story 5


 

 
 結局一時間以上かかってしまったが、出来上がった料理は本の写真と遜色ない。味見もしてみたが、やや薄目ではあるが丁度良いと思う。我ながら上出来だと嬉しくなり、渋谷は鍋を覗き込んで一人満足気に笑みを浮かべた。 
 火を一番弱い火力に落とし、玖珂の寝室に行って声をかける。 
 
「玖珂さん、準備が出来ましたが。食べられそうですか?」 
 
 ドアを開けて顔を出すと、玖珂は起きており「ああ、もちろん」と渋谷へ返事をする。 
 
「じゃぁ、用意して持ってきますね」 
 そのまま出て行こうとすると玖珂の言葉が続いた。 
「俺がそっちへ行ってもいいぞ?」 
「いえ、大丈夫です。持ってきますよ」 
「そう? それじゃ、待ってるよ」 
 
 戻って来る時の為にドアを大きく開き、留め具でそのまま止めると、渋谷はキッチンへと戻った。 
 少なめによそった作ったばかりのメニューをトレイにのせて、箸とスプーン、水を汲んでそれも一緒に置く。 
 トレイを手に持って寝室に戻ると、暇だったのか玖珂はベッドの背もたれに寄りかかって寝室のテレビを再び見ていた。しかし、渋谷が入ってくるとすぐに電源を落とす。 
 
「つけててもいいのに」 
 
 言いながらトレイを置く場所をざっと片付けてそこへと持ってきた物を静かに置く。 
 
「いや、特に観たくてつけていたわけじゃないから、いいんだよ」 
「そうですか」 
「……凄いね、薬膳料理みたいだな」 
 
 サイドテーブルへ置かれたトレイを見て玖珂が感心している。 
 
「一応、消化の良い物でと思って、本を見て作ってみたんです。無理しないで、食べられるだけでいいですから」 
 
 そう言って隣のスツールへと腰を下ろすと渋谷はトレイを差し出した。 
 
「ご飯は白粥で味がないので、おかずと一緒に食べて下さい」 
「わかったよ。……祐一朗は、どうするんだ?」 
「俺も後で同じ物を食べますよ。二人分作ってあるので」 
「そうか。じゃぁ、先にいただくとしようか」 
「はい、結構熱いので気をつけて下さいね」 
 
 渋谷がスプーンを渡すと、玖珂は渋谷の顔を見てにっこり笑った。渡そうとしたスプーンが、玖珂の手で渋谷へと戻される。 
 
「折角だから食べさせてもらおうかな」 
「……、……え?」 
「甘えてもいいんだろう? 最初の一口だけでいい」 
「そ、それは。……えぇと、俺が玖珂さんに、ですよね?」 
 
 二人きりなのに、他に誰がいるというのか。わかっているのにそんな言葉が思わず口をつく。玖珂は「ああ、そうだよ」と苦笑している。 
 滅多にこんな事は無いのだから、それぐらいはお安いご用だとすぐに引き受けたいが、恥ずかしさが先に立ってしまう。渋谷は眼鏡を手で何度か押し上げて暫くかたまり。息を吐くと意を決したように熱い茶碗に手を伸ばす。ゆらゆらと湯気が立ち上る粥はかなり熱そうだった。ちょっとだけスツールを引いて近づけ、小声で呟く渋谷の声。 
 
「いいですよ。で、でもちょっと冷まさないと……」 
 
 玖珂にじっと見つめらていると、余計に恥ずかしくなってくる。粥も冷まさないといけないが、自分のこのドキドキした気持ちも同時に冷まさないといけない。 
 渋谷は粥をスプーンですくうと、ふぅと息を吹きかけた。 
 
一度、二度、三度……四度。 
 
 スプーン上の粥からは、すっかり湯気が消えた。 
 繰り返している内に、玖珂が我慢出来ないとでも言うように小さく笑う。 
 
「祐一朗、俺はそんなに猫舌じゃ無いぞ?」 
「えっ、あ、……そ、そうですよね……。すみません。えっと、どうぞ」 
 
 だいぶ冷めた粥を玖珂の口元に持っていくと、玖珂がそれを食べる。そういえばさっき、粥だけでは味がないのでおかずと一緒に食べてくれと自分から言ったはずなのに、玖珂に食べさせたのは味のない粥だけだ。 
 慌てておかずの器に持ちかえると、玖珂は優しく微笑んで口を開いた。 
 
「もう自分で食べるから安心していいよ。有難う。お粥は美味しく出来てるね」 
「そ、そうですか、やわらかすぎるかなと思ってたけど、良かったです……」 
「祐一朗も一緒に持ってきて、ここで食べたらどうだ? 後で一人で食べるのはつまらないだろう」 
「……。それもそうですね。じゃぁ、そうしようかな」 
 
 渋谷が自分の分を用意しに部屋を出て行ったのをみて玖珂は再び思い出し笑いをした。先程、食べさせて欲しいといったあとの、渋谷の様子。本人も気付いているだろうが、顔が赤くなっており、だけどそれを断らず、何度も冷ましているその表情は真剣だった。あまり『可愛い』と男に対して言うのはよくないのかとも思うが、他に言いようがないほど玖珂から見る渋谷は可愛かった。 
 
 目の前に置かれたトレイを改めて見てみると、粥の他に蕪のそぼろあんかけのような物と、大根おろしで煮た何か……。箸で割ってみると鶏の挽き肉で作った肉団子のようだ。小さく刻んだ野菜が混ぜ込まれていて、豆腐でもまざっているのかとても柔らかい。温かく薄味のそれらは、疲れた身体にも優しそうだ。 
 玖珂のために考えて作ったであろうその献立に気持ちまで温かくなった。 
 
 自分の分を用意して戻ってきた渋谷に、それぞれの料理の感想を伝えると、渋谷はとても嬉しそうに笑みを浮かべた。 
 
「こんなに短期間で腕を上げたなんて、祐一朗は料理のセンスが普通の人より秀でているんじゃないか?」 
「そんな、褒めすぎですよ。これだって本の通りに作っただけですから。でも……、玖珂さんが食べられるようになって本当に良かった……」 
「ああ、全くだ。朝はどうなるかと思ったけどね、祐一朗のおかげだな」 
「いえ……俺は別に何も……」 
 
 渋谷は自分の分のおかずに箸を付け口に運ぶ。ちらっと玖珂の様子を見ると、玖珂も美味しそうに食べてくれている。少し赤みが戻った頬に安堵し作って良かったと思う。 
 
 玖珂の寝室のカーテンはあけたままで、そこにはリビングからずっと続く夜景が見える。新宿から一駅でもある初台の玖珂のマンションからは、ホテルのスイートルーム並みの展望が望めるのだ。 
 本来暗いはずの夜は、眩い程の光で彩られどこまでも続く。 
 
 玖珂の住む世界は、本当ならば自分と交わらない物だ。 
 玖珂は料理上手だと褒めてくれるけれど、きっと今まで交際してきた相手はもっと上手で、誰が見ても玖珂と並んで目を引くような恋人だったのかもしれない。 
 
 知りもしない過去の相手に、興味がある……、渋谷は窓の外の夜景からゆっくり視線を戻すと食事を続ける玖珂へと訊ねた。聞いてしまえば、その興味が自分の中で嫉妬に変わることもわかっていたのに。 
 
「……玖珂さんは、今まで体調を崩した時とかどうしていたんですか? 料理は……、」 
 
 作れないですよね、と続けようとして、それは失礼だと思い渋谷は先の言葉をとめる。玖珂は「作れない、って続くんだろう?」と苦笑している。 
 
「すみません……。でも、その時お付き合いしていた方が看病とかしてくれたんですよね。やっぱり、こういうのは女性の方が得意なのかもしれないなって」 
 
 玖珂はその言葉を受けて考え込むようにトレイへ箸を置いた。聞かれたくなかったのか、そう思っていると、玖珂は続けて「うーん……」と顎に手を当てる。 
 
「あ、いや。別にいいんです……。詮索するような真似をしてすみません……」 
「いや、そうじゃないんだが……」 
「え?」 
「そういえば、看病とかは子供の頃以外してもらった事がないかもしれないと思ってね」 
 
 予想外の言葉に渋谷が唖然とする。 
 
「一度もですか?」 
「多分。そもそも、体調が悪くて寝込んでいる姿を見せたくないから、相手には言わないしな。……まぁ、祐一朗には怒られたわけだが、そこは反省している」 
 
 玖珂は少し笑い、渋谷の方を見る。 
 
「君が初めてだよ。俺の看病をするのは、ね」 
「……初めて……」 
「実際こうして、やさしく看病されるのもいいもんだなと今は感じているよ」 
「玖珂さん……、あの……、もし、今後またこういう事態になったら、ちゃんと俺に教えて下さいね?」 
「ん?」 
「料理ぐらいは……。少し遅くはなりますが、会社帰りでも作りに来られるし……。薬だって、開いている薬局を探して買って来れます。あと……、心配ぐらいさせて欲しいから」 
「ああ、……そうだね。今度は祐一朗に、助けてくれって電話することにしよう。頼りにしているよ」 
「はい、約束ですよ」 
「ああ、約束だ」 
 
 渋谷が空いた方の手で指切りのジェスチャーをして笑みを浮かべる。玖珂も右手の小指をあげるとニッコリとそれに返した。 
 
 
 
 どれもとても美味しかったと言って、玖珂は全部を残さずに食べてくれた。 
 念の為に胃薬を飲んでおいた方が良いと言う渋谷のアドバイスに従って、家にあった薬を飲み、玖珂は片付けを手伝った後、リビングのソファへと腰を下ろした。 
 
 玖珂が徐に煙草を手に取るのを見て、そういえば今日は会ってから一度も吸っている姿を見ていないと気付く。体調が悪い時、特に吐き気があると、煙草も吸いたくならないのだろう。そう思うと、すっかりいつも通りになったという事が嬉しかった。 
 渋谷が夕方まで読んでいた小説がそのままにしてあり、玖珂はそれを手に取って、栞の位置はそのままに煙草を咥えながらページをめくる。何ページか流し読みをしたあと、書店のカバー奥のタイトルをのぞいた。 
 
「すみません。置きっぱなしにしていて」 
 
 渋谷もソファに来て腰を下ろす。 
 
「それは構わないが。これって、最近出た小説なのか?」 
「はい。ああ、でも……確か、ハードカバーで以前出ていた物の文庫化だったかも……」 
「だからかな。昔一度読んだ事があるような気がするんだが」 
「本当ですか!?」 
「多分、ね。今は読書する事も少なくなったが、学生の頃はよく小説を読んでいたんだ。この作者の物は、他の物も一度は読んでいると思うぞ」 
「そうだったんですね。何だか嬉しいです」 
 
 ミステリー三大巨匠と言われている中の一人でもあるこの小説の作者は、当然もう亡くなっているし古典ミステリーといってもいい。だがしかし、未だに根強い人気で様々な書籍が翻訳されて今も市場に出回っているのだ。 
 意外な所で話が弾み、暫くその作家や他の小説の事を話し時間が過ぎていく。 
 
「ミスタークレッセントのラストが、未だに衝撃的で忘れられないね。どこか読み飛ばしたのかと思ったぐらいだよ」 
「ああ……、そうですね。まさか犯人の彼女が別人だったとは気付きませんでした」 
「本当にな、産まれたばかりの子供でも、母親が違ったら気付くと思うんだが、まぁ……、そこはフィクションだからね」 
 
 話のラストを二人で思い浮かべ、渋谷は「本当ですね」と苦笑した。玖珂の言っている部分は読んだ当時自分も腑に落ちなかった物で、同じ事を玖珂も感じていたというのが少しおかしい。まだ知り合っていないお互いの過去の中での共通点。 
 
「あ、……」 
 
 何かを思い出したように渋谷が声を漏らす。玖珂が「どうした?」と言うように首を傾げて渋谷の顔を見た。 
 
「いえ、そういえば。身内のことなんですが、妹に今度、子供が生まれるんですよ」 
 
 玖珂が直前に言った生まれたばかりの子供というフレーズで思いだしたのだ。 
 
「本当か、それはおめでたいね。もう結婚して二年になるもんな……。祐一朗も叔父さんになるわけだ」 
 
 妹のことは、出会った時から話していたし、結婚式の当日も夜に玖珂と会っていたせいか、時々「元気にしているか?」と話を振られることもある。あえて言う必要もない事なのかもしれないが、玖珂には教えておきたいと思った。 
 
「そう、なりますね」 
「いつ出産予定なんだ?」 
「来月って聞いています。先日実家に戻ったら、もう妹が帰省していて、騒がしいのなんのって……。でも、幸せそうだったので、本当に良かったなって思って」 
「そうだね、家族が増えるのは幸せな事だ。それに、子供は可愛いからな。祐一朗も、沢山可愛がってあげるといい。大きくなった時に、その子に楽しい想い出が増えるように」 
「はい。玖珂さんは、子供好きそうですよね」 
「祐一朗は苦手か?」 
「苦手ってわけではないですけど……」 
「子供は何をしてても可愛いよ。弟が生まれた時、世の中にこんなに可愛い物があるんだなって思ったもんだ。自分もまだ子供だったから、おかしな話だが……。あまりに構い過ぎて、母親に怒られたぐらいだよ」 
 
 渋谷は「玖珂さんらしいですね」と言って小さく笑った。 
 
「俺も可愛いなとは思うんですけど、接し方がよくわからなくて……」 
「叔父さん一年生なんだから、妹さんの子供と一緒に色々覚えていけばいいんじゃないか? 難しく考えなくても、ちゃんと愛情を持って接していれば、子供だってわかってくれる」 
「そうですね。来月までに心の準備をしておかないと」 
 
 苦笑する渋谷に玖珂が優しく微笑む。 
 リビングに置かれているソファは数人が腰掛けられる大きさにも関わらず、玖珂は腰を上げると渋谷の隣へと移動してその肩を抱いた。 
 妹の事を本気で愛していた過去の自分はもういない。 
 今となっては、どういう感情だったのかさえ虚ろな記憶でしか無い。異性に向ける愛情から、家族へ向ける愛情へと自然に変化できたのは、玖珂と出会ったからなのだろう。 
 
 視線をずらせば、肩に置かれた玖珂の手がうつりこむ。長くて少し煙草の匂いが染みついた指先、男らしい大きな手、その手で掴んできたであろう玖珂の今の全て。 
 優しさだけでは到底上り詰めることが出来ない地位を知れば、そんな玖珂の中にも、厳しさや野心が存在するのだと感じる事ができる。 
 
 玖珂が煙草を手に取り火を点ける。 
 ゆるりと吐き出された紫煙が窓硝子一面に映り込む夜景の上に、淡いホワイトのベールをかける。夜の街で生きてきた玖珂は、今渋谷が見ている景色の全てを手に入れているように見えた。 
 
「祐一朗も吸うか?」 
 煙草を指に挟んだまま、玖珂が顔を覗き込む。 
「そうですね、じゃぁ、一本だけ頂きます」 
 
 火を点けて貰った煙草を一緒に吸う。自分には見せない職場での玖珂の姿を一度は見てみたいと思った。自分の知らない玖珂の顔は、今も多分、沢山ある。 
 
 ジリジリと上ってくる火、肺深くを満たすメントール。からいような苦いような、だけど口に残るのは確かな甘さ、余韻のあるその味がまるで自分達のようだと……。 
 
 煙草を吸い終わる頃には、気付けば、時刻はもう九時をまわっていた。 
 
「そろそろ風呂へ入るか、祐一朗は泊まっていけるんだろう?」 
「はい、あ、でも……。一人の方がゆっくり休めるんだったら、今日は帰りますけど」 
「そんな事はないよ。今一人にされたら……。寂しくて、俺も泣くかも知れないぞ?」 
「もう、……嘘ばっかり」 
 
 先程の渋谷の言い種を真似て玖珂が冗談を言って笑う。 
 だけど、もう一日傍にいられると思うととても嬉しかった。