苦しさから息が鼻に抜ける。 
 
「……っ、……ぁ……、し、信二、く……」 
 
 互いにホストなので、見える場所に跡は残せない。 
 唇から離れ、首筋に落とされるのは、跡が残るか残らないかの優しいキス。それがもどかしいような気分で、楠原は白い喉に浮かぶ喉仏を上下させた。 
 
「好きです」という言葉が耳元で惜しげも無く囁かれ、信二の声に鼓膜を刺激される。まだ完全に乾いていない楠原の長い髪を鼻先でかきわけ、項を啄まれ熱い吐息がかかる。 
 キスの雨を降らせながら信二の愛撫が徐々におりていく途中、さらさらとした信二の髪が胸をくすぐる。その微弱な感覚さえ敏感に感じ取って、楠原は小さく声を漏らした。 
 
 着衣を脱いで脇へと置いた信二に胸の突起を口に含まれれば堪らず……。 
 
「んっ……、ぁっ……ぁ、……」 
 
 ちゅっと音を立てて吸われ、舌先で執拗に捏ねられると赤く腫れたようなそこがジンジンと疼いてくる。眼鏡を外しているのではっきりしない視界の中で、視線を信二へ向ける。 
 健康的なはりのある肌は、ほどよく鍛えられた筋肉がのり引き締まっている。若い雄の色気と生命力がほとばしり、とても頼もしく見えた。 
 楠原は信二のかたい背中に腕を回し、浮き出た翼骨に指を添えると肌の感触を指先へと刻む。 
 
「……蒼先輩、」 
 
 長い腕がすっと降りて、楠原の中心にそっと触れる。 
 
「っっ、……ん、ッ!」 
 
 直接的な刺激に思わず躯が跳ねる。下肢に残る下着を脱がされ、剥き出しになったそれを信二は掌で包むと、楠原の足の間へと頭を潜り込ませた。 
 
「こんな所まで綺麗とか……。すげぇ、興奮します……」 
 
 そんな事を言われたこともない。返事をしようにも、あがりそうになる声を自身の手の甲で押さえるのに必死で言葉が口から出せない。 
 信二は鈴口を何度か吸い、手を添えて裏筋を舌で辿る。巧みに追い詰められればいつのまにか抑えきれない淫らな声が溢れ出していた。 
 
「っ、は、……ぁッ、く、……んんっ、」 
「もっと、……声、聞かせて下さい……」 
 
 熱い信二の口内に含まれ、体中がその刺激に波立つ。あっというまにのぼってくる射精感に喘ぎ、楠原はハァハァと忙しなく息を吐き出すと堪えるように眉を顰めた。 
 信二の頭を離そうとそこへ手を伸ばすと、信二の手に指を絡ませられる。 
 
「っ、ぁ、だめ……もう、……ッン……、し、んじ君、離し、……」 
「そのまま、イッっていいっすよ……」 
 
 信二の口内で出すのも憚られ、楠原がわずかに腰を引こうとすると、その行動も信二にがっちり止められた。 
 もう、間に合わない。 
 信二が喉奥へ咥え唇で扱くのに追い立てられる。 
 耳を塞ぎたくなるような濡れた音。 
 つっ、と舌先でつつかれ鈴口を割られれば、快感が一気に膨れあがり全身が震えて視界が滲んだ。 
 
「あぁ、っ、あ……っ、く、……!」 
 
 信二がそれを飲み下す際のゴクリという音が部屋に響く。 
 一度噎せたように小さく咳をし、信二が口元を手で拭う。 
 
「は、ぁッ……っ、まさか、飲んだん……、です、か……?」 
 
 驚いて上半身を起こすと、信二が顔を上げた。 
 
「ダメでした? ……飲んじゃいました」 
「……っ」 
 
 楠原は羞恥により躯がカッと熱くなるのを感じ、返事できぬまま視線を逸らした。 
 ゆっくり楠原の中心から頭を離した信二は、まだ痙攣したように脈打つそれを優しく握り、残滓を絡め取るようにくびれを押しあげる。 
 
「……信二、君」 
 
 イったばかりで敏感な楠原のそこは、些細な刺激で淫らに蜜を溢れさせる。ヌラヌラとぬめらせた指先が乾く前に信二は足を開かせ、楠原の後ろに指を滑らすとそっと触れた。 
 乱れていく自分を、まるで近くで自身が見ているような倒錯的な感覚。 
 
「……っ、」 
「……もし、痛かったら言って下さい……」 
 
 信二が楠原をいたわるようにそう言うと、壊れ物に触れるような優しい指先で丁寧に襞を揉みほぐしていく。大切で、大切で、愛しくて、そんな想いが伝わってくれば、胸が苦しくて痛くなる。 
 
「ァッ……、っ、っ」 
 
 腰を浮かされ、担がれた足の太腿に信二の硬く猛った屹立があたってこすれる。腹につきそうなそれが今から躯へ入ってくるのだと思うと、それだけで後ろの内壁が勝手に痙攣を繰り返した。 
 信二と繋がれる事の喜びは、自身が想像していた以上で、渇く躯が信二を求めて貪欲に熱を欲する。 
 柔らかくほぐれてきた後ろに信二が指を入れれば、再び達しそうな程の快楽がのぼってきた。 
 
「……蒼先輩の中、柔らかいっすね……」 
「……、んっ、は、ぁ」 
 
 薬指と中指で中をそっとかき回される。楠原の躯が反応する場所を指の腹で繰り返し撫でる信二の指先に、先ほど達したばかりのそれが硬さを増していく。 
 十分にならした後ろがいやらしくヒクつく頃、漸く信二は指を抜いた。枕元のゴムを開封し、楠原の視界を口付けで奪いながら片手で自身の屹立に被せる。たっぷりついたローション付きのそれを扱いて、もう一度楠原の後ろへとなじませた。 
 
「……もう、平気かな」 
「――信二君」 
 
 楠原はゆっくり躯を起こし、信二の腕を掴んで引き寄せ体勢を逆転させると、その首筋に優しく口づけた。 
 
「……蒼、先輩?」 
「そのまま……、寄りかかっていて下さい」 
「……え、」 
 
 壁により掛かる状態の信二と向かい合う。楠原は信二へと跨がった状態で、肩に手を添え信二に口付けを繰り返す。楠原の髪の中に指を絡ませながら、信二も舌を差し入れる。 
 同じシャンプーを使っただけの筈なのに、楠原からは甘いような妖艶な香りがする。その香りに酔いながら交える舌は、蕩けるような感じがして、口付けがこんなにも気持ちいいものなのだと初めて思った。 
 飲み下させない唾液が口端から溢れ、溺れそうになる。 
 
「……っん、……ふ、ぁ、」 
「……っ、……」 
 
 濡れた唇をそっと離すと、楠原は信二の頬に手を添える。促されるように楠原を見上げると、楠原が薄く笑みを浮かべた。 
 
「傷にさわるといけないので……、今夜は、――僕が上で……」 
 
 一度深く息を吐くと、位置をずらし、楠原は信二の完全に勃起したそれを自身の後ろにあてがって睫を伏せた。ゆっくりと息を吐きながら、腰を落とす。熱と痛みと愉悦、それを越える愛されている実感。 
 
「蒼先輩……、」 
「……っっ、は、……ぁ、……、んんッ」 
 
 猛った欲望がズルズルと飲みこまれていくその様子に、信二は苦しげに眉を寄せ息を詰めた。見上げればスローモーションのように楠原が喉をのけぞらせる様子が目に映る。小さく震える睫、汗なのか、快楽による涙なのか、楠原の目にうっすらと雫が溜まっている。 
 
「……っ、蒼、先、輩」 
 
 すっかり奥まで咥えこんだ楠原は「ぁぁ、」と息を漏らし、信二の胸に手をついた。いつもの冷え切った手ではなく、ちゃんと温かい楠原の手にハッとする。昂まった熱が、楠原の中にも存在することが嬉しかった。 
 
「痛く、ないっすか……」 
 
 苦しそうな表情の楠原にそう声をかけ、信二は繋がったまま楠原の腰を抱き締めあやすように撫でた。 
 
「大丈夫です……」 
「俺は、すごく、気持ちいいっすけど……」 
「僕も、……信二君と、繋がれていると思うと。――喜びと、快楽で、ゾクゾクします……」 
 
 楠原の選ぶ言葉、告げる声、息遣い、全てが信二を煽っては焚きつける。 
 楠原がゆっくりと息を吐き、腰を揺する。合わせて信二が腰を突き上げれば、楠原の息はどんどん乱れ、縋るように信二の名を繰り返し呼んだ。 
 楠原の中を貫く、その圧倒的な存在。信二の形を強く感じ取ってしまえば、酩酊感が襲い、丁度いい場所を擦られれば、全身に快楽がかけ抜ける。 
 
「ぁ、っぁ……、……しん、じ君」 
 
 しなやかな肢体の美しさに見蕩れつつ、前で揺れる楠原のそれをゆっくり扱けば、僅かに掠れた声で楠原は啼いた。 
 
「蒼、先輩、……っ、……」 
 
 楠原の目に溜まっていた雫がこぼれ落ち、揺れる長い髪に隠されながら頬を伝う。初めて見る楠原の扇情的な表情。溢れ出す声は切なげで、どこまでも甘美だった。 
 
「……っ、……ん、ぁっ、あ、」 
 
 それを見てしまえば堪らなくて、信二の屹立は、楠原の中で、ぐんと容積を増し硬くなった。 
 
「は、ぁ……っっあ、、ッ」 
 
 互いのあがった息と、濡れた卑猥な音だけの世界。 
 信二の背中が、動く度に砂壁をこすり……。 
 肩を掴む楠原の指先は、信二の背中に密やかに爪を立てた。 
 絶え間なく溢れる楠原の先走りが信二の指を濡らし、クチュクチュと音を立てて滑りをよくする。はり詰めた楠原のそれも、もう爆ぜそうである。 
 
「……っや、……っ、」 
 
 少し力を込めて上へと擦りながら、信二も痛いほどの愉悦に達しそうになっていき、飲みこむ息が低く喉を鳴らす。 
 
「蒼……、先輩、……もう、俺」 
「は、ッぁ、……僕、も……。……強く、こすって、……信二君ので……」 
 
 絶え絶えになった理性の隙間から覗く、狂おしいほどの愛欲。 
 握った掌の中で楠原が自身を硬くする。信二が、添えた指先に力をくわえ一気に根元から擦り上げると、楠原はきつく眉を寄せた。バサリと前に被さる緩やかに流れる前髪。 
 
「……ぁ、ぁッ、……ぁっ……んんッ!!」 
 
 白濁を吐精した楠原の後ろがギュッと信二を締め付ける。その瞬間、信二も苦悶の表情を浮かべ低く呻いた。 
 こめかみから流れる汗が、顎を伝う。 
 
 脱力したように信二にもたれ掛かる楠原の躯を、信二は力一杯抱き締めると、その躯に愛しそうに頬をすり寄せた。 
 
 
「蒼先輩、――世界で一番、大好きです……」 
 
 
 汗ばんでしっとりした肌。 
 鼻孔を掠める、古い畳の匂い。 
 互いの弾む心音が――一つに重なり合った。 
 
 
*     *     * 
 
 
 再度シャワーを浴び、先程まで情交に及んでいた気怠さを互いに引きずったまま、電気も付けずに窓際で煙草を吸う。月明かりのささやかな光の中、互いの吸う煙草の煙が、空中で絡み合っては消えていく。 
 心地よい疲れた身体に染み渡る、隣り合った互いの体温。 
 
 ジリッと赤く灯る煙草の先をみつめたまま、暫く何も話さず吸い続けた。 
 寄りかかるように身体を寄せてくる楠原の肩を抱きながら、穏やかな幸福感にみたされているのを感じる。 
 
 二本目の煙草を途中まで吸った所で、信二が隣の楠原の顔を覗き込んだ。 
 
「蒼先輩」 
「……なんですか?」 
「明日、店休みでしょ。どっか、出かけませんか? ほら、ちゃんとデートとか、した事ないし」 
「ああ……。そういえば、そうですね」 
「蒼先輩の体調が良かったら、ですけど」 
 
 優しく髪を撫でる信二の手から離れると、楠原は口元に手をやって小さく笑い信二に振り向いた。 
 
「……え? なんで笑ってるんっすか?」 
「実は、明日。他の方とデートの約束をしているんです」 
「えぇっ!?」 
 
 気だるげだった信二が一気に背筋を伸ばす。 
 
「デートって?? 誰とですか!?」 
 
 驚いている信二がおかしくて、楠原は信二の不満そうなその唇に悪戯に一度口付ける。 
 
「そ、そんな事しても、ダメですっ。デートってなんですか、すげぇショックなんっすけど……あ、もしかしてお客さん?」 
「お客様ではありません。ですが、可愛らしくて素敵な女性です」 
「………………」 
 
 信二は「酷いっすよ」と呟いて落ち込んだように頭を垂れた。 
 
「信二君も、一緒にいかがですか?」 
 
 予想外の楠原の言葉に、信二がちらっと横目で楠原を窺う。 
 
「……一緒にって……そのデートにですか?」 
「ええ、そうです」 
「いや、俺、そんなに空気読め無くないっすよ。明らかに邪魔者じゃないっすか」 
「そんな事はないと思います。ね、一緒に行きましょう。きっと喜んで下さいます」 
「……喜ぶ?? そ、そういう相手なんっすね? ……蒼先輩がそう言うなら、まぁ……」 
「では、決まりで。明日十一時に待ち合わせをしています。そろそろ寝ましょうか、起きれなくなると困りますし」 
「はい、そうっすね」 
 
 
 本当によくわからないが、楠原がいいと言うのだから、そういう相手なのだろう。信二は既に敷いてある布団へ潜り込むと、いつもそうしているように楠原を後ろから抱いた。背を向けている楠原の髪を指で弄りながら、その毛先を摘まんでみたり。眠る前のちょっとした戯れである。 
 
「……蒼先輩、マジで、相手誰なんっすか? 教えてくれてもいいでしょ」 
「明日のお楽しみって、さっきから言っているでしょう?」 
「気になって眠れなくなるかも」 
「それは、困りましたね。子守歌でも、歌いましょうか?」 
「冗談です……。……ちゃんと寝れます」 
「……フフッ、じゃぁ、おやすみなさい」 
「――おやすみなさい」 
 
 相当疲れていたのか、眠れなくなるかもと言っていた信二はあっという間に眠りに落ちた。正直その寝付きの早さは、少し羨ましい。 
 まだ片手で足りるほどしか、こうして信二と一緒に眠る経験がないというのに、もうずっと前から、この場所を知っている気がする。 
 これから幾度となく訪れるであろう夜。 
 
 その度に、信二の腕の中で目を閉じるのだ。永遠なんて言葉は、終わりを知りたくないだけの都合のいい言い訳だと思っていたけれど……。 
 どうか、永遠にこの夜が失われませんように、と。そう願う自分がいた。 
 
 


 

 
 
 翌朝、準備を済ませ二人で家を出る。 
 
「間に合いますかね? もうあと五分しかないっすよ?」 
 
 信二がコートに手を通しながら、慌てて楠原へと並ぶ。昨夜泊まったので信二は店と同じスーツだが、楠原は私服である。 
 
「大丈夫ですよ。もう着きましたから」 
「へ?」 
 
 おかしな事を言うなと思っていると。楠原がアパートの階段を降り、角部屋の前まで行くとチャイムを鳴らした。少ししてドアが開かれ、顔を出したのは先日見たおばぁちゃんだった。 
 
「……??? え? デート?」 
 ポカンとしている信二に、楠原が「どうしました?」と訊ねる。 
「いや、デートって大家さんとっすか!?」 
「そうですよ」 
 
 今月いっぱいでアパートを引っ越す楠原が、お世話になったので何か御礼をしたいと申し出たところ、新宿の街を案内して欲しいと頼まれたそうだ。 
 お洒落をして、薄く化粧をした彼女の胸元には、楠原から貰ったというスカーフが今日も巻かれていた。「寒くないですか?」と手を取り優しく気遣う楠原とのやりとりを少し離れてみていると。玄関を施錠し杖をついて顔を上げた彼女が、信二を見て「あらあら」と目を丸くした。 
 
「あなた、この前の」 
「こんにちは、先日はお騒がせしてすみません。今日は、ご一緒してもいいですか?」 
「ええ、もちろんよ。でも、いいのかしら? 折角の休日なんでしょう?」 
「いえ、俺も予定が無かったんで」 
 
 信二が笑ってそう言うと、彼女はフフッと楽しそうに笑った。タクシーを呼んで三人で乗り込む。移動中に聞いた話では、昼飯を一緒に食べて少し街を散策してから送り届ける予定だと言う。平日とは言え、新宿の街は人が多いので、杖をつきながらの移動は疲れるはず。混み合う夕方になる前には退散した方がいいだろう。 
 
 先にタクシーからおりた楠原が手を取って、彼女を支える。 
 
「大丈夫ですか? 足下に気をつけて下さいね」 
「ええ、平気よ。有難う。――まぁ、凄い人だこと」 
「夜になるともっと沢山人いますよ。今は平日の昼なんで、丁度よかったっすね」 
 
 真ん中に彼女を挟んで、一通り有名な場所をまわる。彼女が何かを懐かしそうに話す度に、楠原と信二は腰を屈め、相槌を打っては笑みを浮かべる。相手が何歳であっても、その扱いや態度は女性に対する物だ。 
 都庁の方から歩いてきて店の側まで来ると、楠原が一度足を止めた。 
 
「そろそろお昼にしましょうか」 
「あ、そうっすね。もう一時過ぎてるし」 
「ええ。何か食べたい物があれば仰って下さい」 
「そうねぇ……」 
 
 暫く考えていた彼女が、恥ずかしそうに二人を見上げる。 
 
「この辺に、砂野亭ってお店が昔あったの。そこって今もあるのかしらねぇ?」 
「砂野亭っすか? んー……俺ちょっとわかんないっすね」 
「僕も、聞いた事が無いですね……どんなお店なんですか?」 
「ええとねぇ……」 
 
 楠原が訊ねると、砂野亭という店は洋食のお店だそうだ。全部の店を把握しているわけではないが、相当昔だというから、すでにその店がない可能性もある。信二が携帯を取りだして店を検索してみたが、やはり見つからない。 
 
「もう、今はないみたいっすね……残念だけど……」 
「そうよね、もう随分昔に来ただけだから……」 
 
 何か想い出があるのだろうか、少し悲しげな様子である。楠原は一度しゃがむと彼女の手を取ってニッコリ笑った。 
 
「そのお店で、何を召し上がっていたんですか? 同じ物を出す店でよければ、探しますが」 
「オムライスなの。まだおじぃさんが生きていた頃にね。たまに連れて行ってくれてて……ハイカラなお店で素敵だったのよ」 
「なるほど、……想い出のオムライスっすね。じゃぁ、オムライスの店に行きますか」 
「ええ、そうしましょう。少し先に、確か卵料理のお店があったはずです」 
「あ! そこ知ってます。この前雑誌にも載ってたんっすよ」 
 
 行き先はそこで決定した。 
 店まで歩きながら、彼女の昔話を聞く。十年程前に亡くなったという旦那の話をする時に、少し恥ずかしそうなのが微笑ましい。こんな歳になっても、恋心というのは残るものなのだなとしみじみと思った。 
 
 最近出来た店なので、彼女の言うレトロ感はなかったが。席に通され、メニューを広げると、こんなにオムライスの種類が世の中にあったのか、と思うような種類が並んでいた。 
 運ばれてきた水に口をつけ、それぞれが別のオムライスを注文する。信二が『ご飯(大)』を選ぶと、彼女は「若いっていいわねぇ」と孫を見るように目を細めた。 
 何故か楠原もそういう目で見ていてちょっと恥ずかしくなる。 
 
「今日は、本当に楽しい日ね。こうしてお若い二人に付き合って頂いて、街を歩けるなんて思ってもいなかったから」 
「僕達も、ご一緒出来て楽しいですよ。引っ越す前に、想い出が作れて嬉しいです」 
 
 楠原がそう言うと、彼女は少し寂しそうに何度か頷いた。 
 
「うちのアパートはね、……場所柄もあって。ずーーっと昔から、色んな人が入居しては出て行ったの。あんな古くて狭い所だけど、おじぃさんの意向で、どんな人でも受け入れようって決めていてね……。だから、訳ありの方とかも沢山見てきたわ」 
「……そうなんっすね」 
 
 入居時の規約が緩いのだろう。訳ありの方、の中には楠原も含まれているのだろうか。信二はフとそんな事を考え、隣の楠原をちらりと見る。 
 
「ええ。……でも、今は二階は楠原さんだけ、一階も二軒しか埋まってないでしょう?」 
「そうみたいですね……」 
「私ね、良かったなって。そう思うの」 
 
 皺を一層深くし、優しげな目元が慈愛の色を濃くする。 
 
「……良かった? どうしてっすか?」 
「だって。訳ありで、うちに来るような生き辛い人が減ったって事だもの。いい事でしょう? 色々な理由で入居してきて、そうじゃない方もいたけれどね、だいたい出て行くときは新たな人生を決めて行くのよ。それを見送るのは寂しいけれど、嬉しい事でもあるの」 
「それは……」 
 
 言葉に詰まる楠原のテーブルに置かれている手に、彼女がそっと手を重ねる。 
 
「楠原さん、あなたもそうなんでしょう? 良かったわね。これからも頑張って、ね」 
 
 ちゃんとみているのだ。口を出すことはなくても。楠原が黙って彼女の重ねた手をさすり、「有難うございます」と返す。関わってきた人との出会いと別れはこんな所でもちゃんとした絆を残していく物なのだ。 
 楠原の新たな人生への祝福。それは信二にとっても心に沁みた。 
 
 しんみりしたムードの中、それを打ち消すように頼んでいたオムライスが運ばれてくる。信二のオムライスだけは一回り大きい。 
 楠原はそれをみて、信二を窺い、小さく笑った。 
 
「随分大きなオムライスですね。食べられるんですか?」 
「全然余裕っすよ。蒼先輩、俺の食欲舐めてるでしょ?」 
「自信たっぷりですね」 
「惚れました?」 
 
 ふざけて返す信二の言葉に楠原は返さず、彼女と目を合わせておかしそうに笑った。さすが卵料理専門店と銘打っているだけあって、オムライスは非常に美味しかった。 
 彼女も何度も「美味しいわね」と嬉しそうに言い、ここにして良かったなと思う。 
 
 お腹もいっぱいになった所で、食後に少し遠くまで歩き、様々なことを話す。 
 今度越す家には、中学生になる孫もいるので楽しみなのだという事、その新しい家の近くには菖蒲が有名な公園がある事、彼女が嬉しそうに話す。 
 予定通り、三時半をまわったあたりで少し雲が多くなってきたのでアパートまで戻ることにした。 
 
 帰りのタクシーで少し疲れたような様子も見られたが、それ以上に楽しそうだったので大丈夫だろう。 
 自宅まで戻って玄関先まで送ると、彼女は何度も今日の礼を言い、本当に楽しかったと可愛い笑顔を見せた。 
 
「また、こちらへ来る事があったらいつでも声をかけて下さいね」 
「有難う。楽しみがひとつ増えたわね。……長生きして、また会いに来ようかしら」 
「是非、その時は、俺もまたご一緒させて下さい!」 
「有難うね、ええと……中山さん、だったかしらね」 
「そうです。覚えててくれたんですね」 
「ええ。お名刺頂いたでしょう? 二人とも、お仕事頑張って、身体には気をつけてね」 
 
 楠原と二人で「有難うございます」と礼を言い、彼女とはそこで別れた。 
 まさか、楠原の言うデートがこういう事だったとは予想もしていなかったが、楽しい時間だったと思う。 
 
 
 
 徐々に曇ってきた天気のせいで、暗くなるのが早い。 
 雲行きの怪しい空を見上げて、信二が「これからどうしますか?」と楠原へ振り向く。 
 
「雨が降りそうですね……。このまま何処かへ出かけてもいいですが、信二君は行きたい場所はありますか?」 
「あー、そうっすねぇ……うーん」 
 
 かなり中途半端な時間でもあるので、遠くに行くのは日を改めた方がいいだろう。しかし、夕飯を食べに行くには腹も減っていない。新宿の夜景なら毎晩見ているし……。それに先ほど都庁の展望台へは行ったばかりだ。考え込んでいた信二は、閃いたようにパッと顔を上げた。 
 
「そうだ! 蒼先輩、今からうちにきませんか?」 
「え?」 
「まだ一度も来た事ないでしょ。引っ越す前の、下見ついでに」 
「そういえばそうですね。では、そうしましょうか」 
 
 行く先が決まったので、そのまま二人で再び大通りへ出てタクシーを拾う。自宅最寄りの駅を告げて、発進しだしたタクシーの背もたれへと寄りかかる。姿勢を正したままの楠原が黙って外を見ているのを不思議に思い、信二はその横顔へと声をかけた。 
 
「蒼先輩? まだつかないっすよ? そんなに近くないんで」 
「ええ……。わかっています」 
「……どうかしたんっすか? 疲れました?」 
 
 楠原の顔を覗き込むと、楠原は曖昧な笑みを浮かべた。 
 
「いえ……。何だか、少し緊張しますね……」 
「え?」 
「信二君の自宅へは、初めて行くので……」 
「何言ってんっすか。来月には自分の家になるんだし」 
「ですが、今はまだ、違うでしょう?」 
「…………?」 
「恋人の自宅へ行くのが……初めてなんです」 
「……え?」 
 
 過去の楠原の交際関係がどんな物なのかは知らないが、そんな些細な事が未経験とは……。想像もしていなかった。そんな意外な部分も可愛く思えて、信二が苦笑していると、暫くして雨が降ってきた。車のワイパーが左右に揺れ、水滴を脇へと弾き飛ばす。 
 
 二十分程走ると、目的地の駅へと到着した。 
 二人で降りて、駅の屋根がある部分にひとまず立ち寄る。 
 
「結構降ってきましたね……。マンションまでタクシーにした方が良かったかな……」 
「でも、駅からの道も知っておきたいですし、歩いて行きましょう」 
「そうっすね。あ、んじゃそこのコンビニで傘買ってきます。ちょっと待ってて下さい」 
 
 そう言って信二が駆け出すと、楠原も後ろからついてくる。 
 
「あれっ!? 濡れますよ? 待っててって言ったのに」 
「信二君も濡れているでしょう。僕も、一緒に行きます」 
 
 信二が笑って楠原の手を引く。すぐ側のコンビニでビニール傘を二本買い、店を出た。 
 信二の自宅があるこの駅は、所謂普通の下町で特に目立った観光地や有名な店も無いため、住んでいる人間以外に利用客も多くない。昔ながらの商店街は、便利な大型スーパーが近くに出来たせいで以前ほどの活気はなく店もまばらだ。それでも、それなりに残っている店の中では何軒か利用している店もあった。 
 先導して歩く信二が、ちょうど見えてきたパン屋を指さす。 
 
「そこのパン屋、俺、結構行くんっすけど。美味しいっすよ」 
「沢山並んでいますね。信二君のお勧めは?」 
「そうっすねぇ……、食パンはいつも買ってます。あ! あとカレーパンがめちゃくちゃ美味しいです。三種類あって、一番辛い『地獄行き』がお勧めっす!」 
「地獄行き……。そんなに辛いんですか? ネーミングが……」 
「辛いもの平気ならいけると思いますけど、心配だったら中間の『地獄途中下車』がいいかも」 
「……どちらにせよ、地獄絡みですか」 
「ああ。確かにそうっすね。ちなみに通常のカレーパンは『野菜たっぷりカレーパン』って普通の名前です」 
 
 普通のカレーパンの名前が、至って何処にでもある物なのがおかしくて、楠原は小さく笑った。 
 
「今度、一緒に住むようになったら。休みの日、買いにきましょう」 
「ええ。楽しみにしています」 
 
 その後、焼き鳥屋や惣菜屋、ケーキ屋など、ちょうど夕飯の買い出しの時間でもあるせいか、それぞれの店で美味しそうな匂いがしている。一通り説明が終わった後、信二は何かに気付いたのか少し恥ずかしそうに頭を掻いた。 
 
「なんか俺、食いもんの店ばっか説明してますね」 
「そうですね。でも、食事は毎日のことで大切ですから。選択肢が多いに越したことはありません」 
「ですよね? まぁ、他の生活品は、だいたいコンビニとか通販で買っちゃうんで」 
 
 店で知り合った当時は、楠原とこんなことを話しながら地元を歩くなんて思ってもいなかった。見慣れない街並みを楠原は興味深そうに眺め、隣を歩く。 
 商店街を抜けると、大通りを挟んでむこうがわにマンションが見えてきた。 
 
「あそこのマンションです。駅から案外近いでしょ」 
「ええ」 
 
 信号を渡り、少し行った場所で楠原は足を止めた。 
 
「ここですか……?」 
 
 楠原がマンションを見上げて呟く。豪華なタワーマンションでもない、一般的なマンションなのでそう見栄えのする建物でもないが、楠原は少し感慨深そうに息を吐いた。 
 
「そうっすよ。ここの二階です」 
 
 先に行く信二の後に続き、二階のエレベーターを降りて自宅前に着く。玄関を開けて、傘を立てかけ、信二が靴を脱いで上がると、楠原は玄関の中で立ち竦んでいた。 
 初めて見る信二の自宅。 
 綺麗に片付けられているが、彼の生活があちこちで垣間見られる。 
 
 信二が部屋の明かりを付けると眩しいくらい明るくなったその部屋。そこへ足を踏み入れること。新しい生活を信二と共に送るという実感が今になってわいてくる。 
 何故か胸が一杯になった。 
 
「蒼先輩」 
 
 いつのまにかジャケットを脱いで玄関へと戻ってきていた信二に声をかけられ、楠原は我に返った。信二が楠原の手を取り、その掌に鍵を乗せる。 
 
「……これは」 
「少し早いっすけど、合い鍵作っておきました。持ってて下さい」 
「……僕の、ですか……」 
「――はい」 
 
 作りたてのピカピカと光る銀色の鍵の先には、小さな星形のチャームがついていた。握り込むと、冷たいはずなのに、温かさが掌から伝わってくるように感じる。 
 
 これからは、ここが帰る場所になるのだ。 
 そして、その場所には、信二がいてくれる。 
 かけがえのない安堵感を与えてくれる、明るくて、優しくて、愛しい存在。 
 信二は、段差で開いた身長差に腰を屈め、未だ玄関に立っている楠原の唇へそっとキスをし、耳元で囁く。 
 
「……予行練習、してみますか?」 
「――え?」 
 
 見上げる楠原の瞳に、愛しげに目を細めた信二がうつりこむ。 
 
 
「おかえりなさい。――蒼先輩」 
 
「……、……。ただいま」 
 
 
 忘れかけていた「ただいま」という言葉の響き。その言葉を受け取ってくれる大切な人。 
 こんなにも愛しい言葉だと、そう、彼が教えてくれる。 
 潤む視界をごまかすように俯いて部屋へ上がる。眩しいその一歩が、これからの始まり。 
 薄く重なり合う変化が、いつしかゆったりとした流れになるまで……。 
 
 
 楠原はそっと手を伸ばす。 
 振り向いた信二は、いつもと同じ温かさで、――楠原の手を包み込み、優しい声でその名を呼んだ。 
 
 
 
 
 
 ~fin~   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後書き 
『俺の男に手を出すな06 ダブルマスカレード』を最後までお読み頂き有難うございました。 
今までのシリーズの馴染みのある彼ではなく、脇役だった信二と、新しいキャラの楠原での物語だったので、連載開始時は受け入れて貰えるのかなぁ等と色々心配だったのですが……。 
終わってみれば、連載中にも沢山の拍手コメントや、楽しんで貰えている事を伝えて頂き、書くのも楽しかったです。三ヶ月強で一気に書き上げた連載でした。 
読んで下さった皆様の中で、何かワンシーンでも心に残る部分があれば幸いです。 
 
信二×楠原は、他の彼らにないタイプのCPだと思うので、私も新鮮な気持ちで書くことが出来ました。ほんのちょっぴり大人っぽくなった(と思いたい(笑))信二の成長や、楠原の信二と出会って変わっていく様子。乾いた都会の夜と反比例する湿った悪意など、そう言う物を全て孕んだ街での彼らの生き様のような物も見て下さると嬉しいです。 
 
タイトルにしたダブルマスカレードは二重仮面のような意味合いです。 
全ての仮面を取り去って大人は生きていけないけれど、愛する人の前ではせめて素の自分を見て欲しいなと……。楠原に限らず、信二も、晶達もまたそれは同じだと思います。 
 
シリーズでまたこの二人が主軸の話を書くかもしれません。その時は又見守ってやって下さいませ。 
長い物語、ご一緒して下さって有難うございました。 
読後、ご感想等があれば、送って下さると大変励みになります。 
 
 
 
2018/8/8 (あっ!8揃い(笑) 
 
聖樹 紫音