100%


 

 
 晶と話し込んでいて、すっかり親子丼の事を忘れていたが、階段を上り楠原の待つ自宅ドアへ近寄るとすでに甘塩っぱいような親子丼の匂いがしていた。懐かしいようなホッとするような、優しい匂いだ。 
 インターホンを鳴らして暫くすると、ガチャリとドアが開かれる。髪を緩く結わいた楠原が「おかえりなさい」といって柔らかに微笑む光景が目に飛び込んだ。 
「し・あ・わ・せ」この四文字以外の言葉が見つからない。ここは天国? いや、自宅。等と自分でダジャレを考えつつ足をすりあわせて靴を脱ぐ。 
 
 信二はにやけそうになる顔を引き締めて「ただいま」と返すと後ろ手でドアを閉めて上がり込んだ。楠原と一緒に住むようになって数え切れないほどの「ただいま」を経験しているが、未だに新鮮で嬉しい瞬間でもある。 
 
 帰宅してから着替えないままでいたのか、楠原はYシャツ姿だった。しかし、ネクタイは外しており、いつもよりラフに開けた首元から真っ白な鎖骨が見え隠れしている。 
 思わずじっと見つめてしまう信二に、楠原は少し笑うと人差し指を信二の唇へとあてた。細い指先はちょっと冷たくて、気持ちいい。 
 
「そんなに熱い視線を送られても、まだ、お相手はできませんよ? 料理中なので」 
 
 言葉とは裏腹に、誘うような視線を絡ませて楠原は微笑んだ。「や、そういう意味じゃ……なくも……ないっすけど」信二は二重否定を口にしつつ、視線を外すと手に持っていた荷物と鞄を床へと置いた。 
 
 今までは、帰宅しても一人だった家に待っている人がいるという事。 
 楠原以上に、その事を毎日実感して噛みしめているのは信二の方だった。すぐに触れられる場所に大切な人がいる安心感は何物にも代えがたい。 
 とりあえず荷物を隣の部屋へと運んで手洗いをする。 
 
「信二君、ご飯はどうしますか?」 
 
 楠原が顔を覗かせ、部屋に戻っている信二に微笑む。 
 
「勿論、食いますよ。――でも、……その前に、っと」 
 
 立ち上がって入り口付近にいた楠原を引き寄せると、一度額へと口付ける。こんなに密着しても尚、数センチの隙間がじれったい。その存在を肌に感じながら、信二は甘えたように何度か楠原の唇を啄んだ。 
 
「どうでした? 病院は」 
「問題ありませんよ。定期的な通院ですから、いつも通りです。ああ、……でも」 
「……ん?」 
 
 楠原を緩く抱き締めたまま、長い髪を指で触りながら言葉を待つ。 
 
「薬を、弱い物に替えて貰いました」 
「え? 発作の時の、ですか?」 
「いえ、睡眠薬の方です。……信二君と暮らすようになって、入眠剤を飲まない日がここ最近増えたでしょう? 先生もいい傾向だって、減薬に向けての調整に、同意してくださったんですよ」 
「ほんとですか? ……良かった。マジで……」 
 
 信二が嬉しそうに笑みを浮かべると、腕に力を込める。 
 楠原と暮らすようになってやっと一年弱、目に見えない部分でも、こうして少しずつ良い方向へむかえば、ずっと先には薬に頼らない生活を、楠原が取り戻せるかも知れない。その支えになれていることが何よりも嬉しい。楠原の中に残る目に見えない傷ごと包み込むような笑顔が信二に浮かんだ。 
 
「一歩前進っすね。俺もすげぇ嬉しいっす」 
 
 目を細める信二に、楠原も微笑んで「ええ」と返す。ほのかに香る楠原の香水が鼻孔を掠める。料理中なのでダメだと最初から釘を刺されたにも関わらず、信二は堪らず、楠原の首筋を撫でながらもう一度その唇をそっと塞いだ。 
 
 柔らかな楠原の唇を割って、味わうように舌を差し入れる。つるりとした歯の表面を撫でて舌で弄れば、楠原は鼻から抜けたような吐息を漏らし、長い睫をあげると信二の瞳を見つめた。 
 濡れたような深い色に魅入られてしまうのはいつものこと。楠原が強く拒絶することは一度も無くて、毎回調子に乗ってしまいそうな自分を諫めるのに苦労している。いっそ、抵抗してくれればその場で我にかえるのに、なんて責任転嫁してしまいそうな始末だ。 
 
「あぁ……、まずいっすね……」 
 信二は唇を離すと、一度咳払いをし、楠原を腕から離した。 
――我慢我慢!! 
 
 このまま押し倒してその先へ突入してしまう確率はあっという間に90%を超えている。それを無理矢理に止めたのだ。当然のように張り詰めた部分が下着の中で窮屈そうに硬くなっていた。別に欲求不満なんかではないというのに。 
 
 こういう場合は、母親の顔を思い浮かべると急速に萎えるので何とか思い出そうとしてみるが、何故かこんな時に限って目の前の楠原の顔しか思い浮かばない。脳内で一人葛藤を続ける信二を焚きつけるように、楠原はフッと薄い笑みを浮かべた。 
 
「って、ちょ。蒼先輩!? 何触って」 
 
 必死に抑えているというのに、あろうことか楠原の手はそっと信二の膨らむ部分に手を伸ばすと怪しい手つきで触ってくる。これじゃ確率が100%、いや、150%になってしまう。 
 楠原の手をギュッと握って阻止すると、楠原は残念そうに肩を竦めた。 
 
「いけませんか?」 
「いけません! 蒼先輩が言ったんでしょ!? 料理中だからダメだって」 
「そういえば、そうでしたね」 
 
 しれっとそんな事を言って、楠原はおかしそうに笑いを堪えている。 
 明らかにからかわれているのがわかるが、身体が反応しまくりなのでまるで格好がつかない。確かに歳は楠原の方が上である。いや、歳だけではない、店での地位も、ほかにも色々。楠原より勝っているのは若さと体力と身長だけだ。それでも、されるがままというのも少し面白くない。 
 
「では、準備に戻るとしましょう」 
 
 信二に背中を向けた途端、楠原の身体は、側にある壁へと強引に押しつけられた。信二がニヤリとして先程の楠原と同じように、彼の下肢へと腕を伸ばす。勝っている部分総動員での仕返しである。 
 
「あんまり俺を虐めると、俺も本気出しますよ? いいんっすか?」 
 
 わざと低く落とした声で耳元へと囁く。楠原は一度唾を飲みこむと、信二の顔を見上げた。全く臆しているように見えないが、ほんのり頬が染まっているのがわかる。楠原は強く押しつけられた肩へと自分の手を添えると視線を流した。ゾクゾクするような色気を放つ声音で吐息と共に囁く。 
 
「信二君の本気ですか? 非常に魅力的なお誘いですね……。今夜が楽しみです」 
 
 ニッコリと浮かんだ笑みを見たと思った瞬間、楠原はいとも簡単に信二の腕から抜けるとキッチンへと戻っていた。信二はヤレヤレと肩を落とす。最初からわかっていたけれど、流石に楠原は一筋縄ではいかない相手だ。勃ちあがった物を隠すようにシャツを被せると、信二は一人小さく笑った。 
 
 
 
 キッチンへと戻った楠原が、用意したままにしてあったボールに傍らの卵を割っていれる。 
「……ぁ」 
 透明な白身に小さく浮かぶ卵の殻。5回に1回はこうして殻が混入してしまう。こんな初歩的な部分でさえ100%成功できないとは情けない気分になる。 
 一度手を止め、頬に手を添える。信二に触れられた頬が熱い。彼の大きな手で壁に押しつけられた瞬間、からかっているはずだった自分の身体もまた本気になりかけていた事。 
 
「……ほんと、困りましたね」 
 
 独り言のように呟いて、入ってしまった卵の殻を箸で摘まむと流しへと捨てる。ふと隣の部屋を見ると、着替えを済ませた信二が、買ってきた紙袋を片付けている所だった。 
 溶いた卵を流し入れてコンロの火を点ける。下味を付けて火を通し済みの鶏肉に、ゆっくり絡みつく卵を揺すりながら頭の中でカウントする。楠原は少しだけ菜箸で具を揺り動かすと火を止めた。親子丼が上手に出来上がった事にほっとする。 
 
「もう、食べられますか? 用意出来ましたけど」 
 
 隣の部屋の信二へと声をかけると「今行きます」と信二が振り向かずに返事をする。 
 炊きたてのご飯をどんぶりへと盛って、その上に先程の親子丼の具をのせる。 
 食卓へと並べられたサラダと親子丼。 
 温かな湯気をのぼらせるそれを目の前にして、席に着いた信二は箸を持つと手を合わせた。 
 
「美味しそうっすね! いただきます」 
 
 続いて楠原も、いただきますと言い箸を取る。向かい合って誰かと共にとる食事。もう慣れはしたけれど、ふとした瞬間未だに感じる違和感がなくなったわけではない。自分がこんなに普通の幸せな生活を送っているなんて、一年前までは考えた事も無かったからだ。 
 誰かの許しが必要なわけでもないのに、許されていいのかどうかを考えてしまう。漠然とした不安感に似た何か……。 
 箸をとめている楠原に、信二が少し心配そうに声をかけた。 
 
「どうかしました?」 
「え、……あ。いえ、なんでもありません」 
「ダメっすよ?」 
「なにがですか?」 
「今一瞬、変な事考えてたでしょ」 
 
 信二は、大雑把な性格に見えて、その実かなり鋭く相手の気持ちを読んでくる。彼の真っ直ぐな思いがそうさせているのか、見透かされているようで楠原は何度か目を瞬かせた。 
 
「変な事なんて考えていませんよ。信二君は心配性ですね」 
「俺、別に他の人にはそんなに心配性じゃ無いっすよ。蒼先輩限定です」 
 
 信二がそう言って笑みを浮かべる。出会った頃から惹かれていた優しげな目元、自分を安心させるようにしばし見つめてくる視線に包まれれば、先程の違和感はすっと消えていった。 
 それが信二にも伝わったのか、信二は「大丈夫。俺が、傍にいるでしょ」と子供に言うような口調で告げると、話題を変えた。 
 
 晶との買い物の様子を面白おかしく話すものだから、楠原もその話を聞いて釣られて笑う。今日一緒に行けなかったのが非常に残念である。 
 信二のどんぶりはかなり大きめの物に最初からしてあるが、あっという間に全部を平らげると、信二はおかわりをよそって再び腰を下ろした。気持ちが良いほどの食べっぷりである。 
 自分が作った料理を、こんなに美味しそうに食べてくれる事は本当に幸せな事で……。楠原は、向かいに座る信二を見て目を細めた。 
 
「蒼先輩は? ホワイトデーのお返し、何買ったんっすか?」 
「僕も、オーナーと同じく色々ですね。お客様に合わせて何種類か選びました」 
「へぇ、やっぱそうなんっすね。あれ、でも、買った物は?」 
 
 信二が一通り辺りを見渡してみるが、そんなに大量の荷物はどこにもなかった。 
 
「かなりの量だったので、店へ送るように全て手配してきましたが、どうしてですか?」 
「いや、晶先輩とそこも一緒っすね」 
 
 楠原が「そうですか」と苦笑する。この差だ……。 
 この差が店のトップと一ホストの違いなのだ。来年は、自分も店へ送るぐらいの買い物をしたいものである。互いに食事が全部終わる頃、楠原はふと箸をおき「信二君」と声をかけ……、何か言いたいことがあるのか、一度言葉を言い淀んだ。 
 
「……ん?? なんっすか?」 
 
 最後にとりわけたサラダを食べて完食すると、信二は皿を置いて楠原の方へと視線を向けた。 
 
「いえ……あの。先に謝っておきます。すみません」 
「え!?」 
「いい加減、親子丼も飽きているのではないかと思って……」 
 
 聞こうと思っていたが聞けなかったこと。今日の親子丼もとても美味しくて、もう聞かなくてもいいかと思っていた矢先に本人から出された言葉だ。もしかして、そういう素振りを見せてしまったのかと信二は慌てたように返した。 
 
「なんで蒼先輩が謝るんっすか。めっちゃ美味しいっすよ!」 
「……そうですか?」 
「っていうか。親子丼が得意料理なんっすよね? 俺、全然飽きて無いっすよ」 
「…………」 
 
 黙り込んでしまった楠原が、申し訳なさそうにしていることで、本人も親子丼しか出さない事を気にしているのを初めて知った。 
 
「そろそろ他の料理も作れるようにと、たまに練習しているのですが……美味しく出来た事が無くて、とても信二君に食べて貰えるような料理じゃないんですよ……。いつも同じ物ですみません」 
「……え」 
 
 親子丼しか作らないのではなく、作れなかったのだ。 
 それ以上に、全く料理が出来ない楠原が、自分の為に他の料理も練習していたなんて今初めて聞いた。そういえば、ゴミの日に時々量が多いなと思う事が何度かあったが、楠原が部屋を整理したりしているのだろうと深く考えていなかったのだ。 
 多分、自分が同伴などで早くに家を出た後、時間を作って練習していたのだろう。 
 そう思うと胸がキュッとなった。今食べた親子丼。これはもう楠原の愛の結晶なのではないかと思う。少しでも、親子丼が続くことに疑問を持ってしまった自分が恥ずかしくなった。 
 
「そうだったんっすね。いいじゃないっすか、親子丼だけでも。蒼先輩が俺のために頑張ってくれたんだって思うと、毎日親子丼でも良いかなとか、思っちゃいそうです」 
 
 楠原が小さく笑う。 
 
「信二君さえよかったら、今度、色々教えてくれますか?」 
「もちろん!! って、俺もそんなにレパートリー多く無いっすけど、一緒に作りましょう!」 
「はい。宜しくお願いします」 
 
 「ごちそうさま」と互いに箸を皿へと重ねると、流し台へと運ぶ。信二の洗った食器を、楠原が乾いた布巾で拭きながら片付けていると、信二が洗剤で泡のついたスポンジを何度か握りしめ、楠原へと振り向いた。 
 
「でも、どうして親子丼にしたんっすか? 最初に選んだメニュー」 
「そんなに深い意味はありませんが……。子供の頃、食べた記憶があって。その時の光景が温かい記憶と結びついているからかも知れません……」 
 
 楠原は自分でも無意識に、その温かさをずっと求めていたのだろう。信二との生活で、それを探している途中なのだ。口に僅かに残る親子丼の甘さが、信二の中でふんわりと甘さを増す。楠原の幼少時のことなんて一度も聞いたことはないが、記憶に残るほど幸せな時間があったこと、それを再現しようとする気持ち。 
 自らの幸せを放棄して生きてきた楠原が、一生懸命前向きになろうとしている。そう感じれば愛しさは一層増した。 
 
「今度の休み、いっぱい買い物して色々な料理一緒に作りましょう。失敗しても、俺が残さず食うんで、安心して良いっすよ」 
「丸焦げになったりしても、ですか?」 
 楠原がおかしそうに笑う。 
「その場合は、飲みこむしかないっすね。でも、生焼けよりよくないっすか? 腹壊さなくてすむし」 
「ポジティブな考え方ですね」 
「でしょ」 
 
 信二も一緒に笑う。次の休みは少し先だが、今から楽しみである。綺麗に片付けた流し台を軽く磨き、信二は手を洗うと水道を止めた。伏せてある二組の食器、色違いのお揃いであるそれがこれからも自分達に使われることを喜んでいるように見える。 
 
 一段落ついたので、信二は食卓の上に投げてあった煙草の箱を引き寄せると中から一本取り出して咥える。食後の一服は格別だ。深く吸い込んで吐き出しながら、そういえば、楠原にもホワイトデーのお返しを買った事を思いだした。 
 
「あ、そうだ! ちょっと待ってて下さい」 
 
 信二は吸いかけの煙草を咥えたまま隣の部屋へ行くと、一つの包みを持って戻ってきた。楠原の掌に載せると「僕にですか?」と楠原が嬉しそうな表情を浮かべる。 
 
「はい、ホワイトデーのお返しです。気に入ってくれるかわかんないっすけど……」 
「お返しなんて気にしなくて良かったのに……。でも、有難うございます。開けてもいいですか?」 
「もちろん、どうぞ」 
 
 楠原が包みを持ったまま居間へと移動し腰を下ろす。綺麗に包装された包みを解くと、中にはネクタイピンが入っていた。マザーオブパールをあしらったシンプルなプラチナのタイバーである。ややもすると冷たい印象のプラチナの光が、パール部分の柔らかさで緩和され上品に仕上がっていた。 
 指先でそれを取り出すと、楠原は隣にいる信二へと笑みを浮かべた。 
 
「とても素敵ですね。パール系の装飾が施されている物はひとつも持っていないので、嬉しいです。どのネクタイにも合わせやすそうですし」 
「良かった、気に入って貰えて。色々店で見たんっすけど、蒼先輩アクセサリー系ダメだから迷ったんっすよ」 
「ネクタイピンは必ず付けるので、好きなアイテムなんですよ。気持ちが引き締まる気がして。……ですが、これ、タイバーですよね? タイクリップの方が多かったんじゃないですか?」 
「いや、タイクリップはネクタイの生地痛むし。それに、蒼先輩、タイバーしかしてないの知ってたんで」 
 
 楠原が目を丸くする。ネクタイピンの種類で一番オーソドックスな物はタイクリップであり、市場にも多く出回っている。しかし、昔からタイクリップはあまり好まず、ずっとタイバーの方を使っているのだ。ぱっと見にはわからないそれをちゃんと信二が気付いていたことに楠原は正直驚いていた。 
 
「……よく気付いていましたね。ちょっと驚きました」 
「蒼先輩の事は何でも知りたいんで、ちゃんとチェックしてるんっすよ」 
 
 バレンタインデーには、楠原から信二へチョコレートとネクタイを贈ったのだ。信二の性格を表すようなビタミンカラーのネクタイは、イタリア製の物で、信二はそれ以来気に入ってよく店に出るときに締めてくれている。 
 
「早速明日、店へ出る時に使わせて頂きますね。信二君が傍にいるようで、ドキドキしてしまいそうです」 
「本物も傍にいるの忘れないで下さいよ? まぁ、店じゃあまり話せ無いっすけど」 
 
 楠原が、ふふっと可愛いらしく笑う。 
 プレゼントを貰い慣れているはずの楠原は、何どもネクタイピンを眺め、とても嬉しそうで……。そんな楠原を見られた事が信二も嬉しかった。 
 吸い殻の入った灰皿を遠のけてから、居間の座卓を窓際へと押す。 
 
「蒼先輩……」 
 
 小箱を手に載せたままの楠原から箱を取り上げてそれも座卓へ置くと、名を呼ばれた楠原は信二を見つめた。 
 信二は、楠原の結んでいた髪の紐を指でぬきとり、その髪の中へと掌を潜り込ませた。地肌を指先で撫でながら深く口付ければ、楠原の真っ白な首筋にある喉仏が微かに上下する。角度を変え繰り返される信二の口付けは、いとも容易く楠原の頭の芯を痺れさせる。 
 
「……良い子で待っていた、ご褒美ですか?」 
 
 信二の手を掴むと、大きな手で握り返され、口付けたまま床へと押し倒された。 
 楠原がピクリと細い指先を動かすと、信二は少し悪戯に笑みを浮かべる。先程はうまく抜け出せたが、今はそう簡単にはいかなそうである。勿論、抜け出すつもりも最初からないが。 
 床の上で静かに流れる楠原の長い髪。見下ろした信二が、そっと口を開く。 
 
「ご褒美、今すぐするのと、寝る前にするのと……どっちがいいっすか?」 
 
 見上げた信二の瞳には、優しさの上に雄の色気が滲んでいる。欲情した男の本能がそうさせているのか、抗えないその力に身体中が疼いた。楠原は信二の首に腕を回して引き寄せると、耳朶を甘噛みしながら鼓膜へと甘い誘惑を囁く。 
 
「両方……という選択肢は、ないんですか?」 
「いいんっすか? どうなっても知らないっすよ」 
「手加減はしてくれるのでしょう?」 
「――どうしよっかなぁ」 
 
 信二は苦笑すると、そのまま楠原のYシャツへと手を掛けた。 
 熱い信二の指先。自分との体温の差がはっきりわかるほどの距離感をいつも楠原は望んでいた。息が苦しくなってくる感覚、信二に辿られた部分から、自分でも知らなかった自分が浸食してくる。 
 
「――ん、……ぁッ……」 
 
 乱れていく身体を全て委ねる。 
 信二に包まれたまま、どこまでも沈んでいく音のない世界。 
 狂おしい先が、これから訪れる長い夜を満たすことを、身体が憶えている。 
 溶け出す理性の中で、楠原は信二の手を取ると――その指先を口に含んで歯を立てた。 
 
 
 
 
Fin