Last cigarette


 

 
 
「玖珂さん、起きて下さい」 
 
 夢の中で渋谷の声がする。玖珂は浮上する意識の中でその声に導かれるように目を覚ました。 
 手を翳し瞼を開けると、カーテンをあける渋谷の姿が目に入った。起き抜けの頭の中で、まるで夢の続きのようだと思ってしまう。 
 まだ体温で温もりのあるベッドの中で腕を隣へと伸ばすと、そこにはすっかり冷たくなったシーツがあった。その事で、渋谷はだいぶ前にもう起きていたことがわかる。 
 
「……おはよう」 
 
 気怠げな声で挨拶をすると、渋谷は少し笑って眉を下げた。 
 
「おはようございます」 
 
 機械的な電子音ではない優しい声。昨日の不調が嘘のように今朝の目覚めは心地よい物だった。 
 
「随分早く起きたんだな」言いながら身体を起こし、「もっとゆっくりでも良かったんじゃないか?」と続ける。 
 朝起こしてくれるのは助かる。しかし、目覚めて二人で微睡む時間もたまにはあってもいい気がするが、いつも渋谷が先に起きてしまうので中々そういう機会にも恵まれない事を残念に思っているのも本当だ。 
 
 玖珂が苦笑いをしていると、渋谷は玖珂がそんな事を考えているとも知らずにベッドサイドへと腰をおろして至近距離で顔を覗き込んだ。添えられた手は一度額へ置かれ、熱がないのを確認し終えるとスッと離れた。 
 
「安心したか?」 
「はい」 
 
 玖珂が微笑んで、落ちてくる前髪を掻き上げる。 
 指の間からこぼれる自分の髪から、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがする。昨夜渋谷と共に眠った際、彼の髪からも同じ香りがした。泊まった日ならではの細やかな幸せを感じる瞬間だ。 
 すっかり眠りに落ちている渋谷の髪を幾度か指で撫で、その寝顔に暫く見惚れていた。そんな眠る前の事を思い浮かべていると、渋谷が不思議そうに視線を送ってくる。 
 
「もう少し寝たいですか?」 
「いや、もう起きるよ。そうだな……、おはようのキスをしてくれたら、目も覚めるんだが」 
 
 いつものように冗談でそう返すと、渋谷は少し微笑んですっと近寄り、玖珂の唇へと軽く口付けを落とした。 
 
「……」 
 
 しょっちゅうこの手の冗談を言う玖珂に、いつもなら困惑する事の多い渋谷である。あっさりとキスをしてきたことに驚き、玖珂は寝起きで幾分ボーッとする頭のまま何度か瞬きをした。 
 
「驚いたね、本当にしてくれるとは。俺はまだ、夢の中なのかな」 
 
 わざと戸惑った素振りを見せる玖珂に、渋谷は小声で囁いた。 
 
「……俺も……、する事にしたんです……」 
「……ん?」 
「いえ……、あの……。玖珂さんが、喜んでくれること……。今の俺が出来る事なら、何でもしようって……」 
「……祐一朗」 
 
 恥じらう渋谷がいなくなったかと言えばそうではなく、言いながら渋谷は頬を赤く染めて俯いた。渋谷なりに色々考えて出した答えなのだろう。 
 何でも一生懸命な所が可愛いところでもあり、渋谷の魅力の一つでもある。今のキス一つで精一杯な様子の渋谷を見て、玖珂はやわらかに目を細めた。 
 
「嬉しいね、それじゃ、これからはどんどんリクエストさせて貰うよ。覚悟は出来てるかな?」 
 
 渋谷の腕を引っ張り、淡く染まる頬に口付けると、渋谷は「お手柔らかに……」と言った後、何度か視線を巡らせた。 
 フと気付くと寝室のドアは開けたままになっていて、淹れ立ての珈琲の香りがキッチンから漂っている。 
 ドアの方をちらっと見た玖珂に、渋谷は「あ、」と気付いたように玖珂の腕から離れ、ベッドから腰を上げた。 
 
「朝食の用意をしたんです。……体調はどうですか? 食べられそうだったら」 
「お陰様で、いつもより元気なぐらいだよ。じゃぁ、顔を洗ってくるから朝食を食べようか」 
「はい。俺、準備しておきますね」 
「有難う、すぐに行くよ」 
 
 先に部屋を出て行く渋谷の後ろ姿を眺めた後、ベッドから出て一度窓際へと寄る。すっきりと晴れ渡った空は、かなり遠くのビル群までをくっきりと映し出している。部屋を出る前に加湿器のスイッチを切り、洗面へと向かった。 
 
 
 支度を済ませてダイニングへ足を踏み入れると、数センチのずれもないほど丁寧に朝食がセットされていた。こんなにきちんとした朝食を摂るのも久し振りである。時間が無いわけでは無いが、いつもは珈琲とパンのみで軽く済ませてしまうからだ。 
 スクランブルエッグが添えられた皿にはちゃんとサラダもあり、パンもただ焼いたわけではなさそうである。 
 自分の分を最後に運んできた渋谷は、向かい側に腰を下ろすと「裏は見ないで下さい」と恥ずかしそうに呟いた。 
 
「……裏?」 
 
 何かおかしな所があるのだろうか。一見上手に出来ているそれに玖珂が首を傾げる。見ないでくれと言われれば、余計に見たくなるのが人間の性である。 
 玖珂はフォークを添えてそっとパンを皿から浮かせた。 
 慌てたような渋谷が「あ、ダメって言ってるじゃないですか」と少し不満そうな表情をする。どれだけ凄い事になっているのかと思ったが、パンの裏は少し焦げているだけだった。 
 
「何もおかしい所はないんじゃないか? 美味しそうだよ」 
「いえ……少し焦げちゃってて、でも、俺のはもっと焦げてるので交換もしてあげられないんですけど」 
 
 渋谷がそう言って、自分の分のパンをひっくり返すと、そちらはかなり焦げていた。 
 
「パンは多少焦げている方がおいしいんだよ。知らなかったか?」 
「これは、多少じゃないです」 
「うーん。じゃぁ言い方を変えよう。俺は焦げているパンが好きなんだ。覚えておいてくれ」 
 
 笑って玖珂がそう言うと、渋谷も釣られて小さく笑う。 
 
「砂糖をいれていない、甘くないフレンチトーストなんです。今度はもっと上手に作ります」 
 
 甘い物が苦手な玖珂に合わせてそうした事は容易に想像がつく。ほんのり香る甘い匂いはミルクのせいなのだろう。フレンチトーストがのっている水色の皿は初めて見る物だった。こうして出ているのだからキッチンにあった食器なのだろうが、記憶に無い。キッチンだけは、住んでいる玖珂本人よりも、渋谷の方が今は詳しいのかも知れない。 
 
「祐一朗、悪いが冷蔵庫からドレッシングを持ってきてくれ」 
 
 一種類ドレッシングは出されていたが、玖珂の言葉に渋谷は「わかりました」とすぐに席を立つ。その瞬間、玖珂は渋谷の物と皿を素早く交換した。 
 
「それじゃ、いただくとしようかな」 
 
 戻ってくる渋谷を待たず、玖珂は裏の焦げたフレンチトーストに口を付けた。わざとドレッシングを取りに行かせた玖珂の思惑に気づき、渋谷が「玖珂さん!?」と声を上げる。焦げていようが、渋谷が一生懸命作ってくれたというスパイスだけでどれも美味しく感じる。 
 実際、ミルクと卵の浸みこんだフレンチトーストは舌先で溶けるように優しい味がした。 
 
「美味しいよ。言っただろう? 俺は焦げたパンが好きなんだって」 
「もう、またそんな事言って。玖珂さんの言う事はどれが本当なのかわからないから困ります」 
「人をペテン師みたいに言わないでくれ。少なくとも、祐一朗への口説き文句は全部本心だよ」 
 
 渋谷も「いただきます」と言って朝食に手を付ける。 
 
「それは……わかってますけど……」 
「だったら、それでいいじゃないか」 
 
 テーブルには今渋谷が持ってきたドレッシングと最初から出ていた物と二本が並んでいる。しかし、玖珂は基本的に野菜には何もかけないのだ。 
 若い頃は気にせずマヨネーズでも何でもかけていたが、最近は身体のことも考えて自宅では極力薄味にするようにしている。 
 ちらっと渋谷の方をうかがうと、渋谷もまた何もかけずにサラダを食べていた。出されているドレッシングは蓋を開けられることの無いままで……、「このままでは賞味期限が切れそうだな」と何だかおかしくなる。 
 
「祐一朗も、前からサラダはそのまま食べるんだったか?」 
「いえ、最近になってですね。外食は別ですけど。塩分は控えめにした方が身体に良いので……、っておじさんみたいな話ですね、これじゃ」 
 
 渋谷が苦笑する。渋谷がドレッシングをかけない理由は玖珂と同じだった。しかし渋谷が自分のことを「おじさん」と言うのは、全く似合わなくて苦笑いが浮かぶ。 
 
「俺達も、もうあまり若くないのを実感したよ。祐一朗が「おじさん」なんて言うから」 
「だって、本当の事じゃないですか」 
 
 まだこうして笑い話で済ませられるだけマシなのかもしれない。四十を過ぎれば、本当に若くない。 
 玖珂は半熟で柔らかなスクランブルエッグを口に運びながら、つい先日のことをふと思い出していた。さすがにショックを受けたその事は、今思い出しても溜め息が出そうになる。 
 
「どうかしましたか?」 
 
 思いだして眉を少し顰める玖珂に渋谷が首を傾げる。 
 
「いや、少し前の話なんだが……。店に行く前に買い物をしていこうと思って、スーパーへ寄ったんだよ」 
「はい」 
「そこで、丁度横に制服姿の男の子がいたんだ。……高校生ぐらいだと思うが。その子が足下に転がってた野菜を拾って、棚へと戻していてね。随分きちんとした子だなとは俺も思ったんだが……」 
「そうですね、今時の子にしては珍しいかも」 
「そこまでは別にどうという話でもないんだが、直後に後ろにいた女性に声をかけられてね」 
「え? 玖珂さんが?」 
「そうだ。俺の事を父親だと勘違いしていたらしい。「よく躾の出来たお子さんですね」って」 
「……それは」 
「もう高校生の息子がいても違和感がないと思われたんだな。まぁ、俺が十八の時に子供が生まれていればそれぐらいの子供がいてもおかしくはないが……」 
 
 少しガッカリしている玖珂に、渋谷は笑いを我慢しながら返事をする。 
 
「それで、玖珂さんはどう答えたんですか?」 
「なんで笑うんだ。これでも、少し落ち込んだんだぞ?」 
「すみません、だって」 
「勿論、父親ではないと軽く訂正しておいたけどね」 
「そうですよね」 
「大学の頃から、弟と一緒にいると父親と間違えられたりで、もう慣れてはいるが……」 
「みんな、そんなによく見てないんですよきっと。玖珂さんは雰囲気が落ち着いているから余計に「父親」感が出ちゃってるのかも知れないですね」 
「そうなのかな。……あまり嬉しくないが、まぁいいとしよう」 
 
 残りの朝食を食べて、最後のコーヒーを味わっていると、渋谷が優しい笑みを浮かべて玖珂を見つめていた。熱いコーヒーを口に含んだままその視線へと目を合わせ問うように頷く。 
 
「俺は、そんな落ち着いた玖珂さんが好きです。「父親」を通り越して、「おじぃちゃん」と間違われるようになっても……。ずっと……」 
「随分と先の話だね。祐一朗がそう言ってくれるなら、安心して歳を取れそうだ」 
「ええ」 
 
 軽く返したが、渋谷の言葉が今までと違う事には気付いていた。「好き」「愛してる」そんな気持ちを伝える言葉は幾度となく聞いた。 
 しかし、渋谷は覚えている限りでは、ずっと先の二人の話をする事は未だかつてなかった。口で言うのは簡単な事だ。素直な言葉しか口にしない渋谷だからこそ、その言葉には意味があって……。 
 
 昨夜の会話を思いだす。 
 いつか来るかも知れない、互いの熱が冷める瞬間。 
 表だっては見せなくても、ずっとその『時』が来るのを不安に思いながら過ごしてきたのだろう。 
 そんな渋谷が、未来の自分達を信じた言葉を口にしたのは彼の中で確実に何かが変わった証拠である。そう思うと、どんな言葉より嬉しく感じ、玖珂は温かくなった気持ちのまま渋谷を見つめた。  
 
 
 少し遅めの朝食を終え、渋谷と共に食器をキッチンへと運ぶ。 
 食器を洗うのは玖珂の役目だ。料理を作れないぶん、後片付けは自分がやることにしている。 
 食器洗浄機が最初からキッチンには備え付けられていたが、せめてもの御礼のつもりなのでそこは丁寧に手で洗っている。 
 水を流しっぱなしで一枚ずつ洗う慣れない手つきの玖珂を、渋谷はカウンター越しにちょっとだけおかしそうに見つめていた。 
 最後の皿を洗い終えて水道を止めると、玖珂はタオルで手を拭きながら渋谷へと振り向く。 
 
「今日は何時までいられるんだ?」 
「あ、ええと……。三時ぐらいには帰ります」 
「そんなに早く? 何か用事でも思い出したのか?」 
「はい。昨夜話した妹のことなんですけど。来月持っていく出産祝いを買いに行こうと思ってて……。正直何を買えば良いのかわからないんですけど……。今度いつゆっくり休みが取れるかわからないので、今日行ってしまおうかなって」 
「なるほど……。出産祝いか。初めてのお孫さんで、祐一朗のご両親も色々買っているだろうから、余計に迷うところだな」 
「そうなんですよね……」 
 
 渋谷は少し難しい顔をして、考え込むように腕を組んだ。 
 
「その手の売り場へ行けば店員がアドバイスしてくれるんじゃないか? 贈り物が重なった場合を見越して、いくつかあってもいいような物を選べばいい」 
「なるほど。……そうしようかな」 
「俺も暇だから、送りがてら一緒に行こうか」 
「え? でも……、ベビー用品の売り場ですよ? 玖珂さんが見ても面白くないんじゃないですか?」 
 
 別にベビー用品が見たくて一緒に行くと言っているわけではないのに、渋谷はそこには気付かないのが少しおかしい。 
 
「大丈夫、俺は祐一朗を見ていれば、それだけで満足だからね」 
「…………、えっ」 
「ダメかな?」 
「ダメ……じゃないです。……えっと、じゃぁ、付き合って下さい」 
「勿論。二時ぐらいにここを出て、少しゆっくりしよう。昨日はどこも見ずに帰ってきてしまったからな」 
「たまにはそういう日もありますよ」 
「そうだな。昨夜は可愛い祐一朗も見られた事だし、悪いことばかりじゃ無かったが」 
「またっ、……可愛いって言うの、いつになったらやめてくれるんですか?」 
 
 渋谷が照れたように頬をかきながら長い睫を伏せる。何年経っても出会った頃と変わらない。すぐに淡く染まる白い肌も、艶やかな漆黒の髪も、意志の強そうなくっきりとした瞳も。 
 玖珂は、俯く渋谷の隣へと並ぶと、カウンターへともたれ掛かりその肩にそっと腕を回した。 
 
「祐一朗が「可愛い」って言っても、恥ずかしがらなくなったらやめるよ。だから、君次第だな」 
「酷いですよ。……そうならないのをわかってて、言ってますよね」 
「さぁ、どうかな」 
 
 玖珂は抱いた肩を引き寄せて、一度頬に口付けるとするりと腕を解いた。 
 まだ出掛けるまでに時間はたっぷりある。 
 
 リビングのソファへ移動して煙草を咥えると、ゆっくりと吐き出した。 
 休日にこうして二人で居る事が出来る安心感が心地よい。最近は特にそう感じるようになった。 
 いつのまにか隣に座っている渋谷が、「一本貰っても良いですか?」と笑みを浮かべる。玖珂は煙草のパッケージを開くと一本を取りだし、渋谷の唇へとそっと挟み込んだ。 
 手を翳し火を点けてやると、渋谷が一度煙草を吸い込む。 
 
「やっぱり、玖珂さんの煙草はきついですね」 
「そう?」 
 
 最近は、渋谷も自分で煙草を買っているらしく時々貰う事がある。吸わない日の方が多いから中々なくならないのだと、前に笑っていた。確かに渋谷の煙草は軽い物である。「同じ銘柄にしたらどうだ」と一度提案した事があるが、その時渋谷はこう言った。 
 
――それじゃ、余計に思い出すじゃないですか、と。 
 
 彼にとっての喫煙は、玖珂を近くに感じられる手段のひとつでもあり、特別な意味があるものなのだ。本物に近ければそれだけ感情が揺れる。それを抑えているのだろう。 
 生活リズムが真逆の生活を送る渋谷とは、頻繁に会うこともできない。会えない時間の寂しさを紛らわす術。それは渋谷が自然に身につけてしまったものだ。玖珂を困らせる我が儘を言うわけでもない渋谷が、胸に抱く寂寥感。それを消してやれる方法が一つだけあった。 
 玖珂は吸い終わった煙草を灰皿でもみ消すと、渋谷の方へと振り向いた。 
 
「祐一朗は、今日は煙草は持っているのか?」 
「はい。鞄にはありますけど」 
「一本貰っても良いかな」 
「え? ……はい。じゃぁ持ってきますね」 
 
 目の前の玖珂の煙草はまだ何本かパッケージに残っている。渋谷は少し疑問に思いながらも鞄を持ってくると、煙草を取り出し玖珂へと渡した。 
 渋谷の煙草は案の定残っていた。しかし、想像していたよりは遙かに少ない量だ。その意味が差す事は……。 
 
「これは、いつ買ったんだ?」 
 
 一本抜き出して口に咥えながら渋谷へと問う。 
 
「どうだったかな……一週間ぐらい前だと思いますけど……。最近は、ちょっと吸う日が多くて、減っている方だと思うんですけど。あ、でも、もしかして変な味になってたりしますか?」 
「いや、そんな事は無いよ」 
 
 玖珂の行動の意味がわからず、渋谷は自分の煙草のパッケージを手に取ると日付を確認するように視線を向けた。 
 
「祐一朗」 
 
 玖珂の声で、渋谷が顔を上げる。玖珂はすぐに言葉を返さず、短くなっていく煙草を幾度か吸い込んだ。口から外して、静かに囁く。 
 
「この煙草を、早く減らす方法を教えようか?」 
「方法? ……俺が、もっと頻繁に吸えばいいって事ですか?」 
 
 玖珂は黙って一度首を振った。 
 最後になった渋谷の煙草を肺の奥深くに一度溜めてそっと吐き出す。煙草を持っていない方の手で渋谷の頬に手を添えると、玖珂はやさしげに目を細め、指先で渋谷の項を撫でた。柔らかな毛先が玖珂の指先を滑る。 
 
「俺が、毎日吸うんだよ」 
「…………え」 
 
 渋谷が驚いたように目を丸くする。「あの……」と言いかけた渋谷の唇をキスで塞ぐと、渋谷からは吸い慣れた自分の煙草の味がした。 
 
「――一緒に暮らそうか」 
 
 口付けの終わりに添えられた、予想もしていなかった言葉。渋谷は濡れた唇に一度手をやり、声にならない言葉を喉にとめて息をのんだ。 
 玖珂の端正な横顔に視線を向け、驚きと嬉しさに胸の内を震わせていると、玖珂が耳元で低く囁く。 
 
「そうしたら俺は、君に毎朝、初恋をする。この先何年経ってもだ。どうかな?」 
「…………玖珂さん」 
 
 昼に近くなった陽射しが真っ直ぐに差し込んで二人の足下を明るく照らす。 
 ソファの下で渋谷の裸足の指先にぎゅっと力が入る。もう一度「玖珂さん」と震えて出された言葉は途中で詰まって、言葉の代わりに渋谷の頬を透明な滴がこぼれ落ちた。 
 玖珂の膝に置かれた手に、渋谷はそっと自分の手を重ねてゆっくりと息を吐く。 
 
 返事を待つ必要が無いことは、互いにわかっていた。 
 渋谷が鼻を擦って、涙声で小さく笑う。 
 
「俺……、もっと煙草が減らなくなりそうな気がしてきました」 
 
――だってもう、一人で煙草を吸う必要がなくなるから。 
 
 玖珂はその言葉に微笑んで窓の外へ視線を向けた。もうすぐ冬が終わり春が来る。渋谷と過ごす三年目の春だ。 
 
 櫻が咲いたら、ゆっくり二人で花見に行くのも良い。 
 手を繋いだら、君はまた恥ずかしそうに頬を染めるのだろうか。 
 
 そんな事を思い浮かべ、玖珂は隣に座る愛しい恋人の横顔を見る。視線に気付いて振り向いた渋谷は、幸せそうにレンズ越しの目を細める。その笑顔は、差し込む陽射しより眩しくて、まるで早めに咲き始めた櫻の花のようだった。 
 玖珂は渋谷の眼鏡を外すと肩を抱き寄せ、その視界を塞ぐように口付けを落とした。重ねられた手、渋谷の指先が温もりを確かめるように動く。 
 
 絡めた指先の行き着く場所に、何かがあるわけではない。 
 貴方に、君に、――してあげたい恋隣。 
 そこには自分を待つ、愛しい人がいた。 
 
 
 
fin 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後書き 
 
皆様、こんばんは。 
『貴方にしてあげたい恋(コト)隣』最後までお付き合い下さいまして、有難うございます。 
本編の『俺の言い訳彼の理由』改訂版の連載終了から四年とちょっと。 
改訂前の連載からすると相当な年数が経過しております。 
久し振りに彼ら二人の話を腰を据えて書けて楽しかったです。 
昔と変わらず、拙宅きっての甘さのあるCPですが、今回も楽しんで頂けたら幸いです。三年目を目前にし、漸く一緒に暮らすところまできました(笑) 
作中でも書きましたが、生活リズムの合わない二人の同棲は色々と問題も起きるでしょうけれど、そういった先の話もまた、書いて行けたらと思います。 
いつもオーナーや兄としての登場が多い玖珂ですが、今回は全編通して恋人を大切に思う一人の男として書きました。格好良いばかりの物語ではありませんでしたのでがっかりされたなんて方もいらっしゃるかもしれません……。 
しかし、「好き」や「守りたい」等の恋愛当初の感情のみでは、やはり恋愛関係は続かないと思います。互いにちゃんと話し合い、すれ違いを修正出来るような大人の恋愛をえがいたつもりです。 
渋谷もまた、考え方や玖珂との関係性を見つめ直し。相手にしてあげたいことの答えを見つけられたのではないかなと。 
読後、ご感想等があれば、聞かせて下さると大変励みになります。 
これからも渋谷と玖珂の事を見守ってやって下さいね。 
 
2019/2/18 聖樹 紫音