story 4


 

 
 
 
 
 帰りは急ぎ足で帰ったので、エントランスに到着する頃には少し汗ばんでいた。 
 荷物を片手に持ち替えて、階数表示を押す。ほっと一息ついたのも束の間、エレベーターは一回も止まらず、すぐに上へと辿り着いた。 
 マンションの廊下にも蛍光灯が灯り、手摺りの向こう、三十階からの眺めも少しずつ夜景に近づいている。渋谷はしばし足を止めてその景色に見入っていた。 
 すでに点灯しているネオンも、あと数時間もすれば夜の闇に煌々と輝くのだろう。 
 
 玖珂のマンションは基本各階に六棟ずつあるが、最上階のここは二棟しかない。 
 そのせいで、エレベーターから降りても、ドアまでは少し距離があった。緩やかな風が、景色に見蕩れる渋谷の髪をさらい、視界の中でふわりと揺れる。動いていれば暑いくらいだが、汗も引き陽が落ちた今、肌に感じる風は流石に少し冷たい。渋谷はフと息を吐き、夜景から視線を剥がすと足を速め、ドアへと向かった。 
 
 玄関前で一度買ってきた物を降ろし、ポケットの鍵を探す。再び静かに開けて中へ入ると、出掛ける時に明かりをつけていかなかったせいで廊下は真っ暗だった。 
 玄関から渋谷が動くと、感知したフットライトが点灯式のごとく灯っていく。まるで追いかけてくるようなその明かりを辿ってキッチンへ向かい、ひとまず材料をテーブルと置いた。部屋は渋谷が出掛けた時のままで、玖珂が起きていないのだとわかる。 
 
――ちゃんと眠れているだろうか……。 
 
 念の為、もう一度玖珂の様子を見に行こうと、荷物をそのままに廊下へ戻った。 
 洗面所で手を洗い、寝室へ向かう。そっとあけた寝室の中、覗き込んで見るとあれから一時間程しか経っていないので玖珂の様子に変わりはなかった。 
 ぐっすり眠れているようだ。寝室のカーテンを閉めようかとも思ったが、余計な物音を立てて起こすといけないのでそのままにしておく。 
 
 キッチンへと戻ってテーブルから荷物を運ぶと、渋谷は材料を冷蔵庫の中へとしまっていった。 
 
「……あれ、……」 
 
 スポーツドリンクも水分補給に買ってきたが、一気に色々買いすぎてしまったせいで冷蔵庫はもう一杯である。それもそのはず、最初から半分は酒で埋まっていたのだから。 
 仕方がないので常温で平気そうな物はもう一度取り出し……。整理しながらそんな事を繰り返していると、それだけでかなり時間がかかってしまった。 
 ガサガサと音を立てながら軽く溜め息をつく。要領が悪いといえばいいのか、それとも手際が悪いのか、仕事と違って思う通りにいかないのは、慣れていないせいだろう。 
 
「……これで、よしっ、と……」 
 
 だいぶ材料が表に出ているが、ひとまず買ってきた物は片付け終えた。 
 メニューをもう一度ちゃんと予習しておこうと思い、渋谷は先程買ってきた本を手に取った。冷蔵庫に凭れながらページをめくる。腹が減っているせいか、どの料理も美味しそうに見える。が、中にはとんでもなく時間がかかりそうな物も多いのでそれらは作れそうにない。 
 
 当てを付けていたメニューのページ端をちょっとだけ折って目印を付ける。 
 材料が間違っていないことを確認しつつ、調味料の有無なども考えた。 
 何ページかそんな事を繰り返していると、静まりかえっていた家の中、廊下の方でガタッとドアが開く音がし、その直後に足音が止まった。 
 
「――!?」 
 
 急なそれに渋谷はびっくりして読んでいた本を床へと落下させた。 
 鍵はちゃんと閉めたはずだし、玖珂に何かあったのかと思うと心臓がドクンと跳ね上がる。 
 急いでキッチンを出て廊下に顔を出すと、目に飛び込んできたのは廊下で手摺りに掴まり座り込んでいる玖珂の姿だった。 
 
「玖珂さんっ!?」 
 
 慌てて駆け寄り、身体を支えながらも頭の中が真っ白になる。キッチンで冷蔵庫を開け閉めしていたせいなのか、寝室のドアが開いたことに一切気がつかなかった。 
 
「大丈夫ですか!?」 
 
 大丈夫じゃない事は見てわかるが、それ以外の言葉が咄嗟に思いつかない。トイレに行こうとしていたのだとしたら、気分が悪くなったのだろうか。 
 
「戻しそうですか? な、何か、受ける物を持ってきます。少し我慢してて下さいっ」 
 すぐに立ち上がろうとする渋谷の腕を玖珂が掴んで「違う違う」と慌てたように首を振って掌を見せた。 
「え……」 
 
 玖珂の掌には、大きなボタンがひとつ載せられていた。 
 
「大丈夫だ、気分が悪くなったわけじゃ無い。ボタンが取れたのを拾っていただけだから」 
「え……、ボタン……?」 
「そう、ほらコレ。滅多にパジャマなんて着ないからな……。ボタンがほつれているのに気が付かなかったよ」 
「…………」 
 
 どうやら、トイレに行こうとしていたのでは無くトイレから出て来た所だったらしい。 
 落ちたボタンを丁度拾おうとしているのを見て、倒れたのかと早とちりしただけだ。玖珂が言っているのは本当の事なのだろう。眠る前より顔色も良くなっていて、玖珂はすっかりいつも通りだった。 
 
「あ、あの……」 
 
 渋谷は、自分でも制御しきれない感情が一瞬にして体内を駆け巡ったのを感じ、俯いた顔を上げられずにいた。勘違いだとわかったのに、身体中がまだその事に気付いていない。喉が絞まり、ヒュッと音を立てる。怖いほどに心臓がドクドクいって、手が震える。 
 抑えつけようとすればするほどそれは強くなって、こめかみに汗が浮かぶのがわかった。渋谷はずれた眼鏡を直すことも忘れ、腰が抜けたように廊下へ座り込むと両手を床に着いた。 
 
「……祐一朗?」 
 
 座り込んでしまった渋谷に驚いたのは玖珂の方である。隣にしゃがんで渋谷の俯く顔を覗き込み腕を伸ばす。玖珂の温かな手が心配げに頬を滑った。 
 
「大丈夫か? ……どうしたんだ。泣いたりして……。そんなにビックリしたのか?」 
「……え、泣いてなんか、」 
 
 玖珂に言われるまで、自分が泣いていることにも気付かなかった。 
 渋谷が慌てて自らの手で涙を拭う。自分の涙が指先を濡らしていると理解した瞬間、益々動揺が深くなった。玖珂だってきっと戸惑っている。早く冷静にならないとと焦れば焦るほどどうしていいかわからず、渋谷は袖で顔を隠すと漏れそうになる嗚咽を必死で抑えた。 
 いくら驚いたからと言って大の大人が、「怖かった」なんて恥ずかしくて言えるわけがない。 
 
「す、すみません……。何でも無いんです。大丈夫です……。やだな、……俺、なにしてるんだろう……」 
 
 玖珂に余計な心配を掛けて、本当にどうしようもない。顔を上げないまま立ち上がろうとする渋谷の腕を玖珂がぐいと引き寄せた。 
 廊下に座り、壁に寄りかかった玖珂の胸に抱き込まれ、背中を撫でられる。 
 
「驚かせてすまなかったな」 
 
 パジャマ越しに玖珂の体温が感じられ、その胸からは規則正しい鼓動が伝わってくる。その音を聞いていると段々落ち着いてきてパニックで強張っていた身体の力が抜けていくのがわかった。 
 玖珂が倒れていると思った瞬間に感じた恐怖。それが溶け出すのと引き換えに、恥ずかしさがつのる。 
 勝手に勘違いをして、勝手に取り乱して……。挙げ句に泣くとか、ありえない。渋谷は玖珂から離れて顔を上げると、眼鏡を指で押し上げ視線を合わさないまま口を開いた。 
 
「こんな所に居たら身体が冷えます。寝室に戻りましょう」 
 
 そう言って、玖珂の身体を支えるように腕を伸ばす。玖珂はもう一度「大丈夫だから」と言ってゆっくり立ち上がると寝室へと戻った。ベッドに腰を下ろす玖珂を確認し、あまり顔を見られたくないので早々に部屋を出ようとする渋谷の背中に、引き留める玖珂の声がかかる。 
 
「祐一朗」 
 
 渋谷はドアノブに手を掛けたまま小さく呟いた。 
 
「…………、何ですか」 
「ちょっと、こっちにおいで」 
 
 少し躊躇った後、渋谷は俯いたまま玖珂の側へと戻った。隣へ座るように促され腰を下ろすと、玖珂が腕を伸ばして渋谷の涙の跡を指で拭う。 
 
「目元が赤くなってるぞ? 泣いたりするから」 
 優しい声でそういった後、「鼻も赤いな」と付け加えて渋谷の鼻先を指でツンとつついた。 
「……恥ずかしいんで、……あまり、見ないで下さい……」 
「どうして? そう言われると、ますます見たくなってしまうんだが」 
 
 少しおかしそうに笑う玖珂は、手に持ったままのボタンをベッドサイドへ置くと、一度ゆっくりと息を吐いた。 
 
「何処かへ出掛けていたのか?」 
「え?」 
「上着、さっきは着ていなかったなと思ってね」 
「……あ、……ええ」 
 
 そういえば、出掛ける際にカーティガンを羽織っていったまま脱ぐのを忘れていた。 
 
「……ちょっと、買い物に行っていたんです。料理の材料がなかったので」 
「一人で行ったのか。声をかけてくれれば、買い物ぐらい一緒に行ったのに」 
「いえ、大丈夫ですよ。道も覚えていたんで平気です。……食欲は無いと思いますが、後ででも食べられるように……何か作ろうかなって」 
 
 渋谷は一度言葉を句切って顔を上げると、玖珂の方へ心配そうに振り向いた。 
 
「どうですか? 吐き気の方は」 
 
 赤くなった鼻を恥ずかしそうに指で隠しながら、玖珂の様子を窺う。 
 
「ゆっくり休ませてもらったから、すっかり良くなったよ。もう、大丈夫そうだ」 
「ホントに? ……良かった。安心、……しました……、……」 
 
 先程は動揺して滲んだ涙が、今度は安堵で溢れそうになり語尾が震える。別に涙もろいわけでもないのに、玖珂と居るとコントロールが出来なくなるのはどうしてだろう。今日の自分は特におかしいと思う。我慢して鼻をこする渋谷を見つめると、玖珂はゆっくりと渋谷の方へ身体を向けた。 
 
「今日は、本当に心配をかけてすまなかったね。感謝しているよ。だが……祐一朗?」 
「はい、……?」 
 
 言葉の先が知りたくて玖珂と視線を合わせると、玖珂は愛おしげに眉を下げ渋谷の身体を引き寄せそっと抱き締めた。ふわりと感じるいつもの玖珂の匂い。 
 
「玖珂さん……?」 
「そんな、泣きそうな可愛い顔で見つめられては、……色々と、我慢が出来なくなりそうなんだが……」 
「……、っ」 
 
 玖珂は渋谷の耳元に顔を寄せると、耳朶に一度口付けて囁く。やっと落ち着いてきたと思ったのに……。こんな事をされたらまた……。渋谷は再び赤くなっているだろう頬に確かな熱を感じた。 
 
「――君の作ってくれる料理を食べたいけど、その為には、この腕を放さないといけないだろう? だけど、祐一朗を放したくなくなった。……困ったね。俺はどうしたらいいと思う?」 
 
 至近距離で響く、低く優しい声。回された長い腕に抱かれれば、驚く程の安堵感に堪えていた涙が一筋だけこぼれ落ちる。玖珂は多分それに気付いているけれど、何も言わなかった。 
 渋谷の艶やかな黒髪に指を絡ませ項を撫でると、首筋にも玖珂の口付けが落ちる。 
 
「祐一朗がいてくれたから、安心して休む事が出来た。傍にいて欲しいのは、俺も同じだよ……。独りじゃないというのは、いいものだね……」 
「……玖珂さん、……」 
 何度も優しく落ちる頬や瞼への口付け。涙の跡に玖珂の唇がそっと触れる。 
「今だってこうして、君に甘えてるんだ。病み上がりだからな、……もっと、沢山甘やかしてくれ」 
 
 玖珂はいつだって、こんなにも自分の欲しい言葉を惜しみなく与えてくれる。 
 渋谷はくすぐったさに僅かに身じろぎして玖珂の腕から身体を離すと、間近に迫る唇へと自身の唇を重ねながらそっと腕を掴んだ。 
 
 僅かに唇を開くと、玖珂の熱い舌が愛撫するようにすべりこんでくる。重なる唇はやわらかくて、優しく擦れ合う度に渋谷の身体の体温が上昇する。 
 頬に添えられた大きな掌、繰り返しながら、顎を持ち上げられれば口付けの角度が深さを増す。溺れるような感覚に思わず玖珂の腕を掴んでいた手にギュッと力が入った。 
 
「祐一朗……」 
 
 キスの合間に名を呼ばれるだけで、身体が疼く。 
 玖珂は最後に、渋谷の唇を軽く吸うと名残惜しそうに離れた。 
 
「今は、ここまでで我慢するとしようか」 
「……、……はい」 
 
 眼鏡の奥で揺れる渋谷の瞳から、先程までの不安の色が消えているのをそっと確認し、玖珂は笑みを浮かべて渋谷の髪を撫でた。ひんやりとした渋谷の髪が、指の間をするするとこぼれ落ちる。 
 
「あ、えぇと……、じゃぁ、俺、夕食を作って来ます。すぐには出来ないから、それまでもう少し休んでいて下さい」 
「もう、平気だ。俺も一緒に手伝おう」 
「え!? ダメですよ。まだ完全に復調したわけじゃないんですから。大人しく寝ていて下さい」 
「そう言われてもなぁ……。もう眠くないんだが……。だめか?」 
「眠くなくても、横になっていないとダメです。俺の言うこと聞いてくれないと、…………泣きますよ?」 
 
 渋谷が少し笑ってそう言うと、玖珂は降参とでも言うように首を振って苦笑した。 
 
「それはいけないね。仕方ない。大人しくしてるよ」 
 
 半ば強引に、残念そうな玖珂をベッドへ押し込み、渋谷は寝室を後にする。 
 
 
 
 キッチンへ戻るとレシピの本が落ちていて、そういえば確認途中だったのを思い出した。 
 体調が良くなったようなので、ご飯はお粥にするとしても、おかずは2品ぐらいあっても良さそうだ。 
 早速本をキッチンの脇へと置き、買ってきたばかりの材料を取り出して並べる。 
 
「あ、そうだ……」 
 
 調理に取りかかる前に、キッチン脇にあるクローゼットへ向かう。 中には玖珂が何着も買ってきてしまう沢山のエプロンがかかっていた。色とりどりのそれは、渋谷が料理を作ってくれる礼にと玖珂が買ってきたもので、いつのまにか増えてしまった物だ。 
 こんなにあっても着きれないからと一度だけ遠回しに断ったこともあったが、玖珂は「祐一朗に似合いそうな物を選ぶのが楽しいから」と聞いてくれない。買ってくる回数は減らしたようだが、いつのまにかまた一着増えているようだ。 
 
――いつかこのエプロンに相応しいぐらい、上手くなれればいいけど……。 
 
 腕前に凡そ似つかわしくない高級ブランドのそれを一着手に取って首を通し、背中で紐を結びながら渋谷は一人苦笑した。 
 キッチンに戻って手を洗い、早速材料を刻み始める。すり下ろせと書いている物はその通りにして下ごしらえを進めていく。 
 かけている鍋の蓋が沸騰した湯のせいでカタカタと音を立て、渋谷が慌てて蓋を取ると一気に眼鏡のレンズが曇って視界が真っ白になった。 
 
 暫くすると玖珂の寝室からテレビの音が聞こえてくる。眠くないと言っていたので暇つぶしに観ているのだろう。遠くで聞こえるその音に、何だか安心する。 
 まな板の脇のステンレス製のバットに並ぶ刻まれた食材。オレンジ、グリーン、ブラウン、日頃使われていないキッチンも、今夜だけは鮮やかに彩られていた。 
 
 次々と準備を進めながら、だいぶ包丁さばきもマシになってきたなと思う。暖色のシーリングライトに照らされる手元には、今切ったばかりの材料。そう深く考えずとも、均等に刻まれた野菜類が成長の証しだ。 
 包丁に張り付く食材を指で取り除き、渋谷は本をチラッと見ると手を止めた。 
 
 一人暮らしをしてから自炊もしているし、今までも料理はそれなりにしてきた。 
 しかしそれは、食を支える以外の意味を持たなかった。 
 肥えた舌を持っているわけでもないし、料理に関して特別に興味があったわけでもない。だけど今は、こうして料理をしていること自体が幸せだと感じるようになった。 
 玖珂と付き合うようになって、食を支える以外の意味を知ったからだ。それと、もう一つの理由。唯一自分が玖珂にしてあげられる事だったから……。 
 作りながら、食べてくれる人を想い浮かべれば、それだけで楽しい。美味しく出来上がって喜んで貰えたらと思うと、作る過程にだって気合いが入るというものだ。 
 
 ボールの重さを差し引いたクッキングスケールに調味料を入れ、レシピと1グラムもずれぬよう計算する。目分量でさくさく進められるほどにはまだ自信も無いから、計量は慎重に。 
 
――あ、……ちょっとオーバーした……。 
 
 いったりきたりと揺れ動いて定まらない数字を前に、足したり引いたりしながら漸く全てを測り終えると、渋谷は鍋の中に合わせた調味料を投入する。 
 換気扇に吸い込まれる湯気からは、ほんのりと醤油と出汁の香りがする。 
 刻んだ野菜を投入すると、沸騰した湯の中で、それはさっと鮮やかに色を濃くした。