story 1


 

 
 
 ベッドの上にセットで並べられた服を前に、渋谷は真剣に悩んでいた。 
ほぼ無彩色の目の前の服はどれも似たり寄ったりで、別にどのセットを選んだとしても大差がないように思える。 
 だからこそ、余計にどれにするか迷う所でもあるのだが……。 
 
 渋谷は、その中から一着ずつ手に取ると「これで、いいかな……」と、誰に聞くでもなく呟いた。そんな自信のない言葉が口を衝くのは、ことプライベート、もっと狭めれば恋愛関係に限ってのことである。 
 
 自分でも、所謂恋愛偏差値という物が低い事はわかっている。 
 この歳までまともな恋愛をしてこなかったのだから、学ぶことも無い上に、自然に身につく事等もっとない。玖珂と付き合うようになってもう相当経つのに、出会った頃と何一つ成長していない気がして、渋谷は鏡の前で手に持った服をあてては、軽く溜め息をついた。 
 着ていく服選び、場に合わせた豊富な話題、堅苦しくならない会話術……、素直に自分の気持ちを伝えることだってそうだ。どれをとっても、未だに苦手である。 
 
 相手が玖珂じゃ無ければ、愛想を尽かされていてもおかしくないと思う。 
 時々思うのだ。 
 玖珂はいつでも優しい、その存在に何度も救われているし彼のことを本当に愛している。だけど、自分はどうだろうと。玖珂に対して与えられるものを何一つも持たない自分と居て、はたして玖珂は幸せなのか。 
 
 デートは楽しみだし、早く会いたい。だけど、そんな事を考え出すと、時々不安になってしまうのも本当の事だ。 
 愛されている実感が確かにあるからこそ、玖珂のような男には自分よりもっと相応しい相手がいるのではないかと思わざるを得ない。 
 
「……堂々巡りだな」 
 
 回答のない無意味な思考に呆れ、渋谷はベランダから窓の外に視線をやって呟いた。少なくとも、デート前に考えるような事ではない。そう思えば自嘲的な笑みがこぼれた。 
 恋愛にもマニュアルがあれば、徹夜してでも覚えるのに……。覚え立ての自由を苦痛に感じる自分の性格がとことん嫌になりそうだ。 
 
「よし……、考えるな、考えても仕方がない」 
 
 幾度か言い聞かせるように口にして、一度頭から追い出す。だって今日は、玖珂と会える日なのだから。 
 
 
 数時間後に迫った待ち合わせ時間。駅で落ち合った後、映画を見に行く約束をしていて、その後、玖珂の家に泊まりに行く予定なのだ。着て行く服さえ決まれば、髪型だって手櫛で整えれば済む。チケットを忘れぬよう鞄に入れて、もうこれで出かける準備は万端だ。 
 着替えを済ませ鞄を持つと、渋谷は玄関を勢いよく開けた。 
 
 外に出てみると爽やかな風が吹いていて、実に気候が良い。薄手の長袖シャツだけだと若干肌寒さも感じるが、ニットのロングカーディガンも持ってきているので寒くなったらそれを着ればいい。映画館はかなり空調を効かせていることも多いし……。 
 玖珂は、今日どんな服を着てくるのだろうか……。駅までの道、ぼんやりとそんな事を考えて歩いていると、昼間に地元を歩くのが久々な事にフと気付いた。 
 
 今日は平日の金曜日。 
 平日に休みが取れたのは、今月日曜返上で休日出勤をしたせいで、その振り替えとして一日休みを取ったからである。玖珂と休みを合わせ、こうしてデートの約束を取り付けることが出来た。 
 
 いつもと違う景色は渋谷にとっては新鮮だった。 
 ほとんどの店は出社の時間にはまだ開いていないし、会社帰りはいつも夜遅くになるので閉店している。だが今は違う。街ゆく人々のゆったり移動する様子、そんな空気を感じるのも久々である。 
 改めて見渡してみると、こんな店があったのかと思うカフェや、比較的最近出来た様子のケーキ屋などがあり、渋谷は一度足を止めてケーキ屋の店内の様子を窺った。 
 
――今度早く帰宅できた日に買って帰ってもいいか……。 
 
 玖珂が甘い物が好きならば土産に買っていく事もできるが、残念ながら玖珂は甘い物を好まない。なので、やはり一人の時に買って帰るのが無難な選択肢なのだろう。 
 再び歩き出し、陽射しの眩しさに僅かに目を細める。 
 
 目の前に最寄りの駅が見えて来た所で、渋谷の足は少し早足になった。 
 待ち合わせの時間にはかなり余裕を持って家を出て来たので急ぐ必要は無いのだが、本当にそれは無意識で……。 
 早く玖珂に会いたいという気持ちが足を速めてしまうのかもしれない。 
 
 改札を抜けて予定していた二本前の電車に乗り、待ち合わせの駅に着くまでに手持ちの鞄から小説を取り出した。今読みかけの物は推理物だが、以前は自分の推理した犯人があっているかどうかを早く知りたくて、帰宅してから寝るまでの時間や休日を使い夢中で読み進めていた。 
 しかし、最近は全然進まず、この小説だってたしか一月前に買った物なのに半分も進んでいない。 
 
 その原因はもちろん、空いている時間は玖珂と過ごすようになったからだ。ある意味、それは幸せな事でもある。 
 渋谷は挟んだ栞の位置がこの前から1ページしか進んでいないのを見て、何だかおかしくなり、心の中で小さく笑った。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 渋谷が家を出た一時間前。 
 玖珂の寝室では携帯のアラームが何度目かの音を鳴らしていた。 
 
 スヌーズにしているので、完全に止めるには二段階の作業が必要だ。 
 寝ぼけて一度止めてもこうしてしつこく鳴り響くように設定しているのは、朝に弱いからである。 
 
 カーテンの隙間から強い陽射しが入り込んでいて、瞼の裏側が赤く見える。玖珂は低く呻くと、枕元の携帯に手を掛け、眩しそうに片目を開けた。日中の陽射しは、カーテン越しだとしても夜のネオンで焼かれた目には少々眩しすぎる。 
 
 昨夜は深夜二時には帰宅し、今日に備え早めに寝る準備をしていたというのに……。ベッドに入った直後、店の方でトラブルがあって呼び出され、再び事務所に舞い戻る羽目になったのだ。 
 全ての事後処理とフォローを済ませ、二度目に帰宅する頃にはすっかり夜が明けていた。店では顔に出さないが、帰宅時一人になった途端に溜め息が漏れた。 
 
 起き出す街並みを横目に、早朝出勤の人波に逆らって帰路につく。そんな仕事終わり、身体に疲労感を覚えるようになったのは去年辺りからだっただろうか。数年前まではそんな事もなかったというのに。 
 空いた時間に店の近くのジムにも通っているし、体力の維持にはそれなりに気を遣っているつもりだが、回復時間が中々とれないのが致命傷なのかも知れない。 
 二度目の帰宅後は、一度寝るタイミングを損なわれたので中々寝付けず、仕方なく軽く酒を呷ってからベッドへ入った。結局寝たのは、ほんの数時間前だ。 
 気怠げな空気を纏ったまま起き上がると、玖珂は携帯のロックを解除しスヌーズの設定を止めた。 
 
「……もう、こんな時間か……」 
 
 朝に弱い事は今に始まったことではないし、慣れた生活の一部である。 
 しかし、今朝はいつにもまして眠気が去らなかった。というより、はっきり違いを感じるほどに頭が重い。傍らに脱いでおいてあったバスローブを羽織って洗面所へと向かいながらも、気を抜くと足が止まりそうだった。 
 
 セットされていないサラリと落ちてくる前髪を何度か掻き上げ、歯磨きなどの朝の支度を済ませる。 
 いつもならば、だいたいここまですれば頭もスッキリしてくるのだが……。やはり、どうもおかしい。玖珂は、洗面台の前でゆっくりと肩を回したあと、首の後ろに手を当て眉を寄せた。 
 
 寝起きだった先程の方がまだマシだったと思うほどに怠い。その原因を無意識に探りつつ考えを巡らせてみるが……。 
 熱もなさそうだし、喉が痛い等と言うこともない。咳だって出ていないので風邪ではないと思う。寝酒のせいにするには足りない量で、それも考えづらい。 
 そうなると、特に思い当たることもないのだ。 
 睡眠不足のせいしかないか……、考え着く先はそこしかなかった。滅多に体調不良に陥る事なんてないというのに、よりによって渋谷とデートの約束をしている日に重なるなど、日頃の行いが悪いのか。 
 
 心の何処かで「もう若くないんだから、無理すんなよ」と言っていた澪の言葉が思い出され、玖珂は苦い笑みを浮かべて軽く首を振った。 
 年寄り扱いをするなと返したが、まさに今のこの状況は歳のせいなのだろう。三十も後半にさしかかろうとしている今、二十代と同じような生活を続けていれば身体がついてこないのは当たり前だ。 
 
 玖珂は認めたくない気持ちのままリビングへ向かい、ソファへと深く腰掛ける。窓硝子のスモークをリモコンで調整し、重い頭を支えるように、こめかみに指を寄せた。煙草を一本抜き取って火を灯し、咥えたまましばし目を閉じる。 
 渋谷に気付かれるだろうか。 
 風邪ではなさそうなので感染す心配はないだろうが、気付かれた場合渋谷が心配してくるのは目に見えている。余計な心配を掛けるのは不本意だった。 
 
「……参ったな」 
 
 落ちそうな灰を灰皿で軽く落とし、玖珂は側にある携帯を手に取って時刻を確認した。まだ自宅にいる時間だろうから、断るなら今しかない。渋谷への断りの電話を入れようと電話帳からその名前を探しだす。指を携帯の脇へ置き、かけるかかけないかを迷っている間にもデジタルの時計はどんどん時間を刻んでいく。 
 
――……。 
 
 折角とれた渋谷の今日の休みは玖珂に合わせた物で、一緒に映画を見に行く約束をしているのだ。先週交わした会話を思い出してしまえば、指を中々通話ボタンへと動かせない。そのまま携帯の輪郭を辿り、玖珂はツと指を停止させた。 
 
 
 
『俺、来週の金曜、休みが取れたんです。玖珂さんも、金曜と土曜お休みなんですよね?』 
「俺は休みだが……、仕事はどうしたんだ? 大丈夫なのか?」 
 
 渋谷は、休日出勤の振り替えを金曜にあてたのだと説明した後、ずっと見たかった映画があるので、もし良かったら金曜日に一緒に観に行きませんかと続けた。 
 渋谷からデートの行く先を提案してくることは滅多にない。それだけ観たい映画なのだろうが、渋谷の方から誘ってくれたことが純粋に嬉しかった。 
 
「俺が、祐一朗の誘いを断ると思うかい?」 
『いえ……。あの、有難うございます。えぇと、じゃぁ、前売り券は俺の方で買っておきますね。上映期間がもうそろそろ終わるので、人が多くて良い席がとれるかわかりませんが……』 
「そうなのか? 随分と人気のある映画なんだな」 
『ええ。結構有名なんですよ』 
 
 渋谷はそう言って、映画のタイトルを伝えてきた。観たことは無いが確かに耳にした事は何度もある。 
 
「席は、俺はどこでもいいから、祐一朗が気にいった場所をとってくれて構わないよ。任せても良いかな」 
『はい、もちろん』 
「土曜も休みなんだったら、夜はうちに泊まっていけばいい。予定が無ければだが……」 
『予定はないです。……じゃぁ、……二日間、一緒に過ごせますね。あの……。すごく、楽しみです』 
「ああ、そうだな。俺も楽しみにしているよ。良い席が取れるといいね」 
『はい、この電話のあと早速ネットで取りますね』 
 
 
 
 今日を逃すと上映期間が終わってしまう可能性もあるし、何より、あんなに嬉しそうにしていた渋谷の誘いを、当日になって断るなんて出来るはずがない。 
 これは、無理をしてでもやはり予定通り出掛けた方がいいだろう。がっかりした渋谷の声を聞きたくなかった。 
 玖珂が電話するのを諦めて携帯をテーブルへ置き、煙草をもみ消す。指を離すと何の予兆もなく視界が揺れた。 
 
「……っ、」 
 
 二重に見える灰皿に一度目を擦り、そのまま目を覆って短く息を吐く。 
 すぐにそれは治まったが、入れ替わるように胃の辺りにさし込むような痛みが生じ、熱い感覚が襲ってくる。玖珂は息を詰めて痛みに顔を歪めた。 
 何度かゆっくり呼吸をして紛らわしてみるが、喉元まで浸食してくる不快感はあっという間に強力になる。あまりの気分の悪さに、これは吐くなと瞬時に察し、少し急いでトイレへと駆け込む。 
 額に浮かぶじっとりとした汗を手の甲で拭い、磨かれた真っ白な便器へと顔を向けると、特に嘔吐く事も無いまま開いた口から音もなく大量の吐瀉物が吐き出された。 
 
 それだけ体調が悪かったという事なのだろう。胃が痙攣する度に二度三度と背中が波打ち、昨夜摂った夕飯とおぼしき物が次々に溜まっている水を濁す。 
 流石に連続して吐き気の波が来ると苦しくなってきて、咳き込みながら眦に涙が浮かんだ。 
 一体何だというのか。 
 
 センサーに手を翳して何度も流しながら乱れた呼吸の合間に息を吸う。嘔吐した際の独特の匂いが余計に吐き気を誘発し、中々不快感が去らない。 
 玖珂は脱力したように床へと手をついて、胃を刺激しないように肩で忙しなく喘いだ。前を開けたままのバスローブが肩からずるりと滑り落ちる。乱れ少し濡れた髪をかきあげると、悪寒が走った。 
 
 何度か咳き込み、暫くして吐き気が治まると同時に目眩もすっと引いていく。やっと去ってくれたことに安堵して壁に背を預ければ、首筋を嫌な汗がツーっと伝った。 
 二日酔いでもないのに嘔吐するなんて久々すぎて自分でも驚いたが、嘔吐したことで幾分スッキリし、身体の怠さも楽になっている事に気付いた。 
 
「…………、はぁ、」 
 
 深呼吸をして胃の辺りを確認するように撫でる。吐き気も治まった事だし、このまま落ち着くなら問題は無いだろう。 
 昨日の夕食で、たまたま食べ合わせが悪かっただけなのかも知れない。何を食べたのだったか……、腑に落ちないまま玖珂はもう一度念入りに歯を磨き、汗を流すためにシャワールームへと足を踏み入れる。 
 
 ジェットバスには昨日入った時の湯が張ったままで、その水温はすっかり冷えていた。一人で入る時は時間も遅いのでジェットバスの機能を使わずに入ることが多いが、渋谷と一緒に入る時は必ず作動させる。珍しいからなのか、吹き出し口に手を当てちょっと楽しそうにしている渋谷を見たいからだ。 
 本人が意識していると言うだけあり、いつもの渋谷は落ち着いた行動が多い。そんな渋谷が一瞬見せる無邪気さ。浴室では眼鏡をしていないせいもあり少し幼いその顔は、何度見ても愛しさがつのる。 
 
 玖珂はその様子を思い出しつつ、シャワーのノズルを手に取った。熱い湯を身体に満遍なく掛けボディーソープに手を伸ばす。 
 復調したのが今だけであること。玖珂はまだその事を知る由も無かった。